Nonsection Radical

撮影と本の空間

写真は表面

2014年08月19日 | Weblog
今日もまたワケのわからない事を書こう。
だって頭でまとまっていないけど、なんとなく思った事だから。
以前美術系学生さんの作品を学園祭で観るということを何年もやっていた。
年を経るごとに段々と面白くなくなって来た。
特に油絵、日本画はつまらなくなった。
どうしてだろうと考えたら、まず技法がない。
それで自分の”内面”のグチャグチャモヤモヤを絵にしようと思ってるからじゃないのかと考えた。
そのくせたいした”炎”が自分に燃え上がっているわけでもなさそうで、薄っぺらいものをすくい取ったような絵が出来上がったのではないのかと。
技術がないので余計に安っぽい感じしかしなくて、「何が描きたいんだぁ?」と絵を前にしてコチラが悩んでしまう。
それがあるとき、女子美の蛭田さんという人の絵を観て、すげーなぁと思った。
描いているのは古典的な花鳥風月なんだけど、まず技術がしっかりしていて、古典の基本の中に「遊び」を加えているのが余裕と思える完成度だった。
そして「型」って大事だよねと思ったのだ。
無視するにも、壊すにもまず「型」がわかっていて、それを身につけている事が必要なんだろうと。
「型」には基本が込められているし。
彼女も他の同年代と同じような時代の感情も持っているだろうし、グチャモヤの気持ちもあるだろう。
でも「型」を取り込んだ事で、それをうまく”表現”にする事が出来たんじゃないのかな。
カタチに出来る事って大切だし。

で、写真なんだけど・・・(苦笑)
写真って多くは目に見えたものを写し取っているわけだけど、そこに”心象写真”なんていうことにはまる年頃ってあるじゃないですが、でも心象も心霊と同じで写りはしないんだよね、心にあるだけで。
ウツウツした気持ちで目の前にあるものを撮影しても、そういう気持ちで撮影したというだけで、見たものしか写っていない。
写真は表面しか写し出さないからね。
見たものしか写らない。
見たようにもなかなか写らない(笑)。
そこで手助けになるものが「型」なんじゃないのかな。
技法というかね。
自分の思うように撮影出来る技法を身につけてからがスタートなのかもしれない。
だって技法を見せるんじゃなくて、それを使った写真を撮るのを目的なんだから。
自分が何を見ているのか、そして何を見ていないのか。
なぜそんなものばかり目につくのか。
他にも見るものがあるのではないのか。
そんな事を考えておかないと、ありふれた自分の、ありふれた目についたものだけを、ありふれたように撮影する事になるんじゃないのかな。
そんな「マイワールド」を誰かに見せるとしたら、はたして興味を持ってもらえるのだろうか。
そんなに自分って面白い?
自分が見た世の中って興味を持ってもらえるように写っている?
そういう事を”考えてから”写真を撮らないとイケナイなぁと思った次第である。
ワケのわからない話でスマンですが。




大開通り 4
兵庫県豊岡市中央町
撮影 2014年8月2日 土曜日 10時45分
コメント
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