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とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

あちこち「SYOWA」 (番外)岡崎朋美 長野五輪女子スピードスケート500m 銅メダル

2018-02-22 11:44:21 | 日記
今のオリンピックで解説を務めています。この岡崎朋美氏は選手当時明るいスマイルで人気がすごかったですね。そこでこの機会に銅メダルの滑りを振り返りたいと思いました。


岡崎朋美 長野五輪女子スピードスケート500m 銅メダル



岡崎 朋美(おかざき ともみ、本名:安武朋美【旧姓:岡崎】 1971年9月7日 - )は元スピードスケート選手。都留文科大学特任教授。
1998年長野オリンピックスピードスケート女子500メートル銅メダリスト。1994年リレハンメルオリンピック、1998年長野オリンピック、2002年ソルトレークシティオリンピック、2006年トリノオリンピック、2010年バンクーバーオリンピックと、5度の冬季オリンピックに出場。2008年北京オリンピック日本代表(自転車トラックレース女子スプリント)の佃咲江選手(北海道網走郡美幌町出身)は、北海道釧路星園高等学校(スピードスケート部)の後輩である。


略歴

北海道斜里郡清里町生まれ。実家は酪農業。小学3年生でスケートを始め、清里中学校、釧路星園高校を経て、名門・富士急行へ。それまではインターハイでも4位と無名だったが、富士急スケート部の監督だった長田照正が高校2年の岡崎を見てその素質を見抜きスカウト。先輩である橋本聖子選手とともに練習を重ね、才能を開花させる。

1998年長野オリンピックで日本女子短距離として初めてメダル(銅)を獲得し、「朋美スマイル」で全国的な人気者となった。その後は椎間板ヘルニアに悩まされるもカムバック。

2002年ソルトレークシティオリンピック500メートルで当時の日本記録を樹立。2005年1月には通算7度目となる日本記録の更新(37秒73)を達成。社業でも1998年長野オリンピック後に富士急行の課長代理に昇進。その後日本新記録を出して課長、記録更新で次長代理となり、最終的には宣伝部次長まで昇進している。

2006年トリノオリンピックでは、日本選手団の主将を務める。風邪による体調不良のハンデを背負いながらも、500メートルでは1本目、2本目共に38秒46をマークし、4位入賞を果たした。同年12月の全日本スプリント選手権では年齢による体力の衰えを感じさせないスケーティングで9年振り3度目の総合優勝を達成。表彰式のプレゼンターは岡崎が尊敬する富士急の元先輩・橋本聖子(当時日本スケート連盟会長)で、表彰状授与式で橋本が「表彰状・・・優勝、岡崎朋美。35歳!」と、岡崎の当時の実年齢までアドリブで読み上げ、会場内の笑いを誘う一幕もあった。

2007年8月27日、元アスリートの安武宏倫氏との婚約を発表。11月24日、所属する富士急行系列のハイランドリゾートホテル&スパにて結婚式を執り行った。

2009年12月、長野市・エムウエーブで行なわれた2010年バンクーバーオリンピック代表選考会で総合2位となり、冬季オリンピックの日本女子で最年長、最多の5大会連続出場を果たした。2010年バンクーバーオリンピック開会式にて日本選手団の旗手を務め、競技では500メートル16位、1000メートル34位となる。スピードスケート人気の高いオランダでは岡崎朋美ファンクラブがあり、オランダ国外の大会にも遠征するほどの熱心なファンが存在した。(「Wikipedia」より)

あちこち「SYOWA」(番外)藤澤五月【カーリング】涙のカーリング人生!

2018-02-19 18:40:41 | 日記
好調な発進。メダル獲得して欲しいという一心でアップしました。

藤澤五月【カーリング】涙のカーリング人生!



藤澤 五月(ふじさわ さつき、1991年5月24日 - )は、日本のカーリング選手。ロコ・ソラーレ所属。2018年平昌オリンピック日本代表。


経歴

1991年5月24日、北海道北見市美山町出身。5歳からカーリングを始め、北見市立北中学校から北海道北見北斗高等学校2年生まで地元のチーム「ステイゴールドⅡ」でプレー。また2008年と2009年には日本ジュニアカーリング選手権で「チーム北見(ステイゴールドⅡ)」を率いて優勝した経歴もある。また、パシフィックジュニアカーリング選手権でも日本ジュニア代表として2大会連続優勝し、世界ジュニアカーリング選手権にも出場した。

高等学校卒業と共に故郷を離れて中部電力に就職し、佐久営業所に職員として勤務する傍ら、同社に結成されたカーリング部の創成メンバーとなる。以後は2010年の中部カーリング選手権優勝を皮切りとしてチーム力を着実に伸ばし、2011年の日本カーリング選手権で初優勝し、同年のパシフィックカーリング選手権に日本代表として出場した。ソチオリンピック出場をかけた2013年9月の世界最終予選日本代表決定戦では、小笠原歩を擁する北海道銀行に敗れ出場を逃した。

2015年4月に中部電力を退社し、本橋麻里に誘われ故郷の北見市を拠点とするロコ・ソラーレに移籍した。北見市にある保険代理店株式会社コンサルトジャパンに所属し、事務として勤務しながらトレーニングを行っている。2016年世界女子カーリング選手権大会で準優勝を果たし、2017年9月の平昌オリンピック代表決定戦では古巣・中部電力を破り初の五輪出場を決めた。(「Wikipedia」より)

あちこち「SYOWA」 302 長野オリンピック 男子500m 清水宏保

2018-02-18 22:31:57 | 日記
小平奈緒選手金メダルおめでとう !!!!! 女子初の金メダル。今日まで生きていてよかった !! と思いました。因みに男子は・・・。

長野オリンピック スピードスケート男子500m



清水 宏保(しみず ひろやす、1974年2月27日 - )は、日本の元スピードスケート選手、スポーツキャスター、タレント。北海道出身。エイベックス・マネジメント所属。長野オリンピックで金メダル1個、銅メダル1個、ソルトレイクシティオリンピックで銀メダルを獲得した。身長は162cm。2015年4月より弘前大学大学院医学研究科博士課程に在学。

経歴

スケート選手として

実家は建設会社。葵幼稚園、帯広市立栄小学校、帯広市立帯広第一中学校、白樺学園高等学校を経て、日本大学文理学部を卒業。三協精機(現:日本電産サンキョー)、NECを経て、現在は株式会社コジマ所属(プロスケーター)。

1993年2月、イタリア・バゼルガ・ディ・ピネで行われたスピードスケートW杯に18歳で初出場し初優勝という快挙を達成。その直後の世界スプリント=群馬県伊香保では総合3位に入り、小柄な世界トップスケーターとして注目を集める。

1994年リレハンメルオリンピック、1998年長野オリンピック、2002年ソルトレイクシティオリンピック、2006年トリノオリンピックと、4度の冬季オリンピックに出場している。長野では500mで日本のスピードスケート選手としては初となる金メダル、1000mでも銅メダルを獲得、ソルトレイクシティの500mでもトップと0.03秒差の銀メダルを獲得した。ワールドカップ(W杯)通算優勝回数は34回である。

金メダルを獲得した長野オリンピック直後の1998年4月、清水は所属していた三協精機を退社し、日本で初めての「プロ」(スピード)スケーターとなることを宣言。その後NECがスポンサーとして名乗り出る。9月に同社と社員契約を結ぶ一方で、複数の企業とスポンサー契約を交わすプロアスリート活動を始めた。

1993年の世界デビュー以降、10年以上にわたって日本スケート界を牽引してきたが、2005年の世界距離別選手権で2位になったのを最後に世界では目立った成績を残せなくなった。男子短距離では、加藤条治、及川佑、長島圭一郎など「ポスト清水」と言われる世代が実力をつけたこともあり、選手としての去就に関心が集まるようになる。2008年3月限りで契約していたNECを退社、新たにコジマと契約を結んだ。(「Wikipedia」より)

あちこち「SYOWA」 301 ジャネット・リン 1972 Sapporo Olympics

2018-02-17 00:12:58 | 日記
数多いる女性フィギュアスケート選手の中でもこの人ほど人気を得た選手は少ないのではと思います。ジャネット・リン。私もよく記憶しています。

Janet Lynn 1972 Sapporo Olympics



ジャネット・リン(本名:ジャネットリン・ノーウィッキ、Janet Lynn Nowicki, 1953年4月6日 - )は、アメリカイリノイ州シカゴ出身の女性フィギュアスケート選手。1972年(昭和47年)札幌オリンピック女子シングル銅メダリスト。選手としてはファミリーネームを落とした名を使った。


1972年(昭和47年)、18歳の時に札幌オリンピックに出場。フリーではシットスピンで転倒、尻もちをつく失敗があったものの、その美しい演技は芸術点で満点の6.0も出るなど高得点を獲得したが、当時のルールで重要視されていたコンパルソリーが苦手であったため、合計点で3位にとどまった。この出来事は翌年からコンパルソリーの比重を下げ、ショートプログラムを導入する一因ともなった。演技中、着氷に失敗したにもかかわらず終始笑顔で滑っていたことは、全世界で大絶賛された。そのときの髪はヴィダル・サスーンがカットしたもの。

その愛くるしい笑顔から「札幌の恋人」「銀盤の妖精」と呼ばれ日本中で人気を得、カルピスのCMにも出演した。選手村の自室の壁に「Peace & Love」と書き残して日本を離れたが、この建物が分譲アパートとなった後にこの落書きは消えてしまった。しかし翌1973年(昭和48年)に来日して再びサインした「Peace, Love + Life」は消されずに保存されている。また、後年出演したオリリー化粧品のCMでも「Peace & Love」のサインを書いている。

オリンピックでホームシックになり、米マクドナルドが飛行機でハンバーガーを届けたのは有名な話。

1973年(昭和48年)、145万ドルという破格の契約金でプロに転向、同年世界プロフィギュア選手権で優勝。以後10年以上にわたりプロスケーターとして活躍した。また日本での人気も衰えず、1983年(昭和58年)にはTBSテレビドラマ『胸さわぐ苺たち』に本人役でゲスト出演。また1998年(平成10年)に開催された長野オリンピックにおいてはオリンピック親善大使に任命され、マクドナルドのCMに出演。久しぶりに公の場に姿を現した。2001年(平成13年)、世界フィギュアスケート殿堂入り。


コンパルソリーフィギュアについて


コンパルソリーフィギュア(Compulsory figures)は、フィギュアスケートの男子シングルと女子シングルで1990年まで行われていた種目のひとつ。スクールフィギュア、規定とも呼ばれていた。氷上を滑走して課題の図形を描き、その滑走姿勢と滑り跡の図形の正確さを競う種目である。このフィギュアという言葉がフィギュアスケートの由来となった。

  競技方法

選手は、1つの課題に対して左右の足3回ずつ計6回滑る。奇数人の審判員が、滑走姿勢や滑り跡の図形を判定して0.0から6.0の範囲で採点する。この採点に課題ごとの難易度係数を掛けて、各課題の得点の合計がコンパルソリーの得点となる。
ショートプログラムやフリーと違い、音楽はなく、選手は地味な衣装を着用していた。

(「Wikipedia」より)

あちこち「SYOWA」 (番外)長野オリンピック 女子モーグル/里谷多英・上村愛子

2018-02-15 17:48:05 | 日記
長野五輪の女子モーグルで金メダルを取った選手がいる。そういうことをふと思い出しました。

長野オリンピック 女子モーグル


1998年長野オリンピック(ながのオリンピック)は、1998年(平成10年)2月7日から2月22日まで日本の長野県長野市を中心とする地域を会場として開催された20世紀最後の冬季オリンピックである。冬季オリンピックの歴代開催地の中では、長野は最も南に位置する緯度の地域だった。
72の国(地域)から選手・役員4638人が参加し、延べ144万2700人の観客が会場に集った。
長野オリンピックの競技会場は長野市、白馬村、山ノ内町、軽井沢町、野沢温泉村に配置され、このうち人口が最も多く県庁所在地である長野市が主催都市(Host city)だった。そのため、1994年リレハンメルオリンピックおよび長野オリンピックの閉会式では、いずれも次回開催地への引き継ぎセレモニーで当時の長野市長だった塚田佐氏が出席した 。


里谷 多英(さとや たえ、1976年6月12日 - )は日本の元フリースタイル・スキーモーグル選手。長野オリンピック金メダリスト・ソルトレイクシティオリンピック銅メダリスト(共に女子モーグル)。現在はフジテレビジョンに所属している。

来歴
北海道札幌市出身。札幌市立新陽小学校、札幌市立北陽中学校、東海大学付属第四高等学校(現:東海大学付属札幌高等学校)体育コースを経て北海道東海大学(現:東海大学札幌キャンパス)を卒業。
モーグルは、小学校5年生で始める。全日本選手権には、1989年度大会に6年生で優勝。中学校1年の1990年度大会は2位だったが、その後1991年度から6連覇を達成した。
1994年、リレハンメルオリンピックに出場し11位となった。その後、スティーブ・フェアリングコーチの指導を2006年まで受けた。
1997年7月に、父親を亡くし競技引退も考えたが、翌1998年の長野オリンピックに出場し日本人女子選手として冬季オリンピック史上初の金メダルを獲得した。


上村 愛子(うえむら あいこ 1979年12月9日 - )は、日本の女子元モーグル選手。兵庫県伊丹市出身、長野県北安曇郡白馬村育ち。血液型AB型。2008年度紫綬褒章受章者。JOCスポーツ賞特別貢献賞受賞者。オリンピックでは5大会連続出場していずれも7位以内の入賞を果たし、さらに日本人初のワールドカップ年間総合優勝を達成。2014年4月に現役引退。スポーツビズ所属。

バンクーバーオリンピック4位入賞

2009 - 2010シーズンは、ワールドカップ初戦で2位と好スタートを切ったが、その後に好不調の波が押し寄せ、ワールドカップ前半戦未勝利のまま、4度目の冬季五輪出場となるバンクーバーオリンピックに臨んだ。
2010年2月13日、女子モーグル競技に出場。予選で5位通過し、期待された決勝では4位入賞。冬季五輪で4大会連続入賞を達成するも、又しても五輪メダル獲得はならなかった。競技終了後のインタビューにおいては、全力を出し切ったことに対する満足感を述べつつも、メダル及び表彰台を逃した事については「何で、こんなに一段一段(7→6→5→4位)なんだろうと思いましたけど……」と無念な心情も吐露した。

ソチオリンピック4位入賞

長期休養を経て2013年、ルカでのワールドカップ開幕戦で3位となり、世界選手権でも5位の好結果を残し、5度目の冬季五輪日本代表となるソチオリンピックに出場。2014年2月6日の予選では21.01点で7位となり、一回で8日の決勝に進出した。2月8日に行われた女子モーグル決勝(12名勝ち抜け)の1回目では20.43点を出して9位で通過、決勝2回目(6名勝ち抜け)は21.15点で6位となり際どく決勝3回目に進んだ。そして6人によるメダルを賭けての決勝3回目では1番スタートで20.66点を出して残り3人までトップをキープしたが、最後の3人に抜かれて前回バンクーバー五輪と同じ4位入賞に。冬季五輪では5大会連続入賞という快挙を成し遂げたものの、悲願のメダル獲得には惜しくも届かなかった。

それでも、競技終了後のインタビューで上村は「メダルは獲れなかったけど、すがすがしい気分。全力で滑れたことで点数見ずに泣いてました」「ソチを目指そうとした時、又(メダルが)取れないとか取れるとか、そういう場所に戻る自信は持てなかった。最高の滑りをしたら取れるかもという所まで来れたのが、凄く嬉しい」と、目を潤ませながらも笑顔を浮かべた。また、自身の五輪出場はこれが最後と示唆しつつ「今回の五輪は良い想い出で終われるんじゃないかと。メダルは無いんですけどね(苦笑)。そこは申し訳ないとしか言いようがないんですけど、頑張ってよかったなぁと思っています」と、悔い無く完全燃焼出来た事を強調していた。(Wikipediaより)