あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

41 二・二六事件北・西田裁判記録 (四・完) 『 第八回公判 』

2016年06月20日 11時41分33秒 | 暗黒裁判・二・二六事件裁判の研究、記録

獨協法学第38号 ( 1994年 )
研究ノート
二 ・二六事件北 ・西田裁判記録 (一)
松本一郎
一  はじめに
二  二 ・二六事件と北 ・西田の検挙
三  捜査の概要
1  捜査経過の一覧
2  身柄拘束状況
3  憲兵の送致事実
4  予審請求事実 ・公訴事実
四  北の起訴前の供述
1  はじめに
2  検察官聴取書
3  警察官聴取書
4  予審訊問調書   ( 以上三八号 )
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獨協法学第39号 ( 1994 )
研究ノート
二 ・二六事件北 ・西田裁判記録 ( 二 )
松本一郎

五  西田の起訴前の供述
 1  はじめに
 2  警察官聴取書
 3  予審訊問調書
 4  西田の手記( 以上39号 )
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獨協法学第40号 ( 1995年3月 )
研究ノート
二 ・二六事件北 ・西田裁判記録 ( 三 )

六  公判状況
 はじめに 
 第一回公判  ( 昭和11年10月1日 )
 第二回公判  ( 昭和11年10月2日 )
第三回公判  ( 昭和11年10月3日 )
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獨協法学第41号 ( 1995年9月 )
研究ノート
二 ・二六事件北 ・西田裁判記録 ( 四 ・完 )

 第四回公判  ( 昭和11年10月5日 )
 第五回公判  ( 昭和11年10月6日 )
 第六回公判  ( 昭和11年10月7日 )
 第七回公判  ( 昭和11年10月8日 )
 第八回公判  ( 昭和11年10月9日 )
 第九回公判  ( 昭和11年10月15日 )
 第一〇回公判  ( 昭和11年10月19日 )
 第一一回公判  ( 昭和11年10月20日 )
 第一二回公判  ( 昭和11年10月22日 )
 第一三回公判  ( 昭和12年8月13日 )
 第一四回公判  ( 昭和12年8月14日 )
七  判決
八  むすび  ( 以上本号 )
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7  第八回公判 ( 昭和11年10月9日 )

前回に引き続き亀川に対して、主として二月二七日午後以降の行動に関する訊問が行われたが、
その途中で西田に対して、供述のくい違い点についての訊問がなされている。
以下、主要な部分を要約する。
(一)  亀川に対する訊問
〇  二月二七日夜、
「 西田ヨリ來テクレトノ電話ガアリマシタ。
  私ハ村中トノ話ハ既ニ村中カラ西田ニ電話シテ居ルカモ知レヌト思ヒ、
西田ニ會フノヲ非常ニ厭ナ氣持が致シ、行キタクアリマセヌデシタガ、
又行カナケレバ情報ガ手ニ入ラヌトモ考ヘ、村中トノ話ハ何ウデモナレト云フ様ニ決心シ、
北方ニ西田ヲ訪問シノシタ。
夫レハ同日午後八時頃デアツタト思ヒマス。」

〇  北に初対面の挨拶をしていると、
 「 其所へ村中ガ入ツテ來マシタカラ、私ハ大変驚キマシタ。
 村中ヲ瞞シタ事ガ愈々暴露スルト思ヒ、戦々兢々タル気持デ着席シマシタ。」
しかし、亀川にとって幸いなことに、帝国ホテルでの会合の話題は最後まで出なかった。
問  當日午前西田ト會合シタ際ハ、
  後繼内閣問題ニ附石原大佐、橋本大佐及満井中佐ノ各主張スル所ノ話ガアツタダケデ、
其ノ際山本内閣説ハ話サレナカツタト西田ハ申して居ルガ何ウカ
答  西田ト供述ガ相違シテ居テモ、私ハ私ノ知ツテ居ル事實ノ通リ申スヨリ外アリマセヌ。
 ( 後略 )
問  西田ニシテモ、被告人ノ話シタ事ヲ聞カヌト言ヒ、却テ話サヌコトヲ聞イタト言フ筈モナイト思ハレルガ何ウカ
答  何ウ云フ譯デ西田ガ私ト反對ノ事ヲ申スノカ、私ニハ判リマセヌ。
問  村中ニ撤退ヲ承諾サセタノハ被告人の手腕ニ依ル所デ、誇ルベキ話題デハナイカ
答  然シ 私ハ部隊引上ハ彼等ノ爲ニ不利ダト考ヘマシタカラ、西田ニ話シ得ナカツタノデアリマス。
問  被告人ハ、眞崎ハ勿論、全然話ス必要ノナイト思ハレル久原ニ迄電話デ聯絡シナガラ、
  當ノ西田ニ話サナカツタノハ何ウ云フ譯カ、其ノ理由ヲ明カニ申立テテハ如何
答  前ニ申シタ以外ニ、何ノ理由モアリマセヌ。
  私ノ申立ハ筋ガ通ツテ居ラヌト認メラレテモ、夫レハ致方アリマセヌ。

〇  二月二六日午後四、五時頃、亀川は鵜澤に電話で西園寺邸訪問の首尾を尋ねている。
  鵜澤は、「 西園寺公ノ御目ニ懸ツテヨク申上ゲテ置キマシタ 」 と答えた。
亀川が、「 夫レデハ之カラ御伺ヒシマス 」 と言うと、
「 警戒ガ嚴重ダカラ來ナイ方が宜イ 」 と体よく断られた。
「 私ハ、鵜澤ハ西園寺ニ會ツテ居ラヌト直感シマシタ。」
事実、その日鵜澤は西園寺に会っていない。
西園寺は襲撃を免れるため、すでに静岡県警察部長官舎に避難していたからである。
また、仮に西園寺が興津にいたとしても、突然訪れた鵜澤が元老に面会できたかどうか、疑わしい。
鵜澤は亀川に西園寺公との親密な関係を誇示していたが、西園寺の秘書の原田熊雄によると、
「 鵜澤ハ、突然興津ニ來テ老公ト面接シテ意見ヲ開陳シウル間柄デハ絶対ニアリマセヌ 」 という ( 検察官聴取書 )。
そうだとすれば、亀川は鵜澤を買いかぶっていたことになる。
これは、鵜澤の隠れた一面を知る上で、見逃せないエピソードである。

〇  亀川は、二月二八日夜から三月九日まで逃避行を続けたのは、
  警視庁の巡査から蹶起将校らが悪化したと聞いたので身の危険を感じたためであると答え、
その理由を問われて次のように述べる。
これを言葉どおりに信じることはでないが、
自らの二股膏薬的行動についての告白と理解することはできるであろう。
「 私ハ、表面上ハ彼等行動隊ニ好意を寄セ、彼等ノ爲ヲ思ツテ行動シテ居ル様ニ見セ掛ケ、
 村中ニ對シテモ彼等ノ利益ノ爲ニ撤退セヨト勧メ、
西田ノ方ハ自分ガ引受ケタト欺イテ承諾サセテ置キナガラ、
其ノ實常ニ彼等ノ爲ニ不利ナ事ヤ彼等ヲ陥レル様ナ行動ヲシテ居ルノデ、
早坂巡査ヨリ彼等ガ惡化シタト云フ事ヲ聞キマシタノデ、
私ハ之ハ右ノ如キ私ノ表裏アル事ガ暴露シタ爲デアルマイカ、
自分ノ本當ノ心ガ判ツタラ
民間側同志ハ黙ツテ其ノ儘ニシテ置イテハクレマイト思ヒ、身ノ危險ヲ感ジタノデアリマス。」
問  被告人ハ、身ノ危險ナル理由ヲ久原ニ話シタカ
答  私ハ久原ニ、『 行動隊ノ若イ者ニ追ハレテ居ル様ダカラ、匿ツテ下サイ 』 ト申シマシタ処、
  久原ハ 『 行動隊ノ者ハ味方同志デナイカ 』 ト言ハレマシタ。
問  久原デスラ信ジラレナイ様ナ事ヲ被告人ガ感ジタト云フノハ、可怪シイデハナイカ
答  實際左様ニ感じました。

(二)  西田に対する訊問
問  被告人龜川哲也ノ供述ハ被告人ノ申立ト相違スルガ、何カ考違ヒヲシテ居ルノデナイカ
答  ( 前略 )
  山本内閣説ノ事ハ、
其ノ時龜川ガ話シタカモ知レマセヌガ、私ニハ記憶ガアリマセヌ。

夜會見シタ時、私ガ眞崎ノ話ヲシヤウト思ツテ居タ時 龜川ガ突然山本内閣デ行ク事ニシテ居ルト言ハレタノデ、
之ハ意外ダト思ヒ、龜川ニ夫レハイカヌト申シテ一蹴シタ譯デアリマス。
若シ午前ノ會見ノ折 既ニ山本内閣説ヲ聞イテ居タナラ、無論其ノ場デ反對シタト思ヒマスガ、
夫レナラ再ビ夜 會フ必要ハナカツタノデアリマス。
或ハ私ノ勘違ヒカモ知レマセヌガ、何ウシテモ午前ニ會ツタ際山本内閣ノ話ガ出タトハ思ハレマセヌ。
問  龜川ハ、帝國ホテルニ於テ村中ニ對シ、西田ノ方ハ自分ガ引受ケタト云ヒ、
  村中ヲシテ部隊ノ撤退ヲ約束セシメタガ、被告人ノ反對ヲ虞レ話シ得ナカツタト申シテ居ルが何ウカ
答  龜川ノ申ス様デアレバ、龜川トシテハ當然其ノ事ヲ話シテクレナケレバナラヌト思ヒマス。
  私ガ其ノ様ナ事ヲ耳ニスレバ、恰モ時局収拾ニ苦心シテ居タ時デアリマスカラ、
望外ノ喜トシテ承諾シ、龜川ニ感謝シタ筈デアリマス。
又、其ノ際、帝國ホテルニ於ケル狀況ガ判明シテ居タナラバ、
後々彼是紛メル譯モナク、
早クマトマリガ附イテ居タ様ニモ思ハレマス。
私ハ其ノ事ニ附龜川ヨリ何ノ話モ聞イテ居ナイノニ、
村中トシテハ既ニ龜川カラ私ニ話ガアツタモノト判斷シテ居タニ違ヒナク、
爲ニ其ノ夜 村中トノ會見ニ於テモ變ナコトニナツタノカモ知レマセヌ。
此點ハ龜川ガ如何ニ申サウトモ、聞イタ覺ヘモナク、話サレテ怒ル様ナ事柄デモアリマセヌ。
寧ロ喜ブベキ事で、夫レヲ私ニ話サナカツタ龜川ノ心ガ判リマセヌ。


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