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ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




高橋梱包資材。台東区鳥越1-20。1989(平成1)年1月29日

鳥越おかず横町の裏の通りにあった仕舞屋の2棟。写真左の家は最近、居酒屋に改装して使っている。右の家は2003年撮影の写真ではすでに住宅に建て替わっている。「高橋梱包資材」というのはその家に架かっている表札で、撮影時はなんだったか知らない。前面1・2階の上の壁が漆喰のようで、町屋の造りとしては珍しいかもしれない。家の幅いっぱいにとったベランダと木製の手すりが目を引く。


ビーバー。鳥越1-19
1988(昭和63)年12月31日

1枚目写真と同じ通りでひとつ東のブロック。写っている建物は不思議と今も変わらない。手前の銅板貼り看板建築の家は「ビーバー」という居酒屋で、路地との角にあるので建物の横も見せている。現在は住宅に改装されたが銅板の正面は残されている。隣はモルタル仕上げの看板建築の二軒長屋。現在、手前のほうが住宅に改装されて正面の壁も改修されている。楕円形の袖看板はなんだったのだろう? もう一方のほうは1階を車庫にしたので引き戸はシャッターに替えてしまっている。

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上:台東デザイナーズビレッジ。台東区小島2-9
2011(平成23)年12月18日
左:区立小島小学校。1992(平成4)年6月6日

区立小島小学校は、2003(平成15)年4月に、精華小学校(蔵前4-19)と済美小学校(寿1-10)とで統合されて蔵前小学校となり、実質、廃止された。校舎は取り壊されることなく、内部を改修して、2004年4月に「台東デザイナーズビレッジ」として運営されることになった。「ファッション関連ビジネス分野での起業を目指すデザイナーを支援する施設」である。現在は早稲田大学の研究室と東京芸術大学のアトリエも入居していて、それらを含めて「小島アートプラザ」というらしい。校庭は時間貸し駐車場にしている。
小島小学校の歴史はネットでは判らない。蔵前小学校のHPに更新が終わった小島小のHPをそのまま置いておけばいいわけだから特に面倒なこともないと思うが……。
校舎は『日本近代建築総覧』では、「区立小島小学校(旧東京市小島尋常小学校)、建築年=昭和3年、構造=RC3階建、設計=東京市、施工=藤本清次郎、備考=インターナショナルスタイル。塔屋付「東京市教育施設復興図集」による」。同書によると、台東区にある清島小学校二長町小学校柳北小学校、台東小学校が藤本清次郎による施工だ。関係あるのかどうか分からないが竹町小学校は藤本組。
建物の特徴はまず、南側の先端の半円の平面とその上の円筒形の塔屋。そして窓の間の半円に突き出た柱、軒に二重にめぐらした筒状の帯。他の復興小学校ではあまり見ない特徴ではないかと思う。


台東デザイナーズビレッジ。2011(平成23)年12月18日

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上:鈴木寝具、左:民家。台東区小島2-7
1992(平成4)年6月6日

中華料理の幸楽の横を入ったところ。藤棚がある角の家は、1966年の住宅地図に「鈴木寝具」、1986年のに「鈴木フトン」となっている。見たところとても小売りの布団屋とは見えず、打ち直しなどの作業、あるいは寝具の製造をしている(していた)作業所かもしれない。家の正面に1階の庇をやぶって木が生えている。相当邪魔になるはずだが、家の人は植物が大好きなのだろうと、家廻りの植生からも分かる。
2003年に撮った写真では、正面の木と藤がなくなり、鉢植えもだいぶ整理されて、代わりにねこ車が5台置かれている。家の持ち主が変わったらしい。現在は、ストリートビューで見ると、隣のしもた屋とともに取り壊されて、駐車場と車庫に替わっている。

2枚目写真は鈴木寝具から右へ3軒目の出桁造りの家。1階左側を洋風に造っていて、そこを事務所に使っていたのかもしれない。写真右の看板建築は「寺島製缶工業」。
現在は、ストリートビューで見ると、寺島製缶は取り壊されていて、駐車場になっている。



左:土屋商店、右:前田紙器製作所。小島2-7。2003(平成15)年11月16日

土屋商店の銅板貼り看板建築は、鈴木寝具の横を行ったところ。蔵前小学校通りの北の裏通りだ。ネットでは「文具・事務用品製造・卸」とある。銅板張りの外観は波板に貼りなおされたが建物は健在。
前田紙器製作所は土屋商店の裏手、小島公園の向かい側だ。現在は小さなマンション(新御徒町駅前プラザ、2005年1月築、4階建12戸)に建て替わった。前田紙器の先の「斎藤機械工業」「吉田箔押所」の2棟の看板建築は残っている。

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甲州屋(日本蕎麦)。台東区小島2-2。1988(昭和63)年12月31日

前の通りは清洲橋通りと春日通りの間の東西の通り。最近、「蔵前小学校通り」の愛称が付けられた。写真の家並みは今もほとんど変わらない。昭和初年に建てられたと思われる三軒長屋、看板建築の二軒長屋、甲州屋の日本家屋、と並んでいる。



幸楽、丸ほ電気。小島2-1。2003(平成15)年11月16日

1枚目の右端のビルの右は横町がはいっていて、その向かいが中華の幸楽。かなり古い看板建築だが、たぶん戦後のものだ。昔の航空写真を見ると、幸楽の横の道路が空襲で焼失した地区と焼けずに残った地区の境になったようだ。昭和22年の航空写真にはすでに家が建っている。あるいはそれかもしれない。
見たところいつ閉店しても不思議ではない外観だが、ネットの情報ではかなり人気の店らしい。歩道にテーブルが出ているが、昼食時には常時利用されるという。看板など書き直している暇がないのかもしれない。

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請負山田。台東区小島1-7。1988(昭和63)年12月31日

清洲橋通りの佐竹通り南口交差点から少し北の裏通り。写真の家並みは今も変わらない。写真中央はモルタル仕上げの洋風看板建築。文字のレリーフで受けられる工事の種類が書かれている。つまり「請負山田、各工事一式、コンクリート、鉄筋鉄網、煉瓦工事、化粧タイル張、人造塗、左官職」。開口部が引き戸なので和風の家を洋風の枠で囲った感じだ。
写真左の家は撮影時の住宅地図では「木村熊次郎商店」。建物の裾に神社で見るような石張りの壁が見られる。さらにその左は銅板貼りの看板建築が仕舞屋で残っている。



伊藤製作所、フミモト口金製作所。小島1-7。2003(平成15)年11月16日

請負山田の裏側になる通り。看板建築の家が5棟かたまって残っている。家の前に鉢植えを置いているのは商売をやめた家ではないかと思う。この辺りは看板建築の商店建築であっても、家内工業所が多いようだ。

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サイトウ理髪店。台東区鳥越1-26。2005(平成17)年4月8日

鳥越のおかず横町の北、蔵前橋通りからの横町と清洲橋通りからの横町との四つ角。サイトウ理髪店の建物は切り妻屋根の家を看板建築にしたもの。戦後に建てられたような感じだ。鳥越2丁目は空襲で焼失した区域だが、1丁目は被害を免れて、いまだに関東大震災後に建てられた商家や長屋が残っているという一般の認識だが、サイトウ理髪店の一角は空襲の被害の境界線上にあったようだ。
下の写真は上写真の右の横町を入って振り返ったところ。手前の2軒は二軒長屋かもしれない。最近、建て替わってしまったようだ。床屋の左、四つ角に面した古そうな家は「渡辺紙器」の表札がある三軒長屋の建物。


2003(平成15)年11月16日

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馬場歯科医院。台東区鳥越1-24。1987(昭和62)年6月7日

鳥越のおかず横町の中心辺りを北へ行ったところ。写真では看板建築の二軒長屋が3棟ほど並んでいるように見える。それがGoogle古地図の昭和22年の航空写真では1棟の六軒長屋に見える。現在は「クレストサカガミ」(1999年10月築、7階建て)というマンションに建て替わっている。
写真手前の角が馬場歯科医院。『下町残照』(村岡秀男、朝日新聞社、1988年、1500円)に昭和62年4月に撮影した写真と、馬場医師に取材した記事が載っている。治療中の写真もあって、上の写真を撮ったときも開業していただろう。昭和7年の開業だから昭和62年では馬場氏は75歳くらいかと思われる。
驚いたのは、開業時の施設がそのまま使われていることだ。椅子が95円、日立の機械が380円したそうだが、歯科医院の施設はなるべくなら新しいものが望ましいと誰もが思うのではないか。どんなに便利な道具ができても、使い慣れた道具を離さない人はどこにでもいる、ということなのだろう。とにかく『下町残照』にある診療室の写真は歴史博物館の特設コーナーをみるような感じである。そこに、2つの棚に、拳から頭くらいの大きさの石がごろごろと積まれているのが写っている。趣味のコレクションなのだろうか?



鳥越バーバー。1989(平成1)年2月12日

馬場歯科医院の二軒長屋の片方は「鳥越バーバー」。これも『下町残照』に取り上げられている。昭和4年に月島から移ってきたという。洋風のレリーフを施した黒い壁板などの内部は当時のまま。現在、18番地に同名の店があるから、そこへ移ったのだろう。

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小黒商店、大宮モータース。台東区鳥越1-22。1989(平成1)年2月12日

写真左の家は清洲橋通りの佐竹通り南口交差点付近の裏通りにあった商家。出桁造りで、2階の前面をベランダにして木の手すりをめぐらしている。2階両端にある雨戸の戸袋は銅板貼り。1階の引戸を除いて白っぽくペンキで塗られていて、一見、洋風にも見えてしまう。現在は住宅に建て替えられている。
写真右の大宮モータースの家は今も残っているが、看板は外していて商売はやめたらしい。


浅井商店。鳥越1-24。1989(平成1)年2月12日

小黒商店の向かいの路地を入ったところ。銅板貼り看板建築の四軒長屋だ。元は五軒長屋だったと思われる。浅井商店の看板の店は駄菓子屋だろうか? 長屋の建物は手前の3軒が残っている。浅井商店は廃業したが壁の看板がさび付いたまま残っている。

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典文堂、梓屋、誠屋商店。中央区築地6-26。1988(昭和63)年10月9日

晴海通りの、かつて築地川に架かっていた門跡橋のすぐ東を南に入ったところ。滝沢商店の向かいで、写真の家並みの裏は、かつて築地川南支流だった。埋め立て後は駐車場になっていたが、現在は築地市場の豊洲移転に伴い、場内の仲卸業者を収容するための「築地魚河岸」の「小田原橋施設」を建設中だ。
写真の建物は店が変わった家もあるが今も健在。左から、宮崎ビル工事現場(下の写真では竣工している)、典文堂印刷所、梓屋と誠屋商店の長屋風建物、栄屋油店となか村の看板建築、太源ビル。


なか村、栄屋油店。築地6-26。1991(平成3)年5月5日


宮崎家。築地6-26。1986(昭和61)年6月

宮崎ビルに替わる前の、ほぼ総3階建ての民家。築地市場の関係者の住宅と思われるが、事務所も兼ねたものかもしれない。2階のバルコニーの手すりが凝ったものだ。昭和10年頃の火保図にすでに「宮崎」と記載がある。

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左:滝沢商店・和田商店、右:海老豊商店。中央区築地6-24。1991(平成3)年5月5日

晴海通りの、かつて築地川に架かっていた門跡橋のすぐ東を南に入ったところ。この横町には築地場外が形成された昭和初期に建てられた商店建築がまだ何棟も残っている。滝沢商店・和田商店の建物は銅板貼りの看板建築で、デザインはよく目にするものだ。建物は残っているが、最近「築地すし鮑(すしほう)」という海鮮丼の店に替わった。
海老豊商店は滝沢酒店から3軒先の並び。モルタル塗の看板建築だが戸袋は銅板貼り。海老豊はネット検索では出てこないので廃業したかもしれない。建物の右はガラス戸の文字から「内長商店」らしいが、現在は飲食店。


高伸、オカベ。築地6-22。1991(平成3)年5月5日

晴海通りの裏通り、カットハウス松原の向かいにあった3棟の看板建築。1986年の地図では左から「古川電機(上の看板は「ユアサバッテリ/㈱古川電機工業所」、オカベ、空家(1979年の地図では、クリーニングの「高柳商店」)」。
現在は「カルナ築地」(2004年7月竣工、10階建て16戸)という賃貸マンションに建て替わっている。

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