チャリンコ漫遊

ゆ~っくり、の~びり、新しい景色と新しい世界を求めて…リンリン・尺八・田舎暮らし… 

特別公開・その2・太閤下水

2006年10月10日 | リンリン
06.10.10.  豊臣秀吉が造った背割下水


場所は地下鉄谷町線の谷四駅8番出口の南西500m,
今日は特別に中に入れると云う事で行ってきました。

石垣の目止めや底部分はセメントで補修されていますが今も現役とか…
石は当時のままの石な訳で掌でペタペタなでて来ました。
太閤さんと握手したような気分になりました。

背割下水の説明によりますと

街区ブロックの北半分にある建物は、玄関は北向き、南半分にある建物ではその逆となり、街区の中心部分(北半分と南半分の境目)すなわち、それぞれの建物の背中(裏側)同士が接する部分に下水溝が東西方向に開削したことから「背割下水」、又は太閤秀吉にちなんで「太閤下水」と呼ぶ。
 太閤下水は幅1尺(約30.3cm)から4尺、大きなものでは1間(約1.8m)から2間に及ぶものまであり、工法はおおむね素掘りした後、間知石(けんちいし)とか栗石(ぐりいし)と呼ばれる石で護岸し、漆喰を施した開渠(注2)で、道路が横断する場所では石蓋が設けられました。

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特別公開・その1・大阪城地下石垣

2006年10月10日 | リンリン
06.10.10.  地下9.35mにある最初の大阪城の石垣の一部



今日の大阪城は快晴の体育の日で沢山の観光客です。
現在の大阪城は徳川幕府によって建てられましたが地下には秀吉が築城した時の石垣が眠っている石垣があってその公開日です。

豊臣秀吉が、天下統一の拠点として天正11年(1583)から16年もの歳月をかけて作り上げた最初の大坂城。
そして、その大坂城が大坂夏の陣によって焼け落ちた後、新たな天下人である徳川秀忠・家光父子によって元和6年(1620)から11年の歳月をかけて作られた二度目の大坂城。

それでは、大坂夏の陣のあと、秀吉の築いた大坂城の堀や石垣はどうなってしまったのでしょう。
徹底的に破壊されたのでしょうか。それとも部分的にでも再利用されたのでしょうか。豊臣時代と徳川時代の堀や石垣をめぐるこの問題は、長い間確かな答えのない謎として残されてきました。

こうした大坂城の謎を解明するために、コア・ボーリング調査を行ったところ、地下約10メートルのところで思いがけず、3層に積み上げられた花崗岩の“ナゾの石垣”を探り当てたのです。
そして、ボーリング地点を中心に3メートル四方の大きさで発掘調査を行った結果、ついに地下約7.5メートル以深から未知の石垣が姿をあらわしました。
石は、現在の大坂城の石に比べるとかなり小ぶりで、積み方もいわゆる野面積みといわれる古式なものでした。
現在の本丸の地下には、豊臣時代の石垣がいまだに良好な状態で残されていることが判明しました。
豊臣秀吉の築いた石垣と徳川秀忠の築いた石垣。大坂城は、この二人の天下人の石垣が残る希有の史跡です。
(見学者に配布された資料より抜粋しました)
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