ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




新聞輸送株式会社。千代田区有楽町2-8。1988(昭和63)年4月24日

JR有楽町駅前の「有楽町イトシア」が建つ以前にあった、小さい木造家屋などが林立していた街区の東側の家並み。1986(昭和61)年の住宅地図では、左から「有楽町西武Bブロック(可口飯店)、倫敦屋(喫茶)、るびあん(喫茶)、新聞輸送、レストラン レバンテ」。この街区では珍しい戦前築のRC造の建物が2棟ある。1969(昭和44)年の地図が手元にあるのでついでに書き写しておくと「KK朝日ソノラマ 朝日新聞社別館、倫敦屋 喫茶、コーヒールビアン □□歯科、新聞輸送社KK 毎日新聞社分室、ビヤホール レバンテ 有楽会館」。

新聞輸送株式会社」はそのHPによると、「昭和19年1月に、朝日新聞社、毎日新聞社、読売新聞社、東京新聞社(現中日新聞社)、日本産業経済新聞社(現日本経済新聞社)の5社の出資により創立」した。戦時中の車両・ガソリンの不足を運搬に関しては主要な新聞社が合同で効率的に運営していこうということだろう。政府から要請があったのかもしれない。「昭和20年(1945)5月有楽町本社罹災」し、本社は西銀座などあちこちを転々としたらしい。そして昭和33年(1958)3月に写真の建物に移転してきた。たぶん建物はそのときに建てたと思われる。
「平成16年(2004)1月有楽町再開発に伴い、有楽町本社から東日印刷STビル辰巳別館に仮移転をする。11月芝浦に本社新社屋・芝浦共輸センター落成」。
戦時対策として創立したと思われる会社がいまだに健在なのは、新聞社ごとに運送部門を持つよりずっとやり易いのだろう。



新聞輸送株式会社。1987(昭和62)年10月4日

都市徘徊blog>新聞輸送株式会社』で、この建物が取り上げられている。2004年11月の写真では建物はすでに封鎖されているようだ。また「喫茶るびあん」は「喫茶室ルーブル」に替わっている。
この記事に寄せられた新聞輸送社員の方のコメントで、建物がどのように使われていたかが分って興味深い。

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朝日街通り(南の入り口)
千代田区有楽町2-8。1985(昭和60)年

有楽町イトシアが建っているところには、かつて南北に通った「朝日街商店会」の狭い通りで2区画に分けられた街区があって、飲食店やパチンコ屋などが立ち並んでいた。朝日街の名前は南の通りの向かいにあった朝日新聞社に由来するのだろう。木造家屋が主だったと思うが、東の街区にはレバンテ可口飯店があった。2004、5年頃から取り壊しが始まったかと思う。イトシアの開業は2007年10月12日。
左の写真は有楽町マリオンの裏から撮った写真。写真右から奥へ、1986年の住宅地図では「ルミエール、陣屋そば、プリンス」で、1969年の地図でも同じ(「陣屋食堂」の記載)。写真左は「初藤食堂」。ルミエールは昭和22年の創業で近年「ゴッサム・カフェ」と改名したが平成15年9月に閉店した(有楽町・ギャラリー - 結之介の居所)。





上:大黒天、東武トラベル、立喰そば店
(朝日街と中央街に挟まれる北側)
下:アマンド(朝日街中ほど)
有楽町2-8。2002(平成14)年5月4日

上の写真は交通会館の南の通り。写真左が朝日街通りの北の入り口、天丼の看板の店が有楽町中央通りとの角にある。1986年の住宅地図では「後楽」なのでその店かもしれない。
この家並みの裏、あるいは2階かもしれないが、「シネ・ラ・セット」という映画館があった。『港町キネマ通り>シネ・ラ・セット』によると、1957年に東宝系のロードショウ館「有楽シネマ」として開館、1995年にピンク映画専門の「シネマ有楽町」としなり、そして翌1996年にミニシアター「シネ・ラ・セット」として2004年2月まで続いた、ということだ。
アマンド有楽町店は『アマンド>ブランドヒストリー』によると、1949年の開店。

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ももや、銀華。千代田区有楽町2-8。1985(昭和60)年

JR有楽町駅を銀座方向へ出ると、今では目の前に「有楽町イトシア」が建っているわけだが、イトシアとJRのガードに挟まれた三角形の土地は、イトシアの再開発からは外されたようで、昔のまま―戦後まもなく建ったと思われる木造2階建てを主とした家並み―の景観が残っている。北の角の「百果園」その隣の「中国料理 中園亭」などは古くからある店のようだ。
イトシアが建ったところも、以前は似たようなごちゃごちゃした街区があって、『江戸東京 街の履歴書(4)』(班目文雄著、原書房、1992年、2300円)では、「朝日街、中央街という人だけ通る小路の両側に喫茶店やパチンコ屋が並んでいる」とある。
上の写真は、街区の南側を有楽町マリオンの裏から撮った写真。右奥への路地が、今では「有楽町中央通り」と言うらしいが、『街の履歴書』に「中央街」とあるから昔からあった通りの名前らしい。
上の写真の角の家は1階が「mt sand’s」と読めるテイクアウトの軽食店だろうか? 2階が「喫茶店 ももや」で、壁の「アートコーヒー」はコーヒーの銘柄なのだろう。期待もせずに検索したら『東京カフェデイズ>「ももや」の小さな復活』というサイトがあった。1949(昭和24)年に創業し、2007(平成19)年5月まで58年間も営業していた、という。
下の写真は上の写真の左枠外にあったパチンコ屋。2階が「白鳥」というゲームコーナーだが、1969年の住宅地図では「喫茶白鳥」。今では「DUO」というパチンコ屋。上の写真に写っている5軒ほどの店もDUOになっている。



パチンコ大丸。有楽町2-8。1987(昭和62)年10月4日

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ニュー東京ビル。千代田区有楽町2-2
1988(昭和63)年2月21日

晴海通りの有楽町マリオン(旧日劇)の向かい側にあったビル。「株式会社ニユートーキヨー」の本社ビルだったから「ニユートーキヨービル」だったのかもしれない。1階のビヤホールで知られていたかと思う。
ニユートーキヨー>歴史』及び『ウィキペディア>ニユートーキヨー』によると、「昭和32年(1957)10月 9日、本社ビル(地下2階、地上9階建-約3,500坪)の新築完成」で、それが写真のビル。それ以前には昭和12年(1937)6月に竣工した5階建てのビルがあった。当時は外堀があり、そこを渡す数寄屋橋の際に建ったわけだ。そのビルを、敷地を倍以上に拡張して建て直した。1978(昭和53)年、1階の外装をレンガ造りに改装。2015(平成27)年3月8日、数寄屋橋本店ビル、老朽化と再開発のためこの日で営業終了。2018(平成30)年10月、数寄屋橋本店ビル跡地に「ヒューリックスクエア東京」が開業。

写真にはビルの右下に「ニュー東宝 シネマ1、シネマ2」の看板がかかっている。ビルの3階と地下にあった映画館だ。『港町キネマ通り>有楽座』によると、ビルの竣工時に地下に「スキヤバシ大映」、3階に「ニュー東宝」の2館があったらしい。1972(昭和47)年5月、大映が撤退してから「ニュー東宝シネマ1、2」と改名した。1995(平成7)年6月から3階の「ニュー東宝シネマ」の1館となって、アクション映画を主に上映したという。2005(平成17)年4月に大改修して「有楽座」として開館した。ビルが立て直しのため閉鎖されるまで続いたようである。

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国際観光会館。千代田区丸の内1-8。2002(平成14)年5月4日

東京駅の八重洲北口を出るとすぐ北にあったビル。現在は「グラントウキョウ・ノースタワー」(大丸デパート、開業は2007年11月)が建っている。
国際観光会館は国鉄の東京駅構内に建設されたもので、1954(昭和29)年10月に開業した。「鉄道会館(大丸)」の開業と同時だったかもしれない。「ホテル国際観光」と観光関係の団体や会社の店舗と事務所が入るビルである。

建物の資料としては『ジャパンアーカイブズ>【1951年】丸の内(昭和26年)』の「国際観光会館(1丁目、八重洲口側)の竣工」という画像がある。パンフレットか雑誌の1ページと思われるが出典は判らない。建物の完成図と工事現場の写真2点に建物と会社のデータからなる1951年に発行されたものだ。タイトルは「待望の『国際観光会館』完成に驀進」。
建物の概要は「竣工:昭和29年6月、面積:敷地約1,200坪・建坪役7,500坪、構造:鉄骨鉄筋コンクリート近代様式、規模:地上8階・地下2階・昇降機7基・全館冷暖房換気装置完備、設計:土浦亀城建築事務所、施工:清水建設株式会社」。土浦亀城の設計としていいのか分からない。所員の引いた図面を見て「いいだろう」といっただけかもしれない。
施設内容は、ホテル部として「約2,500坪、1-8階(東側)客室92・宿泊人数200人」、会館部として「約5,000坪、1階:インフォメーションホール、2-8階:観光関係貸店舗・事務室、地下1階:旅客向諸店舗」。
会社要領には「商号:株式会社国際観光会館、設立:昭和26年3月22日、常勤役員:取締役社長:平山孝」などとある。

国際観光会館の地下に小さな映画館があった。列車待ちの間に時間つぶしに入るような映画館だったのだろう。ぼくは父に連れられて入ってその存在を知ったのだが、昭和35年よりは前だったようだがはっきりしない。漫画の「ウッドペッカー」をやっていた。その後も1・2回は入っているのだがなにを観たのか忘れた。『消えた映画館の記憶』によれば「観光文化ホール」である。

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日比谷パークビルディング。千代田区有楽町1-8。2004(平成16)年2月7日

1952(昭和25)年3月に「日活国際会館」として完成したビル。設計・施工は竹中工務店。地上9階地下4階建。
戦後初の大型ビルの建設ということで話題になった。地階の「潜函工法」は工事中から注目され、竹中工務店も宣伝に努めたらしい。「日活ホテル」(一般には日活国際会館というより日活ホテルの名で通用していたと思う)は完成時にはすっかり有名になっていたらしい。1階地階に店舗、2-5階がオフィス、6-9階に日活ホテル133室が入り、映画会社の「日活」の本社もこのビルに移った。
写真では壁は白いパネル状のものが貼られている。竣工時は淡い青のタイル貼りだった。地下の潜函工法による壁は、建て替わった「ザ・ペニンシュラ東京」でもそのまま使われている。

日活社長の堀久作(1900-1974年)は、松方乙彦(元総理大臣・松方正義の息子)の秘書だったが、松方から送り込まれる形で1934(昭和9)年に日活に入社、1945年に社長に就任している。日活に行く前は山王ホテルの経営に携わっていた。
戦後、日比谷交差点角の日比谷パークビルの土地は進駐軍に接収されて第一生命相互館にあったGHQの駐車場になっていた。1948(昭和23)年、「日本航空」から土地売却の話が持ち込まれ、堀は即座に購入する。都心の1300坪の購入金額はどのくらいだったのだろう? 堀はホテル、劇場、美術館などからなる国際的な複合施設の建設を構想して、GHQ、竹中工務店、銀行などに手を回す。ビルの着工は1950年1月。
映画界は全盛期を迎え、そのうちに斜陽産業に転落してしまう。堀は会社再建のため、1970(昭和45)年1月にビルを三菱地所に売却した。4月に名称は「日比谷パークビルヂング」に替わり、ホテルは廃業、オフィスビルになった。
2003年に解体され、2007年9月に「ザ・ペニンシュラ東京」が建った。元の日活ホテルに還ったようなものだろうか。

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明治生命館。千代田区丸の内2-1。1986(昭和61)年12月30日

1934(昭和9)年竣工の日本の近代建築の末尾を飾る建物である。一般のオフィスビルなら、古典的な様式にするにしても、より省略された外観にすると思うが、金融・保険の本社ビルである以上、信頼性を感じさせる形としてオーダーを使った古典系のデザインが選ばれたのだろう。
鉄骨鉄筋コンクリート造8階地下2階建、設計=岡田信一郎、施工=竹中工務店。1930(昭和5)年9月の起工、1934年3月31日の竣工。岡田は1932年4月4日、48歳で亡くなったから遺作である。



千代田ビル、明治生命館
左:1986(昭和61)年12月30日
右:2000(平成12)年4月1日

丸の内2-1の街区は、「丸の内MY PLAZA」という名称で整備され、明治生命館が「動態保存」され、他にあった3棟のビルが「明治安田生命ビル」の30階建ての高層ビルに建て替わった。明治生命館と日比谷通りに向いて並んでいたのが「千代田ビルヂング」、後ろにあったのが「明治生命別館」、馬場先通り沿いに並んでいたのが「明治生命新館」。
千代田ビルはウィキペディアに項目がある。それによると、1959年より三菱地所が「丸ノ内総合改造計画」を開始、ビルの工事を着工するとともに、裏の丸の内仲通りに面した「三菱仲11号館」の解体にはいった。1961年1月に日比谷通り沿いの部分が竣工、次いで11号館跡地での第2期工事を着工、1962年7月に全面完成した。大成建設の施工。本館の後ろに回り込むようなL字型の平面だった。
明治生命新館は1枚目写真の右に少し写っている。『三幸エステート>都市の記憶』によると、本館に軒高を合わせてファサードも似せている。昭和43年の竣工。
明治生命別館については情報は得られなかった。

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丸ノ内八重洲ビルヂング。千代田区丸の内2-6。1986(昭和61)年9月23日

『ウィキペディア』から引用すると、丸ノ内八重洲ビルヂンは1928(昭和3)年に竣工した。三菱合資会社所有で、1937(昭和12)年に三菱地所株式会社が設立されると、そこが管理するようになる。1945(昭和20)年3月に三菱地所に譲渡された。戦後は1946(昭和21)年4月に占領軍に接収され、米空軍宿舎「八重洲ホテル」として使用される。1956(昭和31)年2月3日に返還された。
建物は鉄骨鉄筋コンクリート造8階建地下1階塔屋付き。外観は小松石の粗石積みによる基壇部、平坦な壁に小さめの窓を並べた中層部、アーチの窓の上層部という3層の意匠で、北東角の尖塔がアクセントになっていた。石積み部分はヨーロッパの中世の城郭を思わせる。設計は三菱地所部(藤村朗)、施工は大林組。1928(昭和3)年3月31日の竣工で、当時の名称は「八重洲ビルヂング」。住所が「東京府東京市麹町区八重洲町一丁目1番地」だった。
1962(昭和37)年に 増築工事がおこなわれている。裏側の低層部分にフロアを積み上げたのだろうか? 同年名称を「丸ノ内八重洲ビルヂング」に改称した。



丸ノ内八重洲ビルヂング。左:1986(昭和61)年8月17日、右:1986(昭和61)年12月30日

三菱地所が、丸の内2-6にある「古河ビルヂング」(9階建、1965年)「三菱商事ビルヂング」(15階地下4階建、1971年)「丸ノ内八重洲ビルヂング」の3棟をまとめて建て替える計画を発表したのが2004(平成16)年3月。解体は2006年7月から。2009(平成21)年4月に34階地下4階の「丸の内パークビル」と「三菱一号館」が完成した。
三菱一号館の復元だが、旧建物(二代前)が建っていた同じ位置(正確には1.6mセットバックされているという)に、外観はほぼ正確に復元されている。コンドルを偲ぶ巨大な記念碑と考えれば、これはこれでいいのかもしれない。

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東京中央郵便局。千代田区丸の内2-7。1986(昭和61)年9月23日

『日本近代建築総覧』では「建築年=昭和8(1933)年、構造=SRC5階建、設計者=吉田鉄郎、施工=銭高組/大倉土木」。竣工時の住所は「東京市麹町区丸ノ内2-3」である。
2006年5月に日本建築学会が日本郵政に出した『保存要望書』で、もう少し細かく見ると、建物が竣工したのは1931(昭和 6)年12 月25日、地下1階塔屋付きというが、塔屋がどれになるのか判らない。機械を据え付けるなどの内装工事に手間取ったのだろう、竣工のちょうど2年後、1933(昭和8)年12月25日に営業を開始した。
土木建築工事画報昭和7年12月号』の「東京中央郵便局新築工事概要」によると、基礎工事が銭高組、建物が大倉土木の施工になるようである。
「要望書」を見ると、東京中央郵便局が、郵便物の集配と仕訳、配送という物流センターとしての機能という、一般の事務所ビルにない機能があったことに改めて気が付く。一方で、東京駅前広場の景観を受け持つファサードのデザインにも意を凝らしていることも重視している。ぼくは東京中央郵便局に特にこれという感慨はもったことはなかったのだが、今になって「吉田鉄郎の傑作、代表作」という目で見るようになった。
1-3階と4-5階ではその高さが異なる。1-3階は仕訳や集配送などの業務の空間であるためで、それが窓の大きさに現れている。4-5階の間の軒の水平線によって、視線が横にいってしまうことで、その高さの違いに気が付かないという効用があるような気がする。


東京中央郵便局。1986(昭和61)年9月23日


左:1992(平成4)年3月8日
右:2003(平成15)年1月4日

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東京都公園資料館。千代田区日比谷公園
1986(昭和61)年8月17日

日比谷公園内にある元公園事務所。1990(平成2)年3月に東京都の有形文化財に指定され、今は建物の前に東京都教育委員会が平成2年12月に設置した説明板がある。そこに書かれているように、1910(明治43)年11月に公園の管理事務所として建てられた木造2階建てドイツ・バンガロー風の建物。設計者は東京市営繕課の技師、福田重義。東京市に入ったばかりの頃の作品になるようだが、そんな試しにやらせてもらったのかもしれないような作品が今に残されたのが面白い。
1976(昭和51)年、資料館にするため内部を改装したが、躯体と外観はいじっていないようだ。
1999年以降は老朽化と耐震性能上の問題ということで閉鎖されてしまったが、2005年に結婚式場として使えるようにした。明治の建物ではあるが、どうも内部はだいぶ改修されていそうで、見学するほどのことはないような気がする。
福田重義の作品では「横浜市開港記念会館原案(1913年)」が有名。1930年に東京市を退職して独立後の作品に「三楽病院(1933年)」がある。当ブログ『三楽病院/駿河台2丁目 』にあるので、誘導しておく。

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