とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

あちこち「SYOWA」 349 涙のリクエスト/チェッカーズ

2018-05-29 17:09:03 | 日記
甘くて深みのある声質が魅力的でした。・・・最後のリクエスト・・・。この歌詞も心をとらえました。忘れることができないです。

涙のリクエスト/チェッカーズ


チェッカーズ(THE CHECKERS)は、1980年代から1990年代前半にかけて活動した男性7人によって構成された日本のポップスバンド。福岡県久留米市にて結成。


略歴

デビュー前

1980年、郁弥と武内によりグループ結成。
1981年、ヤマハ・ライトミュージックコンテストジュニア部門で最優秀賞を受賞。受賞後すぐにデビューの話があったが、徳永と尚之の高校卒業を待ってから…と保留する。

前期(1983年 - 1986年上半期)・アイドル的人気の沸騰

1983年3月29日、上京。目黒区のヤマハ音楽振興会の寮で生活をはじめる。9月21日、メンバーたちの音楽的方向性とは異なる「ギザギザハートの子守唄」でデビュー。

1984年、「涙のリクエスト」がヒット。オリコンチャートやランキング番組のベスト10内にこの楽曲と「ギザギザハートの子守唄」、「哀しくてジェラシー」の3曲が同時ランクイン。チェッカーズは社会現象化し、ファッションなどにも大きな影響を与える。第35回NHK紅白歌合戦初出場。以降解散まで9年連続で紅白出場する。

1985年、映画「CHECKERS IN TAN TAN たぬき」に出演。シングル「ジュリアに傷心」がオリコンチャート年間第1位に。ブロマイドの年間売上実績でも第1位を獲得した。同年所属事務所をヤマハ音楽振興会から個人事務所スリースタープロへ移籍。

中期(1986年下半期 - 1989年)・楽曲のオリジナル化とソロ活動の並行

1986年、初のメンバーオリジナルシングル「NANA」を発売。この曲はNHKで放送禁止になり、話題になった[要出典]。
1987年、全曲メンバーオリジナルのアルバム「GO」を発売。尚之がメンバー初のソロデビュー(シングル及び同名ソロアルバム「NATURALLY」発表)をし、これを機に徐々にメンバーのソロ活動が増えていく。一時期Cute Beat Club Bandとして活動。年末には日本人バンド初のセンターステージによるコンサートを行う。

1988年の夏、同年3月に新設されたばかりの東京ドームでコンサートを行う。12月に郁弥が出演したCM用に収録された楽曲「Mother's Touch」が自身のソロシングルとして発売される。しかし、チェッカーズのメンバーとして在籍している間はソロ活動(ライブ、音楽番組での歌唱など)をしないという理由で音楽番組からオファーがあっても出演を辞退し続けた。

1989年、鶴久、高杢が相次いでソロCDデビュー。

後期・末期(1990年 - 1992年)・ミュージシャン・グループへ、メンバーの相次ぐ結婚、そして解散

1990年6月、郁弥が結婚。同年12月に高杢が婚約者の妊娠を機に入籍。1991年には郁弥及び高杢にそれぞれ第一子が誕生。1992年の解散までの間にメンバー中、武内、鶴久を含む4人が既婚者となる。

1992年10月9日の「ミュージックステーション」内で、正式に解散を発表。12月にラストツアーを行い、12月31日の第43回NHK紅白歌合戦出場を最後に解散した。当初は白組トリおよび大トリでの出演が有力視されており、番組側もその方向で調整を進めていたが、それまでの紅白でグループでトリを取ったという前例が全くなかったこと(この前例もそれから11年後の2003年・第54回にてSMAPが白組トリおよび大トリを取ったことにより打ち破られた)が災いし、トリでの出演は見送られ、中盤での登場となった。

解散後・再結成

解散後、郁弥、武内、大土井、尚之は、所属事務所を退社。高杢、鶴久、徳永は所属事務所に残り、その後、それぞれソロで活動を続けた。(後日、所属事務所から3名も退社している。)
バンドの再結成については、徳永が亡くなっていること、また武内と郁弥が再結成について否定的な見解を表明していること[1][2]により、再結成は難しい状況となっている。(「Wikipedia」より)

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