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ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




左:山之内印刷。中央区築地6-6。1987(昭和62)年5月24日
右:君野商店。築地6-6。1988(昭和63)年10月9日

居留地中央通りの西の裏通りで、正面突き当りにカジカワ理髪店が見える。この裏通りは今もあまり変化していない。左写真右にちょっと写っている飯野医院が建て替わったのと、奥の左に13階建86戸のマンションが建ったくらいで、戦前からの住居や長屋、銭湯までがまとまって残っている。
角の三階建てに見える家が山之内印刷。そのHPには1939(昭和14)年の創業とあり、工場は江東区冬木にあり、写真の建物は登記上の本社だ。
君野商店とした家は、左写真の山之内印刷の後ろの家。今は「フラワー教室ふれんど」の看板が出ている。



山之内印刷、麦飯石センター。築地6-6。2004(平成16)年11月1日



理容柏木。築地6-2。1991(平成3)年5月5日。君野商店の斜向かい。『入船湯』の1枚目写真の左半分の部分。看板建築の五軒長屋らしい。

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築地食料販売。中央区築地6-6。2002(平成14)年3月頃

前の通りは「居留地中央通り」で、ササヤ化粧品店の北のブロック。写真左の三階建てのビルのような家は住宅として使っているらしい。洋館とは言いにくいが、ちょっとした飾りまでつけて洋風の外観にした、仕事場兼住宅として建てられたものだろう『都市徘徊blog>築地6丁目の木造3階建て(2013.12.11)』、2013年10月に解体された。2000年の住宅地図では「ささや」とあるそうだが、1979の住宅地図では「築地食料販売㈱」とあり、1階を近所の店の倉庫として貸していたようである。現在は「シルト築地」(2014年7月築、4階建て)の小さな賃貸オフィスに建て替わった。
写真中央の銅板張り看板建築から右端の横瀬肉店までの建物は今も残っている。銅板張りの家は米屋だが、その右の「築地食糧販売」なのだろうか? 昭和25年頃の火保図では「折原ハキモノ〈履物〉」。
その右は2軒を「築地食料販売㈱」が使っている。現在の看板には「創業安政三年」とある。『中央区>近代建築物調査>築地食料販売』には、「安政3年(1856)創業の「槝米屋」であり、築地の武家地の中に商人地があったことを伝えている」とあるから、創業以来この地で続いているらしい。瓦屋根の見える日本家屋だと思うが、建築年を昭和10年代としている。

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ササヤ化粧品店。中央区築地6-5。1990(平成2)年4月7日

写真の通りは晴海通りの築地六丁目交差点から北へ入る通りで、平成25年とごく最近だが「居留地中央通り」という愛称がついた。その通りに入って100mほどのところ。屋根の反った日本家屋の壁を銅板張りにしたような変わった家は、現在は8階建ての細長いビルに替わった。その右の2軒がまだ残っている。
「マルキ/丸ナガイ倉庫」と「三井歯科クリニック」の看板が出ている家は昔の地図では、1980年代では「キッチンスズキ」、それ以前では「武井印舗」。その右は「落合板金加工所」。現在は「居酒屋中華つりきち」になっている。その右の「ササヤ化粧品店」が建物も商売もそのまま続いている。写真の袖看板では「さヽや」の表示。この銅板張り看板建築は横が三軒長屋である。下の写真の「魚秀商店」が同じ建物だ。



魚秀商店。築地6-5。1988(昭和63)年10月9日

ササヤ化粧品店の角を曲がった横丁。魚秀商店はササヤと同じ建物で、その右へしもた屋が並んでいる。写真中央右手の白いモルタル壁の家と右奥へ行った看板建築が残っているようだが、だいたいは普通の住宅に建て替わっている。

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海老新倉庫。中央区築地6-3。1988(昭和63)年10月9日

晴海通りの1本北の裏通り。撮影後30年が経つが、築地6丁目3番地は不思議と戦前のままの家が今でもまとめて残っていて、写真に写っている家も全部が残っている。写真右へいくと銭湯だった入船湯の建物までが残っている。
角から左へ看板建築の三軒長屋で、角は海老新の倉庫、中央の家は今は「とうがらし」という焼肉の店。次は二軒長屋で、右のほうが昭和25年頃の火保図では「テーラー米山」。次の白い看板建築は「安藤板金工業所」。クリーニングの看板は「美洗舎」で今も営業中。左端が横丁との角で、下の写真がその横丁。



いしい、石川時計店。築地6-3。1988(昭和63)年10月9日

写真右の看板建築の三軒長屋の横が1枚目写真の裏通りになり、写真右奥にいくと晴海通りに出る。この家並みもやはり残っている。右の三軒長屋は、右から、昭和25年頃の火保図に「林ゴムグツ店」となっている家。「谷川時計店」は同地図にもあり、今でも続いている。次が天ぷらの「いしい」。昭和25年頃の火保図では「石井竹加工」で、魚市場への買い出しに持っていく竹籠だろうか?
写真左は銅板張り看板建築の三軒長屋。今は鉄板に張り替えられてしまった。右の三軒長屋との間の路地は入船湯の横を通って裏通りへ抜ける。

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海老新。中央区築地6-5。1988(昭和63)年10月9日

築地本願寺の裏手の築地川南支流(現在は駐車場)の河岸の道路と、築地市場の東門(海幸橋)から北へ出ている通りとの間の裏通り。写真正面奥の家の裏が晴海通り、写真右手前の木は銭湯・入船湯のもの。写真左手の白いモルタル壁の家が1986年の住宅地図では「海老新」、築地市場関連の卸商だろう。昭和25年頃の火保図にも記載がある。築地6・7丁目は空襲の被害を免れた地域だから、古く見える木造家屋は戦前からある家とみてもいい。
現在、海老新だった家は「モア・クレスト築地」(1999年7月築、13階建86戸)という賃貸マンションに替わっている。


カジカワ理髪店。築地6-4
1987(昭和62)年5月24日

1枚目写真正面奥の銅板張りの看板建築。『ダルマ薬局、他』に斜めに撮った写真を載せているが、建物は二軒長屋。昭和25年頃の火保図に「梶川床ヤ」と出ている。
現在は正面が晴海通りに向いた11階建ての「北國新聞東京会館」(北國新聞東京支社)のビルに替わっている。

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長谷観音前交差点と三橋。神奈川県鎌倉市長谷2-13
2010(平成22)年5月14日
左の地図は『鎌倉市及近傍明細地図』(有限会社横須賀書籍共立社、昭和16年8月10日発行、部分)

由比ヶ浜大通りの西端、長谷観音前交差点に小さな橋が架かっている。鎌倉らしい和風の意匠で2本の親柱にそれぞれ「三橋(みつはし?)」「大正十五年四月成」と彫られている。関東大震災の復興期に架けられた橋だが、当時のままではなく、記念碑のように残されたものかもしれない。川はごく細いもので下水溝のように見えるが「稲瀬川」という万葉集にも歌われ、吾妻鑑にも出てくるという由緒ある川である。住宅街を曲流して由比ヶ浜に注ぐ。
上左写真では橋があるようには見えない。大仏記念煎餅の「恵比寿屋」の左手の電柱の左下が「三橋」の親柱で、欄干は工事用の看板で隠れてしまっている。
稲瀬川が姿を現すのは長谷観音前交差点の南側からで、その上流は埋められるか側溝か下水管に替わるかして、流路は地形から推定するしかない。ただ、交差点の北に「鎌倉ジェラート」という店があるが、この店の建物の形から店の裏を川が流れていたと分かる。水面が表れている部分もあるようだ。
三橋から下流は狭い堀川に成形されてはいるが、流路の曲がり具合や、戦前に架けられた橋が残されていることで、昔の流路のままの状態が残っているのだと思う。『鎌倉市及近傍明細地図』(昭和16年)の記載とも割と一致する。



左:三橋の下流(奥が上流、手前で東へ曲がる)。中:新宿橋上流側。
右:新宿橋(しんじゅくばし)。新宿橋は江ノ電長谷駅のすぐ東の踏切のすぐ北にある。平成5年3月に架けなおされたが旧親柱が1基残されている。



左:栄橋の上流。中・右:栄橋。由比ヶ浜大通りと国道134号を結んでいる路地に架かる橋。江ノ電の線路を南へ超えたところ。親柱の一つに「昭和三年十月」と彫られている。




左:下流の三橋から上流を見る。右:下流の三橋。長谷観音前交差点の橋と同名の橋がある。かってに「下流の」を冠して区別した。この橋の下流は国道134号に架かる「美奈能瀬橋」で、国道の海岸側に大正12年建立の「稲瀬川」の石碑が立っている。

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神奈川県立近代美術館。神奈川県鎌倉市雪ノ下2-1。2010(平成22)年5月14日

鶴岡八幡宮の境内に建つ神奈川県立近代美術館鎌倉館は1951(昭和26)年11月に完成した。戦後間もない時期で、ぼくが小学2年の時だ。人に聞いたのか新聞を見たのか、何度か行った鶴岡八幡宮に新しい美術館が建ったという認識をもったように憶えている。
日本を代表する建築家であった坂倉準三の設計である。とはいえ実はぼくはピンとこないので急遽『ウィキペディア』などを参照してみた。坂倉準三(1901-1969)はル・コルビュジエに師事し、モダニズム建築を実践した建築家だ。ぼくにもなじみの作品には、「岡本太郎邸」(現・岡本太郎記念館、1953年)、渋谷の「東急文化会館」(1956年、2003年閉館)、六本木の「国際文化会館」(1955年)、横浜の大桟橋入り口の「シルクセンター国際貿易観光会館」(1959年)、「新宿駅西口広場」(1966年)など、いくつもあった。
土地の賃貸契約が切れる2016年1月31日で美術館は閉館した。建物は鶴岡八幡宮に譲渡されたので、今後は八幡宮が耐震補強工事をおこなって、なにかに使うことになるのだろうか? とりあえずは残ることになりそうである。世界文化遺産の国立西洋美術館と同等に扱っていい建物だと思う。





閉館して5か月がたった神奈川県立近美術館。2016(平成28)年6月29日

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大仏坂体育館。鎌倉市長谷4-6。2011(平成23)年11月29日

写真の体育館だった建物は江ノ電の長谷駅からだと鎌倉大仏の少し先、県道の大仏トンネルの手前にある。元々は神奈川県水道局が設置したポンプ場として建てられたもの。単純な立方体の建物で、昭和初期に建てられたRC造の、ポンプを収めた平屋の建物らしい。スクラッチタイル張りの壁に縦長窓を並べただけだが、その渋い外観に引かれる。玄関の庇部分にアールデコ風の味付けをしている。
1965(昭和40)年で役目を終えて後、鎌倉市が神奈川県から借りて、体育館に改装した。その際、外観はなるべくいじらないような配慮をしたのかもしれな。その体育館も2002年3月で閉館になり、建物は県に返還された。神奈川県の水道事業は市町村ではなく県の企業庁という部門が行っている。旧ポンプ場の建物をどうしようというプランはないようである。



大仏坂体育館。2011(昭和23)年11月29日

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