ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




横浜松坂屋西館(現エクセル伊勢佐木)。神奈川県横浜市中区伊勢佐木町1-7
左:1988(昭和63)年8月6日、右:2002(平成14)年1月14日

『日本近代建築総覧』には「松屋横浜店(旧越前屋)、建築年=1931(昭和6)年、構造=SRC7階建て地下1階、設計・施工=大林組」となっている。
松屋横浜店は昭和53年に撤退し、横浜松坂屋が買収して西館として使っていた。2000(平成12)年にJRAが借り受けて「エクセル伊勢佐木」という会員制の場外馬券売り場になっている。そのとき、耐震補強工事が行われ、現在は窓の内側にX形の筋交が外から見える。
西洋の古典様式を下敷きにしたような、やたら生真面目な感じの外観のデザインはアメリカンオフィス様式といえるようなものだ。日本ではデパートに多く採用された。銀座の松屋デパートとよく似ている。竣工時(1925年)の松屋銀座店の写真は 『関根要太郎@はこだて>東京・銀座の松屋デパート』に多く載っている。横浜店の建物は越前屋百貨店(松屋が買収したときは「壽百貨店」だったらしい)として建ったもののようだから、両者が似ているのは偶然というより、デパート建築の典型なのだろう。

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横浜松坂屋本館。神奈川県横浜市伊勢佐木町1
左:1988(昭和63)年8月6日、右:2003(平成15)年2月8日

『日本近代建築総覧』では「松坂屋横浜店(旧野沢屋)、建築年=昭和9年、構造=SRC7階建て地下1階、設計=鈴木禎次、施工=竹中工務店、昭和12年増築」という建物。かつては横浜随一の繁華街、伊勢佐木町にあった老舗デパート。元の建物は出浦高介の設計で大正10年に建ったものという。
『ヨコハマ経済新聞(2008.10.17)』によると、横浜松坂屋は野澤屋呉服店が1910(明治43)年に支店として百貨店を伊勢佐木町1丁目に開店したのが始まり。茂木惣兵衛が創業した野澤屋は生糸を中心に銀行、不動産などの事業を展開して、明治期には原家と並ぶ財閥だった。横浜大空襲を免れたビルは、戦後進駐軍に接収されるが、昭和28年に2階以上が、30年に全館が接収解除された。昭和49年に「株式会社ノザワ松坂屋」に、52年に「横浜松坂屋」に改称した。平成15年(2003)年には松坂屋の完全子会社となる。ただし松坂屋の支配はゆるくて、かなり独自の経営が続いたようである。
建物は2004(平成16)年に横浜市によって横浜歴史的建造物に認定された。外観の特徴は既サイトの引用だが「全面が白い四丁掛のタイルで覆われ、かつ要所にきわめて濃密な意匠を施されたテラコッタが配されていることである。その意匠はわが国のアール・デコの代表例とも見なしうる」「外観の主部分は昭和9年に形づくられたものと見なされ」「創建時の設計者は出浦高介であるが、昭和4年、9年、12年の増改築の設計者はいずれも鈴木禎次(1870−1941)であり、(中略)横浜松坂屋は彼の晩年の大作であり、彼の代表作品である」(「横浜歴史的建造物」に認定された時の横国大・吉田教授の意見)ということだ。


1988(昭和63)年8月6日

横浜松坂屋は2008年10月26日をもって閉店した。歴史的建造物に指定した横浜市はあわてたらしい。客がこないのではしかたないだろう。高層ビルに建て替える計画もあったようだが、リーマンショックで立ち消えになった。ネットの情報では跡地に2012年2月8日、「カトレヤプラザ伊勢佐木」というショッピングセンターがオープンした。外観の一部や内部のエレベーターの階数表示機、エスカレーター横の装飾なども再現されているという。

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片倉倉庫。江東区福住2-3。2003(平成15)年5月4日

写真右奥に首都高速(9号深川線)が通っている。昔はここに油掘川が流れていた。『川の地図辞典 江戸・東京/23区編』(菅原健二著、之潮(コレジオ)、2007年、3800円)によると、油掘川は寛永6(1629)年に開削されて近年まで木場の材木輸送などに使われていた。木場が新木場に移転したのに合わせて、昭和50年から51年にかけて埋め立てられた。
福住2丁目は倉庫が立ち並んでいたところだ。写真の片倉倉庫はビル式のわりと新しいものだが、すでになくなっている。跡地はファミリーマートと駐車場。



東洋ケミカルズ福住倉庫。福住2-2。2003(平成15)年5月4日

手前の川は大島川西枝川。写真右手のビルは「桜井グラフィックシステムズ」という印刷機械の会社の本社。倉庫の後ろに片倉倉庫が写っている。
『goo地図>昭和22年航空写真』では、倉庫の場所は焼け跡のようだ。戦後に建て直されたものなのだろう。「東洋ケミカルズ」のHPの沿革に「1949(昭和24)年11月、東京都中央区日本橋本町4-9に本社社屋及び江東区福住に倉庫を新築」とあった。現在は「ドミールガーデン清澄白河」(2005年3月竣工)という3階建てのマンションに建て替わっている。


東洋ケミカルズ福住倉庫。2003(平成15)年5月4日

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クリーニング明光。江東区福住1-3。1992(平成4)年3月20日

葛西橋通りから北へ入った三叉路の辺りで、写真左のビルがその角に建っている。空襲で焼失しなかった地区ではよく見かける看板建築の商店長屋である。「Mito」は喫茶店かと思ったが、ドアの右の字を読んでみたら「デザインパーマ&カットハウス」だった。現在は取り壊されて駐車場になっている。

下の写真の民家は明光の長屋のはす向かいで、建物は今もある。黒く塗った門に「福住剣友会」の看板が架かっている。奥に平屋の建物が写っているが、道場なのだろうか。『福住剣友会』によると、昭和27年に創設された歴史のある道場で、今までに千人からの門人を排出したという。野球の松坂大輔は5歳で入門、小3のときに第一回赤胴大会で優勝したそうだ。
現在の地図では「㈱和塾」と記されていて、建物も新築かと見えるほどにきれいに修復されている。


福住剣友会。福住1-13。1992(平成4)年3月20日

写真の辺りから近い葛西橋通りの南側は、1931年まで深川黒江町で、伊能忠敬が住んでいたところ。『改定東京風土図 城北・城東編』(サンケイ新聞社編、社会思想社―教養文庫、昭和41年)には「佐賀町のつぎの都電停留所、永代二丁目付近は、昭和のはじめまで、魚貝市場が夕方だけ開かれて黒江町の夕河岸(ゆうがし)と呼ばれて、生きのいいシャコやカニを売っていた。」とある。また、伊能忠敬のほかにも新井白石が佐賀町に、間宮林蔵が永代一丁目に、書家の三井親和、画家の英一蝶(はなぶさいっちょう)などは福住町に住んでいた、ともある。
「黒江町の夕河岸」というのはかなり言い習わせた言葉らしく、『有峰書店新社ARIMINE>永代二丁目交差点、幻の「夕河岸」の痕跡を追う』というサイトがある。タイトル通りの内容で、そこに大震災前の魚貝市場をとらえた写真が『深川区史』から転載されている。葛西橋通りを市電が走り、黒江町側の大通り沿いに魚貝を売る露店が並んだようだ。
永井荷風の『深川の唄』(明治42年発表)では小説の主人公が明治30年代の永代橋近くの深川を懐古している。小説の最後で主人公は西に見える台地に沈む夕日を悲壮な思いで見つめるのだが、これも「黒江町の夕河岸」だろうか。
『探偵大杉栄の正月』(典厩五郎著、早川書房、2003年、1800円)は明治44年の話で、金がほしくて探偵を引き受けたアナーキストの大杉栄が調査のため黒江町に出向く。「深川線の黒江町で市電を降りると……土蔵造りや塗屋造りの商店。凝りに凝った問屋格子や丸太格子。一歩路地へ入ると、板葺屋根に黒板塀の町屋が続く。まるで江戸時代へさ迷いこんだような気分だ」というのが関東大震災前の町の様子である。

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長屋。江東区福住1-4。1991(平成3)年11月10日

御船橋(みふねばし)の通りで、 大衆食堂みよしの一つ東のブロック。和風の長屋が散見される。角の家は看板もなくて一般の人を相手の商売ではなさそうだ。その右の3階建てビルの家は花屋らしい。写真右端に瓦屋根の家が写っているが、昔は角の家からそこまでが三軒長屋だった。今では右の家もビルに改築している。
下の写真の家は1枚目写真の左へ入る横丁に現存している。1階の窓が格子窓だったり、二階の窓にも古そうな手すりが残っていてかなりオリジナルな状態が保たれている家のようだ。玄関の横に「山丸電気工業所」の看板がかかっているのがどうもしっくりこない。


山丸電気工業所。福住1-5。1991(平成3)年11月10日

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江東電設。江東区福住1-1
1988(昭和63)年12月18日

佐賀1丁目と福住1丁目をつなぐ御船橋(みふねばし)の通りで、写真右奥が 大衆食堂みよしの交差点。「深川福住商店街」となっている地図もあるが、しもた屋となった家が多い。現在、社名が判るのは写真右手、モルタル仕上げの「江東電設」だけだ。
左写真の家は現在では改装して平板な正面になってしまった。上写真の二軒長屋の看板建築とその右へ写っている家は写真のままで残っている。
この並びの家の裏側は、小さい家では背中合わせの家があってすぐ道路である。明治の地図を見ると大島川西枝川から東へ入っている掘割がある。写真の家並みはその掘割を埋め立てた跡に建っているのだと思う。明治末に埋め立てられたらしい。
下の写真は上の写真の並びで、横丁を1本超えて東へいったところ。写真右手のビルが浅野印刷で、そのビルとその右の「三洋工業」の建物が残っている。



看板建築。福住1-2。1991(平成3)年11月10日

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