大橋むつおのブログ

思いつくままに、日々の思いを。出来た作品のテスト配信などをやっています。

高校演劇・ダンス部に追い越された高校演劇

2012-06-29 09:49:02 | エッセー
ダンス部に追い越された高校演劇!

☆新聞の見開き全面!
 今朝(6月28日サンケイ新聞)を見てタマゲタ!
 第5回日本高校ダンス部選手権の記事が、16・17面見開き全面に載っている。

 高校演劇では、過去にあり得なかった扱いである。全国大会は8月20日にパシフィコ横浜で行われ、その様子はフジテレビで全国放送される。
 会場のパシフィコ横浜は収容人員5000人。高校演劇の全国大会は、せいぜい1000人あまりのホールである。もし、高校演劇の全国大会を、こういう規模の会場でおこなったとしたら、観客席は3割も入らないだろう。
 ちなみにネットで検索すると、高校演劇は191万件、高校ダンスは291万件と100万件の差をあけられている。

 高校ダンスのサイトから、最新のニュ-スをひいてきた。

【近畿・中国・四国大会抽選会】

第5回日本高校ダンス部選手権の抽選会が各地で
続々と行われています。
近畿・中国・四国大会の抽選会場でも、出場順が一番の高校が
選手宣誓に選ばれるとあり、会場は興奮と歓声の声に
包まれていました

>>抽選会の様子はこちら

 まだ組織的には、23都府県245チームでしかないが、明らかに上昇機運にある。
 動画投稿サイトをみると、「なになにを踊ってみました」や、「なになにバンドです」などという、ダンス、ダンス部、軽音部関連の投稿が圧倒的に多い。今、YHOOの動画を検索してみたが、その投稿の質と量は高校演劇を大きく引き離している。
 今年からは、「第一回日本中学ダンス選手権」も行われる。地方により程度の差はあるが、中学演劇は絶滅の危機に瀕している。
 
☆変わってきた時代の要請
 高校演劇の生徒諸君や先生方がサボっているということでは無い。それぞれの学校で元気に、あるいはタソガレながら、なんとか、その命脈を繋いでいる。
 高校生の自己表現手段は演劇から、軽音、ダンスへとシフトしつつあるということが根底にはある。
 大阪のある学校で、演劇部が新入生歓迎公演をやるので、部員みんなが、各教室を回って宣伝をやった。本の作者の大沢ケイトさんもやってきた。しかし入りはさんざんだったようである。ちなみに、この学校は、吹奏楽、軽音部に100名以上の部員がいる。
 
 今の高校生は、演劇的な表現に興味を示さない……そう結論づけるのは早計だろうと、わたしは思う。

☆時代に合わない演劇部
 わたしは、専門家と言えるほど芝居は観ていない。1年で30本ほどであろうか。観にいって共通して感じるのは、プロアマに関わらず、観客の高齢化である。私自身アラ還であるが、芝居を観にいくと、自分を若く感じられる。若い人は、今の演劇そのものに魅力を感じていない。
 では、全てが、そうかというと、そうでもない。劇団新感線などは、チケットが1万円を超えるのにもかかわらず、観客動員能力が数万人あり、その観客席には若い人も多い。
 地元大阪では「劇団太陽族」劇団「往来」が若い観客をしっかりつかんで、観客動員も1万人近くにいっていると、観客席の埋まり方、ステージ数から推測される。
 わたしの不勉強かもしれないが、それ以外の演劇(タレントさんによる商業演劇は除く)は、タソガレテいる。
 問題はいろいろあるが、一言で言えば「時代に合っていない」ことに原因がある。
「学校は道徳の博物館」という言葉がある。大学で教職課程をとれば、どこかで出てくる言葉である。
「学校は文化の博物館」と、わたしは言う。ダンスや軽音は、学校内ではなく、学校の外にサクセススタイルを持っている。AKB48やJポップスのユニットなど。だから、一定のレベルを超えると、高校関係者以外の人やマスコミも興味を持つ。
 演劇部は、どうであろう。ザックリ言って、そのサクセススタイルは、同じ高校の実力派(と言われる)の学校の演劇部にある。その実力派の学校は、表現が古いだけでなく、時代に遅れている、いないの以前の段階で、芝居になっていない。
 このことは、他のブログで詳述しているので触れない。演劇とは、役者が、自分の心と体を使って他者を演じ、観客にカタルシスを与えるものである。この他者になりきれていない。
 そして、半分以上を占める創作劇(大阪は、実に90%を超える)の、本の弱さである。高校演劇でエライとされている顧問作家をネットで検索すると、他校での上演実績が、まるでない。
 アケスケな言いようをすれば、顧問が主催者になり演劇部という劇団を持ち、そこで自足してしまっている。わたしの古い知り合いで、大阪の高校演劇の重鎮と言われる先生は、名前で検索しても出てこない。頭に学校名を付けて、やっと出てくる。で、上演実績がない。

☆明日の高校演劇
 紙幅を超えてしまうので、わたしの他のブログを見ていただきたい。
 間接的な答えであるが、好奇心である。フランス人と国際結婚した友人が、電信で、よく写真付きの手紙を送ってくる。「大した好奇心やね!」と返事をうつと「好奇心を失ったら、人間終わりでしょ」と、返事の返事が返ってきた。
 ツィッターで知り合った、若手の女優さんに、ある戯曲を紹介した。
「恥ずかしながら、知りません」と、返事が返ってきた。
 紹介した本は、1950年代の後半にブロードウエーで大当たりをし、その後映画にまでなった本である。
 彼女は、映画のDVDを借りて、観て、素直に感動した。この好奇心と感性が、高校演劇の関係者には必要であると思う。
 ちなみに、わたしが勧めた名作は、ウィリアム・インジの「ピクニック」という。ほとんどの人は知らないと思う。家に映画好きのお年寄りがいれば、聞いてみるといい。モンローの「バスストップ」って、知ってる? もし、モンローを知らなければ、検索するところから始めよう。好奇心が全ての始まり。
コメント (1)

高校演劇・クラブはつらいよ(夏編その二)

2012-06-29 07:32:36 | エッセー
クラブはつらいよ(夏編その二)

☆夏が来れば
 夏がく~れば、思い出すぅ~はるかな尾瀬~遠い空~♪ なんて歌を知っているのは、四十歳以上の顧問の先生ぐらいであろう。
 演劇部というのは、おしなべて夏がくればわすれちゃう~というか、忘れられてしまう存在である。七月に入ると期末テスト一週間前で部活は停止。テスト中は言わずもがな。テスト後の短縮授業では、ちかづく夏休みに気もそぞろ。バイトやバケーション(V・A・C・A・T・I・O・N たのしいな~♪ 古いなあ~)の予定に、あーでもない、こーでもないと頭は夏休みのシュミレーションモードで、太陽がいっぱい(これも、古いなあ~)頭がいっぱい。中には、夏の合宿を含め、夏のクラブ活動の予定をくんでおられるクラブもおありのことと思うが、実質夏は休部状態というところが多いのではないだろうか。 
 
 わたしは、夏の部活は基本的にはやめたほうがいいと思っている。
 
 合宿は言わずもがなである。わたしの初任校の演劇部は毎年、奈良の洞川で二拍三日で合宿をやっていた。いまでこそ道路は整備されているが、当時はまるでラリーのコースのような悪路で、ついた初日は夕方まで生徒全員がゲロゲロの車酔いで、練習どころではなく、夕飯もろくに食べられない。そんな状態で、発声練習や寸劇の発表会。むろん花火をやったり、トランプで遊んだりの息抜きタイムもあるのだが、基本的にはスパルタ的で実効性をともなわない精神的な行事であった。学校によっては、学校の施設を使って、安上がりでソフトな合宿をおこなっておられるクラブもおありであろうが、あえて断言する。
「やめときなはれ」
 たった、二三日の合宿で得られる成果など、たかのしれた精神的な錯覚にすぎない。
 我田引水で恐縮であるが、わたしがクラブの正顧問になった年に合宿も、夏の部活もやめさせ、日頃の部活も五時までとした。その結果、毎年コンクール(研究大会)で、万年優秀賞という名の二等賞であったクラブが、府大会で一等賞をとり、近畿大会では二等賞になった。
 なにも、やみくもに活動時間を縮小しろと言っているのではない。春から、いろんなところで触れてきたが、部活は量よりも質である。前号までに言ったことはくり返さない。夏のクラブのあり方にしぼって話を広げてみたいと思う。

☆夏こそシフク(雌伏、至福、私服)の時である!
 なんだか、親父ギャグのようであるが、こういうことである。夏は本を読む。地域の図書館に私服で通い、たくさんの本を読んで欲しい。戯曲であることが望ましいが、地域の図書館では演劇書としてまとまった分類をしているところは少ない。気の向くままに本を手にとり……というのには、図書館というところは本が多すぎる。
 
 テクニックは、児童書である。「わたしは、文学部出た教師ですよ!」「ええ、わたしもう高校生だよ!」というなかれ。いきなり分厚い大人の本を手にとっても、へたをすれば、一夏その本にかかりきりになり「本なんかムズイよ~!!」ということになりかねない。司馬遼太郎さんが、こう言っている「自分の専門外のことで、基本的な知識を得たいときには、児童書を手にとる」
 
 児童書をバカにしてはいけない。著者や監修者はたいてい一流の学者や作家の方々で、子供が読むことを前提に易しく、かつ要点をきわださせて書いてくださっている。
 ちなみに、わたしが『わたしの徒然草』で、いちばんお世話になっている本は講談社版「21世紀版少年少女古典文学館」である。監修は司馬遼太郎、田辺聖子、井上ひさしという豪華メンバーである。以前戯曲を書くにあたって、ギリシア・ローマ神話についてしらべなければならないことがかあったが、そのときの参考文献は、岩波少年文庫「ギリシア・ローマ神話、ブルフィンチ作、野上弥生子訳」であった。そして今ハマッテいるのが、角野栄子の「魔女の宅急便シリーズ」メグ・キャボット「プリンセスダイアリー」 安房直子の児童文学もの。
 以前は氷室冴子、赤川次郎、などであった。いささか自己宣伝になるが、わたしの関係した本のほとんどは児童書あつかいである。夏休みは私服で図書館に通い、児童書を手に至福の時間を過ごし、一部のスパルタ式演劇部が、合宿だ夏練だと汗水たらしている間、秋にそなえて雌伏の夏としよう。ただ、のんべんだらりと部活を休んで、部員を放し飼いにしろということではない。夏休み中一二度でいいから、部員全員が集まれる日をつくり、情報交換をし、たがいをヨイショすることをわすれてはいけない。休み中も携帯などで情報交換をし、たがいのテンションが下がらないようにつとめなければならない。そして、八月の下旬に始まる短縮授業の昼下がり、どこか冷房のきく部屋を借りて、それぞれ夏の成果をプレゼンテーションできるようにし、秋の文化祭や、コンクールに備えられるようにしておこう。また、できたら自分たちで、たとえ上演にこぎつけられなくとも、創作劇の一本くらいできていることが望ましい。

☆基礎練習
(1)創作劇の基本 
 今まではおもに演ずることについての基礎練習についてのべてきた。今回は本を書くことについてのべてみたいと思う。
 わたしは劇作家、それも主に高校生など若い人向けの本を書いてきたので、本の書き方を教えるなど、自殺行為……かもしれないが、「こんないいことを言う大橋むつおという作家の本は、おもしろいのにちがいない!」と、感じてもらおうという下心が……ゴホン、ありません(ほんまかいな)
 
 全国の有意の高校生や顧問の先生の部活の、ささやかなヒントになればと祈念するのみであります。演劇部にむいた戯曲というのは、案外少ない。たとえあったとしても、細かいところで自分たちと間尺が合わず、テキストレジー(脚色)することになる。
 
 世の中には著作権法というものがあり、著者の許諾なしに本に手を加えることは禁じられている。また、本来ひとの戯曲を上演する場合は上演許可をもらい、上演料を支払わなければならないと、わたしは考えているが、それはまた、別の機会にさせていただこう。
 
 あけすけに言えば、自分たちで創作してしまえば、著作権にまつわるややこしい問題はクリアーできるし、なにより自分たちの身の丈にあった本がつくれる(うまくいけばの話ではあるが)
 
 結論からいうと、本を書くというのは多分にインスピレーションであり、文字でそれを伝えるのは、水泳や自転車の乗り方を本でつたえるようなものであり、結果としては隔靴掻痒(辞書をひいてください。じつは、これが本書きの基本になる)なものにしかならないが、ヒントになればという気持ちで読んでいただきたい。

○おもしろがりになろう!  
 わたしたちの仲間は、これを「スケベエ根性」とよんでいる。「野次馬根性」に近いが、微妙にちがう。まあ、どうでもいい程度の違いなので、ここでは同義としておこう。
 
 劣等感や、ひねくれ根性は、本書きにとって大事な資質である。ひねくれ者のの君、自信をもとう! 
 わたしは、いちおう本書きなのでシェーピクスピアの本は一通り読んだ。だれでも多分ご存じであろう「ロミオとジュリエット」これを読んだとき、ハタと気がついた。
 自分で言うのもなんであるが、ひねくれ者であるがゆえに気がついた。ロミオはジュリエットに一目惚れしたときにすでに恋人がいたのである! 名前しか出てこないが、ロザラインという飲み屋の女の子である。第二幕第三場、白水社の小田島雄志訳では八十七ページから八十九ページにかけて出てくる。
 ロミオはこのロザライン(名前からして、カワユゲではないか! 宝塚歌劇「エクスカリバー」では、やんごとなき姫君として登場している)を、あっさりふってジュリエットのもとに走るのである。
 わたしの青春時代はふられっなしであった。それゆえに、かのロザライン嬢の運命やいかに!? と感情移入して、この名前しかでてこない女の子ことのみに気をくばって読んでみた……出てこない。もうどこにも出てこない。彼女は八十九ページを最後に、プッツリとその姿を消してしまう。おそらくシェイクスピア先生も途中でお忘れになったのであろう。
 嗚呼(ああ)不憫なるかなロザライン! なんとか、彼女のむくわれぬ恋に決着をつけてやりたい! と、かくして彼女の恨みと、その恨みを超えたロミオへの想いを軸に、ロザラインを主人公にしたドラマができあがる。しかし、ふられっぱなしであったわたしは、このロザラインをして幸福ならしめんことにも抵抗があった。そして最後に大どんでん返しの結末をむかえるのである。あとは拙作『ロミオにふられたロザライン』(門土社版「自由の翼」に収録)をごらんに……思わずCMになってしまった。
 
 白雪姫に口づけする王子さまが、もう少し考え深ければ……「この姫、美しくはあるが、性格はどうだろう? 昔から、美人薄情というではないか……ちがったっけ? 他に恋人がいたらモメやしないだろうか? ボクってフェミニストだから、きっと、そいつに持ってかれてしまうだろうなあ……それに、これは個人の恋の問題だけではないのだ。国と国との関係……日米関係のようにこじれさせてしまうことにはならないかしらん?」などと悩んで口づけできなかったらどうなるだろう?
 
 三月十日は東京大空襲の日である。と、ニュースでやっていた。で、十日ほどすると、宝塚音楽学校の入試のニュースをやっていた。この二つが頭の中で結びついた。宝塚に入りたかった女の子も何人か犠牲になったんじゃないかしらん?(実際は昭和19年、20年は募集停止。後で知った)
 なんせあの空襲では、広島、長崎を超える十万人がなくなっている。図書館で、この空襲の写真を見た。いろんな人が亡くなっていた。セーラー服にもんぺ姿の女子学生も……そこで、わたしのやり場のない想いがふくらんでしまい、あっというまに咲花かおるという、宝塚を夢見ながら召されていった女学生の話のデテールが浮かびあがった。『すみれの花さくころ(宝塚に入りたい物語)』ができあがった。これも我田引水ではあるが、わたしの中にある「夢は叶わないことがあるが、伝えることはできる」という想いが触発されたからであり。この「夢は伝えられる」というのは、明治、大正生まれの先輩方が、わたしが青二才だったころに有形無形に身をもって伝えてこられたことである。「おもしろがり」とは「想いを知りたがり」の短縮形であるとおもうのだが、いかがであろうか。 

○隔靴掻痒 おわかりになったであろうか? 
「かっかそうよう」と読む。足がかゆいのに靴の上からかくようなもどかしさがするという意味である。
 知ってる人には効果はないのだが、もしこの四文字熟語を知らなければ、「あ、そうか!?」ということになる。これがインスピレーションに近い。中にはこの言葉に触発されて、話を思い出したり。思い浮かんだ人がいるのではないだろうか。たとえば、これを読んでいるあなたを女子高生だとする。すると、かつて男の子から告白されたことなど思い出したりはしないだろうか? 
 相手ははっきりしないやつで、「好き」の一言が言えずにウジウジ。「はっきりせんかい!」 ここから話が始まる。また、こっちはキライというサインを送っているのに、鈍感なのか、あつかましいのかさらに言い寄ってくる男。「ウウ……絞め殺したろか!」するととたんに「わたしの中に、こんな嗜虐生(いじめたろ、という気持ち)があったのか!?」と思ったことはないだろうか。
 太宰治はここから「かちかち山」という名作を、思い立った。もっとも太宰の場合は娘に「かちかち山」の、おとぎ話を読んで聞かせたところ「タヌキさんかわいそう」という感想。そこから、タヌキは人のいいオッサン。ウサギはやっと少女期をぬけたかという若い女性。このタヌキがカワユイウサギに一目惚れ。あの手この手でウサギにアプローチ。それをウザイと思ったウサギは、泳げぬタヌキを泥の船に乗せ溺れさせる。タヌキの末期(まつご)の言葉「惚れたがわるいか!?」 ウサギは、そのタヌキを船の櫂(かい)で打ち据えとどめをさし、額の汗をぬぐい、一言「ほ、ひどい汗」
 遠回しではあるが、これが本書きの最大のコツであり、資質である。

(2)創作のみちすじ
 創作の基本は、前述したようにインスピレーションで、本を読むことと、自分の体験から、それを感得する感性をやしなうしかない。
 しかし、感得したインスピレーションを戯曲のカタチにするには二通りの「みちすじ」がある。一つを赤塚不二夫方式。もう一つを落語方式といっておこう。 
 赤塚不二夫は、昭和を代表するギャグマンガ家であるが、彼の作品の多くは結末を考えないで描き出されたものであるらしい。たとえばバカボンパパが道を歩いている。あとはなにも決まっていない。ダンプが走ってきて、パパが轢かれそうになる。そこをレレのおじさんがパパに「おでかけですか~」と声をかける。パパは振りかえって、「ちょっとそこまでなのだ」 ハンドルを切りそこねたダンプは壁に激突。それを見ていたホンカンさんが「バカボンパパの、ちょっとそこまでなのだ。が事故の原因なのだ! だいたいちょっとそこまでなのだは、怪しいのだ!」とピストルをうちまくる……。
 というぐあいにキャラの行動や発言が、次のドラマ展開の軸になり、そのあとは作者自身もわかっていない。作者も分かっていないのだから、読者に分かるはずもなく、話は奇想天外な展開になり、作者の感覚が優れていれば、とてもワクワクする名作ができあがる。推理小説の内田康夫さんなども意外だが、この手法をおとりになっていると聞き及んでいる。劇作家では、つかこうへいさんや、唐十郎さんがこの赤塚方式であるとにらんでいるのだがいかがであろう。
 もう一つの落語方式は、最初にオチが考えられ、そのオチに向かって話しが構成されていく。たとえば落語の超大作「地獄八景亡者の戯れ」は、地獄に落ちた亡者たちがそれぞれの特技を生かして、地獄の責め苦をのがれ、頭にきた閻魔大王が人呑鬼に彼らを食わせてしまう。しかし亡者たちはそこでも知恵を働かせ、人呑鬼を体内から苦しめ、人呑鬼をしてこう言わしめる「こうなっては閻魔さん。あんたを飲むしか方法がない」「なんでや?」と閻魔「そやかて、腹痛にはダイオウを飲むしかない」 
 お分かりであろうか。昔の腹薬「大黄」と閻魔の「大王」をかけた、いわゆる「地口おち」 つまりダジャレで落ちることである。「鶴の恩返し」などは、最初から男が鶴女房との約束をやぶり、機をおっているところを覗いてしまい、破局にいたることが予定されていて、この、落語式に分類される。この筋立ては、話としては安定したものになるがオチ(結末、テーマ)を先読みされやすく。えてしてつまらない本になりがちだということである。ただ構造的にはしっかり設計された建築物のようながっしりとした安定感があり、優れた作者の手にかかると「夕鶴」のような名作がうまれる。
 余談ではあるが「夕鶴」はぜひ一度は読んで欲しい。台詞が磨きこまれており、全体としても、部分としても、とても美しい日本語になっており。劇的構成も、起承転結がしっかりしていて、劇作の教科書といってもいい作品である。

(3)劇作の現実 
 では、実際の劇作にあたって劇作家は(2)で述べたように赤塚方式、落語方式とはっきり分かれているかというと、そうではない。たくみに両方の手法を組み合わせている。手前みそではあるが、拙作の「ロミオにふられたロザライン」は、とにかく、ロザラインの悔しさをジュリエットにぶつけてみたいという衝動で書き始めた。途中でオチが頭にうかび、オチにむかってドラマをまとめ再構築したもので、赤塚方式と落語方式の折衷(コラボ)である。亡くなられた井上ひさしさんも、僭越ではあるが、両方の手法をもちいられたのではと、作品を読んで感じる。
 
 やはり、本書きとして一番重要なことは、前述したインスピレーションであると思う。そのインスピレーションを磨くためには、たくさん本を読み、たくさん芝居を観、なによりもたくさん人と接し、世の中の出来事をキャッチするアンテナを高くかかげておくことである。
 今回は、専門の劇作であったので紙幅を使いすぎ、コントを入れる余裕がなかった。来月は、その埋め合わせをしたいと思うので、どうかご容赦のほどを。
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タキさんの押しつけ映画評・5『ベルセルク 黄金時代篇Ⅱ ドルドレイ攻略』

2012-06-24 07:16:28 | 評論
ベルセルク 黄金時代篇Ⅱ ドルドレイ攻略

これは、友人の映画評論家ミスター・タキさんが、個人的に身内に流して、互いに楽しんでいる映画評ですが、あまりに面白くモッタイナイので、タキさんの許諾を得て転載したものです。

 例によって原作ご存知でない向きにはあんまり楽しめないアニメであります。
 3部作で、本作は二作目とあってまだなんとも言えないのですが、今回は原作の説明など、やってみす。  舞台は……そう、我々の歴史で言えば中世終わり頃のヨーロッパ、イギリスとヨーロッパ大陸が地続きの世界を想像して頂ければ、大体この作品のバックグラウンド。
 主人公はガッツと言う名の戦士、戦場で吊された母から産まれ、傭兵に育てられて幼い頃から戦働きに出て、懸命に生き残ってきた。
 原作の冒頭は、妖精パックを道連れに、巨大な剣を駆使してこの世ならざる者達を狩って回っているガッツの物語から始まる。 本作は、青年(とはいえ10代後半)となったガッツがグリフィス率いる“鷹の団”と出会い“蝕”(後に彼がこの世ならざる者「使徒」を追うようになる原因)を生き残るまでを描く。
 
 この世界では、ミッドランドとチューダー王国の間で百年戦争が繰り広げられていた。ガッツとグリフィスは敵同士であったが、ガッの戦いぶりを気にいったグリフィスに入団を勧められる。一匹狼のガッツは即座に拒否するが、1対1の果たし合いに敗れ、以後 “鷹の団”の切り込み隊長となり、グリフィスにとってなくてはなら右腕と成って行く。しかし、グリフィスを知れば知る程 「この男とは対等でありたい」との想いが消しがたくなり、チューダーに対する戦勝を期に団から抜ける決意をする。止めるグリフィスを今度は果たし合いで破り、剣で奪われたものを剣で奪い返して一人旅立つ。
 グリフィスにとってガッツを失った事は考えられる以上の痛みをもたらし、彼は心の隙間を埋める為 王女を抱く。 これが王の知る所となり、グリフィスは投獄され容赦ない拷問を受ける事となる。鷹の団も国王の罠にかかるが 何とか逃亡し、野に在ってグリフィス奪還を目指す。
 旅の空で この事情を知ったガッツは鷹の団と合流、グリフィスを救出するが 時既に遅くグリフィスは不具者となり果てていた。絶望の内に団から離れようとするが、自由にならない身体ゆえ 浅い沼地で立ち往生してしまう。そこで無くした筈の“ベヘリット”と出会う。
 “ベヘリット”とは、御守りとして様々な人々が持っているのだが、実は「異界」の扉を開く鍵であり。一度手にすると、無くしても必ず持ち主の所に戻って来ると言われている。グリフィスのベヘリットは中でも特別な物で「覇王の卵」と呼ばれる。
 グリフィスの絶望に応えて異界が開き、4人の黒き天使が降臨し、「それでもお前の渇望が止まぬなら、命同様に大事な者を捧げるか、それとも亡者の列に加わるか」 と問う。折からグリフィスを案じて追って来ていた団のみんなの前で、グリフィスは言う『……げる』と。鷹の団に地獄が降りかかり、全ての団員に生け贄の烙印が刻まれ、一人また一人と使徒に喰われて行く。最後まで生き残ったのはガッツと女戦士キャスカ(グリフィス不在の鷹の団を統率してきた。この直前にガッツと結ばれる)
 グリフィスは5人目の黒き天使フェムト(翼ある者)として再生し、身動きできないガッツの目の前でキャスカを犯す。絶体絶命の窮地に、謎の剣士が“蝕”の中に乱入し二人を救い出す。蝕を逃れはしたものの、生け贄の烙印は消えず、二人は使徒に追われ、悪霊に付きまとわれる運命を背負う。精神に病んだキャスカは、ガッツの子を早産するが、その子供はフェムトの精を受けて魔物と成っており、何処かへと虚空に消える。助けてくれた謎の騎士から黒き天使と蝕の意味を教えられたガッツは、キャスカを 団の中で一人蝕を免れた少年兵リッケルトと世捨て人の鍛冶屋一家に預け、一人 黒き天使と使徒を求めて旅立つ。(今シリーズはここまで)
 現在は数々の戦いの末に見つけた仲間達と共に、キャスカの安住の地(と考えられる)パックの産まれ故郷であるエルフヘイムを目指している。(現在36巻) シリーズ1の時にも書いたが、コアなファン以外 映画館に通う必要はない。3作出揃ってディスクになったらレンタルするか、衛星放送に乗るのを待てば宜しかろう。
 
 これも(1)の時に書いたが、尺が足りずショートカットになっている。カットされた部分は今作の方が大きく、替わりにアニメオリジナルの場面が挿入されている。(1)ではそこまで感じなかったが、今作での変更は物語の中身を薄くしている。やはり、一本最低2時間とするか、90分4部作としなければ無理が出る。贅沢を言っているのは理解しているが、劇場用シリーズアニメでその程度の尺を持っている作品は現実に有るので出来ない事もなかろうと思うのだが……。
 これで終わるとあまりにも寂しい。そこで、ファンの皆様に朗報を一つ。旅に出たガッツがすれ違う馬車の中にパックの姿有り!
 と言うことは、今後“蝕”以後の「ベルセルク・サーガ」が映画化される可能性があるという事です。
 待てよ、本シリーズが不入りだとそんな企画は流れる……?!
 いかん!前言撤回! 皆さ~~ん!メッチャ面白いアニメですぅ! 今すぐ見に行って ディスク化されたら購入しましょう。ちなみにシリーズ第一作はもうディスクが販売されてます。宜しくお願いしま~~す。
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劇団往来『あした天使になあれ』

2012-06-24 00:16:03 | 評論
劇団往来『あした天使になあれ』

あっぱれ、やっつけ芝居!
 
 一週間ほど前に、往来の演出家鈴木君と共通の友人である映画評論家のタキさんから聞いていた。
「往来の台本、まだ決定稿できてへんらしいで」
「ほんまかいな!?」

 で、どうなんだろうと思いながら京橋駅から、会場の「大阪ビジネスパーク円形ホール」に向かった。
 ツゥイン21の双子ビルを抜け、会場に入ると旧知の劇団員が場内案内に立っていた。
「なんや、今度は、本あがるの、遅かったそうですなあ」
 その劇団員は、アンチョコで宿題をやった生徒が、先生に見とがめられるように答えた。
「そうですねん、本あがったん、三日前ですわ」
「ハハ、それは大変でしたなあ」
 軽く会釈して席に着いて気がついた。

――三日前ちゅうことは、初日の前の日か……!?

 普通、こういうことを関係者は、アケスケには言わないものである。
 わたしも、礼儀上書かないつもりでいた。
 一ベルが鳴ると、ベテラン俳優の乃木さんが舞台に現れた。上演前に関係者が観客に言う、お決まりの挨拶を兼ねた注意事項かと思った。
「ええ、音の出る携帯電話なんかのスイッチ……」から始まった。
「演出効果のため、非常灯は消します。万が一異常が有った場合はご安心ください。まっさきに役者が逃げます。みなさんは、その後につづいて……」と、笑わせてくれる。そして、言ってしまった!
「えー、実は、このお芝居の本は、本番の前日にできあがりまして……」

 で、わたしは、正直に書いている。あっぱれやっつけ芝居!

 この芝居は、同名の映画とのコラボ作品である。映画の方は鋭意制作中であるそうな。舞台劇の映画化も映画の舞台化も多いが、両方同時進行というのは珍しい。

 中味は、大阪にあるミュージカルを主体としたアマチュア劇団「アップルパンチ」の劇団員と、その周囲の人たちの、どこか抜けた明るくもおかしい、人間のオモチャ箱のようなコメディーミュージカルである。
 劇団の代表者は、芸名と同じ要冷蔵(かなめれいぞう、と読む)は、劇団員の恋やイザコザに振り回され「劇団内の恋愛は御法度!」
 と、言いながら、劇団員の看護婦……看護師に心を寄せている。看護師も憎からず思っているが、こちらもなかなか言い出せないでいる。
 その間に、劇団員三人が東京のオーディションに受かり、大地真央と共演できることになり、勇んで東京に向かうが、これが真っ赤な詐欺。詐欺にあったとも言えず、スゴスゴと大阪にもどってきた三人は、みんなに合わす顔もなく、夜の稽古場に戻ってくる。そこには、若い劇団員のカップルが稽古場をラブホ代わりに使おうとしていたり、三人を詐欺にかけたペテン師がドロボウにはいろうとしたりして鉢合わせ。
 他にも、劇団員の家庭問題、職場の問題、ミス花子氏が大将……オーナーシェフをやっている「まんぷく亭」などが出てきて、中味はまさにまんぷくの二時間半である。
 
 そう、二時間半の尺の長さである。
 ここに、この本の第一の苦しさがある。普通二時間半ならば中入りが入るが、ぶっ通し。おそらく本番の直前まで、芝居の長さも分からなかったのであろう。わたしも本書きのハシクレなので分かるのだが、本の刈り込みが出来ていない。エピソードは、劇中の劇団員の病院の産婦人科の患者二人のエピソード、職場の体験学習に来る子供たち。院長のシンポジウム、これが笑いがいかに健康に良いかと笑わせてくれた後に、子ども二人の漫才、ミス花子氏のソロ、デュエット、カルテット、クィンテット、コーラス、それにダンスがついててんこ盛り。
 ヤマが三カ所ほどあり、その都度、観客はフィナーレと思い拍手しかけるが、「まだかいな」とばかり話が続く。やっぱり刈り込んで、せめて二時間以内に収めるべきであったろう。

 十数行前に「どこか抜けた明るくもおかしい」と書いたが、役者の芝居がまさに、これであった。
 場面によって、出来にバラツキがあり、演技としてどこか抜けている。ダンドリ芝居や引き出し演技になっているところも多々あり、芝居が空回りして、観客に伝わりきっていない。
 しかし、芝居は「これでもか、これでもか」と、しつこいくらいに明るく、押しつけがましい。
 で、それが不快に感じられないところが、往来のオモシロサである。
 ラストは、この強引なしつこさに観客は飲み込まれ、舞台の役者に合わせて満場の手拍子。観客席を見ると、心から喜んでの手拍子、「かなんなあ」と思いながら、その強引さが楽しくて拍手している人。
 いやはや、あっぱれな、やっつけ芝居であった。

 並の劇団が、これをやると、観客は引いてしまうだろう。しかし往来という劇団は、ヌケヌケとそれをやってしまう。こういう強引さは、わたしは好きである。

 帰りにツィンビルの中を通ると、高校生とおぼしき若者たちがビッグバンドジャズをやっていた。素人のわたしが聞いても上手いのだが、会場は、あまり温もっていなかった。ジャズであるのにスゥイングできていないのである。映画『スゥイングガールズ』の中で、彼女たちは、立派にスゥイングしていた。わたしは、この作品が好きで、彼女たちの「ラストコンサート」のDVDも持っている。時に音を外したりするが、観ている観客はスタンディングオベーション。椅子がないので立っているが、気持ちはスタンディングオベーションである。
 彼女たちのスゥイングのノリと同質のものを感じた好演であった。
 しかし、次回は、きちんと本を書き上げ、時間をかけて稽古した芝居を見せていただきたいものである。 

 ささいなことであるが、劇中「女性警官」のことを「婦人警官」と呼んでいた。これは非難では無い。わたしは「女性警官」よりも「婦人警官」の呼び方に親しみを感じる……と言えばお叱りをいただくだろうか。「看護師」も、どうも耳になじまない。ちなみにパソコンで変換すると「看護し」しか出てこない「看護婦」は一発で変換できる。「看護婦さん」も素直に一発変換……と、ラストは、パソコンの変換機能の話でしめくくり。
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高校ライトノベル・らいと古典『わたしの徒然草50』

2012-06-20 10:23:10 | エッセー
わたしの徒然草50

徒然草 第五十段
『女の鬼に成りたるをゐて上りたりといふ事ありて』


 応長の比、伊勢国より、女の鬼に成りたるをゐて上りたりといふ事ありて、その比廿日ばかり、日ごとに、京・白川の人、鬼見にとて出で惑ふ。「昨日は西園寺に参りたりし」、「今日は院へ参るべし」、「ただ今はそこそこに」など言ひ合へり。まさしく見たりといふ人もなく、虚言と云ふ人もなし。上下、ただ鬼の事のみ言ひ止まず。(後略)

 応長(おうちょう)は、日本の元号の一つ。延慶の後、正和の前。1311年の期間を指す。
 本題から外れるが、「しょうわ」という年号は二つある。「昭和」と、この「正和」である。
 である、と、言い切りながら、この段を書くまでは知らなかった。かりそめにも高校で日本史を教えていたのに知らないとは情けない話である。
 まあしかし、「大化」から「平成」まで二百五十も年号があり、この「正和」は一年余りしかなかった。と、言い訳。

 話は、この応長の年に伊勢の国から女の鬼が連れてこられ、都中の評判になったが、誰もその姿を見たことがないという、今で言えば都市伝説のようなものである。
 わたしの本題は、この「女」と「鬼」という単語にある。この二つの単語が並ぶと、個人的には、うちのカミサンの顔が思い浮かぶ。
 が、それはさておき、「女」「鬼」である。どうにもオドロオドロシイ……。
これが、「男」「鬼」と並ぶと、少し安心というか、こういうものなら、なんとか話が通じそう。愛嬌さえ感じてしまう。
 他に、こういうのがある「雪女」若干の哀れさはあるが、オッカナイ。この「オッカナイ」という言葉そのものが「おっ、家内」が転訛したものではないかしらん、と、思うほど、わたしは恐妻家である。
 もとい……「雪男」と書くと、なんだか親しみを感じる。炭酸とウィスキーをいっしょにしたハイボールのような親しみである。
 「女」と「鬼」をくっつけると、トイレ掃除の洗剤などで書いてある但し書きを思う。
「この洗剤は、他のものと絶対混ぜないでください!」
 能の『黒塚』にも安達ヶ原の鬼女が出てくる。この鬼女は、源氏物語に出てくる六条御息所の成れの果てという説もあり、その前身は、女性の性というものにも通じ、哀れでさえある。しかし、この鬼女は山伏たちにより退散はさせられるが、成仏はしない。

 あまり、「女」と「鬼」をくっつけて話すと叱られそうなので、わたしの狭い人生経験の中での感想……でも、まだ叱られそう。

 切り口を変える。
 世に「女学生」という可憐な言葉が、男の幻想と共に存在している。「男学生」という言葉は存在しない。
「だんがくせい」とキーボードを叩き、変換すると「段が区政」となってしまう。パソコンの中に無いというのは一般的ではないということである。パソコンというのは賢いもので「ろくじょうのみやすどころ」と打って変換すると、たちどころに「六条御息所」が出てくる。「男学生」というのは、それほどにあり得ないのである。むりやり想像するとセーラー服を着たアンチャンの姿が浮かんでしまう。
 わたしは、この「女学生」と三十年つき合った。イヤラシイ意味ではない。現場の教師、それも、生活指導の教師としての付き合いである。
「男学生」同士のもめ事は「荒事師」と言って、マッチョな専門の先生がいた。わたしは、気づいたときは「女学生」同士のもめ事の専門家になっていた。
「オオハッサン、またA子とB子のグループがもめとんねん」
 という時や、イジメに関わる問題を処理することが多かった。「女学生」を相手にするときは、徹底的に聞き役に回るということが肝要であった。半分ぐらいは、この「聞く」ということで話がすむ。残り半分は、聞いている間に、問題が別の所にあることが分かることが多かった。
「センセ、A子に、こんなこと言われてん!」
 B子が、こう言う。ところが、よくよく聞いてみると、A子が、近頃C子と仲良くなり、B子と疎遠になってしまった。で、相手にされなくなった(と、思いこんでいる)ことが原因であることが分かる。で、今度はA子から話を聞いてみる。するとA子は、こう言う。
「そやかて、B子の方がシカトしよんねんもん!」
 で、双方の話を聞きたおし、相手の思いを伝えてやった上で、双方の信頼を勝ち得た段階で、A子、B子を引き合わせ、手打ち式となる。これは、もっとも簡単な対立の見本で現実はもっとヤヤコシイ。
「男学生」の場合は、しでかしたことを明らかにして、分かり易いときはシバキ倒しておしまい(今は、教師の暴力行為になるのでできない) サッパリしたものであった。

 しかし、わたしが退職するちょっと前から、「男学生」にも、このようなこじれ方をするものが現れてきた。問題行動のユニセックス化とでも言おうか。
 この、男と女の問題は、とてもこの紙幅には収まらないので、別の機会で述べたいと思う。

 先日、ある芝居を観て、評論をブログに書いた。ある女優さんの出来が良かったので、褒め称えた。同時に出演していた男優もそこそこの出来ではあったが、字数がかさむので割愛した。
 すると、それまでツイッター仲間であった、その男優さんからは明くる日にはリストから削除されてしまった。ムツカシイ時代になってきた。と、思った。
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タキさんの押しつけ映画評『SNOW WHITE & 愛と誠』

2012-06-17 21:58:05 | 評論
タキさんの押しつけ映画評5『SNOW WHITE & 愛と誠』

これは、友人の映画評論家ミスター・タキさんが、個人的に身内に流して、互いに楽しんでいる映画評ですが、あまりに面白くモッタイナイので、タキさんの許諾を得て転載したものです。


SNOW WHITE
 画像綺麗し、ドラマチックで見応えあるんですが、はっきり言わしてもろて失敗作です。
 ナンジャカンジャ詰め込み過ぎて焦点が絞り込めていない。
 
 最も要らない持ち込みが「ジェンダー」
 
 一瞬監督は女か?と思った位。お伽話をフェミニズム視線で語らないで頂きたい。
 監督はCM畑の人で劇場版長編は初めて。アイデア豊富な人だとは判るが、 取捨選択が出来ない、乃至理解していない。
 それと影響を受けた作品からパクって来ているのが丸分かりで、こいつは洒落にならない。原作はグリム童話だが、映画のタッチはトールキン(指輪物語)である。 原作(初期の“童話”と言うより“民間伝承”に近い物)の中の「ドイツ的」なるものは、悉く「イギリス的」なるものに置き換えられている。見ていてまずここが居心地悪い。ドイツ民話に付き物の「黒き森」はまるで「指輪物語」の“障気の沼”か…漫画「ベルセルク」の幽界の入り口の森。いやいや、有り得ない話じゃない。この人「もののけ姫」からパクっているし、他にも漫画で見たシーンが散見できる。「ベルセルク」を読んでいる可能性は90%以上と見た。
「黒き森」を抜けて、妖精の住まう聖域から「白き森」に至るシーンでは、まるでドイツからイギリスにテレポートしたかの如く。
 ここから一気に舞台はイギリスに成ってしまう。 アーサー王伝奇やら六王朝時代のイングランド伝説、果てはギリシャ神話設定にエリザベート・パトリ(処女の血に浸かるのが不老の方法だと信じていた異常者)、 トドメはジャンヌダルクと来たもんだ! これだけ節操が無いと見ていてなんとも落ち着かないし、何だかしんどい。
 トドメが三点。
 まず、シャリーズ・セロン(女王)が予告編やスティールを見ている限りでは美人なのだが、本編を見ているとまるでオバサン、一応理由は有るのだが、やはり女王は美人でないと説得力が無い。これはこれで良いのかもしれないが、映画のあちこちで引っ掛かるので、せめて…と思う次第、私がシャリーズ・セロンのファンだからではない(ギクゥ!)。
 第二点、白雪姫がクリステン・ステュワートだから余計にそう思うのだろうが、初め、白雪姫を追い、後 守護者になるエリック(クリス・ヘムズワース)と“トワイライトサーガ”の狼男が重なって見える…こんな設定までパクっている。
 第三点、ラストが気に入らない。せっかく魔女を倒したのに、変わって女王についた白雪姫が、形は違うだろうが、女として魔女の怨みを引き継いだんじゃないかと思わせるイメージが有る事。
 以上、余計な事を考えず見ていれば、そこそこ見られる映画かな? と、思わないでもないが、それでも何か乗りにくい作品であることに変わりは無いと思う。見てきて反論の有る方は、教えていただきたい。

愛と誠
 あっあ愛とまま誠ォ~~! あっはっはははははははぎゃあっははははひはははひ~~ひ~~ くっ苦しい~!勘弁して~~~~~!
 久方振りに映画を見ながら腹筋を鍛えさせてもらいましたワイ! この企画建てたん一体誰? この仕上がり
でOK出したん誰だんねん。見ていて途中から笑うのさえ忘れましたわいな。359度歪んで、もしかしたら面白いの? シュールリアリズム作品なんか? 武井咲ちゃん、カワユス~、演技?…あっは!学芸会以下ですわいな。確かにショックではありましたわいな、初めてエド・ウッドの映画を見て以来のね。あっはっはは はぁ~
 ぷすん……。
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劇団大阪『イノセント・ピープル』

2012-06-17 16:26:51 | 評論
劇団大阪『イノセント・ピープル』6月17日11時

 谷町ビルというのだろうか……。

 下駄履きの公団住宅の、下駄の部分に、劇団大阪の谷町劇場がある。一階のそのドアを開けると、フラットな黒で統一された夢の空間が、そこにある。
 三十坪ほどの黒の空間は、入り口を入った右側が演技空間。左側が五段のひな壇になった、100席ほどの観客席。一番遠い席でも、役者との距離が八メートル以上になることが無く、とても集中して芝居の世界に入れる小劇場になっている。

 さて、『イノセントピープル』である。
 この芝居は、ロスアラモスの女子高生、シェリル・ウッドがポップスにあわせてノリノリで踊っているシーンで始まり、そのシェリルが日本人のタカハシと結婚し、シェリル・タカハシとしての彼女の広島での葬儀で終わる。
 その五十年あまりの、シェリルの家族、知人の人生が、前後しながら描写される。

 ちなみにイノセントとは、無実の、潔白、潔癖な、無邪気な、などを現す形容動詞である。
 このイノセントな人々は、みな人生のどこかで、原爆(核)に関わっている。
 ロスアラモスは、ご存じの方も多いと思うが、戦時中から、アメリカが核兵器の開発、実験、製造を行った街である。
 シェリルの父は、この原爆の開発に携わった、科学者の一人である。友人や知人もみなそうで、彼らを指してイノセントピープルと、作者は呼んでいるようだ。日本語にせず英語のイノセントの方が多義的で、タイトルとしての含蓄が深く、さすがだなと思った。
 登場人物のあるものは、核兵器に罪悪感を持ち、あるものは、正当な武器使用であったと思い。正当であったと思った海兵隊の退役准将は、息子をイラクとの戦争で、米軍が使用した劣化ウラン弾の影響で若死にさせてしまう。
 シェリルは、大学でタカハシという日本人と平和活動を通じて知り合い結婚、親や身内の大変な反対を受けながら、結婚、生涯を広島で過ごし、六十代で短い生涯を閉じる。

 この芝居、一見シェリルの身の回りの人々の戦後史で、部分的にはドラマとして成立している。シェリルの父や、その同僚たちの苦悩、シエリルの兄が海兵隊を志願し、ベトナム戦争で、下半身マヒの傷痍軍人として帰国、聴衆の前でスピーチするが、おりからのベトナム反戦に出会い、苦悩。彼の身の回りの世話をするヘルパーは、ナバホ族の血が混じっていて、彼女の祖父の世代は硫黄島の戦いで勇戦したこと(たしか映画であった) また、彼女の祖父、父は、居住地からウランが発見され、その放射線で若死にしたこと、などなど盛りだくさん。しかし、後述するが、この芝居の主軸に絡むことがなく、ご都合で持ってきたエピソードでしかない。
 
 そして、肝心のシェリルの人生が描写されていない。
 1960年代に日本人と結婚することがどれだけ困難なことであったか。「愛してるの」を数回言わせるだけでスルーしてしまっている。婚約者のタカハシは、仮面を被り、台詞が終盤まで、まるでない。
 平和運動への参加への動機も分からない。母の葬儀に顔を出すが、母が入院する最後の日まで自分の部屋の手入れをしてくれたことに涙する描写があって、あとは印象としては、広島での病死になってしまう。
 やはり、シェリルの人生、その苦悩と葛藤、自分の人生への誇り、喜びなどがドラマの主軸として表現されなければ完成された戯曲とは言えない。また、シェリルの身内のドラマが、シェリルの人生にほとんど絡んでこないことにも、ドラマ構造の弱さを感じてしまう。

 日本人が、アメリカ人を演じることは難しい。表情や、ちょっとした身体表現が日本人とはまるで違う。特に上半身(それも肩の使い方)の動きが、また、顔の表情筋の使い方が違う(例えば、日本人の大半はウィンクができない) 全員がアメリカ人ならばそれでもいいが、日本人が出てくるので、その差別化はやっておかなければならないだろう。
 また、日本人が、後半タカハシの例外を除いて仮面というのも異様である。アメリカ人から見た日本人という表現なのだろうけども、もっと日本人を人間として表現して欲しかった。仮面を被っている間は台詞が無い。不気味さが先になって、シェリルが好きになった人間として共感が持てない。それ以上に、日本人の人間としての描き方に共感できない。
 シェルリの葬儀で、タカハシが仮面をとって喋る言葉が、ほとんどシェリルの父への、ほとんど糾弾といっていい台詞なのには、思わずうつむいてしまった。こういう糾弾調の言葉は、実生活でも、舞台表現としても、わたしは前世紀で食傷気味である。同席している無言の日本人たち、体を使っての感情表現はできているのだが、どうも非人間的な印象が拭いきれない。黒澤明の『八月の狂詩曲』のような、井上ひさしの『父と暮らせば』などと比べると、知識先行でドラマ性希薄な糾弾劇になってしまったことが惜しまれる。

 わたし個人の趣味かもしれないが、シェリルは炒りたてのポップコーンのように元気で、かつクレバーな女性だと思う。最初のポップスで踊っているところなど、まさにポップコーンになっていなければならない。タカハシとの結婚の決意や、平和運動に身を挺するところなど、もっと力強いクレバーさが欲しかった。しかし、けして元気が無く、バカに見えたということではない。いささか日本人的情緒表現になってしまったことが惜しまれるのである。アン・ハサウェーなど、いい見本になると思う。

 ラストで、シェリルの娘はるかが、明るい笑顔で臨月に近いお腹を抱えて現れる。これで、未来への希望と和解のシンボルとしたことはよく分かったが、それ以前のタカハシの糾弾(お願い)の始末がつかないままの登場であったのが、フィナーレとしては、やや唐突であった。

 原爆の死者を20万人としているが、これは日本側の数字で、アメリカは、この数字をとっているのだろうか。日本の記録でも、一度の爆撃で、最大の死者を出したのは東京大空襲の8万3793人であると思う。

 宴曲な表現では通じないので、あからさまになって申し訳ないが、本が、プロットの段階で、未整理なままカタチにしてしまっていることに最大の問題を感じた。
 しかし、作家も演出も、原爆とロスアラモスをよく勉強されていて、その博識ぶりはよく分かる。
 
 ロスアラモスについて、とっておきの情報を紹介。
 ロスアラモスの研究施設と工場は、空から見ても分からないようにカモフラージュ。そのカモフラージュがふるっている。ディズニープロダクションのスタッフの指導で、屋根の上に街のセットを作った。いかにもアメリカらしく、わたしがロスアラモスを取り上げるなら、この線から迫る。『天空の街・ロスアラモス』なんかどうだろう。
 

 ホリゾントの、グラフィックの作りは、さすがに劇団大阪さんのセンスと技術の高さを感じた。在阪のアマチュア劇団で、これほどの人的、技術的財産をお持ちの劇団は、ちょっと見あたらない。
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大阪放送劇団・月の上の夜

2012-06-09 19:54:09 | 評論
大阪放送劇団・月の上の夜

作:渡辺えり 演出:端田宏三

☆一風変わったレクイエム
 明治後半の生まれであろう……ということは、主人公は百歳を超えてしまうが、この作品は1980年代の後半に書かれた芝居なので仕方がない。
 この年代の女性は、竹久夢二に代表される大正ロマンの中で思春期、青年期を過ごし、我が子を多く戦争で失い、戦後は帰らぬ夫を待ち、戦後復興の礎となってきた人たち。作者の祖母の世代にあたるであろう。
 そういう女性達への、一風変わった、そして、見事なレクイエムであると思うのだが、的はずれであろうか。
 山形に生まれた主人公時子は、臨終にさいして、現実と夢の間を行き来する。乙女が乙女に恋する『花物語』(吉屋信子・作)を下敷に、現実と夢とを交錯させながら、このレクイエムは展開していく。
 軽井沢に女学生姿のバラ子とユリ子との三人でピクニックをするところから、この芝居は始まる。そして、病室、バラ子の別荘。現実に父が管理人をしている別荘などと、何度も、夢と現実の間を行ったり来たり。
 現実の時子は、幼くして家を出され、学校も満足に行けず、別荘のお嬢さんからもらった『花物語』の中のお姫さまに恋してしまう。このお姫さまは、時子が湖底で眠りにつくことによって、目覚めることができる。
 何度かの暗示のあとに、ラストで、時子の死によって、お姫さまが蘇り、一際大きなお月様に収まるところなど圧巻に……したかったんだろうな。と思った。
 思ったというのは、ラストが明確なカタルシスになりきらず、観客は「え……ラストシーン?」とシーンとし、一瞬の間があって拍手が来た。
 これは、観客にシグナルとしての芝居は通じたが、共感しながら、のめり込むところまで芝居が完成していないせいであろうと思った。

☆笑い三年、泣き八年
 などと、役者の世界では言うが、この芝居は、軽井沢の花畑から始まる。緞帳は開きっぱなしで始まる。
 なにやら、チューリップがカミシモ二列に並んで、祭壇のようにしか見えなかったが、芝居が始まって二三分で、お花畑であることが分かる。

 で、この芝居は、無人のまま始まるが、始まってすぐにバラ子とユリ子の陰の笑い声がする。この笑い声で、役者は、観客を夢の世界に連れて行かなければならない。
 で、この笑い声が冷めている。プロの方を相手に口幅ったいが、きちんと笑えていない。登場したバラ子とユリ子の目が輝いていない。役としてエンジンが暖まらないうちに出てきてしまった……と、思った。
 しかし、お芝居全編で役者が、おおかた冷めている。
 台詞も、相手に届いていないので、注意しないと、舞台で行われていることが分からなくなってしまう。芝居とは分からせるものでは無く、感じさせるものである。僭越ではあるが、役者として、今少しのご精進をと思った。
 劇中に出てくる山形弁は、作者のソウルでもあり、演技的にもいいアクセントになるが、惜しくも、この山形弁が、もう一つ。
 主役の時子は好演ではあったが、歌とダンスになると、少し苦しい。
立ち回りが何度かあったが、もう少しきちんと殺陣をやってもらいたかった。茂男が「刀反対だけど」と、刀を収める役者に言うが、トチリのカバーなのかギャグなのかよく分からない。トチリのカバーなら秀逸な出来。
 劇団新感線などと比べると、夢としての芝居が弱い。もっと強引に観客を夢の世界にたたき込んでもらいたかった。夢の入り口までは連れて行ってもらえた。

☆一文字のアール・ヌーヴォー
 席に着いたときから気になっていたのだが、ホリ前の一文字幕が唐破風のように湾曲していた。ホリに月が照らされて分かった。文字幕に月がかかってしまうので、中央を引き上げてある。それがアール・ヌーヴォー風の味わいになり、舞台をキレイに縁取って、ラストシーンなどでは、非常に効果的であった。

☆この芝居に取り組んだすばらしさ
 こういう戦争体験者の世代の人生や死をとりあつかうと、なんとも陰惨、場合によっては思想的な背景を感じてイヤミなものであるが、渡辺えりという人は、それをファンタジーと笑いと、早変わり、殺陣、歌などを入れることで、エンタメにした。その点は、演出も役者も十分に理解している。好感の持てる取り組みで、観劇後、爽やかな感じで、劇場を後にできた。いっそう精進され、再演されることを期待!

☆個人的希望
 希望なので、言葉をあらためます。インジの『ピクニック』を演っていただけないでしょうか。昔、五期会が、旗揚げで好演されました。あの、人生、人間を大きく、肯定的に表現した「生きててよかった!」と感じられる芝居を、放送劇団の中堅、ベテランの方を交えて見てみたいと思いました。
 泉希衣子さんと、平口泰司さんのコンビで『にんじん』……ちょっと古いでしょうか?
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タキさんの押しつけ映画評4『外事警察』

2012-06-06 21:24:17 | 評論
タキさんの押しつけ映画評4『外事警察』

これは、友人の映画評論家ミスター・タキさんが、個人的に身内に流して、互いに楽しんでいる映画評ですが、あまりに面白くモッタイナイので、タキさんの許諾を得て転載したものです。
 

 ヤバイ、論評しにくい映画を見ちまいました。
 面白かったんです。
 100‰お薦めで~す。

 さぁ! 見に行こう! おしまい。

見て来た? よっしゃ、ほんなら始めますか。
 
 原案は麻生幾の「外事警察」、元作は2009年のNHKドラマです。どちらも未見、真っ白で見に行きましたが…メッチャ面白かった。
 テレビドラマの映画化は元作を見ていないと半分判らない作品が多いのですが、本作にそういう弱点は有馬線(?)、導入部にさらっと流れる説明で物語の外郭が理解できる形に成っています。
 監督は「ハゲタカ」に引き続き堀切園健太郎、進行編集はさすがです…ただ、この人アップが好きなのは変わりませんなぁ~。なんか全編の1/2がアップ(そんな事もないが)じゃねえかくらいの印象があります。田中ミンさんの、それでなくとも痩せているのに、更に10キロ減量して、更に眼光鋭くなった顔がアップになると 背筋が思わずゾクッとします。
 この田中演じる徐(元在日外国人の原子力学者)と渡部篤郎の外事警察官/住本とのやり取りが本作の背骨です。
 全編、嘘、嘘、嘘、嘘の連続、その中にたった一つだけ 最初から最後までを貫いて存在する真実がある。それが何か?を……考えながら見るのがこの映画の醍醐味であります。
 そして、この緊張感は渡部/田中の演技力が生んだ奇跡と言っても言い過ぎじゃありません。
 今回改めて感じたのは、こういったアジアクライムシーンの映画に出演する韓国人俳優の上手さです。現実に未だ北と交戦中の国(朝鮮戦争は終わっていません、今は単に休戦中)の俳優さん、北との危機感・緊張感は本物。殊に、キム・ガンウのリアルな存在感は抜群であります。
 日本人では真木よう子さんをベタボメしたい。これまで彼女の演技は上手いのか下手なのか判断しかねていたのですが、本作の身体も心もバラバラに引き裂かれた女の役を見事に演じ切っている。彼女の周りも嘘だらけで何が真実なのか判らない。その中の何を彼女は信じたのか、あるいは信じたかったのか。彼女の中に真実はあったのか、いや 見つけたのか…これも本作の肝です。
 映画館の中は集中感がみなぎり、観客が一言の台詞も聞き逃すまいとしている。サスペンス映画として大成功している証拠です。
 不満と言えば……まぁこれはNHKエンターブライズの製作であるからやむなしですかね。
 映像も、殊に暗部の表現が素晴らしく、ただ塗りつぶすのではなく 微かに何かが映っている。冒頭、闇の中弱く光る徐の瞳。この瞳の奥にどんな想いが隠されているのかを追う作品であった事を思えば、いかにこのシーンが重いものであったかに気付く。
 邦画で此処までノアール感にどっぷり浸かれる映画もそうはない。映画を見る前にこれを読んでしまったアナタ。極力内容に触れないよう気を使って書きました。後は劇場で確認してください。 私は、取り敢えず本屋で原作を探して、それからテレビドラマのディスクを探しに行きます。
 
 蛇足: 昨日「海老蔵」というチャンコ屋さんで晩飯を食べました。JR長瀬の近くなんですが、メッチャ旨かったです。こんだけ旨いチャンコはメッタに有馬線。ただ、食べるのに必死で会話が弾まないきらいは有りますがね。 以上
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高校ライトノベル・らいと古典『わたしの徒然草49』

2012-06-06 09:57:22 | エッセー
わたしの徒然草49『少年老いやすく……』

徒然草 第四十九段

 老来りて、始めて道を行ぜんと待つことなかれ。古き墳、多くはこれ少年の人なり。はからざるに病を受けて、忽ちにこの世を去らんとする時にこそ、始めて、過ぎぬる方の誤れる事は知らるなれ。誤りといふは、他の事にあらず、速やかにすべき事を緩くし、緩くすべき事を急ぎて、過ぎにし事の悔しきなり。その時悔ゆとも、かひあらんや。(後略)

「少年老い易く学成り難し」
 これと同意である。これに続いて、こうなる。
「一寸の光陰軽んずべからず」

 ありきたりだが、この歳になって、しみじみそう思う。
 若いころから、理屈としては知っていたが、人生の三分の二を浪費した現在(いま)しみじみと思う。
 若い人には、こう言っておこう。
「夏休みを、お盆過ぎまで、ダラダラと過ごしてしまった。宿題はおろか、行きたいところにも行っていない。この夏こそ! と、志を立てたバイトもやらずじまい。ああ、どないしょ!?」
 夏休みは、最終学年でなければ、来年またやってくる。
 しかし、人生は二度とはやってこない。

……一瞬の出来事が、未来に悔いをの~こす。PAIN! ねえ、神さま、もう一度、時をリセットしてください~♪

 AKB48の「スカートひらり」の一節である。
 還暦を来年に控え、半生を振り返れば、こんなことは山ほど有る。
 しかし、あらかたのことは、バカボンパパの一言である
「これで、いいのだ!」
 前置きと、少しニュアンスが違う。が、そこが還暦前のオッサンの値打ちである。

 わたしは、人からものを教えてもらうのがひどく苦手である。
 より深く言うと「感動のないレクチャー」が苦手なのである。学校の授業の大半に、この感動がない。だから、高校でも、大学でもろくに授業も講義も聴いたためしがなく、高校は四年、大学は五年行くハメになってしまった。
 しかし、このことには、あまり悔いはない。余計な左翼思想に染まらずにすんだし、その間、戯曲や本は、かなり読めた。講義をさぼって芝居の稽古もできたし、絵の勉強もできた。
 その後の人生への影響は、近視眼的には大きなものがあった。
 ナメてかかった郵便外務員の試験に落ちた。そのとき一緒に受験した後輩は通り、今でも郵便屋さんをやっている。その三年後、教員採用試験にうかり、二十七年間高校の先生をやった。
 おことわりしておくが、教師が郵便外務員より尊いとは思っていない。教師になったからこそ、同僚から、今のカミサンを紹介され、今春高校に入学する息子も生まれた。息子は、親からみれば、愚息である。口をホケ~っと開けてテレビゲームをやっているところなど、寅さんのオイチャンではないが、こう思ってしまう。

――バカだねえ、あいつは……。

 息子が生まれたとき、名前負けしてはいけないとの親心で、名前には二番目を表す「介」の字を入れてある。そのせいか、一人っ子のせいか、がっついたところが息子にはない。
 人間関係が苦手で、勉強も習い事も「介」以上になったことはない。三位を表す「佐(さかん)」にも届かない。しかし、なぜか音楽が好きで、ガキンチョのころから音符が読めた。中二までは、ヘタクソなピアノをやっていたが、友だちの影響で、バンドを始めた。
 アコステ、エレキ、アンプのたぐいまで揃え、ボイストレーニングにも通い、半年で、それらしくなった。バンドでは、ナントカというギターを弾きながらボーカルをやっている。学校で、何度かコンサートもひらき、学校ではちょっとした「イカした先輩」になり、後輩たちに真似をする者が現れた。元教師の勘であるが荒廃しかけた後輩たち(韻を踏んでいる。おやじギャグではない)の何人かに希望の光を与えた 。
 マワリクドイ話であるが、わたしが郵便外務員の試験に落ちたために、この現象がある。
 だから、人生、あまり「少年老い易く学成り難し」と伊達政宗のように思いこまなくても良い。

 しかし、人間「自分は、これで生きて居るんだ!」というものには、手を抜いてはいけない。
 わたしの場合、演劇であり、戯曲を含めた文学である。
 同じモンド通信に『押しつけ映画評』『志忠屋亭主の雑口雑言』を書いている滝川とは、四十年来の悪友であるが、読んだ本の量、そして、そこから生まれてきた文学観、思想的な堅牢さでは、足許にも及ばない。
「そんなもん、五十歩百歩や!」
 と、滝川は言うであろうが、この五十歩の開きは大きい。滝川は、自分が書いたものは、どう扱われようと恬淡(てんたん=心やすらかで無欲)としている。人から作家などと呼ばれると、「アホぬかせ」という顔をする。書いたものや、これから書くものをヒリダシた糞ぐらいにしか思っていない。
 方や、わたしは書いたものに連綿とした想いを引きずり、時に編集の方々や、版元にご迷惑をかける。

「始めて道を行ぜんと待つことなかれ」
 これは……と、思い定めたこと、一つだけ、こだわって、寸暇を惜しむ無かれ。他のことは「万事塞翁が馬」と、心得ておけばよろしい。
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タキさんの押しつけ映画&演劇評3

2012-06-04 21:14:02 | エッセー
タキさんの押しつけ映画&演劇評3

これは、友人の映画評論家ミスター・タキさんが、個人的に身内に流して、互いに楽しんでいる映画・演劇評ですが、あまりに面白くモッタイナイので、タキさんの許諾を得て転載したものです。


(1)「テルマエ・ロマエ」
  結構楽しめましたよ。イタリア製の映画を吹き替えで見ている感覚です。
 本作は原作を知らない方が楽しめます。漫画を読むなら、映画を見てからにしてください。映像は正直 チープなんですが、出演者が皆さん真剣にやってます…まぁ、下手くそで見ちゃおれん人もいらっしゃいますがね、そらまぁご愛嬌ってことで見逃してあげましょう。
 上戸彩とその家族が原作とは違う扱いになっているのと、ケイオニウスがほんまに単なる女好きにされとりますが…許せる範囲です。多少の事は、阿部寛のルシウスが余りに嵌っているので、それでええんじゃないかいなと思います。
 平たい顔の一族としては古代ローマ人の驕りを笑って許してやるくらいの気持ちでゆったりと見てあげましょう。「平たい顔の一族」ってぇと、風呂に入っている爺さん達が素人エキストラかと思っていたのですが、よくよく見れば皆さんプロの役者さんです。程よく力の抜けた、ほんまに銭湯にきているおっちゃん達、この老優さん達にも拍手ですわい。
 パンフレットも良く出来とります。古代ローマと日本の風呂事情の比較、歴史等 面白い読み物になっています。一読オススメであります。

(2) 劇団 新感線「シレンとラギ」 梅田芸術劇場
 実は、前日に見た人から酷評を聞いていたので「ゲゲゲ」と思って見に行ったのですが…と言うのが、この所新感線には失望させられる事が多かったんですよね。まずクドカンの脚本だと、全く新感線の良さを引き出せない(今回は中島君の本です)。
  新感線歌舞伎は、この2年程 方向性を変化させているのですが、未だ試行錯誤中で、演出も役者も乗り切れていない舞台を見せられたりもしたもんで、少々身構えてしまいました。
  結論から言うと、私の感想としては「いいんじゃな~い」 って所です。同時に酷評した友人の言い分も100%理解できました。彼女曰わく「誰が悪いと言うんじゃなく、お話が嫌!感動せえへんかった」 との事、ハイハイよ~お解りますです。
 タイトル「シレンとラギ」は主人公の名前です。芝居が始まって暫くは、いつ頃のどこが舞台なのか良く解りません。またぞろ「楼蘭族の殺し屋」なんてのが登場するんで、「中国?」とか思うのですが、「北の国、南の国、ゴダイ、モロナオ、ギセン」などの名前から、日本の南北朝…太平記が下敷きだなと見当が付きます。もう一つの伏線は、ソフォクレスの「オイディプス」で、これも第一幕の半分位の所で解ります。  これまではシェークスピアを下敷きに、オセロやリア王のストーリーを比較的丁寧になぞる芝居が多かったんですが、路線変更後はそれがギリシャ悲劇になっています。ギリシャ悲劇ってのは、陰惨な話が殆どなので、新感線の底抜けの明るさにそぐわないのですが、脚本家・中島、演出・井上の努力で飲み込みつつあるようです。後は役者達がどう肉体化するかにかかるんだと思うのですが…
 芝居は「ナマモノ」です。生きていて日々変化します。一日二公演だと、昼と夜で微妙にテイストが変わります。私が見た回は、酷評された前日の舞台とは変化していまし
た(見ていずとも明確)。 本作は「オイディプス」が下敷きなので、どうしても陰惨な進行に成りますし、南北朝は後醍醐天皇の怨念の時代です。そりゃあ どうしたって暗く成ります。橋本じゅんと古田新太のコンビが笑わしてくれるのですが、まだ大爆笑には届かない。東京で練習して大阪に凱旋して来いってんです! 大阪の劇団やんけ!…と思うんやけどねぇ。ただ、ゲキ×シネは東京公演の記録になるので、どう変化しているか楽しみでもあります。もっと役者が軽く飛び回る所が見られる筈です。
 さて、感動という点ですが、これはシレン(永作博美)の最後の台詞にかかっています。「蛮幽鬼」ラスト、稲森いずみの「この国を…」という台詞が、たった一言で観客の涙を絞ったように、シレンの一言が、どれだけ観客を痺れさせるかにかかっているのです。私の見た28日ソワレでは、それなりに感動的でしたが、感涙を絞るまでには至っていません。今暫く熟成に時間がいりそうです。こいつは客席とのやりとりの中から掴む以外にありません。
 公演前の練習で90%以上は完成出来ますが、最後の仕上げは客席との一体化からしか出来ません。幸福な例だと、第一日目、幕開け以降 次々に積み重なってどんどん完成して行くのですが、これは極一部の誠に幸福な例です。 28日の観客は温かで、よく反応していました。これも本作を一歩進めたのだと思います。
 新感線の芝居も高くなりまして、今回は13500円です。それだけ払って下手な芝居を見せられるんじゃたまったもんじゃありませんが、井上・中島コンビは、そろそろ掴みかけていると思えます。後、プロデュースゲストもいいのですが、劇団生え抜きのスターがみんなオッサン、オバハンになって、後継者がいないのも問題です。若手を育てる事にも神経を使っていかないといかんのやないでしょうかねぇ。
 話は変わりますが、7月に三谷幸喜が「桜の園」を演出します。チェーホフは脚本の扉に「三幕の喜劇」と記していますが、「喜劇としての桜の園」なんて見た事は有馬線。今までは「喜劇」の表記に対する考察が、左翼的なものでしかなく、文字通りの「喜劇」とは捉えられませんでした。民芸の宇野重吉が「喜劇・桜の園」を作ろうとした事がありましたが、劇団員が真っ赤(?)だった為、途中で失速してしまいました。今度は「笑劇の巨匠」の演出です。さて、どんな芝居になるのでしょうか、楽しみです。
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タキさんの押しつけ映画評2

2012-06-04 09:23:57 | 評論
タキさんの押しつけ映画評2

 これは、友人の映画評論家ミスター・タキさんが、個人的に身内に流して、互いに楽しんでいる映画評ですが、あまりに面白くモッタイナイので、タキさんの許諾を得て転載したものです。





(1)ダークシャドウ
  一切文句抜き、面白いのは100%保証、映画館に急げ~!
  元作は66年~71年の5年間放送されたソープ・オペラだそうで1200以上のエピソードがあるとか……当初、コリンズ家にやって来た家庭教師ヴィクトリアが主人公のミステリアスメロドラマであったが、徐々に幽霊や魔女が出てくるゴシックホラーとなり、コリンズ家のご先祖様・吸血鬼のバーナバス(ナーバスの組み換え?BAが一つ邪魔ですねえ、英語に詳しい方、解るなら教えて下さい。
 BARNABASがフルスペルです)が主人公となるや人気爆発、ストーリーはホラー・SF何でも有りの大暴走であったらしく、言ってみれば「スタートレック」「シービュー号」なんかのホラー版と考えれば良さそうです。 ティム・バートンの“さぁすがぁ~”と唸らされる所は、荒唐無稽ながら大真面目だった(らしい)元作をコメディタッチでリメイクしている所、元作を知らなくとも、その雰囲気が伝わってくるから不思議です。 コリンズ家の次期当主バーナバスは小間使いの女に手を付けて捨てる。所が、この女がとんでもない力を持っていて……バーナバスは鉄の棺桶に閉じ込められる羽目に……。
 200年後、ひょんな事から解き放たれて屋敷へと戻って来る。一族は没落していて、彼は家業を立て直そうと奮闘する。子孫たちと屋敷にいる面々はそれぞれ問題を抱えており、町にはまさかの(当然?) の存在も……という映画。一々荒唐無稽なエピソードの積み重ねながら、無理なく納得して見ていられる。久々に見た後「面白ェ~」と大満足出来る作品でした。
  キャストも文句無し、ジョニー・デップの怪演作として間違いなくNo.1、現当主エリザベス・コリンズのミシェル・ファイファーは必見!(いろんな意味で…個人的にはアカデミー助演女優賞を献上したい)。 エリザベスの娘・キャロリンのクロエ・グレース・モリッツもさすがの怪演、ただ これだけ怪作続きだとストレートプレイが出来なく成るんじゃないかと、いらぬ心配をしてしまう。 とんでもない小間使い・アンジェリークのエヴァ・グリーンはこれまでキャラクターに恵まれず、今作が最高アピール作、間違いない演技力に裏打ちされているので怪演にも余裕有り。 ヘレナ・ボナム・カーター、お可愛そうに またこれですか……いや、見て確かめて頂きたい。
 傑作なのはクリストファー・リーが出演している事で、どんな役かはお楽しみ。他には元作の出演者が出ているらしいがこればかりは誰が誰やらサッパリですけどね。バーナバスが戻って来るのは1972年、丁度元作が終わったころで、今から40年前の風俗も懐かしい。ティム・バートンの異形ファンタジーも此処に極まる。今後、これ以上の作品が出来るのか…楽しみなような、不安なような、次回作を見るのが怖い。

(2)ファミリーツリー
 さすがアカデミー脚色賞…と褒めたい所ながら、ちょっと待った!
  原題THE DESCENDANTSは「子孫」と言う意味、原作は未読だが、映画を見ていて、単に家族再生の映画だとは思え無い。家族再生を縦糸だとすると、主人公の一族がハワイに持っている土地の処分が横糸。恐らく原作は人間が生きる環境と商業主義への批判が最重要テーマだと思われる。
 邦題を「ファミリーツリー」なんぞと付けて、さも家族再生の作品だとコマーシャルするから見る側の焦点がぼけてしまう。
 ジョージ・クルーニーの等身大の父親という初めての役柄は見応えあったが、恐らく、これが上手すぎてメインテーマが霞んでいる。
 ラストシーン 子供二人に挟まれてテレビを見ている画は感動的なのだが、今一胸に迫って来ない。原作を読まないと確答できないが、脚色も家族愛に偏重しているのだと思われる。パンフレットもそちら側の評価しかしていない。試写会に行って「家族を抱きしめたく成った」と書いた人がいたが、私にはそんな感慨は浮かばなかった。
 あるいは私の見方が間違っているかもしれないが。
 だとするとこれは映画としては失敗作だと言わざる得ない。構成が中途半端で、焦点の合わせようが無い。残念
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タキさんの押しつけ映画評1

2012-06-03 22:10:32 | 評論
タキさんの押しつけ映画評1

 これは、友人の映画評論家ミスター・タキさんが、個人的に身内に流して、互いに楽しんでいる映画評ですが、あまりに面白くモッタイナイので、タキさんの許諾を得て転載したものです。

(1)ミッドナイト イン パリ
ウッディ・アレン最高!最上級の大人のメルヘン(メーフィェンと言うべきか?) 主人公の興奮がストレートに伝わって来ます。
 実にたわいのない話ですが、W・アレンの夢が詰まっていて(元々パリが大好きな人ですから) 創っていて監督本人が一番興奮していたんだろうなぁと想像出来る。
 ギル(主人公であると共に監督の分身、演じるオーウェン・ウィルソンが段々W・アレンに見えてくる)は売れっ子のシナリオライター、婚約者のイネズ及びその父母とパリに来ている。彼は1920年代のパリに憧れが有り、パリに暮らして小説家に成りたい。対して、イネズとその家族は典型的な俗物ヤンキーで、そもそもこの二人が婚約者だというのが不思議(まぁ、そう言う設定ですわ) ある夜、深夜道に迷ったギルは年代物のプジョーに乗った男女からパーティーに誘われる。
 着いた所は20年代のカフェで、そこではコール・ポーターが弾き語りをしており、彼をパーティーに誘ってくれたのはフィッツジェラルド夫妻だった。
 そこでヘミングウェイにも出会い、翌日には自身の小説を持ってガートルード・スタインのサロンに赴く、そこにはピカソと愛人アドリアナがいた。
……と、およそ作家・芸術家ならめくるめく、失神してしまいそうな興奮の体験をする。
 ってなストーリー、現代のアメリカ人はみんな俗物に描かれていて、こりゃあカンヌで大受けしたはずですわ。フィッツジェラルドは妻ゼルダに振り回されてるわ、ヘミングウェイは暑苦しいオッサンだわ、etc etc…ギルはダリの絵画のモデルになったり、ルイス・ブニュエルに映画のアイデアを語ったり、まさにアレンの想像、夢がこれでもかと詰まっていて、それがこちらに伝わって見ている観客も一緒に興奮してしまう。 このままだとギルは勿論、観客も20年代のパリから抜け出られなくなる…と思いきや、もう一つの仕掛けで、ちゃんと現代に帰って来る。ここがアカデミー脚本賞の真骨頂、唸らせてもらった。別段、この時代の知識などなくとも、本作の楽しさは減じるものではない。ギルの興奮をそのまま受け入れれば良い。
 キャスティングも実に豪華で、特にアドリアナを演じるマリオン・コティアールに恋しない男はいない。エイドリアン・ブロディのダリもそっくりだし、アリソン・ピルのゼルダはまさにこんな女(ひと)だったのだろうと思わせる。 五夜のタイムスリップの結果、ギルは多くを失うが、最後に素敵なプレゼントが待っている。兎に角、ユーモア・ウィット・優しさ満載の作品です。全身全霊をこめて鑑賞をお薦め。

(2)メン イン ブラック3
 アッハヒハヒハ、ようやる!! 全3作中 最高作です。但し!!! タイムパラドックスの細かい決まり事を一切考えてはならない!それを言い出すと最初から最後まで引っかかりまくる。 一切問答無用で受け入れなければならない。このルールさえ守れば、至極楽しめる作品であると保証します。SFのそこいらに拘りをお持ちの方は鑑賞をお止めになられた方が無難であります。
 ウィル・スミスはいつものウィル、あまりにも歳を取らないので、彼こそがエイリアンじゃないのかと思うほどです。K(T・L・ジョーンズ)の40年前を演じたジョッシュ・ブローリンがこれまた嵌り役で傑作です。小難しい理屈抜きに楽しんでいただきたい。
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高校演劇・その行政とのかかわり

2012-06-03 12:52:54 | 評論
高校演劇・その行政とのかかわり

 各都道府県の行政と、高校演劇の関わりはどうなんでしょう?

 少なくとも、行政が高校演劇に、高校野球ほどに関心を持っていないことは確かであるようです。
 公立高校の体育館兼講堂を見れば明らかです。間口だけが広く、奥行きが無く、高さは、舞台下がパイプ椅子やシートの格納庫になっているために異常に高い。大阪を例にとりますと、間口13メートル、奥行き4メートル、高さ1・35メートルです。照明は昇降不可なボーダーが二列、ギャラリーに1KWのスポットがカミシモに1機というのが標準で、音響に至っては、声が届く構造にはなっていません。
 このことは、コンクールの会場に公立高校が使われることがほとんど無いことでも分かります。

 行政というのは、高校でいえば担任に似ています。たいていの担任は、生徒や保護者からの働きかけがなければ、決まったことしかやってはくれません。程度問題ではありますが、一見熱心そうに見える担任でも、多くの場合、その熱心さは学校や、教師としての自分を守るためです(むろん中には、例外はいっらっしゃいます) 別に担任の在り方を非難しているわけではありません。そういうスタンスでなければ定年まで、コンスタントにやることは困難であります。

 で、行政です。東京がわりに行政に食い込んでいるように思えます。全国的なサンプルを持っているわけではありませんが、高等学校文化連盟(高等学校演劇連盟の上部組織)への加盟金2000円を、行政が支払ってくれるのは東京だけです。これは、榊原先生、内木先生たちの大先達が、作ってこられた行政との関係によるものだと思います。

 いま、高校演劇は、軽音などに高校生の興味が移りつつある中で、学校単位でも自治体単位でもマネジメントのムツカシイ時代になってきました。であるからこそ、行政とのパイプを担保しておくことが重要なことだと思います。単に「知事賞」や「教育委員会賞」の申請手続きだけでなく、日頃から、教育委員会の担当さんとは仲良くなっておいたほうがいいと思います。

 わたしが、アマチュア劇団を元気いっぱいやっていたころ、公立の文化施設(森ノ宮青少年会館)を使うことも一苦労でした。稽古場で大きな声で稽古しては苦情を言われ、ホールの舞台の階段を移動させるだけで、文句を言われました。それが、先輩方の努力と、行政への働きかけで、稽古場の貸し会場を作ってもらい、小ホールの改築(プラネットステーション)までやってもらいました。
 ただ、府の財政悪化と知事(現大阪市長)によって、府は、青少年会館ごと、ブルド-ザーで踏みつぶすように全てを廃止してしまいました。

 大阪は、文化活動をやる者にとっては最悪の自治体になりました。多くの自治体が、大阪ほどでなくとも似たり寄ったりでしょう。
 で、あるからこそ、自治体とのパイプは重要であると思います。賞状の申請に行ったとき、世間話のついでのように、担当者と話しができるぐらいの関係は持っていたほうがいいと思います。

 大阪府高等学校演劇連盟の行政担当の先生が、お二人退役されました。後継の方にどれだけ、行政との関係を引き継がれたかは不明です。単に事務連絡ではなく、将来の行政との関係も視野に入れた方がおられればと願います。

 また、情報の発信も大事だと思います。ネットで検索しても、実態が分かる高校連盟は、そんなにはありません。東京は4つの地区に別れており、地区ごとのサイトが充実しています。
 大阪は、今年度から、総会の内容や、地区ごとの加盟校などがネットで公開されるようになりました。地味なようですが、こいうことの積み重ねが、サポーターを増やし、しいては行政を動かす力になると思います。
 小さく仲間内で内向きに固まるよりも、外に向かって広がっていくことが大事かと思います。

☆余計なことかもしれませんが
 創作劇の偏重は、高校演劇を質的に落としてしまうと思います。各連盟のコンクールで上演される芝居の比重が、次第に創作劇に遷ってきつつあります。大阪では、創作の比重が90%を超えます。中学演劇が、急速に衰退の道にあります。その原因の一つが、創作劇への傾斜にあったと思います。
 観る側にとって、創作劇と等身大の高校生を描いたものは、たいていつまらないものであります。
 折に触れて述べておりますが、演劇の三要素は「観客・戯曲・役者」です。戯曲、そして役者が良ければ、観客はついてきます。
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高校演劇・講習会のあり方、いたし方

2012-06-01 15:31:42 | 評論
高校演劇・講習会のあり方、いたし方

 各地の高校演劇連盟で、講習会が企画され実行されています。春の総会にひっかけたり、夏休みを利用しての講習会。東京などは、泊まり込みで宿泊講習会が開かれます。
 わたしのおります大阪の高校演劇連盟でも、その企画が、総会の今年度の活動計画案に示されました。

 8月には、連盟の生徒向けの講習会。地区ごとの講習会の他にも、下記のようなものも企画されています。

 顧問のための講習会・ワークショップを開催し、拡充を図る。その際、『演劇表現教育』への関心も広げ、演劇的スキルや演劇表現が、『教育』や『コミュニケーション』の中で果たせる役割を担うことを視野に入れて行う。
詳細は別途連絡する。
  〈総会活動計画案より〉

☆問題は、その有りようなのです
 年間、2日や3日の講習ではどうにもなりません。例えて言うなら、旅客機のクルーを、3日ほどで育てるようなものです。
 技術面では成果は上がります。照明、音響、道具などは、実物に触れることによって、かなりの成果が期待できます。実際、わが大阪に限らず、他府県でも、その成果は確実に上がってきているように思えます。もう昔の学芸会のような照明、音響、道具を目にすることは少なくなってきました。

 しかし、照明、音響、道具は芝居の基本要素ではありません。芝居にも、野球と同じ三要素があります。
 野球の場合は「走・攻・守」の三つです。
 演劇の三要素は「観客・戯曲・役者」の三つです。演劇にとって「照明・音響・道具」は周辺技術にすぎません。それらは、野球で言えば「かっこいいユニホーム」に過ぎません。いくら見栄えのいい野球選手でも、「走・攻・守」がダメなら戦力にはなりません。
 宇野重吉(新劇の神さまのような人です。分からない人は検索してください)さんが言いました。
「立派なホールなんぞいらんでしょう。いざとなったらお座敷でも芝居は演れます」
 実際、島田省吾(新派の神さま)さんは、マンションのリビングで一人芝居をおやりになっています。他にも、劇場ではないスペースで、1人~数人の芝居を演っていらっしゃる個人の役者や、劇団はいくらでもあります。
 三要素のうち観客は、結果です。いい芝居を演れば、お客さんは付いてきます。
 演る側の問題は「戯曲・役者」の二つです。
 講習会で行われる最大の間違いは「創作劇のワークショップ」です。ごくごく特殊な才能を持っていないかぎり、劇作は、二・三日の講習では、どうにもなりません。この、どうにもならない講習会のため、コンクールでは、戯曲の体を成さない創作劇のオンパレードになります。
 大阪で、毎年のように本選に出てくる学校があります。「照明・音響・道具」は立派です。しかし本がまるで書けていません。観客は身内が多く、ピアノ教室の発表会のような暖かさ(時に熱狂)があります。しかし、一般の観客は共感できません。だから、高校野球のようなファンが生まれてはきません。また、それらの創作劇がつまらないのは、他の学校で再演されることが、ほとんど無いことでも分かります。
 大阪で、指導的立場におられる先生方を検索しても、ほとんど出てはきません。他府県でも似たり寄ったりではないでしょうか。
 まことに失礼な申しようでありますが、そのような先生達が指導者となって行われる「創作劇の講習」に意味はないと思います。
 小劇場の指導者を講師に迎えられるところもありますが、小劇場は。多くの場合、その劇団に特化した作品を座付き作者が書かれることがほとんどで、普遍性がありません。

 もし、本気で「劇作」のワークショップを持つならば、最低でも一年間のスパンで勉強会のカタチでやるしかないでしょう。プロの第一線の劇作家に付いてもらえるほど財政が豊かな連盟は無いと思います。

 提案が、一つあります。高校演劇に適した既成の脚本の勉強会です。名作がなぜ名作なのか、みんなで分析してみる。これならば、比較的に短時間でもやれます。戯曲の構造を勉強する近道でもあります。また、良い戯曲に出会うきっかけにもなります。
「既成の脚本に、高校生が演るのに適したものがない」
「創作劇が多いのは、わが府県の誇りである」
 こういう認識では、高校演劇に明日はありません。
 まことに僭越ではありますが、多くの中学演劇が衰退してしまいました(関東に若干の例外はありますが)
 わが大阪では533校ある中学のうち、コンクールに参加できたのは、わずかに34校に過ぎません。今世紀になって、この傾向は顕著になってきました。
 この問題の背景に「創作劇への偏重」があります。わたしは、しがない劇作家で、年間に10本ほどの上演実績しかありませんが、この5・6年中学からの上演許可願いが来ません。知人の中学教師に聞くと、「創作劇から、中学演劇が衰退していった」と答えが返ってきました。この知人は中学演劇の中核になっていた人物ですが、転勤先に演劇部がないためにやむなく吹奏楽の顧問をやっております。
 ことのついでに申し上げますが、中高生の関心は、文化部では、吹奏楽と軽音に集中しております。わたしの息子は、演劇にはまるで関心がありません。中学には演劇部がありませんでした。この春入った高校は一年生だけでも20組まである大規模校でありますが、演劇部はありません。軽音は150人いるそうです。
 高校演劇は、崖っぷちにきていると感じることが、まず大事でしょう。そして、戯曲、役者を育て、高校生(高演オタクではなく、一般の高校生)にとって面白い、あるいは青春を賭けてもいいと思えるような芝居を創るという「問題意識」を中心に据えることが大事かと思いました。

☆『教育』や『コミュニケーション』の中で果たせる役割を担うことを視野に入れて行う
 
大阪府高等学校演劇連盟の活動計画案に書かれています。まことに当を得たことだと思います。演劇はコミュニケーション能力の開発には有効な教育手段で、外国の大学の教員養成課程の中に「演劇」を置いているところもあります。
 しかし、演劇部員の子たちに、このコミュニケーション能力のてこ入れが必要だと感じています。ここ数年の高校演劇を見ていて、役の肉体化ができていないことに、危機感を持っています。肉体化とは、心を相手に伝える力、受け止める力が土台になり、役の理解により、人物を具現化することであります。まず、演劇部員にその力をつけさせましょう。
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