ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




吾妻屋。中央区日本橋人形町1-18。1985(昭和60)年8月4日

人形町通りの大観音寺の入口。写真右奥の階段の上が大観音寺。まだアーケードがある頃の写真だが、大観音寺の前は提灯が吊るされるようにアーチ型になっている。旅路(喫茶店)と花見せんべいの吾妻屋はひとつの建物かもしれない。
大観音寺が今の建物になったのは昭和35年頃かと思う。そのまえの建物だったときに、横の路地を通ったのをかすかに憶えている。写真左端は東京銀行だが、人形町松竹映画劇場が建て替わったビルである。人形町松竹のビルには松竹のほかに人形町ユニオンと人形町浪花座もあった。ぼくの知っているユニオンは4階まで階段を上がっていくフロアにあって洋画の二本立てだったが、昭和30年頃の火保図には「ユニオンダンスホール」の記載があるので、映画館の前はダンスホールだったのかもしれない。現在のビルになったのは昭和50年頃だったように思う。



吾妻屋の店先。1986(昭和61)年4月6日


人形町松竹
(2009.01.11追記)

左の写真は『にほんばし人形町』(編集・発行:人形町商店街協同組合、昭和51年)から引用したもの。「人形町通り あの頃」というグラビアページの「銀座ここにありき」という記事の写真である。写真のキャプションは「区画整理前 大正15年頃の蛎殻町銀座跡」。現在の人形町1丁目は関東大震災後の区画整理の前は蛎殻町2丁目になる。写真中央に「南谷本店」が写っているが、現在も人形町通りにある家庭用品・化粧品のなんや商店だろう。なんやが現在地と同じ場所なら写真右のビルが人形松竹のビルになるはずだ。これが人形町松竹と示されてもピンとこないのだが、昭和38年の航空写真でみるビルとは矛盾しない。


ユニオンダンスホール(2010.07.28追記)

人形町松竹のビルの5階に「ユニオンダンスホール」があった。ネット検索すると服部良一がここで演奏していた、という記述が出てくる。服部良一が昭和8年に大阪から上京して最初に就いた仕事が、ユニオンダンスホールの楽員としてサックスを吹くことだったという。
『菊池清麿・随想・昭和博物誌>日本ジャズ史・昭和フロリダモダン』には「1928(昭和3)年に大阪のユニオン系のホールが朝日舞踏場を買収してダンスホールにした」とある。昭和15年11月で、時節柄好ましくないと閉鎖されたはずだ。戦後になってダンスホールはまたはやるのだがユニオンが再開されたどうかは知らない。
ここに出したマッチラベルで「大阪ユニオン東京支社」がビルの地下にバー、4階にレストラン、5階にダンスホールを経営していたと分かる。マッチの裏側が「日本麦酒鉱泉株式会社」の「ユニオンビール」の宣伝。これはただの偶然だろうか?

コメント ( 11 ) | Trackback ( 0 )



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コメント
 
 
 
Unknown (むにゅ)
2009-01-10 00:44:24
あけましておめでとうございます、この吾妻屋はアタシの実家の遠縁にあたる家なのですよ。子どもの頃にべったら市の時に立ち寄る程度の付き合いしかなかったのですが・・・(両親は行き来していたようでしたが・・)なまじ、親類だけに写真に撮るということができなかったので、ここで見られてなんか嬉しいです。あ!今年もよろしくお願いします!
 
 
 
>むにゅ様 (流一)
2009-01-10 12:45:41
あけましておめでとうございます。
吾妻屋さんとご親戚とは驚きました。写真の家はビルに替わりましたが変わらずご盛業のように見受けられますね。むにゅさんは人形町松竹なんかも見ているのでしょうか?
 
 
 
Unknown (むにゅ)
2009-01-10 22:12:51
全く記憶がないんですよ・・・
そんな映画館があったのかなかったのか・・・
あまりに身近すぎて記録しなかったし、記憶にもないっていうのが今となっては残念です。
もし、お写真お持ちでしたらアップしてください!
 
 
 
>>むにゅ様 (流一)
2009-01-11 19:50:33
人形町松竹の建物は私が写真を撮るようになる10年前には現在のビルに建て替わったようで、残念ながら撮っていません。意識して建物を見ていないのでどんな建物だったかよく憶えていません。
手元の資料から、あるいは、という写真を追加しました。
 
 
 
Unknown (むにゅ)
2009-01-15 02:45:46
かなり大きな建物だったのですね・・・
う~ん・・・記憶にない(悲)
これ、かなり早い時期に建て変わってしまったのでしょうね・・・
 
 
 
ユニオンダンスホール (流一)
2010-07-28 12:55:43
「ユニオンダンスホール」を追記しました。
 
 
 
Unknown (Nihombashi)
2013-12-23 22:09:26
いつも大変興味深く拝見しております。
今日ふとこのページを見返していて、気がついたのですが、人形町松竹(2009.01.11追記)の部分、おそらく当時は日鮮会館とか日鮮館とか呼ばれていたように思われます。なんとかという(祖父から聞いたことがあるのですが名称失念)朝鮮系のかたがたの団体がはいっていたと。。。後にこのビルに昭和になってからだと思いますがダンスホール、ユニオンがはいったのですよね。。手元の昭和5年の地図(大東京案内)では、元大坂町:日鮮会館ダンスホール、との記載があります。ご参考までに。。。
 
 
 
>Nihombashi様 (流一)
2013-12-25 09:43:51
興味深い情報の提供をありがとうございます。「昭和8年5月作成」という火保図を改めてみてみました。「日本橋劇場/日鮮會舘」となっていますね。以前の記事を書いた時にはそこまで確認していなかったようです。人形町松竹は大きい映画館ではありませんが本格的な劇場のように憶えています。ダンスホールといい、娯楽を中心にしたビルとして建てられたように思えるのですが、日鮮会舘という建物名とどう関連するのでしょうね。
「日鮮会舘」をネット検索したら「京城日報 1933.8.2(昭和8)」の「内地在住の朝鮮人はどんな生活をしているか」という記事がありました。「相愛会」という団体が、大震災後の朝鮮人暴動の訛伝を一掃するため「直ちに人形町日鮮会館に一千数百名の鮮人を集め、進んで焼き跡整理に従事」とありました。
 
 
 
松竹ありましたね (くまです)
2017-01-22 14:59:55
裏手には、日活もありました
松竹では、東華小学校から生徒ぞろぞろ歩いて映画鑑賞行きました
浪花町?には大映、武蔵野館もあり、美空ひばり映画など見ました
なんや・・何でも売ってましたね^^
人形町地下鉄の角、果物やさん{いまは?)の隣に
親戚のビルありましたが
最近引っ越しされたようです
昨年、孫つれて人形町界隈散歩しました^^
テレビで時々放映されますと、うれしいですね
 
 
 
たぶん、亡き両親の出会いの場 (きぬの娘)
2023-01-04 23:14:23
「人形町のダンスホール」で検索してこの記事を見つけました。
戦後、たぶん昭和23年前後くらいと思いますが、田舎からバンドマンを目指して上京した若き父が人形町のダンスホールのバンドで修行していたそうです。神田の小学校で音楽教師をしていた母は、ピアノの練習ができる場所が焼失していたため昼間のダンスホールで練習し、バンマスに絞られながらサックスを練習する父に同情していたようです。二人でダンスホールの窓から花火を見た、と言ってました。それはどこなんだろうと思ってましたが、ダンスホールが4階だとしたら、このビルから花火は見えたでしょう。
写真の切れ端に、若き父と母を見るような思いです。二人はもういません。このような記録を残してくださりありがとうございました。
 
 
 
>きぬの娘様 (流一)
2023-01-06 09:48:17
戦後すぐといえば食べるだけで必死になっていた時代。サックスの演奏者になろうというのは、夢と覚悟があったのでしょうね。練習していたダンスホールにはピアノの練習をしていた小学校教師の娘さんがいて……。ロマンスですね。場所は人形町のユニオンダンスホール。もはやそのホールを憶えている人もほとんどいないと思います。きぬの娘さんの家の歴史として永く言い伝えていくべき話ですね。
 
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