ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 南川高志著 「新・ローマ帝国衰亡史」 岩波新書 (2013年5月 )

2014年01月20日 | 書評
栄えていた国が滅びるということ 第4回

2) 混乱と衰退の影ーコンスタンティヌス大帝の改革

 マルクス・アウレニウス帝の五賢帝時代が終わると、その子コンモドゥス帝から皇帝制の混乱が始まった。「3世紀の危機」とは軍人皇帝が覇を争う時代である。帝国の国家としての統一性が失われ、ガリア帝国など分離帝国として分裂が始まった。それを統一したのが3世紀末のディオクレティァヌス帝(在位284-305)であった。ディオクレテァヌス帝は農民出身で、身分制は崩れて軍人の実力で皇帝になる時代であった。元老院の反乱もあったが、下層の軍人が次々と皇帝になった。ディオクレティァヌス帝は元老院を排除して騎士身分を直属勢力として皇帝独裁制が成立した。ディオクレティァヌス帝は帝国を軍事的に4分割し4人で帝国を支配するテトラルキアとなった。305年テトラルキアは平和裏に帝位が交代したが、(帝位の乱れは皇統の軋轢からくるのだが、ばかばかしいのと煩雑なので皇統は省略する)コンスタンティヌスら4人も正帝が生まれた。そして軍人皇帝の雌雄を決する戦いが、312年ローマのミルウィルス橋の戦い、324年アドリアノーブルの決戦となった。この戦いを制したのがコンスタンティヌス大帝で、同時にミラノ勅令によってキリスト教を公認した。これによりローマ帝国の重点が東に移りビザンティノポリスを首都とした。そしてキリスト教が精神界を支配する西欧文化の伝統の重要な契機となった。東の帝国では元老院議員の力はなく、直属の官僚による中央皇帝政治を確立することができた。コンスタンティヌス大帝はフランク族、ゴート族などの遠征を行い、諸部族の能力ある人々を徴用した。外部との境界ゾーンに駐屯兵力を倍化し、野戦と歩兵の機動軍をおく軍政改革を行った。野戦機動軍を帝国の統治区分であるオリエント道、イリュリクム道、イタリア・アフリカ道、ガリア道に配備し、総司令官が重要な位置となった。当時の真の外部とはササン朝ペルシャであった。260年皇帝がペルシャの捕虜となって殺されることがあったが、ディオクレティァヌス帝時代に東への勢力を回復し、337年コンスタンティヌス大帝はペルシャに向けて東征した。その途上でコンスタンティヌス大帝は病死した。

(つづく)