ブログ 「ごまめの歯軋り」

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文藝散歩 モンテーニュ-著 荒木昭太郎訳 「エセー」 中公クラシック Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ 

2018年06月29日 | 書評
16 世紀フランスのモラリスト文学の祖モンテーニュ-の人間学 第14回

Ⅱの巻 「思考と表現」

第1グループ 「想いを見つめて」 (その4)


⑩ 片足の不自由な人々について  (第3巻 第11章)
人間の理性の性質、限界を見ながら、なお迷信、奇蹟を信じる無批判な人がいる。懐疑主義を軸にしながら確実な運びで真実を探り当てる実証的な方法が語られる。原因あさりばかりするおかしな理性主義は、物事を動かす立場の人がやることで、物事を受け入れてゆく普通の人間のやることではない。人々は数々の事実の上を通り過ぎてゆく。「現にそういうことが起こるのか」、「全然そういうことはない」というのが我々の立場である。キケロは「それほど虚偽は真実と背中合わせなものだから、賢者はそのような足下の危ないところに踏み込んではならない」という。噂話、誇張は人間の本性である欲望のひとつである。愚か者の数の方が賢者の数よりもずっと多いので、真実は人の数で決まるという事態は何とも不幸なことだ。人間一般の愚かさの罰である。無知はその到達点である。人間は彼らの理解できないことに対して一層大きい信用をかける。そこでモンテーニュは証明が難しく、信じるのが危ない物事については、確信するより疑う方へ傾く方がいいと考える。キケロは「私は自分が知らないことことを知らないと認めることを、恥とは思わない」という。我々の付ける理由のかずかずは事実よりも先に出ることが多い。そしてその範囲は無限に広く、虚無、非存在に対しても判断をし働きかける。本章の題名「片足の不自由な人々について」は、身体障害者に関する下劣な噂話なので省略する。

(つづく)