メディアでは「3・11」に向けて特集が組まれていますが。
本当に早いもの。あっという間。
でも…被災された方にとっては、とてつもなく長い1年だったと思います。
そして「終わった」ことではなく、復興はえんえんと続くのです。
原発の影響で離職や引っ越しを余儀なくされた人。
津波で破壊された土地で、先行きの目途がたたない人。
苦汁の日々だと思うのですが、
「とりあえず今日を生きて前に進む」ことしか出来ない。
阪神大震災の時、「日常感覚を取り戻す」までに半年かかりました。
今回は、半年では到底取り戻せないと思います。
私自身が復興のために出来たことといったら、結局、
支援団体を通しての物品・金銭援助だけ。
「自分の仕事」を通しては、何も出来なかった。
ロック歌手のように、すぐさまギターを抱えて、
現地でコンサートなど開けたら、どんなに良いことだろうか。
人の心を慰める音楽って、なんて素晴らしいのだろうか。
絵描きは、「何も出来ない自分の無価値」を、
ヒリヒリ噛みしめることになるのです。
17年前に私も、関西人としてお隣の神戸に、アートの展示ボランティアに行きました。
でも、率直な感想としては、
「アートは復興の役に立たない」
でした。
音楽は別です。即効力として効き目がある。漫談とか落語とか。
でも、美術品をしげしげと眺め、「ああいいねえ」と言ってもらえるのは、
人が平穏な気持ちの時だけです。
戦火のさなかで、ギャラリーをゆっくり見て回る人などいるのでしょうか。
私は敗北の気持ちでいっぱいで、神戸からホコリまみれで帰ってきました。
「ボランティアで人さまのお役にたった」という達成感など、カケラも無い。
かえってあちらのスタッフの人に、迷惑をかけただけじゃないのか。
(ああいうスタッフの人というのは、皆とても優しく親切なのです)
そんなみじめな気持を率直に、知り合いの画廊の人に言ったらば、
「美術はすぐには役に立たなくても、長いスパンで人の心を癒すのだから、焦らなくていい」
と答えがかえってきました。
そうなのかな。
昨年の初夏に、浜松で個展をやらせてもらいましたが、
あの頃の気持ちから私は余り変わっておらず、
「前にも後ろにも行ってない」。膠着してます。
はっきり言って自分の絵のことより、
「日本がどうなってしまうのか」ことの方が気にかかります。
日本の今後が気にかかるからこそ、自分の絵に向き合ったときに、
「ああ絵があって良かった」と、かえって気持ちが集中するのも事実なのですが。
「それって現実逃避そのものじゃないか」という気持ちも30%くらいある。
現実の日本と、自分の描く世界がうまくリンクせず、もどかしく思う。
でも、もどかしく思わなかったら、もう、私は夢みたいな世界は描かないだろう。
現実世界が、原発も放射能も津波も地震も死も怪我も病気もなく、
ハッピーハッピーだったらば、
わざわざ絵を描く衝動も理由も無くなる。
夢を見るからこそ、人は絵を描く。洞窟にも描く。石にも描く。
怒りを感じるからこそ、これを形にしたくなる。人に問いかけたくなる。
今、ドバイのアート展で村上隆氏が五百羅漢を展示していると思うのですが(もう終了したのか?)
見てみたい。でもドバイには行けないので、ネットで追ってます。
自分には、五百羅漢を描くだけのパワーが無いぞ、という事実が痛いのですが、
打ちのめされて鍛えられるのも、またいいことでしょう★
本当に早いもの。あっという間。
でも…被災された方にとっては、とてつもなく長い1年だったと思います。
そして「終わった」ことではなく、復興はえんえんと続くのです。
原発の影響で離職や引っ越しを余儀なくされた人。
津波で破壊された土地で、先行きの目途がたたない人。
苦汁の日々だと思うのですが、
「とりあえず今日を生きて前に進む」ことしか出来ない。
阪神大震災の時、「日常感覚を取り戻す」までに半年かかりました。
今回は、半年では到底取り戻せないと思います。
私自身が復興のために出来たことといったら、結局、
支援団体を通しての物品・金銭援助だけ。
「自分の仕事」を通しては、何も出来なかった。
ロック歌手のように、すぐさまギターを抱えて、
現地でコンサートなど開けたら、どんなに良いことだろうか。
人の心を慰める音楽って、なんて素晴らしいのだろうか。
絵描きは、「何も出来ない自分の無価値」を、
ヒリヒリ噛みしめることになるのです。
17年前に私も、関西人としてお隣の神戸に、アートの展示ボランティアに行きました。
でも、率直な感想としては、
「アートは復興の役に立たない」
でした。
音楽は別です。即効力として効き目がある。漫談とか落語とか。
でも、美術品をしげしげと眺め、「ああいいねえ」と言ってもらえるのは、
人が平穏な気持ちの時だけです。
戦火のさなかで、ギャラリーをゆっくり見て回る人などいるのでしょうか。
私は敗北の気持ちでいっぱいで、神戸からホコリまみれで帰ってきました。
「ボランティアで人さまのお役にたった」という達成感など、カケラも無い。
かえってあちらのスタッフの人に、迷惑をかけただけじゃないのか。
(ああいうスタッフの人というのは、皆とても優しく親切なのです)
そんなみじめな気持を率直に、知り合いの画廊の人に言ったらば、
「美術はすぐには役に立たなくても、長いスパンで人の心を癒すのだから、焦らなくていい」
と答えがかえってきました。
そうなのかな。
昨年の初夏に、浜松で個展をやらせてもらいましたが、
あの頃の気持ちから私は余り変わっておらず、
「前にも後ろにも行ってない」。膠着してます。
はっきり言って自分の絵のことより、
「日本がどうなってしまうのか」ことの方が気にかかります。
日本の今後が気にかかるからこそ、自分の絵に向き合ったときに、
「ああ絵があって良かった」と、かえって気持ちが集中するのも事実なのですが。
「それって現実逃避そのものじゃないか」という気持ちも30%くらいある。
現実の日本と、自分の描く世界がうまくリンクせず、もどかしく思う。
でも、もどかしく思わなかったら、もう、私は夢みたいな世界は描かないだろう。
現実世界が、原発も放射能も津波も地震も死も怪我も病気もなく、
ハッピーハッピーだったらば、
わざわざ絵を描く衝動も理由も無くなる。
夢を見るからこそ、人は絵を描く。洞窟にも描く。石にも描く。
怒りを感じるからこそ、これを形にしたくなる。人に問いかけたくなる。
今、ドバイのアート展で村上隆氏が五百羅漢を展示していると思うのですが(もう終了したのか?)
見てみたい。でもドバイには行けないので、ネットで追ってます。
自分には、五百羅漢を描くだけのパワーが無いぞ、という事実が痛いのですが、
打ちのめされて鍛えられるのも、またいいことでしょう★