ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 岡田雅彦著 「放射能と健康被害」(日本評論社 2011年)

2014年01月01日 | 書評
低線量被ばくの長期的影響について 第2回

1) チェルノブイリの真実 (1)

 チェルノブイリ原発事故とその健康影響については、正直まとまった話を聞いたことがなく、白血病が増えたとか、はたまた人体には何の影響もなかったとする意見が相乱れて交錯する、曖昧模糊たる世界であった。事故当時のソ連という国の秘密主義(日本も負けて劣らず秘密主義だが)に阻まれて、事故の詳細が明らかにされなかったことも一因であるが、低線量被ばくの発がん影響は10-30年たたなければ出てこないという、がんの増殖速度が極めて遅いということに由来する宿命でもあった。事故の数年後に東欧とソ連邦が崩壊してゆくので、チェルノブイリ事故がソ連の体制を破壊したといわれる。ゴルバチョフ元大統領はこの事故をとらえて「ソ連という体制の最も非能率かつ非合理な体質が暴露された」と回想録で述べている。社会主義体制と中央集権官僚制のことである。日本の自民党にとって、歴史に「タラレバ」は禁物であるが、もし福島原発事故が自民党政権で起きていたら歴代政権の罪悪として自民党体制(55体制)は吹き飛んでいただろう。事故時は民主党政権であったため、事故の原因より政権の処理の不手際をなじることで自民党政権は奇跡の復活を成し遂げた。歴史は皮肉なもので、自民党体制がもたらした原発事故という集積した矛盾が、なんと民主党政権を吹き飛ばしたのである。そこでチェルノブイリ原発事故の経緯をみておこう。事故は1986年4月26日深夜に起きた。4号炉の定期点検にあたり、冷却ポンプ(循環ポンプ)の電源の調子が悪かったので非常用電源に切り替えて点検作業を行おうとした。非常用電源に切り替えた瞬間50秒ほどは電圧が降下するので、自動運転モードを手動に切り替え、発電量を一定にするため核燃料棒をすべて抜き取り、冷却ポンプの電源を非常用に切り替えた。この時電圧が異常に下がって冷却水の循環量が急激に低下し炉心温度が急上昇した。自動運転ならばここで原子炉は自動停止しするはずなのだが、制御棒が元に戻らなかったので炉心が超高温となり爆発した。爆発は2回起こり、火災は10日間続いた。この爆発で7人の作業員が死亡し、火災消火のため駆けつけた消防士47名、原発従業員31人が放射線障害で死亡した。140人が重大な放射線障害を受けた。事故後もチェルノブイリ原子力発電所は操業を続け、全面廃止となったのは2000年12月のことである。狂気の沙汰としか言いようがない人間の所作であった。

① チェルノブイリで行われた調査
「医療は科学的な根拠エビデンスに基づいておこなわれるべき」という場合のエビデンスとは、
Ⅰ多数の人間を対象に実際に調べること、
Ⅱ比べる対象を公平に決める、
Ⅲ長い年月をかけて結果を見る
という研究手法のことです。ここに述べるチェルノブイリ原発事故の教訓は、25年に及ぶ歳月と命がけの調査でえられた本物のエビデンスであると著者はまず宣言する。チェルノブイリ事故による放射能汚染はロシア、ウクライナ、ベラルーシの3国に集中した。チェルノブイリ原発より半径600キロメーターの地域である。低線量の汚染は遠く欧州にも広がり、半径2000キロメーターのノルウエー、スウェーデン、英国、イタリアまで達したのである。そのため学術調査は次の3つのグループに分けて分析が行われた。
第1グループは原発従業員、消防隊員・救急隊員、行政・調査スタッフなど直接原発に入った人々
第2グループは半径30キロメーター域内の住民のうち事故後も避難しなかった人たち(60万人)、
第3グループは周辺住民で事故後避難した人たちである(21万6000人)。
本書は被ばく量を自然放射線量(年間0.5ミリシーベルト)を1単位として、その何倍かという計算をする。第1グループの人の被ばく量は20-32000単位であるという。調査は事故後の3年間は行われなかったが4年後から国際原子力機関IAEAが住民検診を開始した。ソ連から要請を受けたIAEAは200人の専門家が入り調査を行った。対象は第2グループに属する地域住民82万5000人で、おもに放射線被ばく量の推定が行われた。放射線被ばく量の測定は8000人にバッジ式検出器をつけてもらい、ホールボデイカウンターを9000人に実施した。そして生涯線量は160-320単位と推定された。外部被ばくは内部被ばくの3-4倍多いこともわかった。

(つづく)