ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 加藤周一著 「羊の歌ーわが回想ー」 岩波新書 上下(1968年)

2018年10月23日 | 書評
雑種文化の提唱者加藤周一氏が医学を捨て、日本文化の観察者たらんと決意した1960年までの半生記 第11回

20) 8月15日
1945年春、大学附属病院の内科は信州上田の結核療養所に疎開した。これは大学当局の指示によるものではなく、教授や医局のつてをたどって、東京から小数の患者と1/3の医局員が疎開したのである。父はすでに伊豆の療養所で医師として働いていたし、東京の家はなかった。妹は結婚して二人の子どもと母を連れて、信州追分村に疎開していた。浅間山の麓は疎開地として食糧生産には適さなかった。紙の紙幣はもはや信用を無くしており、物々交換しか信用されなかった。農村には若い男はいなくなっていたし、娘たちも軍需工場に取られていた。農民にも厭戦気分は広がっていたが、戦争が終わる気配はなかった。夏になると米軍は沖縄に上陸し占領した。そこから大阪、東京を空爆で焼き払い、艦載機で中小都市の爆撃が続いた。艦隊は日本の沿岸に現れ艦砲射撃を加えていた。日本には実質的抵抗能力は失われていた。「本土決戦」「竹槍戦術」などが勇ましく無意味に叫ばれたが、7月末のポツダム宣言無視は、軍隊の強がりに過ぎず何の策があるわけでもなく、本土決戦は権力者たちが、死出の道ずれに国民全体を巻き込もうとする陰惨な自殺行為に他ならなかった。8月10日新聞が「本土決戦、玉砕、焦土作戦」の代わりに「国体護持」を叫んだ時が、権力者の間に敗戦を受け入れる意見が支配的になったという表れであろう。8月15日「玉音放送」が行われ、終戦の詔が発せられた。片山教授は民主主義の勝利だと言って喜んだが、築地小劇場の俳優の鶴丸さんは冷静に「民主主義の勝利だって、そんなことはない。帝国主義の一方が勝ったに過ぎない。米国の占領軍はきっと、日本の支配階級を温存するだろうね、見ていてごらんなさい」と見通した意見を言う人もいた。私はポツダム宣言の民主化条項を信じて、民主化の徹底と経済的な復興がなされるであろうと考えていた。東京の焼け野原は、私にとって、単に東京の建物が焼き払われただけでなく、東京のすべての嘘とごまかし、時代錯誤が焼き払われたと思った。

21) 信条
戦後父は宮前町で借家を診療所にして開業していたが、患者はほとんど来なかった。私の家族は戦争で誰もなくならなかった。家の前にはドブ川が流れ、隣では祖母と叔母と、その娘が三人で住み、祖母の年金と家財を売りながらつつましい生活を送っていた。宮前町から本郷の病院まで、電車を乗り継いで2時間、乗り合いバスで1時間足らずであった。焼け跡の男は」軍服で、女はもんぺや戦前の洋服を着ていた。やり手の男たちは闇市で儲けて輝いて見えた。配給では生活できない現状を実力でたくましく生き抜いていたのである。「戦後の虚脱状態」という文句もあったが、東京の市民たちは虚脱状態で途方に暮れているどころか、むしろ不屈の生活力にあふれていた。乗合自動車や電車の中には、傷病兵もいたり、戦争から帰ってきた男たちが元気でいい顔の市民に戻っていた。昨日まで大陸や南方で人を殺してきた人間とはとても思えなかった。性善説も性悪説も信じられなかった。米軍の占領が始まったときに、私は日本の後進性であるファッシズムが打倒され世界的な規模で民主主義の歴史になるだろうと予言した。それが私の信条であり、私の信条は正しかったと思った。封建的軍国主義から平等に基づく民主主義社会へ生まれ変わるのを米軍が誘導し、米国資本主義は潜在的な日本市場を育てるに違いないという「イデオロギー」の力を信じていた。私は身の回りの日本社会のおくれた状況を見てきたが、西洋の社会の進歩は本の上でしか知らなかった。国家権力の国内的対外的な行動様式についてはほとんど何も知らなかった。事実上の男女差別の実例を全く知らなかった。私にはどういう信条があったのだろうかを点検すると、①宗教的信条はなかった、②認識論的には私は懐疑主義であったが、具体的には疑い続けたわけではない、③道徳的信条は絶対的とは考えなかった、時代、社会で相対的にならざるを得ないと考えた、④私は臆病で青雲の志はなかった、つまり権力志向は全くなかった。⑤私は経験を持たず、いくらかの観念をもって戦後の社会に出発しようとしていたのである。

(つづく)