僕は今、少しだけ鬱に入っている。
一言で言えば『生きていることがつまらない』、そんな症状をきたしている。
ふる里の生家を取り壊して跡形もなくなり、19年程も連れ添った我が子のようなモモに先立たれ、
釣りのシ-ズンも終わって、何もかもが億劫で腑抜けのようになった自分がもどかしくてならない。
そんな僕を西丹沢の釣友が哀愁漂う酒場へと誘ってくれた。
僕を癒してやろうなどと言う気は彼らには更々ない、唯々旨い酒を呑みたい、それだけの事である。
それでも彼らに寄り添ってもらっていると何故か癒される、そんな心優しい男たちなのである。
暖簾をくぐったのは大井町の『ほんま』、ハラミが売りのお店である。
酒場巡りでは既に達人の域に達しつつある世附の川原乞食集団のホリャ酋長御用達のお店である。
先ずはカウンタ-に陣取って酒肴を注文したら、お店の親爺さんとしばし掛け合いを楽しむ。
お互いの素性を知り、好みを知り、人柄を知る、酒場に浸るには無くてはならない儀式でもあるのだ。
運ばれたお通しはイカをワタで煮付けた一品、呑み助にはこれだけで充分と思わせる逸品であった。
プリプリのレバ刺しもさすがである、次はニンニク醤油で食べてみたいものである。
そして初めての牛ハラミの刺身、ゴマとワサビと塩で頂く。
さすがにお店の売りだけあって何と鮮やかなことか、次はワサビ醤油で食してみたいと思う。
このハラミステ-キを一度食すると、高い銭を払ってまで高級レストランに行くのがアホらしくなるほどの絶品である。
久しぶりのホッピ-も場末の哀愁酒場には無くてはならないお約束である。
酒場へ一歩踏み入ったら決して難しい話しはしないのも掟である。
とりとめのない話しに笑い、ここに居ない誰かの悪口に共感し、想い出話しに涙する。
皆それぞれに体を病み心を病んだ男たちにとって酒場は心なごむホスピタルなのである。
旨い肴をつまみつつ、チビリチビリとほろ酔う。
心を病んでいる僕にとってはこんな酒場の雰囲気が何とも心地よい。
そしてそれ以上に気の置けない友と寄り添うひとときに癒される。
と、ここまではそうであった。
我らの酔い加減を見計らっていたのか、お店の親爺が我らに挑戦状を叩きつけてきたのである。
ゴボウ入りの山盛りすき焼き、大皿に盛られたハラミカレ-が目の前にド-ンと置かれた。
これは我らに対する無言の果たし状である。よせばいいのに我らも受けて立って皿をカラにした。
我らはこの戦いに勝利はしたものの、200パ-セントの満腹感にもだえ苦しみ
うつろな目に涙を浮かべながら、よろよろとこの店を後にしたのである。
やはり我らは一生涯『小粋』な酒呑みにはなれない、生粋のおバカであることを悟った夜でもあった。
帰りの道すがら、まるで時が止まったような小路があった。そそられる!
酒呑みには、この妖しげに手招きする小路に目を背けることなど出来るはずもない。
見えない糸に引かれるように誰ともなしに小路に迷い込んでゆく。
いっそのことに迷い込んだ迷路から出られなくなることの方が幸せなのかも知れないとさえ思う。
この郷愁そそる酒場は、酒呑みにとっては決してホスピタルとはなりえない、それどころか、病の元凶にもなる。
救いようのない末期症状の呑兵衛たちにとって此処はまさに『ホスピス』、最後の拠り所なのではあるまいか?
朋友(ポン友)というお店の看板が目に入った。
すでにこの言葉も死語になって久しい。
親友とは違う、時には悪い遊びもするが、どこまでも気の許し合える仲間。
釣りの友も、山の友も、酒の友も、いつまでも朋友(ポン友)の仲でありたいと思う。
一言で言えば『生きていることがつまらない』、そんな症状をきたしている。
ふる里の生家を取り壊して跡形もなくなり、19年程も連れ添った我が子のようなモモに先立たれ、
釣りのシ-ズンも終わって、何もかもが億劫で腑抜けのようになった自分がもどかしくてならない。
そんな僕を西丹沢の釣友が哀愁漂う酒場へと誘ってくれた。
僕を癒してやろうなどと言う気は彼らには更々ない、唯々旨い酒を呑みたい、それだけの事である。
それでも彼らに寄り添ってもらっていると何故か癒される、そんな心優しい男たちなのである。
暖簾をくぐったのは大井町の『ほんま』、ハラミが売りのお店である。
酒場巡りでは既に達人の域に達しつつある世附の川原乞食集団のホリャ酋長御用達のお店である。
先ずはカウンタ-に陣取って酒肴を注文したら、お店の親爺さんとしばし掛け合いを楽しむ。
お互いの素性を知り、好みを知り、人柄を知る、酒場に浸るには無くてはならない儀式でもあるのだ。
運ばれたお通しはイカをワタで煮付けた一品、呑み助にはこれだけで充分と思わせる逸品であった。
プリプリのレバ刺しもさすがである、次はニンニク醤油で食べてみたいものである。
そして初めての牛ハラミの刺身、ゴマとワサビと塩で頂く。
さすがにお店の売りだけあって何と鮮やかなことか、次はワサビ醤油で食してみたいと思う。
このハラミステ-キを一度食すると、高い銭を払ってまで高級レストランに行くのがアホらしくなるほどの絶品である。
久しぶりのホッピ-も場末の哀愁酒場には無くてはならないお約束である。
酒場へ一歩踏み入ったら決して難しい話しはしないのも掟である。
とりとめのない話しに笑い、ここに居ない誰かの悪口に共感し、想い出話しに涙する。
皆それぞれに体を病み心を病んだ男たちにとって酒場は心なごむホスピタルなのである。
旨い肴をつまみつつ、チビリチビリとほろ酔う。
心を病んでいる僕にとってはこんな酒場の雰囲気が何とも心地よい。
そしてそれ以上に気の置けない友と寄り添うひとときに癒される。
と、ここまではそうであった。
我らの酔い加減を見計らっていたのか、お店の親爺が我らに挑戦状を叩きつけてきたのである。
ゴボウ入りの山盛りすき焼き、大皿に盛られたハラミカレ-が目の前にド-ンと置かれた。
これは我らに対する無言の果たし状である。よせばいいのに我らも受けて立って皿をカラにした。
我らはこの戦いに勝利はしたものの、200パ-セントの満腹感にもだえ苦しみ
うつろな目に涙を浮かべながら、よろよろとこの店を後にしたのである。
やはり我らは一生涯『小粋』な酒呑みにはなれない、生粋のおバカであることを悟った夜でもあった。
帰りの道すがら、まるで時が止まったような小路があった。そそられる!
酒呑みには、この妖しげに手招きする小路に目を背けることなど出来るはずもない。
見えない糸に引かれるように誰ともなしに小路に迷い込んでゆく。
いっそのことに迷い込んだ迷路から出られなくなることの方が幸せなのかも知れないとさえ思う。
この郷愁そそる酒場は、酒呑みにとっては決してホスピタルとはなりえない、それどころか、病の元凶にもなる。
救いようのない末期症状の呑兵衛たちにとって此処はまさに『ホスピス』、最後の拠り所なのではあるまいか?
朋友(ポン友)というお店の看板が目に入った。
すでにこの言葉も死語になって久しい。
親友とは違う、時には悪い遊びもするが、どこまでも気の許し合える仲間。
釣りの友も、山の友も、酒の友も、いつまでも朋友(ポン友)の仲でありたいと思う。