ブログ 「ごまめの歯軋り」

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文藝散歩 モンテーニュ-著 荒木昭太郎訳 「エセー」 中公クラシック Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ

2018年06月23日 | 書評
16 世紀フランスのモラリスト文学の祖モンテーニュ-の人間学 第8回

Ⅰの巻 「人間とは何か」

第2グループ 「さまざまな様相」 (その2)

④ 修練について  (第2巻 第6章)
理論と経験は、精神をそこに合致させるため実地の経験がなければ物の役に立たない。しかし死は1回切りなので修練は我々を助けてくれない。死に直面することは誰にとっても初経験なのだ。しかも死の結果はもはや伝達のしようもない。後世に経験を遺すことはできないのである。(臨死体験 あの世から帰ってくることは不可能だから) 我々の苦痛は時間を必要とする。死の場合の時間は非常に短い。健康な体は病気の苦痛を考えることこともできない。モンテーニューは第3回宗教戦争(1569-70)のとき馬の蹴られる事故に遭遇し、2時間以上意識が戻らなかった。意識がない時は自分の生命についての感覚さえなかった。そして激しい痛みのなかに意識を取り戻した。

⑤ 怒りについて  (第2巻 第31章)
古代の逸話や、体験談を交えて怒りの非人間的側面を否定する論旨を展開するが、後半は怒りを率直適切に表すことによる人間的生き方の提案を行う。ある一つの国家においてすべては子どもの教育と養成にかかっているが、子どもたちの指導と監督をその父親の無分別な考え方に任せたままになっているのは大変愚かしいことだ。怒りに任せた体罰や怒鳴りつけは子どもの魂を傷つけている。これでは矯正ではなく復讐に近い。怒っているとき、命令を下すのは情念である。怒りは自分で満足し、いい気になる情念である。怒っている時に相手に手を出せば危険である。強情な女の激昴を体験する人は多い。軍人には怒りがなくてはすまされない部分があり、怒りを抑える忍耐強差が求められる。怒りを鎮めるには自分を厳しく抑制しなければならないが、それを隠そうとすると体内に入って自分の気持ちを痛めつける。そんな情念を抱えているよりは、それらを表に出す方がいい。情念は表の風に吹かれると弱まるものである。怒りを大切に使い、あたりにかまわずまき散らすのはよくない。怒るときは口だけにしなさい。怒りにかられると碌なことは無い。

⑥ 顔つきについて  (第3巻 第12章)
このテキストはモンテーニュ-が、ボルドー市長を辞してから、宗教戦争やペストの流行で社会が悲惨な時期に書かれた。彼の身に差し迫った危険な事態も語られ、この章の主題は「死」の問題である。さらにそれに立ち向かう人間の生き方の問題である。範例としてソクラテスの刑死と魂を取り上げる。顔貌の問題はよりはソクラテスの言行のよりどころとして提出されている。モンテーニュ-自身の困難な時代の中に立つ生の存在証明となっている。この章は70頁とかなり長文である。我々の知識、意見のほとんどは権威を通じて、他人の信用によって獲得されたものである。プラトンが遺してくれた数々の議論を、世間一般が承認しているからこそ承認するのである。そういう意味では「自然さ」とは愚かしさに近い性格を持たされている。ソクラテスは彼の魂をごく普通の動かし方でものをいう。学問知識は自然さを平凡なものとして取り上げず、派手な誇張されたものにしか豊かさを見ない。ソクラテスの目的は人生に対してより適切に役立つ事柄と教訓のいろいろを私たちにもたらすことだった。小カトーの生き方は普通の生き方を遥かに越えた緊張した生き方で、彼の生き方・死に方はたくましい馬にまたがった姿であった。それに対しソクラテスは大地の上を歩く姿であった。彼の姿はもっとも洞察力の優れた人間たちによって照明を当てられた。「ソクラテスの弁明」を見ても、彼の意見は学問や技芸から出たものは何ひとつない。彼は人間の本性に対して、それ自身でどれだけのことが成し遂げられるかを示した。知識というものは人間のほかの財産と同じように、本来虚しさと弱さを含んでいる。あえて無知の誓いや貧困の誓いを立て欲望を弱める人もいる。楽に生きていくうえで学問をあまり必要としない。学問知識というものは、混乱した不安定な道具である我々の精神が生み出す熱っぽい過剰なのである。セネカは「知性でなく魂の働きが問題となる場合、人を楽しませるものすべてが栄養にはならない」という。セネカが死に立ち向かってあれほど頑張るとは意外であるとモンテーニュ-は考えた。偉大な魂は動揺せず平静を保つべきである。貧困を苦にせず、死を願い苦悩も警戒心もなく乗り越えてゆく人もいる。モンテーニュ-は1585年の宗教戦争と国家の腐敗、そしてペストの流行を現実に眼の前にして、避けられない死にたいする堅固な態度を学んだようである。学問は役に立たない。それは自然固有の一貫した顔つきを喪失した。人間の本性についてあらゆる不幸をあらかじめ想定しておくこと何の役に立つのか。たいていの場合、死に対する準備は死にさいしての苦痛よりも多くの苦悩をもたらす。思考よりも体の消耗の方が、我々の感覚に与える影響は少ない。突然にくる明白な災いを耐え忍ぶことは苦労が少ないが、人の恐れるものを長い間気に病んで過ごすことはよりつらいのである。キケロは「哲学はすべて死についての考察である」という。生の当然の努力は、自分を整え導きそして耐えることである。この生き方を心得るという義務と同時に、死に方を心得ることも必要である。死とその予測からくる二重のアリストテレスの苦悩より、死について思いめぐらすことの少なかったカエサルの死がもっとも恵まれた位置にある。死を想像するのは哲学者に任せよう、今後は愚鈍を奉じる学派を打ち立てよう。ソクラテスの死に対する態度については、プラトン著「パイドン―魂の不死について」に詳しいので省略する。

(つづく)
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