平成20年5月度 広布唱題会の砌
(大日蓮 平成20年6月号 第748号 転載)
本日は、総本山における五月度の広布唱題会に当たりまして、皆様には多数の御参加、まことに御苦労さまでございます。
本年「躍進の年」も、いよいよ五月となり中盤に入りましたが、皆様方には日夜、御命題達成へ向けて御精進のことと存じます。
既に皆様方も御承知のとおり、先月二十九日に、北海道の真駒内セキスイハイムアイスアリーナにおいて地涌倍増大結集推進「北海道決起大会」が行われました。
当初、この大会は月寒アルファコートドームという所において行う予定でありましたが、北海道の方々の並々ならぬ決意と盛んなる推進活動により、参加人数が増え、会場をひと回り大きな真駒内アイスアリーナに変更して行われ、目標を大幅に越えた六千六名の同志が大結集して盛大に開催されました。
しかも、一支部だけ結集目標を達成できませんでしたが、北海道の残りすべての支部が結集目標を達成し、全体で百五十パーセントの完全大勝利のもとに決起大会が行われました。これは、今後の北海道における折伏活動にとって、まことに大きな力となって発揮されるものと、大いに期待しているところであります。
また、大会そのものも、第一部、第二部ともに、参加した一人ひとりが歓喜に燃え、躍動感あふれた、大変すばらしい大会でありました。北海道の方々はこの決起大会を機に、完全大勝利の勢いをもって大折伏戦に突入し、もって必ずや本年度の誓願を達成するものと堅く信じております。北海道の皆様方の御健闘を心から願うものであります。
「決起大会」も、あとは六月に行われる「東日本大会」だけとなりましたが、東日本大会も必ず大勝利するものと信じております。東日本の方々の御健闘を心からお祈りするものであります。
さて、法華経譬喩品を拝しますと、
「汝舎利弗 尚此の経に於ては 信を以て入ることを得たり 況んや余の声聞をや 其の余の声聞も 仏語を信ずるが故に 此の経に随順す 己が智分に非ず」(法華経174㌻)
とあります。この御文は「以信得入」の依文として、皆様もよく御承知の御文でありますが、智慧第一と言われた舎利弗でさえも、己れの智慧によって成仏したのではなく、信によって成仏したことを示されているのであります。
そもそも、仏法におきましては信は仏道修行の根本であり、信なくして成仏することはできないのであります。故に『日女御前御返事』には、
「仏法の根本は信を以て源とす。されば止観の四に云はく『仏法は海の如し、唯信のみ能く入る』と。弘決の四に云はく『仏法は海の如し、唯信のみ能く入るとは、孔丘の言尚信を首と為す、況んや仏法の深理をや。信無くして寧ろ入らんや。故に華厳に信を道の元、功徳の母と為す』等」(御書1388㌻)
と仰せであります。
すなわち、仏法は海の如く広くて大きい。したがって、一見、その仏法の海にはどこからでも入れるように思われますが、実際には信心という入り口しかないのであります。その信とは「無疑曰信」、「疑い無きを信と曰う」と言うように、心に一分の疑いのない状態を信と言うのであります。つまり、御本尊様に対する絶対信であります。
故に『御義口伝』には、
「一念三千も信の一字より起こり、三世諸仏の成道も信の一字より起こるなり。此の信の字は元品の無明を切る所の利剣なり。其の故は、信は無疑曰信とて疑惑を断破する利剣なり」(同1737㌻)
と仰せられ、同じく『御義口伝』には、
「此の本法を受持するは信の一字なり。元品の無明を対治する利剣は信の一字なり。無疑曰信の釈之を思ふべし云云」
(同1764㌻)
と仰せられているのであります。すなわち、御本尊に対する絶対信こそ、元品の無明、すなわち衆生の心の奥に巣食う根本の迷いを対治する利剣であると仰せられているのであります。
だが、ここで問題となりますのは、『大乗起信論義記』に、
「信有って行無きは即ち信堅からず、行を去るの信は縁に遇っては便ち退す」(六巻抄71㌻)
と仰せられているように、信心とは、信行具足の信心でなければならないということであります。すなわち、信はあっても行がなければ堅固な信心とは言えず、そのような状態では、例えば悪しき縁に値うと、たちまちに紛動されてしまうというのであります。
また『法蓮抄』に、
「信なくして此の経を行ぜんは手なくして宝山に入り、足なくして千里の道を企つるがごとし」(御書814㌻)
と仰せのように、修行は不退であっても信がなければ、これも正しい信心とは言えません。すなわち、信心とは信と行が具わった、信行具足の信心を言うのであります。
このことは、例えば本門の本尊、本門の戒壇、本門の題目の三大秘法を開けば六大秘法になります。このうち、本門の題目を開けば、信と行とになります。信と行、このいずれか一方が欠けても、それは本門の題目とはならないのであります。
かくの如く、信と行は不可分の関係にあり、それを切り離して考えることはできないのであります。
また『法華玄義』には、
「智目・行足、もって清涼池に到る」(学林版玄義会本上 521㌻)
とありますが、智慧の目と修行の足が相まって初めて清涼他、すなわち成仏の境地に入ることができると仰せであります。
しかし、末代の我ら本未有善の荒凡夫は、『四信五品抄』に、
「慧又堪へざれば信を以て慧に代ふ。信の一字を詮と為す」(御書1112㌻)
と仰せのように、智慧によって成仏をするのではなくして、信をもって智慧に代える、すなわち修行の足によって成仏の境地に到ることができるのであります。
つまり、信心とは信と行を兼ね具えた信心でなければならないということであります。ということは、折伏においても同様でありまして、折伏も実際に行動を起こさなければ、折伏したことにはならないのであります。
掛け声だけの折伏ではなくして、折伏を行じ、折伏を体験し、折伏を実践するところに意義があり、そこに初めて大御本尊の広大無辺なる功徳を享受することができるのであります。
先般、私のところに報告がありまして、北陸のある寺院、この寺院は最近、住職が替わったのでありますが、ここでは住職が折伏の先陣に立ち、僧俗が一体となって大折伏戦を展開し、既に本年度の折伏誓願数を達成したということであります。また、総本山塔中のある坊でも、既に折伏十三世帯を達成したということを聞いております。
こうした支部の特徴は皆、動いていることであります。僧俗が一体となって折伏に動いているのであります。
『一念三千法門』には、
「百千合はせたる薬も口にのまざれば病も愈えず。蔵に宝を持てども開く事を知らずしてかつへ、懐に薬を持ても飲まん事を知らずして死するが如し」(同 110㌻)
と仰せであります。
一人ひとりは仏性を持ち、妙法の当体たるすばらしい素質を持ちながら、ただそれだけで何もしなければ、それは理の仏法と同じであります。仏性が仏性としての用きをしないからであります。
つまり折伏は、折伏を行じて初めて折伏をしたことになるのであります。結局、身体を動かさなければ折伏したことにならないということであります。
大聖人様は『聖愚問答抄』に、
「抑仏法を弘通し群生を利益せんには、先づ教・機・時・国・教法流布の前後を弁ふべきものなり。所以は時に正像末あり、法に大小乗あり、修行に摂折あり。摂受の時折伏を行ずるも非なり。折伏の時摂受を行ずるも失なり。然るに今世は摂受の時か折伏の時か先づ是を知るべし。摂受の行は此の国に法華一純に弘まりて、邪法邪師一人もなしといはん、此の時は山林に交はりて観法を修し、五種六種乃至十種等を行ずべきなり。折伏の時はかくの如くならず、経教のおきて蘭菊に、諸宗のおぎろ誉れを擅にし、邪正肩を並べ大小先を争はん時は、万事を閣いて謗法を責むべし、是折伏の修行なり。此の旨を知らずして摂折途に違はゞ得道は思ひもよらず、悪道に堕つべしと云う事、法華・涅槃に定め置き、天台・妙楽の解釈にも分明なり。是仏法修行の大事なるべし」(同402㌻)
と仰せであります。すなわち、折伏こそ、末法における「仏法修行の大事」であると仰せであります。
どうぞ、皆様にはこの御金言を心肝に染めて折伏を実践し、年頭に申し上げましたように、本年「躍進の年」はすべての支部が誓願を必ず達成し、もって、いよいよあと一年に迫った大佳節へ向けて勇猛精進くださるよう心から念じ、本日の挨拶といたします。
一、各講中ともに、本年度に立てた折伏誓願は必ず達成すること
ニ、全国四ヵ所で開催する「地涌倍増大結集推進決起大会」を完全勝利すること
日蓮正宗公式HP