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ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




帝国ホテルライト館。千代田区内幸町1-1。1961年配布の絵葉書

上の写真の画角で撮った写真は、幾つかがネット上に上がっている。母の写真アルバムに「松竹料理教室テーブルマナーの会/1961年9月17日於帝国ホテル」という集合写真があるので、上の絵葉書はそのとき持ち帰ったものと推定した。新館が写っていない。1950年代前半の写真だと思う。
下の新館の写真は珍しいだろうと思っていたが、これもネット(ジャパンアーカイブズ>帝国ホテル第二新館)に出ていた。1958(昭和33)年に竣工した「第二新館(東館)」で、ウィキペディアによると、「高橋貞太郎設計。鉄筋コンクリート造、地上10階、地下5階、客室数450。1980(昭和55)年インペリアルタワー建設のため解体」ということである。
「第一新館(別館)」は1954(昭和29)年に敷地の北東に建てられた。下の写真では第二新館のちょうど後ろに隠れて見えない。ウィキペディアによると、「高橋貞太郎 設計。鉄筋コンクリート造、地上7階、地下2階、客室数170」で、第二新館と同時に解体されたようだ。


帝国ホテル第二新館。千代田区内幸町1-1。1961年配布の絵葉書

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日比谷三井ビル。千代田区有楽町1-1。2008(平成20)年11月5日

先日(2018.03.29)開業した「東京ミッドタウン日比谷」建設のため取り壊されたビル。写真右の空き地は三信ビルの跡地。「日比谷パティオ」という公園様の広場になっていたようだが、その工事を進めているところだろう。
日比谷三井ビルの建設は1957年9月に着工、1960(昭和35)年8月に完成した。高度成長期が始まる時代である。31m(100尺)の高さ制限がある頃で、床面積を拡大しようと、ステンレスとアルミを多用したという。また部屋や廊下の間仕切りは従来の壁ではなく、広いフロアをパネルで仕切る現代的な方法の嚆矢になったビルらしい。完成時では日本有数の巨大ビルだった。発注者=三井不動産。設計=マツダ平田設計事務所、横川工務所。SRC造9階地下5階建。
日本橋の三井本館から三井銀行(現三井住友銀行)本店がここに移ってきた。あの偉容を誇るビルであっても業務自体はやりにくかったのかもしれない。コンピュータはまだ入っていなかったと思う。


三信ビル、日比谷三井ビル。1985(昭和60)年11月22日

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三信ビル。千代田区有楽町1-4
上:1986(昭和61)年5月18日
左:1985(昭和60)年11月22日

先日(2018.03.29)「東京ミッドタウン日比谷」が開業した。三信ビルと日比谷三井ビルとを再開発して35階地下4階建の高層ビルにしたものだ。そんなにオフィスの需要があるものなのかと、不思議でしかたがないが、どうもいくらでもあるらしい。

三信ビルの建て主は三井合名と三井信託で、「三信」とは「三井信託銀行」の略称である。テナントも主に三井の関連会社だったらしい。8階には「三友倶楽部」という三井の厚生施設だか社交施設だかが設置されたという。
三信ビルの工事着工は昭和3年(1928)7月、竣工は1929(昭和4)年12月。SRC造8階地下2階塔屋1階、設計は横川工務所(松井貫太郎)、施工は大林組。
外観が独特でただのオフィスビルにない魅力を発している。壁面や窓などの曲面は「表現派」の影響というのがよく言われる。たしかに、表現派の建物に感じるちょっと異様な、あるいはSF的なものは感じられる。外観についてはいろいろ言い方があるようだ。

「外観の単調さ、平滑さを嫌い、さまざまな様式を集めて、個性的な表現を試みた特徴ある建物である。コーナーを丸め、中央部にふくらみを持たせた外壁は、当時流行の表現主義を基調にしているが、ルネッサンスやゴシックの手法も見られる。」(『建築探偵術入門』(東京建築探偵団著、文春文庫、1986年、480円)。
「基本的には簡素化された様式主義の範疇に属している。しかし、外壁の曲線のうねりの大胆さは、表現主義の影響とみて妥当であろう。」(『帝都復興せり!』(松葉一清著、平凡社、1988年、2400円)。
「セセッションとゴシックを折衷した外観」(『看板建築・モダンビル・レトロアパート』(伊藤隆之著、グラフィック社、2014年、2,800円)。
「スパニッシュ風のアールデコ様式」(藤森照信、『東京人No.152』2000年)。

東西に長い形で、1枚目写真の角度で見ると、アメリカの大陸横断列車を引っ張るディーゼル機関車のようにも見える。ぼくは1930年前後の工業製品のデザイン(飛行機、自動車、機関車など)が好きなのだが、このビルにも同様なものが見て取れる。
また、このビルは吹き抜けのアーケード、2階の回廊、半円形のエレベータホールなど、内部が素晴らしかった。

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千代田区立九段小学校。千代田区三番町15。2009(平成21)年5月23日(他も)

現在、建て替え工事が進められていて、来年(2018年)7月頃の完成予定である。その工事の概要は、東郷公園と接する西側の校舎を補修して保存活用。北側の校舎は4階建てに改築するも南の校庭から見て、旧校舎のファサードを継承したデザインにする。東の体育館も改築するが、体育館は地下に置き、その上に4階建ての教室を含む校舎を建てる、といったものだ。旧校舎は2015年の1学期まで使用されたので、北側校舎と体育館は同年9月に解体されたと思われる。
九段小学校のHP』の「沿革」によると、開校は「東京市上六尋常小学校」の校名で明治36年9月。「上六」とは当時の住所「上六番町」のことで、グーグル古地図の「明治」では「上六番町小学校」となっている。関東大震災で校舎が消失後、大正15年に写真の校舎が建った。昭和9年7月「東京市東郷尋常小学校」と改称。小学校の西に接する「東郷元帥記念公園」は東郷平八郎の私邸があったところで、隣の家とはいえ、個人名を小学校の名前に付けたわけだが、「東郷元帥」の名前を個人名とはだれも思っていなかったに違いない。終戦後、軍人の名前の学校はまずいだろうと、昭和21年4月から「東京都九段国民学校」とした。昭和22年3月には「東京都千代田区立九段小学校」となる。
体育館兼講堂は昭和43年4月の完成。
写真の外壁は平成19年8月の壁面塗装改修によるもの。それ以前は普通に白く塗られていた。



東郷公園に向いた正面玄関と時計塔

写真の旧校舎は1926(大正15)年8月竣工、設計=東京市(臨時建築局)、施工=石井権三、構造=RC3階建て。放物線の曲線が3階の窓、時計塔(土筆の塔)、門柱などに多用されていてドイツ表現主義のデザインを取り入れているといわれる。


北側校舎は斜面を削り取って建てたようだ。低い柵の柱や裏門にも放物線が表れる。

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雙葉中・高等学校。千代田区六番町14
1994(平成6)年11月19日

写真の旧校舎は1952(昭和27)年に建てられたもの。そいうことは今知ったばかりで、撮影時は戦前に建てられたものと決めていた。煉瓦塀のほうは、1909(明治42)年に「雙葉高等女学校」の設立時に木造2階建ての校舎が建てられたが、その時に造られたもの。その古い塀に建築年の予想が引きずられたようである。
外堀沿いの道路に沿って4階建ての校舎が南北に延びていた。外堀の土手の、少し高い位置から距離を置いて写真を撮ることができたが、校庭の杉の木や、土手の桜の木が撮影の邪魔になっている。南北に長い校舎の中央辺りに三連アーチの玄関あり、カトリック系の女子校にふさわしい教会堂のような造りになっていた。この部分のファサードは現在の校舎に引き継がれている。
現在の7階建ての校舎は2000(平成12)年12月の完成。




雙葉中・高等学校。六番町14。1994(平成6)年11月19日

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聖イグナチオ教会。千代田区麴町6-5。1994(平成6)年11月19日

写真の聖イグナチオ教会があった頃は四ツ谷駅前の景観になくてはならない建物だったが、1997年には解体されてすでに20年が経った。切妻屋根の本堂、その尖塔アーチの入り口とバラ窓。入り口横の高い鐘楼と、ゴシック様式の要素を取り込んだ教会らしい外観で、四谷のランドマークになっていた。
『ウィキペディア』によると、前身である「聖テレジア教会」が1945(昭和20)年5月25日の東京大空襲で焼失した。戦後は運営を東京大司教区からイエズス会に委託された。新しい教会は1949(昭和24)年4月に完成して、教会堂は「聖イグナチオ」と命名された。
上の写真では建物の全体の形も周りの環境も判らない。ちゃんとした写真が載っているサイトを二つ紹介しておく。
聖イグナチオ教会 旧聖堂(2013.12.18)
Rの気まぐれnote>聖イグナチオ教会(2013.11.14)

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九段会館。千代田区九段南1-6。1989(平成1)年4月2日

『日本近代建築総覧』では「九段会館(旧軍人会館)、建築年=1934(昭和9)年、構造SRC4階建、設計=川本良一、施工=清水組、地下室有り」。川本良一は『近代建築散歩 東京・横浜編』(2007年、小学館)には「遠藤新、下元連らと東大建築科同期1914卒、三菱地所入社」とあった。コンペによって選ばれたのだが、日本趣味による、という条件が付けられていたらしい。
「帝冠様式」の代表のように言われるが、九段会館の和風の家根は確かに目立つのだが、構造的なものではなく、5階に当たる上屋に載せられた飾りのようなものといっていいと思う。はっきり言って趣味という以上の意味はない。



九段会館。九段南1-6。1990(平成2)年5月27日

以下、『東京建築回顧録Ⅲ』(読売新聞社編、読売新聞社、1991年、1942円)と「ウィキペディア」から引用する。
軍人会館の設立は帝国在郷軍人会が主導した。建設費の250万円は、南満州鉄道からの100万円の寄付などで賄われた。結婚式場、50室のホテル、1150人収容の大ホールなどを収め、主に軍の予備役・後備役が利用した。設計監督は伊藤忠太。
2・26事件では戒厳司令部が置かれ、二階の宴会場が司令部、司令官の香椎浩平中将は隣の役員応接室に入った。宴会場向かいの映写室から「兵に告ぐ」のラジオ放送が流された。昭和12年4月3日、愛新覚羅溥傑と嵯峨浩の結婚式が三階の大食堂で挙げられた。
戦後はGHQに接収され「アーミーホール」の名称で連合軍の宿舎になった。1953(昭和28)年8月、日本遺族会に無償貸与されて名称を「九段会館」に変更した。返還されたのは1957(昭和32)年1月で、7月に宿泊・食堂を開業、10月に結婚式場、宴会場、ホールを開業した。
2011年、東日本大震災で被災し、2人の死者を出したことで廃業に追い込まれた。現在、東急不動産が取得し、建て直しが計画されているという。

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松岡九段ビル。千代田区九段南2-2
上:1989(平成1)年4月2日
左:2002(平成14)年1月26日

靖国通りの九段坂の上にある雑居ビル。『日本近代建築総覧』に「千代田会館(旧旅館松葉館)、九段南2-1、建築年=昭和4年、構造=RC3、設計=横川工務所、施工=大塚組、地下室有り、おすすめ品」で載っている。今のビルには「松岡九段ビル」と看板が出ているが、1958年の区分地図および1969年の住宅地図では「千代田会館」である。『近代建築ガイドブック[関東編]』(東京建築探偵団著、鹿島出版会、昭和57年、2300円)でも名称は「千代田会館(旅館松葉館)」だが、その写真には「松岡九段ビル」の字が写っている。
外壁をパネルで覆って古いビルに見えないように改装されているが、『分離派建築博物館>各地の建築物』には、「竣工時の写真を見るとベイ・ウィンドウや放物線形窓,緩い曲面などにより表現主義的な雰囲気を感じさせる」「建物の裏側やパネルの隙間から顔をのぞかせる放物線形窓でどうにか往時の姿を偲ぶことができる」とあり、旧の外観に戻したらレトロな人気のビルになるのでは、と言っている。竣工時の写真も載っていて、4階を増築したと分かる。不動産のサイトに「竣工1955年」としてあるのがあった。増築した時かもしれない。
雅万歩>靖国通り(2013.11.27)』では、軍人会館(現・九段会館)や偕行社と共に、多くの軍人に利用された高級旅館だったのだろう、としている。



にっかつ1980年3月公開の映画『団鬼六 少女縛り絵図』より。このアングルの映像しか出てこないのが残念。

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フェヤーモントホテル。千代田区九段南2-1。2002(平成14)年1月26日

桜の名所で有名な千鳥ヶ淵の緑道脇にあったホテル。開業したのは1951(昭和26)年で、GHQの要請で外国人向けホテルとしてオープンしたという。その後次第に増築されていったらしいが、東京オリンピックに向けては、「1962(昭和37)年に本館南側半分を取り壊して6階建てのビルを建設、その完成後に北半分を増築」して対応している。「72(昭和47)年には207室」にまでなった(『ホテルの社会史』富田昭次著、青弓社、2006年、2000円)。
ホテルの運営主体は「小松ストアー」(銀座5丁目に「銀座コマツ」のビルを持つ)だった(東京都23区&周辺のホテル&旅館)。施設の老巧化により、2002年1月27日で廃業した。現在、跡地は「パークマンション千鳥ヶ淵」(2004年06月築、15階地下2階64戸)というマンションが建つ。



フェヤーモントホテル。九段南2-1。2002(平成14)年1月26日

撮影日はホテルの最終営業日の前日である。これは偶然だ。ちょうど昼食時だったのでホテル1階のレストランに入った。残念ながら内部を撮影していない。なにを食べたのかも思い出せない。

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竹平寮。千代田区九段南1-2。2000(平成12)円4月9日

竹橋の少し北、内堀通りから清水堀越しに見た竹平寮(大蔵省財務局が管理)。竹平寮後ろの「東京堂千代田ビル」(1977年竣工、20階建)は撮影時には「さくら銀行本店」。右のビルは「九段第二合同庁舎」(東京法務局、1986年竣工、14階建)。
竹平寮という4棟の団地は『日本近代建築総覧』には「竹平寮(旧憲兵下士官アパート)、建築年=昭和10年、構造RC3階建、設計=大蔵省営繕管財局、施工=安藤組、備考=3棟」(「3棟」となっている訳は不明)。建築名は旧町名が「竹平町(たけひらちょう)」だったのに由来する。現在の九段南の町名は1970(昭和45)年から。
竹平寮は上と下の写真を撮った2000年中に取り壊されたようだ。跡地に千代田区役所+九段第3合同庁舎が完成したのは2007年(平成19年)5月。



竹平寮1号棟。2000(平成12)円4月9日

現在、千代田区役所、九段第二合同庁舎(東京法務局)、東京地方検察庁九段庁舎の3棟のビルが建つ敷地は、戦前は憲兵司令部と佐官以上の官舎、一般隊員用のアパートがあったところである。そのアパートが2000年まで残っていたのは、戦後すぐ、焼け出された都民を収容したからで、居住者がいなくなるまで、ということは養老院に移るか死んでしまうまで待っていたというだ。

公安調査庁が1952年(昭和27年)7月に設置されると憲兵司令部だった建物に入った。『日本近代建築総覧』には「公安調査庁(旧憲兵司令部)、九段南1-2、建築年=昭和10年、構造=RC3階建、設計=大蔵省営繕管理局、施工=安藤組」とあり、竹平寮と同じである。『都市の体温』(枝川公一著、井上書院、1988年、1400円)に、憲兵司令部庁舎の工事概要が載っているが、それによると4階建で、昭和22年の航空写真からも4階建てに見える。その跡地に建てた九段第二合同庁舎が1986年竣工なので1984年頃まではあったのかもしれない。
司令部の東にあった上級隊員用の宿舎は一戸建て住宅で、12戸ほどがあった。



竹平寮2号棟。1990(平成2)年5月27日

『都市の体温』は昭和60年頃の取材で書かれている。「竹平アパート」の章には、中島氏(税理士、74歳、昭和20年12月に入居、夫婦の二人暮らし)の部屋が、「6畳、4.5畳、玄関の間2畳、台所2畳で、全120戸のうちの12戸の間取りになる。風呂はなく神保町の銭湯(梅の湯?)へ出かけた。住んでいるのは61戸」としている。



竹平寮4号棟、3号棟。1986(昭和61)年9月23日

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