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日蓮正宗 正林寺 掲示板

法華講正林寺支部 正林編集部

お会式

2006-10-01 | 年中行事(末寺)

 お会式とは宗祖日蓮大聖人が弘安五年(一二八二年)十月十三日ご入滅され、滅不滅・三世常住のお姿を示されたことをお祝いする儀式で、春のお虫払法要とともに本宗の二大法要の一つです。

 お会式といえば一般には大聖人のご命日の法要のことと考えていますが、大聖人を末法有縁の下種のご本仏と仰ぐ本宗においてはそのご入滅は非滅の滅であり、真実には常住此説法の大導師におわしまし、末法万年の闇を照らし濁悪の衆生を救済し給うと拝するのです。よってお会式は大聖人の永遠不滅のご本仏としてのご境界を拝するお喜びの儀式なのです。

 会式という語はもともと宮中で行なわれた諸法要のことで、この名称をとって各宗内の法要にあてたものといわれてます。その中でも十月十三日はことに重要な法要なので大会と名付け総本山では御大会と古来から称しています。

 大聖人は今を去る七百有余年の昔、弘安五年十月十三日、武州(東京)池上の右衛門大夫宗仲の館において大勢の弟子や信徒が読経唱題申し上げる中で安祥としてご入滅あそばされました。日興上人の御遷化記録等によると、ご入滅は辰の時とあるので今の午前八時頃になりますが、この時は大地が震動し庭の桜に時ならぬ花が咲いたと記されてあります。まことに末法の御本仏のご入滅を、宇宙法界の生命が挙げてこれを惜むと同時に、滅不滅の仏法をお祝い申し上げたさまをほうふつとして偲ぶことができます。

 さて、お会式について、とくにいくつかのことが考えられますが、まず第一に久遠常住の仏の非滅現滅非生現生の不可思議のおいのちを拝さなくてはなりません。大聖人が御本仏であらせられるということは、そのまま法界の大生命体たる南無妙法蓮華経であるということでもあります。そしてまた、この世に身を受けたことは一個の個に過ぎないということです。この一個の個に過ぎない示同凡夫のお姿も入滅するということに依って法界の大生命体に帰一することになります。御義口伝に「無常常住・倶時相即」(御書一七四五)とあるように、大聖人のご入滅は一往は無常のようには見えますが、大地震動し季節はずれの桜が開花したことは事実の上において、現有滅不滅であり、無常常住倶時相即がまことの諸法実相であることを示すものです。また、御義口伝に「妙法と唱うれば無明法性体一なり」(御書一七四八)、「妙を以ての故に即なり」(御書一七二五)とあります。この凡夫即仏・依正不二・色心不二・生死不二の相即こそは仏法の教えの根本であり、いろいろの教えは結局この不二相即に帰すのが本意です。これを如実に示されたのがご入滅なのです。

 第二に、仏様は三世にわたって三身が常住すると説かれますが、そのお姿やお住いはどうか、ということが問題です。寿量品の長行に「必ず当に難遭の想を生じ、心に恋慕を懐き、仏を渇仰して、便ち善根を種ゆべし。是の故に如来、実に滅せずと雖も、而も滅度すと言う」とあり、さらに重ねて自我偈には「衆生を度せんが為の故に方便して涅槃を現ず、而も実には滅度せず、常に此に住して法を説く」とあります。仏様は三世に常住されるのですが、常に住していると、衆生はいつでも仏様にお会いできると安心し、つい仏道修行を怠ります。そこで、衆生教化のために一つの方便として寂滅の相をあらわし、衆生に仏様にはながくあいがたいとの想をいだかせ、仏道修行をすすめられるのです。

 では寂滅の相を示された後は仏様の生命はどこにおわすのでしょうか。「日蓮がたましひはすみにそめながして・かきて候ぞ」(御書六八五)とのご金言によって、それは十界互具の大曼荼羅の中にあらせられ、なかんずく大聖人出世のご本懐たる本門戒壇の御本尊として住されているのです。また、この御本尊の法体は、日興上人・日目上人・日道上人とご歴代上人に相承され、おん当代上人のご一身に具し給うところです。このように滅不滅である御本仏の出現をお祝いするのがお会式の儀式です。

 第三には大聖人ご入滅後の弟子や信徒の在り方が、正しい信心修行を決定する上に非常に重要となります。本弟子(重要な弟子)六人といわれるなかで大聖人滅後、弟子の道をまっとうし、正しく法統を継承したのはご在世中常におそばでお給仕申しあげた二祖日興上人お一人です。厳しい師弟相対の上に大聖人の深い仏法を余すところなく体得し、大聖人の正義を敢然として立て通されました。したがって日興上人の門家のみが正しい信条と法義に基いたお会式の行事を七百有余年来行ってきたのです。

 その証拠の一つをあげると、大聖人のご化導の目的は正法治国にあり、この旨を述べられたのが立正安国論です。日興上人・日目上人をはじめ代々の法主上人もたびたび国諌をされました。このゆえに本宗のお会式では安国論並びに申し状の奉読を行ない大聖人のご精神を現代に示し、広宣流布をご宝前に祈誓申し上げるのです。

 次にお会式の行事について述べてみましょう。このお会式は総本山をはじめ全国の末寺でも執り行われます。ともにこの日は桜の花を作って仏前を荘厳します。

 総本山でのお会式は現在十一月二十日お逮夜、二十一日ご正当の二日にわたって行なわれます。このわけは弘安五年の太陰暦の十月十三日は、同年の太陽暦では十一月二十一日に当るからです。二十日の午後から本門戒壇の大御本尊のご内拝があり、その後夜に入って<お練り>の儀式が行なわれます。これは末法の御本仏日蓮大聖人のご出現を示すもので、<お練り>とは静かに徐ろに行列を作って歩くことです。この行列が御影堂の正面参道に至ると一旦停止し、七・五・三の喚鐘にあわせて六人の助番僧が、御影堂から一人ずつ七人・五人・三人の順に法主上人へ一礼に走ります。これは本仏日蓮大聖人がお説法のために御影堂に入られるよう、弟子が身をもってお願いする動作です。行列は御影堂の西を廻り裏向拝から入堂します。裏向拝から入るのは、御影堂に本仏大聖人が常住し給うゆえであり、信徒の人々は客として表向拝からあがるのです。

 入堂後、法主上人は高座下手の正面に設けられた上行座に北面して着座されます。これは法華経涌出品で忽然として地から涌出する上行菩薩の姿をあらわされるのです。ついで会行事が立って寿量品三誡三請重請重誡の法式をかたどり、仏様の登高座を願い奉ります。そこで法主上人が登高座され、如法散華焼香の後、寿量品の説法を始められます。このお説法は末法の御本仏日蓮大聖人が、寿量品の文底久遠本有無作の南無妙法蓮華経を説き出される儀式なのです。

 お説法が終って少憩の後、三々九度の儀式が執行されます。三々九度とは日本古来の祝儀をあらわす盃の方式で、大聖人とお弟子の本六僧がともに酒をくみかわし、御本仏師弟の常住をお祝いするのです。これでお逮夜の行事は終りとなります。

 二日目のご正当会は早朝の勤行衆会、つぎに午前八時から御影堂においてお講が奉修され法主上人及び本六僧によって立正安国論並びに代々上人の国諌の申し状が奉読されます。これは大聖人の折伏の仏法を示す儀式であり、この信心をご宝前にあらわすことによって、忍難弘通をちかい、必ず本因妙の広宣流布が成就されることを示すのです。三大秘法の仏法によってこそ一切衆生の成仏も始めて可能となるからであります。

 最後にご宝前を荘厳したお花をくずす行事でお会式は終了となります。

 末寺のお会式も献前・読経・唱題につづいて組寺住職によって申し状の奉読があり法要の後、説法を行なう例になっています。又大聖人のご命日は十月十三日なので全国の末寺において、毎月十三日の前後、第二日曜日に午後一時からお講を行なっています。それは末法の御本仏にご報恩謝徳し、常に立正安国のご精神を忘れず、僧俗一致して大法弘通に邁進するためです。


祈りとして叶わざるなし

2006-10-01 | 御住職指導

正林寺御住職指導(H18.10月 第33号)

 御本尊様に御題目を真剣に唱えれば祈りが必ず叶います。
 日蓮大聖人は『祈祷抄』に、
「法華経をもていのらむ祈りは必ず祈りとなるべし。(中略)必ず法華経の行者の祈りをかな(叶)ふべし。」(御書六二二㌻)
と仰せであり、

 また同抄に、

「潮のみちひ(満干)ぬ事はありとも、日は西より出づるとも、法華経の行者の祈りのかな(叶)はぬ事はあるべからず。」(御書六三〇㌻)
と仰せです。しかし、御本尊様への絶対的な確信がなければ祈りは叶わず、少しでも気持ちに不信や疑い怠慢があると絶対に叶いません。

  日蓮大聖人は『経王殿御返事』に、
「あひかまへて御信心を出だし此の御本尊に祈念せしめ給へ。何事か成就せざるべき。」(御書六八五㌻)
と仰せであり、御本尊様を信じる心によって祈りが成就することを御教示です。

 第二十六世日寛上人も『観心本尊抄文段』に、
「故に此の本尊の功徳、無量無辺にして広大深遠の妙用有り。故に暫くも此の本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うれば、則ち祈りとして叶わざる無く、罪として滅せざる無く、福として来たらざる無く、理として顕れざる無きなり。」(御書文段一八九㌻)
と仰せであり、御本尊様を信じて疑うことなく御題目を唱えれば、祈りは叶いさらに罪を消滅することもできると御教示です。

 御本尊様に祈るとき大事なことを日蓮大聖人は『法華初心成仏抄』に、
「よき師とよき檀那とよき法と、此の三つ寄り合ひて祈りを成就し、国土の大難をも払ふべき者なり。」(御書一三一四㌻)
と仰せです。よき師である日蓮大聖人をはじめ御歴代上人、よき檀那である日蓮正宗の法華講員、よき法である本門戒壇の大御本尊の三つが寄り合って祈ることが大事であり成就すると御指南です。
 その三つが寄り合って祈るところ日蓮大聖人が『聖愚問答抄』に、
「只南無妙法蓮華経とだにも唱へ奉らば滅せぬ罪や有るべき、来たらぬ福や有るべき。真実なり甚深なり、是を信受すべし。」 (御書四〇六㌻)
と仰せのように、御本尊様を疑うことなく信じ祈るところに皆様の過去遠々劫の罪障消滅と福徳を積むことができます。