上砂理佳のうぐいす日記

「夏への扉」展では暑い中、たくさんの方にお越しいただき誠にありがとうございました!★

人生はビギナーズ★

2012-03-09 | アート・音楽・映画・本・舞台・ドラマ


オスカー助演男優賞効果もあったのか、いつになく満杯の映画館でした。
「人生はビギナーズ」。やっと見に行けた!
中年にさしかかった独身イラストレーターの息子と、美術館館長だったおとーさん。
お父さんは、お母さんも亡くなって一人になったある日、息子に告げます。
「実はワシはゲイなんだ。残りの人生は、“その道”を極めてみたい」
。。。「道を極めてみたい」と言われてしまったら、「はいどうぞ」と言うしかない(笑)。

そんなこんなで、ショックを受けつつも、お父さんを優しく見守る息子。
お父さんは若いゲイ恋人も出来て、ゲイ協会(?)にも入り、楽しそう。
で、物語は、そんなお父さんが亡くなり、一人寂しく家の後片付けをしている息子と、一匹の犬との会話から始まります。
お父さんのゲイ告白後と闘病、息子の幼年時代、そしてお父さん亡き後に恋人が出来た息子。
「回想シーン」と「今現在」がめまぐるしく場面転換するので、「あれ?あれ?」と困惑しますが、慣れてくると、大きなストーリーが見えてきます。
息子を演じるユアン・マクレガーがイイ。繊細で友達もなく「人生イマイチ」な男を、自然~に演じています。
ユアンが描く自虐的な?乾いたタッチのイラストや、犬のアーサーの愛らしさ。
お父さんが元気だった頃の家の、緑がいっぱいのリビングや、明るい日差し。
優しいモチーフや色がちりばめられているので、物語の展開が速く説明不足でも、お父さんが病気で悲しいことになっても、画面が隠々滅々とならない。
主人公はあくまでもユアンなのですが、お父さんのハルの存在があったからこそ、息子は恋をして新しい人生を歩む勇気が出たのではないか。
「お父さんは、このトシでも、自分の道を歩んでみるよ」という行動力。
そして得られた新しい体験。それを目の当たりにした息子は、
「おとーさん!俺も人生チャレンジしてみるよ!」
。。。と、大げさに叫んだりはしないのですが(なんせ地味な息子ですから)、心のどこかにじーんと、「お父さんの存在」を感じていたのではないでしょうか。
親は亡くなっても、子供の心に生きている。
いくつになっても、ずっと「お父さん」だし、ずっと「お母さん」。

そんな「ずっとお父さん」的な役どころを、過不足なく演じた所がオスカー受賞につながったのかなあ。
クリストファー・プラマーという役者さんは初めて見ましたが、まるで「お父さんを演じて80年」ぐらいの年季を感じます(笑)。
映画レビューからは、「おじーさんがゲイをカミングアウトしちゃって、さー大変!」な、どたばたコメディを予測していたのですが、見事に外れ「しんみり+でもキュート」な一本でありました。
お父さんが退院後、家でも酸素チューブをつけて生活しているのですが、時々はずしちゃう。
でも息子が「お父さん、ダメだよ」とチューブ治す。またはずれる。
そのやりとりが、うちの父の晩年と全く同じで、「ああそうだよね」と少し泣けてしまいました。
会場は若い女性と初老のご夫婦なんかも多かったせいか、時々すすり泣きが。
でも、犬のアーサーの自然体演技(?)が癒しのツボで、場内ほんわりした空気に包まれました★
コメント (2)
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もうすぐ1年★

2012-03-06 | うぐいすよもやま日記
メディアでは「3・11」に向けて特集が組まれていますが。
本当に早いもの。あっという間。
でも…被災された方にとっては、とてつもなく長い1年だったと思います。
そして「終わった」ことではなく、復興はえんえんと続くのです。
原発の影響で離職や引っ越しを余儀なくされた人。
津波で破壊された土地で、先行きの目途がたたない人。
苦汁の日々だと思うのですが、
「とりあえず今日を生きて前に進む」ことしか出来ない。
阪神大震災の時、「日常感覚を取り戻す」までに半年かかりました。
今回は、半年では到底取り戻せないと思います。

私自身が復興のために出来たことといったら、結局、
支援団体を通しての物品・金銭援助だけ。
「自分の仕事」を通しては、何も出来なかった。
ロック歌手のように、すぐさまギターを抱えて、
現地でコンサートなど開けたら、どんなに良いことだろうか。
人の心を慰める音楽って、なんて素晴らしいのだろうか。
絵描きは、「何も出来ない自分の無価値」を、
ヒリヒリ噛みしめることになるのです。
17年前に私も、関西人としてお隣の神戸に、アートの展示ボランティアに行きました。
でも、率直な感想としては、
「アートは復興の役に立たない」
でした。
音楽は別です。即効力として効き目がある。漫談とか落語とか。
でも、美術品をしげしげと眺め、「ああいいねえ」と言ってもらえるのは、
人が平穏な気持ちの時だけです。
戦火のさなかで、ギャラリーをゆっくり見て回る人などいるのでしょうか。
私は敗北の気持ちでいっぱいで、神戸からホコリまみれで帰ってきました。
「ボランティアで人さまのお役にたった」という達成感など、カケラも無い。
かえってあちらのスタッフの人に、迷惑をかけただけじゃないのか。
(ああいうスタッフの人というのは、皆とても優しく親切なのです)
そんなみじめな気持を率直に、知り合いの画廊の人に言ったらば、
「美術はすぐには役に立たなくても、長いスパンで人の心を癒すのだから、焦らなくていい」
と答えがかえってきました。
そうなのかな。

昨年の初夏に、浜松で個展をやらせてもらいましたが、
あの頃の気持ちから私は余り変わっておらず、
「前にも後ろにも行ってない」。膠着してます。
はっきり言って自分の絵のことより、
「日本がどうなってしまうのか」ことの方が気にかかります。
日本の今後が気にかかるからこそ、自分の絵に向き合ったときに、
「ああ絵があって良かった」と、かえって気持ちが集中するのも事実なのですが。
「それって現実逃避そのものじゃないか」という気持ちも30%くらいある。
現実の日本と、自分の描く世界がうまくリンクせず、もどかしく思う。
でも、もどかしく思わなかったら、もう、私は夢みたいな世界は描かないだろう。
現実世界が、原発も放射能も津波も地震も死も怪我も病気もなく、
ハッピーハッピーだったらば、
わざわざ絵を描く衝動も理由も無くなる。
夢を見るからこそ、人は絵を描く。洞窟にも描く。石にも描く。
怒りを感じるからこそ、これを形にしたくなる。人に問いかけたくなる。

今、ドバイのアート展で村上隆氏が五百羅漢を展示していると思うのですが(もう終了したのか?)
見てみたい。でもドバイには行けないので、ネットで追ってます。
自分には、五百羅漢を描くだけのパワーが無いぞ、という事実が痛いのですが、
打ちのめされて鍛えられるのも、またいいことでしょう★
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