Nonsection Radical

撮影と本の空間

自分の世界

2014年08月06日 | Weblog
Webサイトを見ていたら「写真甲子園」っていう話題(?)が出ていた。
甲子園って焼肉屋の事か?って毒づいたのだが、あれこれつぶやきながら調べたら、高校生の写真コンテストの事らしい。
それで他の事も調べたら、この手の「~甲子園」というのが焼肉屋ではなく結構開催されているらしい。
まあコンテストだから何段階かの審査があるのだけれど、これを勝ち抜き戦と見立てて優勝を争うというのが共通のようだ。
で、ぐちゃぐちゃつぶやいていても仕方がないので、これまでの「優勝校」(学校単位で、おまけに”監督”までいる)の”作品”を見て判断しようと思った。
それでわかったことは、コンテストなのでコンテスト形式の写真が選ばれるという事だ。
コンテスト形式とは、カメラ雑誌とか写真投稿雑誌で選ばれるような形式の写真だ。
これは自分が勝手に言っているわけではなく、昔からこの手のコンテストに選ばれる形式について”論議”されてきた”歴史”があるのだ。
思うに、この手の写真というのは、選ぶ側が求めている形式に沿っている必要があって、そういう閉じた世界で善悪関係なく競い合う(コンテストだから)ものだ。
それを高校生、それも学校単位で行なうのが”甲子園”というわけだ。
でもこれって高校生の芽をつぶしていないのか?
写真とか絵画とか音楽とかいわゆる”表現”ってのは、青臭い事を言えば自由に自分の世界を表わす事じゃないのか?
名のある表現者って、みんな自分の世界を持っていて、それを表現して「こりゃすごいわ」と思わせるものじゃないのか?(青臭いなぁ)
だからその世界って他と違っていて、皆んなには受け入れられはしない世界で、だから特別なんじゃないのかな。
ましてやプロではない高校生(アマチュア)が抱く「自分の世界」なんて、それ自体が本来個性的なのもので、子どもであり大人である、それこそ“青臭い”=魅力的なものじゃないのか。
その「自分の世界」を外へ発信することが、至らなさや欠点や狭さを指摘される事であり、共有する”仲間”を得る事なんじゃないのかな。
だとしたら、出来るだけ枠をはめずに自由に振る舞わせて、「マイワールド」を自覚し悩み生み出すという行程を進ませる方がイイんじゃないのか。
なのに見た感じだと、世間一般の良いとするものを身につけさせる同調圧力が働いて、審査員、開催者好みのものを選ばせる結果になっているようだ。
そして、これがイイと言われる写真なんだと思い込み、写真の世界の選択肢を狭める結果になるんじゃないのか。
むしろ「写真家」と言われるような人の「自分の世界」は、このコンテストで優勝するような世界ではなく、もっと普遍性の”ない”独自のものである。
”プロ”になる必要もないアマチュアであれば、もっと縛りのない自由な発想で、自分の好きなものを、自分の世界観で生み出せばイイんじゃないのかな。
もちろんその「マイワールド」が見る人の”評価”に値するものであるか試されるのは当然の事なんだけど。




築町商店街,賑町商店街
長崎県長崎市築町,賑町
撮影 2014年3月22日 土曜日 14時15分
コメント
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