Nonsection Radical

撮影と本の空間

共有の価値観って共有しているのか

2014年08月20日 | Weblog
またワケのわからない事を(笑)。
誰かと何かについて話す時に、「あれってイイよね」「そうそう」なんて会話をするわけだが、”イイ”って言ってる事がはたしてお互いで共有出来ているのか。
あれがああで、それでこうで、だからイイよねって事をお互いで確認できて初めて共有できるわけだが、そういう確認がない場合、ひょっとすると全然別の部分で評価をしているのかもしれないし、それを確認も出来ない。
だから「評論家」みたいな人が共有出来る特徴を”限定”して、それをみんなの共有事にするなんてこともあるだろうけど、マイナーな写真とか、調査結果とか、言葉で言い表しづらい事とかだと、なかなか共有を確認する事が出来ずに、各自勝手に納得している部分もあると思う。
以前、ある人の写真について、言葉では表わしにくい「空気感」みたいなものが撮影の動機なんではないかと思って、それを多少面白おかしく表現したところ、本人ではない人から失礼ではないかと叱責された事があるんだけど、その時に思ったのは「ああ、そういう空気感というものが共有されていないんだなぁ」という事だった。
その本人以外の人も写真を撮っていて、その距離感がどうしても”真似”出来ずに、結構好きな写真なんだけど、ひょっとしてそういう距離感とかを自覚していなくて撮影しているのかもと逆にスゲ~才能!と思ったんだけど、その事を「あの距離感イイよね」と言っても誰かと共有出来るわけでもないんだなとまた思うのだ。
この人はなぜここでシャッターを押したのかを考えるのが結構好きで、仮説を立てて、特定の色が反応を引き起こしたのではとか、こういう光の状態でこういう状況だからではとか”検証”して楽しむのだけど、それを本人に確認出来る事はあまりない。
特に口では表現しにくい「こういう光の状態で、こういう場所だと、こういう空気感がここに現われるから、それに魅かれてシャッターを押したのでは」なんて事を言っても撮影した本人にしか確認する事は出来ないので、それ以外の人同士で話すのは困難な事となる。
でも自分で歩いていても、そういう場所に行き当たると、「そうだよなぁ、ここでシャッターを押しちゃうよなぁ」と思ってしまうのだ。
同様にそういう写真を見ると、「そうだよなぁ、ここでシャッターを押しちゃうよなぁ」と思うのだ。
だから個人的には確信を持っているのだけど、それを共有出来ない事も確信している。
そういう”仮定”で見ると、極めて共通する部分が見受けられるのだけどね。
まあ、こんな話をしていても、共有出来ないんだろうなと思うのだけど。

あっ、口絵写真とは関係ない話だから・・・




尾崎町1丁目の街並み 1
大阪府阪南市尾崎町1丁目
撮影 2014年7月12日 土曜日 12時55分
コメント
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