正林寺御住職指導(H29.4月 第159号)
宗祖日蓮大聖人は『色心二法抄』に、
「十界とは一に地獄、二に餓鬼、三に畜生、四に阿修羅、五に人、六に天、七に声聞、八に縁覚、九に菩薩、十に仏なり。」(御書21)
と御教示であります。
十界とは、迷いと悟りの世界を十種の領域に分けたものです。その十種とは、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上・声聞・縁覚・菩薩・仏のことで、十法界ともいいます。十界は十種類の境界であり、各人をとりまく境遇・境涯、精神・感覚の働きによりもたらされる状態・境地、善悪の報いによって各人が受ける境遇のことをいいます。
地獄・餓鬼・畜生の三界を三悪道といい、これに修羅界を合せて四悪趣といいます。さらに人間・天上の二界を合せて六道となります。また、声聞・縁覚の二界は二乗といい、これに菩薩界を合せて三乗となり、声聞から仏までの四界を四聖といいます。
迷いの世界は地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上・声聞・縁覚・菩薩までの九界で、悟りの世界は仏であります。
次に十界の一つ一つを見ていきましょう。
①地獄界は、苦悩と煩悶の境界のこと。
②餓鬼界は、飢渇に苦しむ境界のこと。
③畜生界は、理性を欠き、本能的欲求によって動く境界のこと。
④修羅界は、他人の善根を憎み・怒る、自己中心的な境界のこと。
⑤人間界は、平静に物事を判断する境界のこと。
⑥天上界は、歓喜に満ちた境界のこと。
⑦声聞界は、仏の四諦の法を聞き、煩悩を断尽して小乗の悟りを得る境界のこと。
⑧縁覚界は、仏の十二因縁の理を観じ、また自然現象を縁として小乗の悟りを得る境界のこと。
⑨菩薩界は、利他の実践により、衆生を救済しようとする慈悲の境界のこと。
⑩仏界は、一切諸法に通達し、中道実相を体得した尊極無上の境界のこと。
以上が十界各々の意味になります。
大聖人は『観心本尊抄』に、
「数他面を見るに、或時は喜び、或時は瞋り、或時は平らかに、或時は貪り現じ、或時は癡か現じ、或時は諂曲なり。瞋るは地獄、貧るは餓鬼、癡かは畜生、諂曲なるは修羅、喜ぶは天、平らかなるは人なり。他面の色法に於ては六道共に之有り、四聖は冥伏して現はれざれども委細に之を尋ぬれば之有るべし。」(御書647)
と、人の外見に現れる姿や表情と、心の奥に冥伏している四聖について御教示であります。
大聖人は、十界の衆生が成仏する方法について『太田左衛門尉御返事』に、
「方便品と申すは迹門の肝心なり。此の品には仏、十如実相の法門を説きて十界の衆生の成仏を明かし給へば、舎利弗等は此を聞きて無明の惑を断じ真因の位に叶ふのみならず、未来華光如来と成りて、成仏の覚月を離垢世界の暁の空に詠ぜり。十界の衆生の成仏の始めは是なり。」(御書1223)
と仰せであります。この御指南の上から法華経迹門の肝心、方便品第二を勤行において必ず読誦する意味があるわけです。
さらに大聖人は同抄にて、
「寿量品と申すは本門の肝心なり。又此の品は一部の肝心、一代の聖教の肝心のみならず、三世の諸仏の説法の儀式の大要なり。教主釈尊、寿量品の一念三千の法門を証得し給ふ事は三世の諸仏と内証等しきが故なり。但し此の法門は釈尊一仏の已証のみに非ず、諸仏も亦然なり。我等衆生の無始已来六道生死の浪に沈没せしが、今教主釈尊の所説の法華経に値ひ奉る事は、乃往過去に此の寿量品の久遠実成の一念三千を聴聞せし故なり。有り難き法門なり。」(御書1223)
と御教示の意味から、勤行唱題では方便品第二を読誦したあとに、法華経の如来寿量品第十六を必ず読誦致します。
法華経迹門の肝心は方便品第二であり、本門の肝心は如来寿量品第十六です。法華経の余品は迹門の肝心と本門の肝心を読誦することにより、自然と読誦された意味になるため、朝夕に余品を読誦する必要はなくなります。
大聖人は『月水御書』に、
「寿量品・方便品を読み候へば、自然に余品はよみ候はねども備はり候なり。」(御書303)
と仰せであります。
方便品と寿量品を読誦したあとは、御題目の南無妙法蓮華経を御本尊の妙の御文字を拝して心ゆくまで唱題をしていくことで、迷いの九界(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上・声聞・縁覚・菩薩)の生命から、悟りの有難い清浄な御本仏様の御命に触れて、境智冥合していくことができ、過去遠々劫の罪障も消滅させて頂くことが可能となります。
また大聖人は『六難九易抄』に、
「此の経の題目は習ひ読む事なくして大なる善根にて候。悪人も女人も畜生も地獄の衆生も十界ともに即身成仏と説かれて候は、水の底なる石に火のあるが如く、百千万年くらき所にも灯を入れぬればあか(明)くなる。世間のあだなるものすら尚加様に不思議あり。何に況んや仏法の妙なる御法の御力をや。」(御書1244)
と、無解有信のうえから意味が分からなくても、御本尊への唱える題目は、十界の衆生を即身成仏せしめていくことを仰せであります。
さらに大聖人は『御義口伝』に、
「合掌とは法華経の異名なり。向仏とは法華経に値ひ奉るを云ふなり。(中略)十界悉く合掌の二字に納まって森羅三千の諸法合掌に非ざること莫きなり。総じて三種の法華の合掌之有り。」(御書1734)
と仰せのように、勤行唱題の時には、手を合わせて合掌する姿勢が大切であることを御教示であります。
その合掌の姿勢には三種の法華である、迹門の隠密法華、本門の根本法華、迹本の文底の顕説法華といわれる、他宗派と異なった合掌の意義が仏法の道理の上から日蓮正宗には存します。そのためにも勤行唱題における合掌においては、御本尊に題目を唱えるだけではなく、迹門の肝心である方便品と、本門の肝心である寿量品を読誦して、御題目の南無妙法蓮華経を唱える、三種の法華が調った合掌で勤行唱題を実践することが大切であります。
大聖人は『百六箇抄』に、
「下種の三種の法華の本迹 二種は迹、一種は本なり。迹門は隠密法華、本門は根本法華、迹本の文底の南無妙法蓮華経は顕説法華なり。」(御書1697)
と、三種の法華について仰せであります。
そして合掌の際には「向仏とは法華経に値ひ奉る」と説かれるように、法華経である三大秘法の御本尊に向かって、数珠をかけた合掌の姿勢で唱えることが大事です。
以上のような姿勢で、日蓮正宗の勤行唱題を月々日々に精進して、最後臨終の暁まで余念なく一筋に全うすることができれば、迷いの九界でも、悟りの仏界へと一生成仏することが叶います。
ゆえに大聖人は『如説修行抄』に、
「南無妙法蓮華経と唱へて、唱へ死にヽしぬるならば、釈迦・多宝・十方の諸仏、霊山会上にして御契りの約束なれば、須臾の程に飛び来たりて手を取りてかた(肩)に引き懸けて霊山へはし(走)り給はヾ、二聖・二天・十羅刹女・受持者をうご(擁護)の諸天善神は、天蓋を指し幡を上げて我等を守護して慥かに寂光の宝刹へ送り給ふべきなり。」(御書674)
と仰せであります。
今世での迷いの九界から、来世へとつながる仏界の常寂光土へと、如説修行のもとに題目を唱えて、御本尊のお導きにより、過去遠々劫からの罪障を消滅させて成仏ができます。
最後臨終によるところの日蓮正宗の化儀により執り行われる葬儀には、迷いの九界から、悟りの仏界へと引導を渡す有難い意義が存します。
宗祖日蓮大聖人『曽谷入道殿御返事』に曰く、
「此の経の文字は皆悉く生身妙覚の御仏なり。然れども我等は肉眼なれば文字と見るなり。例せば餓鬼は恒河を火と見る、人は水と見る、天人は甘露と見る。水は一なれど果報に随って別々なり。此の経の文字は盲眼の者は之を見ず、肉眼の者は文字と見る、二乗は虚空と見る、菩薩は無量の法門と見る、仏は一々の文字を金色の釈尊と御覧有るべきなり。即持仏身とは是なり。されども僻見の行者は加様に目出度く渡らせ給ふを破し奉るなり。唯相構へ相構へて異念無く一心に霊山浄土を期せらるべし。」(御書794)
