ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




蕎麦処名古屋。千葉県松戸市松戸。1989(平成1)年4月2日

山田屋畳店の並び、すぐ南のところ。写真左の岡村タバコ店は健在で建物もそのままだが、その右のそば屋と奥の民家、写真右のブロック塀の家はすっかり取り壊されて67坪の空き地になっている。現在、角町交差点の北に同じ名古屋という店があるから、そこに移ったのだろう。
『昭和の松戸誌』(渡邉幸三郎著、崙書房出版、平成17年)の「昭和12年の家並み図」では「姓不詳の菓子屋」に当たると思われる。



宮田倉庫。松戸市松戸。2006(平成18)年5月25日

蕎麦処名古屋の前の県道5号流山街道を南へ進んだところにある古い蔵。写真左は廃業したガソリンスタンドである。GSの場所は「昭和12年の家並み図」では、「宮田」で「現在(平成17年)キグナスGS経営」、倉は「宮田倉庫」で「そのまま」、となっている。GSは信号のある交差点角にあるが、その交差点の北西角は、『昭和の松戸誌』で「宮田商店」で、その建物は昭和12年当時のままで残っている。『昭和の松戸誌』では明記していないが、この宮田商店(薪炭雑貨商、廃業)がGSと倉庫の持ち主なのかもしれない。


渋木燃料店。松戸市松戸
2009(平成21)年1月28日

GSの交差点を東へ入るとすぐ常磐線の線路で、先に進むには写真左に写っている歩道橋を渡るしかない。『昭和の松戸誌』によると、この道は、古作(船橋市)−松戸線の県道で、園芸学校(現千葉大園芸学部)正門(現存)から大橋・紙敷方面へ延びていた道だという。松戸市南部の台地の農家はここで踏み切りを渡って市場へ野菜を運んだらしい。園芸学校の生徒もこの道を登下校したのだろうか。

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山田屋畳店。千葉県松戸市松戸。2007(平成19)年3月28日

旧水戸街道を角町の三叉路から、葛飾橋のほうではなく、南へ行ったすぐのところ。正式には千葉県道5号松戸野田線である。この県道は国道6号(水戸街道)の下をくぐると県道1号市川松戸線になるから、普通は市川への主要幹線道と認識されている。旧水戸街道とは別れるわけだが、ここから少し先までは旧街道のたたずまいが残っている。現在では古い商店は軒並み閉店して、建物も急速に住宅への建て替えが進んでいる。
『昭和の松戸誌』(渡邉幸三郎著、崙書房出版、平成17年)の「昭和12年の家並み図(1993年調査)」では、初代の姓が山田だったのでそれを屋号にして現在は3代目、荒物屋を営業したこともあるという。



丸松松戸市青果市場。松戸市松戸。2012(平成24)年3月27日

1枚目写真右の横丁を入ると青果市場がある。青果市場の裏は常磐線が通っているが、その辺りは低地で、通りから入る横丁は坂道である。県道が自然堤防の微高地に乗っていることがよく判る。
『昭和の松戸誌』では「葛飾食品市場」で、「(昭和12年では)松戸唯一の市場で昭和2年設立」。
みたところほとんど廃墟である。建物は屋根を架けるだけのものだが、いつ頃に建てたものなのだろうか。市場の事務所は駐車場の手前にプレハブの平屋で別にある。この建物だとオート三輪が似合うような……

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旧宇田川煎餅屋。千葉県松戸市小山。左:2012(平成24)年3月27日、右:同年2月4日

旧水戸街道の葛飾橋通りで、 文七森田商店の並び。左写真左手に、江戸川堤防の上を流山方向へいく流山街道のバイパスの起点である小山交差点がある。昭和初期に建てられたと思える古い家が並んで残っている。昔は商店だったのだろうが、今は住居にしている場合が多い。この家並みの後ろはすぐ江戸川堤防だ。
『昭和の松戸誌』(渡邉幸三郎著、崙書房出版、平成17年)の「昭和12年の家並み図」を照らし合わせて戦前の店名を推測してみる。左写真左の平屋の看板建築は「岩間」という軍人の家で戦後、炭屋をやったという家、としておく。店の構えは炭屋を開店したときにこしらえたものだろう。その右隣は宇田川煎餅屋。その右に路地が入っていて、家の側面が見えている。右写真左の白い壁の家は永戸パン屋。その右は廃屋で、すでに天井も崩れかかっている。たぶん、長谷部小鳥屋か。



1段目写真の裏側。2012(平成24)年3月27日

葛飾橋通りは堤防の上から平地の旧水戸街道へつなぐ通りだから小山交差点付近は盛土で坂道にしてある。1段目写真のあたりも盛土したらしく、堤防との間は窪地だ。通りの側が1階でも裏に回ると2階建てで、旧宇田川煎餅屋の横を入る路地も坂道である。そこを下ってもすぐ堤防になるだけで、裏側を通っている道路はない。そんなところに入り込んでは、そこに建っている家の人から見れば裏側を見られるだけのことで愉快ではないだろう。ぼくも申し訳ないとは思ったが、好奇心には勝てない。
『昭和の松戸誌』によると、戦前、この窪地に「村田瓦屋釜場」があった。「堤防下には村田瓦屋が二基の釜場を設け、住居の両側に細工場、周りは乾燥用棚や松葉の山で、釜脇には一面に瓦が干してあった」そうである。

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せきね生花店。千葉県松戸市小山。2006(平成18)年7月29日

前の通りは、江戸川に架かる葛飾橋(旧葛飾橋)から松戸市街へ向かう通りで、『昭和の松戸誌』(渡邉幸三郎著、崙書房出版、平成17年)では「葛飾橋通り」としている。最初に水戸街道の橋が出来たのは江戸期からの渡船場があったところで、1911(明治44)年11月だから、ずいぶんとのんびりした話だ。木橋で橋げたも多かったから船の航行が大変で、関東大震災で痛んだこともあって、少し下流の現葛飾橋のところに鉄橋で架け替えられたのが1927(昭和2)年7月である。葛飾橋通りはそのとき、水戸街道に接続するために新たに通されたものだ。
写真の家は、『昭和の松戸誌』の「昭和12年の家並み図」を見ると、「小川部品屋」と「魚石の跡地」に当たると思われる。「小川部品屋は自動車部品取扱い店。隣の魚石が対面に移った後、跡地に店を拡張。今は胡録台に移転健在」と解説されている。



文七森田商店。松戸市小山。1989(平成1)年4月2日

葛飾橋通りが昭和初期に開通してすぐに建てられた店舗である。『昭和の松戸誌』によると、「文七森田商店は江戸期の船頭文七で、この通りの開通に伴い、和田と魚石(同じ並び)と三軒がはしりで開店した。現在金物屋で健在」。「和田」とは、写真右へ行った角町交差点に近いところに今もある和田酒店のこと。
写真は20年以上も前のものだが、今も景観はそのままである。

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近藤パン店、山崎金物店。千葉県松戸市松戸。2003(平成15)年9月28日

旧水戸街道の角町交差点付近。ヤマザキパンの店が近藤商店、出桁造りの家が金物屋の山崎商店。近藤商店の左の小松湯は現在では取り壊されて跡地は駐車場になっている。
近藤商店の横を見ると古い看板建築のようにも見えるが、いつごろの建築なのか判断できない。正面のヤマザキストアの造りは、同じものを他で見たことがある。



天野理髪店。1989(平成1)年4月2日

昭和2年に江戸川に葛西橋が架けられて、そこから角町交差点への通りが通じた。水戸街道(国道6号)は、その道筋に移ったのである。現在では新葛飾橋を通って市街をパスする道路に再度移った。写真は角町交差点の角の古そうな出桁造りの家が並ぶ光景。
現在、写真右の八百萬はビルに建て替わったが、2軒の出桁造りの家は健在。床屋は古くからある天野理髪店。その隣の家のガラス戸には「宮下洋服店」とある。

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マチ生花店。千葉県松戸市松戸。1989(平成1)年4月2日

旧水戸街道の松戸郵便局の南の並びである。左から、松葉屋化粧品店、マチ生花店、平内屋鮮魚店。『昭和の松戸誌』(渡邉幸三郎著、崙書房出版、平成17年)の「昭和12年の家並み図」では「OKタクシー、町山花屋、平内屋魚店」で、花屋と魚屋は戦前から替わっていない。写っている建物は今も健在だが、平内屋は「ユートオートサービス」とい店に替わっている。
松葉屋の左は水戸街道の渡船場へ続くわりと広い横町で、「下横町」といった。かつては渡し舟を降りるといったんこの角に出て北へ向かった。「角町」という旧町名もそのへんが由来だという。角から南への道は「八幡街道」といったそうだ。



小野寺理髪店。松戸市松戸。1989(平成1)年4月2日

下横町より南の家並みで、写真左端はほとんど角町交差点。現在は写真左端の家が残っているが他は建て替わったか空き地になっている。写真から、右の床屋はガラス戸に「オノデラ」、赤いテントには「JEANS FIRST」、左の看板建築に「翠松堂書店」の字が読める。葬儀が行われているようだ。
『昭和の松戸誌』の「昭和12年の家並み図」では、左から「小松屋履物店、翠松堂、銅半、ランプ屋、石井魚店、奈良橋理髪店」。翠松堂は解説文に「福岡書店と並ぶ二軒の本屋。園芸学校の学生が相手の小さな店。品のある女主人が印象的。・・・松井天山の昭和十二年判絵図が張ってあった。今はない」とある。「奈良橋理髪店は移転、後は小野寺理髪店に替わる」ともあった。

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松戸宿本陣。千葉県松戸市松戸。2003(平成15)年12月2日

写真の左手にすぐ、旧水戸街道の宮前町交差点、右手にすぐ江戸川の堤防である。写真の家は撮影時では民家だったようだが、松戸宿の本陣だった建物。松戸宿には、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠28軒という構成だった。宮前町交差点のすぐ南、松戸郵便局のところが脇本陣跡である。18世紀半ばに建造された茅葺屋根の本陣が1867(慶長3)年に焼失した。その後に再建されたのが写真の家だ。
2004年6月に取り壊されて、現在は3階建てのマンションに替わっている。ぼくは明確に本陣とは意識していなかったらしく、撮った写真はこの1枚しかない。歴史的にも貴重な建物と思うが、保存できなかったのは費用の関係だろう。土地を買い取るか借りる費用、建物を維持していく費用が松戸市では捻出できなかったのだろう。近年名が知れるようになってきた戸定邸と一体にして、その別館のような扱いが出来なかったのかとも思うが・・・
玄関部分が松戸市立博物館に保管されている。その展示と市内の史跡を示す標柱などの設置を進めるために 「松戸宿振興会」が資金援助を募っている。

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旧鈴木眼科。千葉県松戸市松戸。1989(平成1)年4月1日

松戸駅の西を南北に走る旧水戸街道を、駅前通りの交差点から南へ行くと坂川があり、春雨橋を渡る。写真はそのすぐ先。銅板貼りの看板建築は右側が鈴木眼科だった家、左が町山ミシン商会。出桁造りの家は和菓子の岡山栄泉堂。その隣がこうじや酒店。写真左端に写っている店はなんだったか不明だ。
看板建築といえば関東大震災後の建築とするのが普通で、写真の店舗もたぶんそうだと思うが、家自体はもっと古くて、正面を大震災後に改修したのかもしれない。松戸の旧街道沿いは関東大震災以前の建物も残っていて、大震災で軒並み倒壊したわけではないらしい。したがって看板建築もあまり見られない。



岡松栄泉堂。2005(平成17)年1月25日

『昭和の松戸誌』(渡邉幸三郎著、崙書房出版、平成17年)によると、岡松栄泉堂は栄泉堂岡埜から暖簾分けされた店。建物は明治末期のものという。



町山ミシン商会。2005(平成17)年1月25日

町山ミシン商会は戦前からの店だ。右側の家は空き家らしいが、『昭和の松戸誌』によると、昭和12年では「鈴木眼科医院」。鈴木眼科は船橋の鈴木眼科の出張所という形で宮本医師が診ていたそうで、その婦人が裏で産婆をしていたという。現在は松戸市本町に移転して宮本眼科を営業している。

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上:石川理髪店。左:山田屋
千葉県松戸市松戸
2008(平成20)年2月19日(3枚とも)

松戸駅のほうから旧水戸街道を南にいくと春雨橋という坂川に架かる橋を渡る。上の写真では右端に春雨橋があり、その際から3軒の古い家が並んでいる。向かい側にも岡松栄泉堂という出桁造りの家と銅版貼看板建築の家が並んでいて、昭和初期の水戸街道の景観が残る名所のような地点だ。
松戸宿>家並みの変遷>旧街道』によると、平成5年の時点で、上写真左から、石川理容店、山田板金、福岡家店舗。現在ではいずれも商売を続けているようには見えない。3軒とも明治末期の建築らしい。
『昭和の松戸誌』(渡邉幸三郎著、崙書房出版、平成17年)の昭和12年の三丁目(旧町名)家並み図では、石川理髪店、銅菊山田屋(ブリキ屋)、福岡薪炭店。福岡薪炭店はわりと早く廃業したようだが石川理髪店と山田屋は昭和初期から(あるいはもっと前から)つい最近まで続いてきた店である。

下写真の福岡家店舗は屋敷の敷地の街道沿いに建てられた店舗。今は住居に使われているのだろう。横のレンガの壁は見えている片側だけ。防火用に後からつけたようにも見える。『昭和の松戸誌』には「福岡薪炭店は江戸期以来の松戸きっての資産家。通称中屋籐八。九代目。今は資産管理業。裏に神社。松戸神社の祭礼時にはいつも神酒所に」とある。店舗左に立派な門があり、中に鳥居が見えている。坂川沿いの路地から屋敷の横を見ても大木が何本もあって中の様子はよく判らない。煉瓦の倉庫があるのは認められる。




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福岡種店。千葉県松戸市本町。2003(平成15)年10月29日

旧水戸街道(現・県道5号線、流山街道)沿いの古い商家。今も商売は続いている。すぐ北の並びにある原田米店の旧店舗とほぼ同規模で同じ造りの家である。
『昭和の松戸誌』(渡邉幸三郎著、崙書房出版、平成17年)によると、「福岡種子屋は大正元年に福岡籐八より分家、家屋は大正12年新築の中二階」。福岡籐八とは、福岡種店のすぐ南、春雨橋際に屋敷を構えている江戸期からの旧家で、薪炭商をしていたらしい。
店舗をよく見ると一階の軒が原田米店より短く、従って軒を支える柱もない。知らないとそういう造りかと思ってしまうが、軒を短く切られてしまったためだ。『昭和の松戸誌』には、昭和10年に水道管を埋める工事とともに道路も拡幅された。その際、四尺五寸の従来の軒を三尺切り取られたと記されている。


1989(平成1)年4月1日

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