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『使い残しの夏』
十月だというのに、使い残した夏がやってきたようだ。
南から台風が二個も来て、一つは大陸の方にまっしぐらだったけど、遅れた奴が南下した偏西風に流され、日本海を北東に進んでいる。そのために太平洋の暖湿な空気を反時計回りに連れてきて、記録的な暑さだった。
なんで、こんな時期に中間テストと恨んでみても始まらないんだけど、ひどく疎ましい。
窓ぎわの席なので、外の湿気がもろに伝わってくるようでイライラする。暗記物の日本史なので、半分の時間で出来上がってしまった。
直前までノートと教科書を見て、なんとか際どい積み木を積むように、なんの意味もない言葉や年号をおぼろに覚えた。あとは、その積み木が崩れないように、片っ端に語群から、あるいは働きの鈍くなった頭を絞って答を解答用紙に埋めていくだけ。
あたしは、他の女子以上に日本史なんかには興味がない。
何百年も前の日本がドーダって関係ない。鎌倉幕府が1192だろうが1185だろうが、あたしの知ったこっちゃない。それよりも来年から上がるって言う消費税の方が心配だ。
お父さんの会社は業績が良くない。首になることはないだろうけど、給料が上がるような気配は、まるでない。帰宅部のあたしが、ノラクラ帰るのと、お父さんが帰ってくるのとがほとんど同じという日もあった。駅で目が合うと知らん顔をする。お父さんだって気まずいだろうし、この歳になって、お父さんと女子高生が、仲良く家路につく状況なんて、ラノベでもあり得ない。
放課後ってのは、部活にいそしんで、ハラペコでカバンと部活用のサブバッグ担いで、商店街の揚げたてコロッケなんかの魅力に負けて買い食い。そこを憧れの先輩にみつけられドギマギの乙女心。去年の一学期までは、そんな夢見る女子高生で、テニス部に居た。
でも、中学からテニスをやっている子には、はっきりかなわない。高校から始めた子でも、情熱の差なのか才能なのか、梅雨が明ける頃には力の差は歴然。
揚げたてコロッケは試してみた。憧れている先輩にも夢のように見つけられた。
「あ……」
そう言ったかと思うと、先輩もコロッケ買って食べ始めた。「アハハ」と笑っていっしょに歩くとかすれば、青春の彩りもちがうんだろうけど。コロッケ食ってる先輩がむしょうに情けなかった。だから、さっさと食べて、家に帰り、その期末にはクラブも辞めてしまった。
で、中間テスト。
二年の期末で、だいたいの成績が決まる。
評定平均3・7は無いと希望の大学に指定校推薦で入れない。
H大学。別にHな大学じゃない、頭文字がH。友だちの中でもなかなか志望校は言わない。指定校推薦の枠は決まっている。こんな二年の時期からガチンコしたくないから、志望校はイニシャルで言う。
そのH大学にしたって、死ぬほど入りたいってわけじゃない。自分の力と、卒業後の進路決定の内容。そして、なにより学費の安さ、自宅通学可能の魅力で決めただけだ。うちの経済力も分かってるし、二年後には妹が控えている。
ほんとのほんとは、学生専用のワンルームなんか借りて、優雅な女子大生やってみたい。まあ、現実と折り合いを付けると、H大あたりになるというだけ。
おっと、引っかけ問題にまんまと引っかかっていることに気づく。「一所懸命」を「一生懸命」とやらかしている。慌てて消しゴムで消す。
ビリ……小さな音だけど、テスト中の教室では、よく響く。顔は向けなくても、みんな気づいている。後ろのユッコが「プ」と吹き出しかける。ユッコはいいよな、お父さん銀行だもんね。で、適度に抜けてる天然。あたしみたいな平均的な女子高生の悩みはない。
教卓の前から二番目の蟹江君が、名前のように蟹が這いつくばるようにして答案を書いている。シャ-ペンの動きから。最後の論述問題に精を出しているようだ。
――鎌倉時代から読み取れる、日本人の生き方について書け――
あたしは、ハナから満点は諦めて『名こそ惜しけれ』で、四十字ほどでしまい。それを奴は……。
蟹江君は、一年から同じクラス。
名前と顔が一致したのは二学期に入ってから。二年になってからも、ああ、いっしょなんだ。その程度の感覚だった。
二年になって、蟹江君は身長が伸びて大人びてきた。部活はやってないけど、学校の外でバンドを組んでいる。ギターとボーカル半々ぐらいらしい……でも、学校では、そんなことやってるっておくびにも出さない。
休みの日、たまたま、駅のホームでいっしょになった。
「保奈美、学校には内緒にしといてくれないか」
真顔で、そう言った。
詳しい話はしなかったけど、指に出来たタコ、アイポッド聞きながらかすかにとっていたリズム感。そして、クラスメートという距離を超えて近寄ってきたときの迫力。負けたと思った。高校生としての有りようがまるで違う。その時のドギマギが、そういう気持ちなんだと気づくのが遅かった。先月、また駅で見かけた。蟹江君は気が付いていない。あたしはホームの端からチラ見してただけ。
そこを階段を上がって、ギター背中に、瞬間で「負けた」と思えるようなポニーテールが、わたしの前を通って蟹江君の方に行った。
そして、あの親しさは、バンド仲間以上のものだと、あたしに感じさせた。蟹江君の白い歯と、彼女の残り香が、あたしの胸を締め付けた。
あたしは、分相応のあたしでいいと思う。だから蟹江君のことは、遠くから見てるだけ。それでいい……。
でも、さっき答案が破けたとき教室の空気が一瞬緩んだけど、蟹江君だけは、我関せずと答案に熱中していた。
「一所懸命」を直したあとは、蟹江君意識しながら、ポワポワと頭に浮かぶことをもてあそんで時間を潰した。
突然殴りつけるような雨が窓ガラスを叩いた。
あの時も、こんな風な雨風だった……高校最後の思い出にユッコたちと二泊三日で近場の湘南に行った。そこでゲリラ豪雨に遭って、半日泳げなかった。同宿の大学生のグループと一緒に、バカな話をして時間を潰した。常識人で枠からはみ出ない。わたしたちと一緒の時は自分たちもノンアルコールで、けしてあたしたちに無茶はさせなかった。リーダーのトメさんという人がしっかりしていて、メンバーをまとめていた。いつか雨も上がったので、足だけでも海につかろうって、海岸に行った。
わたしは酔っていた。トメさんの面白い話しに、足だけでもという機転の利かせ方に……。
気がついたら……うそ、流れは分かっていた。
「人を愛する前に、何がある?」
「え……出会いかな?」
「Hだよ。Iの前はHだ!」
「アハハ」
そんな軽いノリが大人なんだと思って、気楽な……ふりしてホテルに行った。
トメさんは、優しかった、けして無理は言わないし、裸にされたときも気の利いた冗談に笑っていた。
あとで考えたら、トメさんという人は、そういうことに慣れていたんだ。さりげなく、あたしが六月生まれで十八歳になっていることも、トランプの星座占いで確かめていた。でもいい、トメさんはいい人だったから。
そのわりには、その後二度ほどメールのやりとりがあっておしまい。わたしは三度目のメールには返事打たなかった。トメさんは、それっきり。深追いしない人なんだと思った。
でも、それから、蟹江君をまともには見られなくなった。気後れ、それとも……。
夏の使い残しのような、ムッとするような雨上がりの道を、バカだな……あたしったら、駅一つ向こうまで歩いてしまった。
「ヨッコイショ……」
オバアチャンみたいな声あげて、あたしは無防備にシートに座った。
そして、電車が動き出して気がついた。
「か、蟹江君……」
「氷室って、ほんと鎌倉的自由人だよな」
「か、鎌倉的?」
あたしは、トメさんと行った、鎌倉近くのホテルを思い出し、心臓がドッキンした。
「あのころは、女の人も元気でね、氷室みたいな女の人いっぱいいたんだぜ」
蟹江君は、北条政子とか、鎌倉時代の男女関係の自由さや、大らかさを語ってくれた。
「オレ、そういう氷室って好きだぜ」
「え……」
「氷室、誕生日いつ?」
「あ、えと、六月だから、もう終わっちゃった」
「なんだ、ユッコは氷室のこと蠍座とか言ってたから……」
「あ、ユッコ、そのへんいいかげん。星座って自分の生まれ月の蠍座しかしらないから」
「ああ、勘違いさせちゃったか」
蟹江君は、カバンの中をゴソゴソし始めた。
「こんなもんで悪いけど、映画館の株主券。夏の使いのこしだけど。遅ればせのバースデイプレゼント」
「あ、ありがとう……」
あたしは、自分をちょっとだけ見なおしてもいいかと思った……。