ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 海老坂 武著 「加藤周一ー20世紀を問う」 岩波新書2013年

2018年10月07日 | 書評
博覧強記の知の巨匠の伝記、日本思想と文学の「日本らしさ」を問い続けた軌跡をたどる 第5回

第4章) 雑種文化論の時代

以上の第1章から第3章までで加藤氏の前半生の紹介を終わる。いわば氏の吸収の時期が終わって、帰国後加藤氏はフランス文学紹介者の看板を捨て去り、1955年「日本文化の雑種性」で文明評論家に変身した。また1958年には医師という憂き世の義理も脱ぎ去った。そして加藤氏の思考は「日本的なもの」あるいは「近代化」を巡って展開される。この論文の主張は次の3点に尽きる。①日本文化の雑種性を直視せよ、②純粋文化主義・国民主義も、近代化主義も共に不毛である、③文化の雑種性には積極的意義がある。日本文化のひずみや偏りも個性のうちという事であろうか。明治以降の西洋文明に流入により、日本文化が雑種化したことは疑いようのない事実である。日本文化の雑種性の積極的な意味づけは、戦後の民主主義の擁護とワンセットになっている。明治維新は歴史の断絶か連続かをめぐって、加藤氏は後者の立場に立ち、いきおい仏教伝来においても原始宗教と日本人は何も変わらなかったとさえ言うのは肯けない。戦後の民主主義の評価は、支配者はともかくとして「日本人の意識」の変化を評価していることと矛盾するからである。kの食い違いに気が付いたのか、加藤氏は1957年「近代日本の文明史的位置」において修正を行うのである。この論文は梅棹忠夫の「文明の生態史観序説」批判として提出された。梅棹氏は明治維新以来の近代文明と、西欧近代文明を並行関係に置くのであるが、それでは両者は無関係となり独自発展(いわゆる今西錦錦司の棲み分け理論に近い)とある。何のために西洋文物を大量輸入し制度をまねたのか意味不明となるとしてこの見解に反対する。梅棹氏の文明観とナショナリズムの関係には注意が必要だ。こうして加藤氏は西洋化に還元しえない近代化の最大の恩恵を、都市労働者の民主主義意識の萌芽のうちに見るのだという。一方、大衆の意識構造として、万葉の昔から感覚的自然に対する美意識が変わらない事、そして価値観が生活をはなれないという超越的構造が欠如している(即物的)ことを加藤氏は指摘する。こういう大衆の意識構造は民主主義意識の足を引っ張ることとも矛盾に加藤氏は苦しんでいた。1957年「日本的なものの概念について」で加藤氏はさらに一つの修正を行う。「雑種文化はいつも日本の現実であった」として、いわゆる日本的なもの(もののあわれ、わび、さび)などは限られた閉鎖社会の一面であって、国学者の偏見に過ぎないとか、世襲制度に立つお茶・花道・能・歌舞伎社会を批判する。それにたいして今昔物語や狂言などに大衆の実践的機知と心理に躍動を見るのである。こうした修正も、日本文化論は信条告白というべきで系統的理論でない以上、致し方ないものだ。議論を整理すると、日本的なという内容と、日本文化全体なのか特別のジャンルなのかに少し揺れがあったので、加藤氏は明治維新以前にさかのぼって雑種論を構築する方向に動いたこと、そして日本の近代化は明治維新による断絶はなく、自発的な近代化過程としてとらえるべきことである。加藤氏の雑種文化論はいわば「つぎはぎ理論」であって、多くの賛論と反論を生んだ。しかし雑種文化論は前提として文化の輸入を基にしているので、これは偏狭なナショナリズムに対抗する思考装置になる。雑種文化論と並行して加藤氏はいくつかの知識人論を発表している。1957年の「知識人について」は西欧の知識人と比較しながら日本の知識人の特徴を示したものである。その比較は表面的で今では合致しないことが多く、現実的に知識人が権力側に群がっている姿は、イギリスもフランスも日本も同じである。1959年には「戦争と知識人」を発表し戦争協力と非協力を取り上げたが、当時の文壇の転向論(吉本隆明、花田清輝、鶴見俊輔)に対応したものであった。加藤氏の論点は転向を生み出した精神構造という点にあった。しかしなぜを問う加藤氏の態度は弱い。生活と思想とのかい離がその要因であるという転向一般論から出ていないし、その思想が薄っぺらな輸入品であったという丸山氏の意見通りである。転向論というより、戦争期の知識人を対象とした日本人論である。そういう意味で加藤氏の論文は現状に主体的に関与する日本社会の変革という実践的視点は弱く、観察の視点が強まったことである。変革のエネルギーになるというより日本思想史全体と向き合う姿勢を明確にしたというべきであろう。

(つづく)