ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




からす、麻雀童夢。中央区日本橋本町3-3(現3-4)。1988(昭和63)年7月31日

写真の銅板貼り看板建築は江戸通りの1本南の裏通りにあった。平成3年に「えびす通り」という愛称がついたが、その裏通りを東(写真右奥)へ、昭和通りを越えたところにべったら市で有名な宝田恵比寿神社がある。
建物の詳細は分からないが、居酒屋と麻雀屋が入る前はこの辺りに多い製薬会社が入っていたようだ。からすの後ろは「富久山呉服店」。現在は鳥居薬品㈱の「トリイ日本橋ビル」(1990年4月築、10階地下2階)が建っている。



左:小林製薬東京支店。日本橋本町2-5(現2-3)。1987(昭和62)年1月25日
右:理容くぼた。日本橋本町4-1(現4-8)。2007(平成19)年6月26日

左写真は昭和通りの本町二丁目交差点の1本北の横町を西へ入ったところ。写真右が昭和通りの方向で、建物は左から「茶ノ木屋ビル、小林製薬㈱東京支店(2棟)、日本シエーリング㈱東京センター」。写真中央のビルが戦前に建てられたものかと思える。小林製薬では倉庫として使っていたらしい。昭和30年頃の火保図では「関東化学KK」。現在は「江戸ビル」(1990年8月築、9階建)に替わった。
右写真はわりと最近のものなので写っている建物は現在も変わらない。昭和22年の航空写真から空襲の被害をまぬがれた地区と分かるので、古そうな3軒の家は戦前からのものと思える。その写真では3軒の独立した建物に見える。理容くぼた(久保田)は昭和7年の火保図に「床ヤ」とある店が続いているのだろう。理容くぼたのファサードはきれいに改修されているが、元の形を残しているのだろうか? 写真左の2階建ての家は1979年の地図では「寿司さくら」。

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若竹。中央区日本橋本町2-1(現2-5)
1987(昭和62)年1月25日

昭和通りの本町二丁目交差点付近の裏の路地にあったタイル貼りの看板建築と出桁造りのそば屋。戦前の建物のように見える。1986年の住宅地図では、看板建築の家は空白(空家?)で、手元の地図では1969年の地図に「加藤製作所」とある。右のビルは「共同ビル本町二丁目」。
昭和30年頃の火保図に「杉村」と「竹内 若竹そば」で載っていて、昭和7年の火保図でも「杉村、ソバヤ」なので、若竹は戦前からあった店かもしれない。
現在、日本橋本町2-5の街区は再開発されて「アステラス製薬」の本社ビルだけが建っている。アステラス製薬は2005年に「山之内製薬」と「藤沢薬品工業」が合併して発足した会社。本社ビルは「日本橋アステラス三井ビルディング」といい、2013年1月竣工、17階地下2階。4階から上はアステラス製薬が使っている。再開発前は写真の2棟は「タケウチビル」という5・6階建てのビルになっていた(2010年のストリートビューから)。



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まるたか。中央区日本橋本町1-3
1987(昭和62)年1月25日

昭和通りの、江戸橋から北へ少し行ったところの路地を入ったところで、写真の小料理屋の建物はとんかつの「かつ平」の店になって、あまり変わらない姿で残っている。「まるたか」は昭和20年代の火保図にすでに出ているので、戦後まもなく開店した店かと思われる。その地図ではまるたかの向かいは「本町湯」。昭和7年の火保図では、その銭湯が「甲子湯」で、その横(写真手前右)に「魚河岸シネマ」がある。
建物もすでにないだろうと思っていたので、「まるたか」をネット検索したらいくつものサイトが出てきたのには驚いた。今はどうやら、伝説の店となったようだ。
戸 板 康 二 と 歩 く 東 京>#001 日本橋「まるたか」跡でとんかつを食べる』には、「久保田万太郎の行きつけで」、安藤鶴夫『ある日・その人』(婦人画報社、昭和37年4月)に記述があるそうで、宮田重雄による店の挿絵が転載されている。『東京うまい店二〇〇店』(奥野信太郎・狩野近雄・寺下辰夫・山本直文編、柴田書店、昭和38年)の記事が紹介されていて、それには「戦争前は蛎殻町でやっていたが、ここ十年、今の店。夫婦二人、お客もせいぜい十四、五人。……久保田万太郎御推称で、芝居の人、銀行の人が多い。……カウンター七席、テーブル四人がけ二脚」とある。

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東光地所。中央区日本橋本町1-1
左:1988(昭和63)年4月24日、右:1987(昭和62)年1月25日

左写真左端の白いビルが、昭和通りの江戸橋北交差点の北東の角にあった「東京都商工信用金庫別館」、写真中央のビルが東光地所、路地があって右のビルが「共同ビル新日本橋」。
現在は写真に写っているビルとその裏手の木造の建物10数棟がまとめられて、「METLIFE日本橋本町ビル」(2003年4月築、12階地下1建)というオフィスビルに替わった。写真右手前の、地下への入口は昭和通りの地下の駐車場への出入り口だが、これも造り直されている。
4階建て(屋上にプレハブ風の増築部分を乗せている)の古いビルは戦前に建てられたものと思える。正面のなんの装飾もない平面的なファサードではなんともいえないが、側面には窓の上下に水平に伸びた張り出しがある。
昭和20年代の火保図では「東光證券」であり、1979年の地図でも「東光證券ビル」で載っている。東光地所はその後継会社なのだろうか。床屋の看板はビルの後方で営業していた「理容松井」。



岩見、丸中運輸。日本橋本町1-1。1987(昭和62)年1月25日

昭和通りの1本西の裏通り。右奥で左へ曲がると江戸橋北交差点。「METLIFE日本橋本町ビル」に取り込まれた街並みだ。写真左から、東洋会館、一心、-、岩見(白鶴の看板)、丸中運輸(2階は木村金属工業KK)、-、田中ビル(照明ショップ、協和観光株式会社)、安須万(剣菱の看板)、伊藤製作所。昭和20年代の火保図に「岩見のみや」「木村新金属材料」が載っている。

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Y邸。文京区西片2-12。2007(平成19)年2月24日

中村邸の裏手、平野家住宅と同じ通りにあった家。白い壁がきれいで、最近の住宅に見えないこともない。気を付けてみると、1階裾の壁と塀にスクラッチタイルが使われている。昭和初期に流行った壁材である。さらに、手前に張り出している部分の2階の窓がステンドグラスだ。戦前に建った洋館ではないかと推定できる根拠になる。
2010年頃に取り壊されて時間貸駐車場(ナビパーク西片第一、6台)になってしまった。



Y邸。2009年11月撮影のストリートビューより

西片町会>平野邸』によると、前の道路は「……昔、「桑の小路通り」と呼ばれていた。明治20年ごろまで西片町で養蚕事業が行われており、この辺りが桑畑の中心だったことに由来している。以前は桑の木が町の中のそこここに残っていた」という。Y邸横の路地は、同サイトの「昔の町内地図>大正」に記載がある路地だろう。

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