ブログ 「ごまめの歯軋り」

読書子のための、政治・経済・社会・文化・科学・生命の議論の場

文芸散歩 田中美知太郎著 「ソクラテス」(岩波新書 1957)

2015年04月27日 | 書評
ソクラテスの愛知の哲学とは  第6回

Ⅴ ソクラテスの哲学
デルポイの神託むダイモンの合図もおなじ神の介入として理解することができる。ウソであろうと人はそう思い込んでいる、そういった時代なのだから。無智の暴露は神の命令なのである。肯定的にみると智を愛することも神命である。自他を吟味して、智を愛し求め(哲学)ながら生きることが神命なのである。この神命の前に自己を惜しむとか、死を恐れるとかはとんでもない間違いになる。身の破滅を恐れずソクラテスは徹底的に無智の暴露を実践し、智を求める哲学を考えた。「ソクラテスの弁明」でも「アテナイ市民よ、私は君たちに服するより、むしろ神に服するだろう。・・・できる限り智を愛し求めることを決して止めないだろう」といって市民の怒りを買っている。ソクラテスは富や名誉の他に、人間が特に留意しなければならない大切なものがあると説いた。無智の自覚とは何についての無智かというと、アリストテレスは「哲学について」で「汝自らを知れ」と言っている。「ソクラテスの弁明」では精神をできるだけ優れたものにするよう気を使え(留意)という。「精神(プシューケー、魂)をできるだけすぐれたものにする」ということが一番大切なことだということである。精神(プシューケー)とは意識された自我のことであるとバーネットは1929年の論文で言っている。「饗宴」のなかでソクラテスは、富や権力や美貌や体力など当時の人が大事にしていたことがいかにむなしいことかを悟らせる一種の衝撃療法を実践しながら、世人に対しては皮相のところで遊戯的にお付き合いをするというアイロニーに生きていたといえる。これが「ソクラテスのアイロニー」と呼ばれているものです。「国家」でトラシュマコスはソクラテスが世間と妥協するときは「ソクラテス流の空とぼけエイローネイアー」と呼んでいます。これはソクラテスの少年愛エロスにおいてもみられることです。つまり外面と内面の著しい矛盾である。世間におけるソクラテスの存在自体が矛盾といえる。それは世人においても同じ矛盾を暴露されることになり、あの醜い顔で高尚なことを言われて才能や富や地位といったものが砂上の楼閣のように切り崩される時、ソクラテスに対する世間の人の怒りは爆発するのであろう。ソクラテスの平凡な哲学(老子や仏教や平家物語でも同じことを言っている)を、「饗宴」のアルキビアスに言わせると、「言っていることの外面は恐ろしく滑稽で馬鹿馬鹿しいと思われるが、内面に入ると優れた人間になろうということが意味を持つことに驚く」となる。出来るだけ優れたものになろうというとき、ギリシャ人の価値感では「徳」というのは、よき人の「よき」に相当し、一般に者の優秀性、卓越性、有能性を指す言葉である。ソクラテス哲学の中心となるものは、この「徳」であろうと思われる。「徳」とは「精神をできるだけ優れたものにする」ということの言い換えであった。ソクラテス哲学は倫理実践、宗教的生き方と表裏一体であった。プラトンは「国家」のなかで、「正義」の規定を外面の行為よりも内心の統一調和に求め、これを保全する行為が正義であり、この行為の上に立つ知識が「智」であるといった。ソクラテスの「無智」とは何も知らない無知ではなく、何でもないことを大事と思う間違った信念を持つことである。「パイドロス」でいわれるように、智を神のみに認めたソクラテスは人間にはただ愛智のみを許した。愛智としての哲学は、ソクラテスに課せられた神聖な義務となった。アリストテレス以来の一般的見解では、ソクラテスの哲学は倫理道徳領域に限られているとされる。他の哲学分野が明確に意識されていなかった時代において、全人間的志向である「徳」に向かうのはけだし当然であったと言わざるを得ない。ソクラテス哲学とは、①「智」を愛し求めること、②優れた人間になろうとする「徳」に留意することである。優れたということは思慮ある人間といって徳の一部をなしている。すなわち徳のうちにあって、智が特別の位置を占めている。智と徳は同一ではないとする。しかしアリストテレス系統の学説史的取扱いではこれをソクラテスの「主知主義倫理」といって、智は徳になるという充分な実践根拠になるかどうか疑問は残る。ソクラテスの智は実践的でなければならない。クセノポンは「善美の行いをなしうるのは、智者だけである」といって正義その他が智でなければならないとする。そして「知行合一」とか「智徳一体」ということはソクラテスには無縁である。定義から命題そして理論化すれば行動になるという図式は、合理主義、主知主義の主張するところであるが、ソクラテスにあっては無智は間違った考えであり、理論があらゆる問題を解決すると考えるのは、無智の最たるものである。というふうに田中美知太郎氏なぜかソクラテスには批判的である。ソクラテスは合理主義より全人性に重きを置くと考える。これについては私にはよくわからないので次の勉強課題としたい。

(つづく)