とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

あちこち「SYOWA」 (番外) Torino Olympic FP/ 荒川静香・イナバウアー

2018-02-14 16:41:47 | 日記
折しも平昌オリンピック中。敢えて高度のテクニックを駆使しないで完璧な美しい演技を披露しトリノオリンピックで金メダルを獲得した彼女、荒川静香を思い出します。因みに『Wikipedia』によると「男子シングル競技の羽生結弦もイナバウアーを得意技としている。2014年のソチオリンピックのフリースケーティングでイナバウアーを披露、結果羽生はフィギュアスケートの種目では、日本人で荒川に続く二人目の五輪金メダリストとなった。」そうです。

Shizuka Channel 003 Trandot Torino Olympic FP HD 荒川静香



荒川 静香(あらかわ しずか、ラテン文字:Shizuka Arakawa, 1981年12月29日- )は、日本のプロフィギュアスケーター。日本スケート連盟副会長(2014年9月 - )。
主な競技成績は、2006年トリノオリンピック女子シングル金メダル、2004年世界選手権優勝、1998年長野オリンピック代表(13位)、1997年・1998年全日本選手権2連覇、2003年ユニバーシアード冬季大会・冬季アジア競技大会・2004年NHK杯各優勝、2004年GPファイナル2位など。
マネジメントはユニバーサルスポーツマーケティング。

トリノオリンピックで日本代表唯一の金メダル獲得

2004-2005シーズン、NHK杯で初優勝。GPファイナルでは自身最高の2位に入る。しかし全日本選手権はSP1位だったが、足の怪我でフリーを棄権。それでも昨年優勝の実績により、世界選手権に3年連続で選出された。世界選手権のSPは5位につけたが、フリー演技では必須のアクセルジャンプを跳び忘れるなどで得点が伸びず、総合9位に沈んだ。

2005-2006シーズンは中国杯とエリック・ボンパール杯でそれぞれ3位につけたものの、グランプリファイナル進出を逃してしまった。この時は「日本選手3人がグランプリファイナルで表彰台に上がりオリンピック出場枠が埋まったら?」と記者に質問された際、「引退する」と発言していたが、全日本選手権で3位に入ったことで、8年ぶり2回目の五輪出場となるトリノオリンピック代表選出が決まった。

2005年12月、タラソワとの師弟関係を解消する。理由は、タラソワの新採点方式への対応が遅れていたので氷上で直接指導するニコライ・モロゾフについてステップのレベルを上げようとしたところ、タラソワとモロゾフが共同作業を拒んだため。その後、正式にモロゾフの指導を受けることにし、国内では佐藤久美子に師事することとなった。加えて、SPとフリーのプログラムを同時に変更した。フリーで使用していた「幻想即興曲」をSPに回し、フリーは2004年世界選手権優勝時にも使用した「トゥーランドット」にした。

トリノ五輪女子シングル(SP:2月21日、FS:2月23日)では、SPでほぼノーミスの内容で3位につけ、荒川・サーシャ・コーエン・イリーナ・スルツカヤの上位3人全員が66点台に乗せ、1点差以内に並ぶ大接戦となった。フリーではループジャンプがダブルとなった以外は完璧の演技を披露、自己最高得点をたたきだして1位となり、会場の観衆からはスタンディングオベーションの賞賛を受けた。合計スコア191.34で総合優勝を果たし、アジア選手として五輪フィギュア史上初の金メダル(併せて同五輪日本代表選手として唯一のメダル)を獲得。ちなみに、五輪女子フィギュア史上最年長(24歳)の金メダル獲得でもあった。

ショートプログラム (SP) とフリースケーティング(フリー)で合計7つあるスピンと2つあるスパイラルの全てでレベル4を獲得し、2つのステップはともに事実上最高難度であるレベル3を獲得した。このようにレベルの取りこぼしが1つもなかったのは出場選手中荒川ただ1人であり、また、ISUジャッジングシステム導入後のISU公式試合を通じても初めてのことであった。演技構成点で8点台をマークしたのも荒川ただ一人だった。

トリノ五輪後の世界選手権(3月19日 - 26日)にも選ばれていたが、調整不足のため出場を辞退した(代替選手は恩田美栄)。同選手権終了の次の日にあたる3月27日(月)、仙台市都心部の東二番丁通りにて凱旋パレードが実施され、沿道には約7万3000人の観衆が集まった。同年5月7日、記者会見でアマチュア競技引退とプロ転向を表明。会見の席で「今後は自身の演技力の向上やスケート界を広くサポートしていきたい」と語った。(Wikiより)