六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

居住環境が変わるかもしれない。

2013-06-10 14:30:58 | よしなしごと
 現在の地に居を構えてからまもなく半世紀になる。
 築50年になるから東南海地震とやらで倒壊する運命かもしれない。
 ところで、ここに来たときは100m以内には人家がない田んぼのなかの一軒家であった。
 この季節になると、カエルの大群に四方を包囲されて、四面楚歌ならぬ「四面蛙歌」といった状態であった。

 しかし、その後は高度成長のまっただ中で、あれよあれよという間に家屋が立ち並び、ついには北側の一方を除いて我が家に隣接する田んぼはなくなってしまった(斜め方向ではまだ二方向に残っている)。
 
 で、唯一私が住まいする二階から身近に見下ろせる田んぼであるが、そちらにはすぐ眼下の一反の休耕田と、その向こうに二反ほどの生きた田んぼがある。

        
              雨降りに遊びに来たカルガモ

 この田圃を見る楽しみは二つあって、ひとつは、その耕作者が実に古い機械を操って、しかも有機農法を行なっているらしく、その作業手順を観察したり、合わせて稲の生育状況を知ることができることである。

 もうひとつは、手前の休耕田も合わせて、さまざまな野鳥が来てくれることで、カラス、キジバト、スズメはむろん、水と縁の有るカルガモ、ケリ、セキレイ、シラサギ(かつてはアマサギも来た)がやってくるし、それに田起こしや、田ならしの折には、耕うん機のあとをムクドリの群れなどがついて回るのが居ながらにして観察できる。

 私のつれづれは、こうした光景によってどれほど慰められてきたことであろう。
 しかし、こうした状況に異変が起きようとしている。

        

 2、3日前だが、活字やPCに疲れ、例によってそれらの田を見下ろしていて、「ン?」と思った。
 なにか見たことのない看板が休耕田の方に設置されている。
 私の視角からは裏側になるが、その造りからいっても立てられた場所からいっても、何かの宣伝広告とは違うようだ。

 早速、前に回って確かめてみた。
 「借地」とある。
 どうやらこの土地を貸しますよという看板らしい。
 それなら「貸地」だろうとツッコミを入れたくなるが、それはこの際どうでもいい。

        

 長年、休耕田だったこの土地が貸しに出され、それが実現すればここに何かができるのだ。
 借地だからマンションなどの恒久的なものができる事はないだろうが、何かの事務所、資材置き場、駐車場、などになる可能性は十分ある。

 我が家の北側だから日照の問題はないが、それでもこちらにピタリとつけて建つとなると台所の採光などが著しく悪くなるのは避けられない。
 それと、トイレ、風呂場などがすべてそちらの側にある。
 今までは田んぼだったから、トイレも風呂も窓を開けておいても基本的に問題はなかった。
 裸で家の中をうろちょろしても目撃されることはなかった。
 しかし、これからはそうはいかなくなるだろう。
 それに、何かが建つとすれば、最初に述べた景観が失われる。
 田を渡る風が家を吹き抜ける爽快さもやがて失われるだろう。

        

 しかし、これらはいずれもこっちの側の勝手な都合や事情である。
 まあ、今までが恵まれていたということであろう。
 とりわけ、都市部の密集地に住んでいる人に比べればのんびりしたものだった。
 そのなかで暮らしてこられたことにこそ感謝すべきであろう。
 何かができる前に、しっかりこの景観を見ておこうと思う。

あ、それと何本かの樹木の枝がそちらへはみ出している。これまでは休耕田だから黙認されていたがこれからはそうもいくまい。
 最後の写真の綺麗なナンテンも伐られる運命か?
 
 

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実に広い射程を持つ生物学史の一断面 ルィセンコ学説をめぐって

2013-06-09 02:19:21 | 書評
 『武谷三男の生物学思想 「獲得形質の遺伝」と「自然とヒトに対する驕り』(伊藤康彦:著 風媒社)を読んだ。
 タイトルでは武谷三男が強調されているが、内実は武谷を始めとする一群の科学者たちが、サブタイトルにあるような「獲得形質の遺伝」を主張するソ連(当時)のルィセンコの遺伝学説をどう受容し、どのようにそれから離反したのかの20世紀中葉の数十年のドラマである。

           

 結論を言ってしまえば、遺伝子細胞の働きを無視した「獲得形質の遺伝」を唱えるルィセンコ学説とそれに依拠したソ連の農業生産の破綻は誰の目にも明らかな歴史的事実で、1960年代には生物学界からとっくに葬り去られた立場といえる。
 いささかカリカチャライズしていうならば、親が身体を鍛えれば丈夫な子が生まれるとか、あるいは親が整形手術をすればそれが子にも受け継がれるといったたぐいのいわば疑似科学、ないしは政治的背景を伴った信仰といってもいい理論であったことは現在では明らかになっている。
 もっともそれらがまことしやかな「科学的」な装飾や「哲学的」包装のもとに提示されたのであるから、とりわけ一定の党派性をもった科学者たちにとってはその足元を掬われる結果となったといっていい。

 そうした過程を著者は、戦前から戦後にかけて、ルィセンコに同調した日本の科学者の記述を克明に追跡し、跡付けてゆく。その所作は、これでもか、これでもかといった作業の連続で、既にしてその歴史的生命をとっくに失ったはずの対象をかくも丁重に引っ張りだし、その醜悪さをいまさらのごとく確認することはないだろうという気すらする。
 しかし、読み進むうちに、著者のこの根ほり葉ほりの記述が決して単なる後追いの作業ではないばかりか、極めてアクチュアルな問題を含むものであることがわかる。

            

 このルィセンコ学説は、本場のソ連ではスターリンの支持を得て、さらにはその適用とされる農業実践上での「偉大な成果」を受けて、政府、党ご用達の生物学理論となり、それに同調せずメンデル=モルガンの遺伝学説を堅持した学者たちは学界から追放されたり逮捕されたり、獄中でその生命を失ったりさえしている。
 今から振り返れば、それらは科学史上の一大スキャンダルであったことがわかる。

 そうした過程と並行するようにわが国にもその理論が導入され(1930年代)、とりわけ戦後には、日本共産党の機関誌の『前衛』や新聞『赤旗』がそれを広く公認し、それに反対するメンデル=モルガンの遺伝学説を堅持する人たちを、ブルジョア的、資本主義的イデオロギーに毒されたエセ科学であると断罪するに及んで、広く日本の左翼的といわれる科学者を捉えていったのであった。
 その科学者たちこそ、この書で俎上に載せられている武谷三男や、それに先行したり、あるいはそれに追従したりした人たちである。

 しかし、そのルィセンコ学説も既に述べたように、次第に化けの皮が剥がれる。まずは実験に裏打ちされていない思い込みのみの空論であったことが明らかになり、農業実践での「偉大な成果」といわれたものも、実際には飢饉をもたらしかねない失敗の連続であったことが明らかになる。
 日本でもこのルィセンコ学説に基づくヤロビ農法(あるいはミチューリン農法)が左翼が支配する日農などにより実践された時期があるが、それらは騒がれたほどの成果を上げることなく自然消滅状態となった。

               

 さて、著書の方に戻ろう。著者はそうしたルイセンコ失脚後においても、それら日本の科学者(武谷ら)がどんな言説を弄していたのかを紹介しながらその虚妄さを暴きだしてゆくのだが、なぜ執拗とも思えるほどこれに関わりあった科学者たちの言動を追跡したのかについては二つの理由があるように思える。

 そのひとつは、武谷を始めとする錚々たる科学者たちが、なぜ、こうした今から考えるとそれ自身エセ科学ないしは疑似科学でしかなかった理論にやすやすと同調したり、あるいはそれに同調しない科学者に対し、偏狭なブルジョアイデオロギーの持ち主であるといった決め付けや罵倒を行うことができたのだろうかいうことである。

 そしてもうひとつは、このエセ科学が1960年代には完全に理論的にも実践的にも失脚し生物学上の舞台から去ったにもかかわらず、それを推進し、同調しなかった者たちを居丈高に恫喝までしていた科学者たち(武谷を始めとしたひとたち)が、その後も自己批判らしい自己批判もすることなく、あたかも自分たちがルィセンコ学説とは関わりがなかったかのように振舞い、口を拭い続けてきたことのもつ意味である。
 
 著者はこの二つの様相を総括的に捉え、そこにみられる、自然は人間の意志に応じて変革しうるしまたそうすべきだという強い志向をいわゆる「科学主義」とし、そうした立場をこそ、この書のサブタイトルにあるように「自然とヒトに対する驕り」だとしてそれらを剔抉することを使命としているようである。

         

 私はこの結論に決して反対ではない。しかし、ルィセンコ学説という「科学でさえなかった」疑似科学が、かくまでも力を持ったという出来事を「科学主義」批判でまとめ上げるためにはもうひとつの迂回路が必要なように思う。
 それはルィセンコやその支持者たちが援用した弁証法的唯物論、ないしは唯物弁証法と称する「哲学的」バックボーンがはらむ形而上学そのものの確認とそれへの批判である。

 著者も引用しているように、唯物弁証法は対象に迫る認識論的方法であると同時に、対象の構造そのものだとされる。ようするに、認識論と存在論は一致し、論理的なものは歴史的なものと一致するとされる。ここには認識のパラダイムやそのチェンジはもはやありえない。なぜなら、探求すべき対象と探求者、あるいはその探求の方法は同一の事象として融け合ってしまっているのであり、完全に悪しきヘーゲル主義の虜となってしまっているからである。
 こうした立場を歴史や社会に適用したものが史的唯物論や唯物史観といわれるものであることはいうをまたない。著者も引用しているように、まことにこの立場は「自然の理論においても社会の理論においても特効薬」なのである。

 かくして、その追求の方法と追求の対象とが同一の構造をもっているとするならば、その追求者はつねに真理や正義の側にあり、あとはその知見を広げてゆけばいいということになる。そしてそうした知見の前進は、その知見と同一の構造にある対象への限りなき接近であり、同時にそれら対象の支配の可能性を保証する。
 
 著者のいう対象の支配、「自然とヒトに対する驕り」はまさにこうした過程を経て「科学主義」へと至るのである。著者はそれには触れないが、「科学的社会主義」と称されたものもまた、そうした共通の思想基盤をもって人の世を律しようとしたものであり、ここに私たちは、スターリンの個人の誤り云々という狭義のスターリニズムを越えた、より広義のスターリニズムの思想的基盤を見出すことができるのである。

 科学による、しかもエセ科学、疑似科学による対象の、ときとしては人に対する生物学的支配は、ナチズムにも共通するものであり、ハンナ・アーレントの全体主義批判が、ナチズム同様にスターリニズムをもその俎上に乗せたのはまことにむべなるかなである。
 ようするに対象の全的支配が可能であるし、それをなさねばならないとする立場である。

                

 こうしたいくぶんの迂回を経て、私は著者の結論と一致する。
 私のような文系人間は、ルィセンコ問題は一時期の生物学上のエピソードにとどまらず、弁証法的唯物論という一つの形而上学に侵食された当時のソ連のイデオロギーにあっては必然的であったとも思えるし、したがってこの書は、優れてスターリニズム批判の一断面を提示しているように思える。
 
 なおこの書は、ルィセンコ学説を提唱する論者たちの見解と著者のそれとを対応させて論じるという方法はとらず、むしろ各論者たちの見解に即しながら、リテラシーを駆使した徹底したテキスト・クリークからなっていて、その意味で、当該論者たちをして自ら語らしめるものして説得力をもっている。
 したがってその舌鋒は決して激越な様相は見せないが、当該論者たちがその論述で駆使する形容詞や接続詞の意味内容をも曖昧にすることなく問い、それに拠って問題の在処をより明確にするという点では非妥協的であり、その論点を明確にすることに成功している。

 なお著者は、禁欲的にもここに取り上げられた事象を自然科学上の出来事の範囲にとどめているにもかかわらず、武谷らの自己批判なき変節ぶりは如実に示されていて、そこには明らかに自らの言説に対する倫理的ともいえる無責任が覆うべくもなく露呈している。
 そして、この無責任体制は政治的左右を問わず、今日の私たちを呪縛しているものでもある。
 戦争責任の曖昧さによる歴史修正主義が一方にあれば、他方にはこの書にも登場する日本共産党の「一貫して誤謬なし」という頬っ被りがある。この党が、相対的に正しいことを語っても人びとの信頼を得られない事実はまさにここに由来する。

 ことほどさようにこの書の射程範囲は広い。
 それは、自然科学でのひとつの学説の興亡にとどまらず、そのドラマを可能にした時代背景や政治的力学をも照射しているのである。
 
 この書は、自然科学の専門書というより、タイトル通り「思想」を吟味する書である。その意味では自然科学系の人たちももちろんだが、文系の人にこそ読んでほしい。生物学の知識は高校程度、あるいはメンデルの法則を知っている程度で充分読了できる。

 なお、ルィセンコやそれにくみする勢力からエセ科学の烙印を押されたメンデル=モルガン学説の発展が、遺伝子の実体的確認やそのDNAの解読を経由して、ルィセンコらが夢見て果たせなかった生物の「改革」や「生命の支配」へと肉薄しつつあるのは歴史の皮肉という他はない。こうした立場の「科学主義」が、改めて多くの問題を提起していることはいうまでもない。
 

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ほんとにほんとの身辺雑記

2013-06-07 23:35:26 | よしなしごと
        

 農協の野菜売り場での買物。モロッコインゲン100円、空豆一袋80円、葉付大根一本120円、葉付人参3本110円、じゃがいも中8個130円、きゅう り5本100円、なす3個120円、小松菜60円、大葉一束70円、ネギ一束100円、破竹3本150円、合計1,140円。久々に1,000円以上買っ てしまった。
 大根の葉も人参の葉も食べます。人参の葉はごま油でさっと炒めてから、茎が柔らかくなるまで煮ると美味い。大根の葉もさっと炒め煮にして、しらすなどと合わせると美味い。

        

 「全くの空梅雨ですね」と友人にメールをした途端、激しい雷雨となった。一転にわかにかき曇り、あたりは真っ暗で雨が激しく叩きつける。ところがどうだろう、しばらくすると急に辺りが真夏の昼のように明るくなった。雷が鳴り響き激しい雨が降り続けているのにである。こんな現象は初めて見た。自然の悪戯は面白い。それにしてもなんという電線の多さだろう。こんなことでもなければ決してカメラを向けないのだが。

           

 若いころ「越乃寒梅」は幻の酒でプレミアが付くほどであった。その吟醸酒が一升3,000円台の半ばということで購入した。もちろんまずいわけでもないが かつてほどの感動もない。ひとつには他の地酒がドンドン美味くなってきているのと、今ひとつには、やはり希少性の伝説がもはや付加価値として機能しなくなったせい であろう。
 芥川龍之介の『芋粥』を思い出した。

           

 久々にA5判、430ページの専門書を読む。『武谷三男の生物学思想』(伊藤康彦 風媒社刊)。明日ぐらい、このブログにも書評というか読後感を載せよう と思うのだが、誰も読まないだろうな。でもいいんだ、自分の勉強した足跡の記録なのだから。スターリニズムの解明にとっても面白く参考になった。
 でも、あんな時代があったのだなぁ・・・・って、必ずしも過去の話ではなさそう。




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隠れ家のようなカフェのガーデンを訪れた。

2013-06-06 02:01:36 | 花便り&花をめぐって
  写真はいずれも美濃市乙狩、「ル・クールせきや」にて。

 例年より11日ほど早いと騒がれた梅雨入りだが、その宣言の後2、3日ぐずついたっきりでまるっきりの空梅雨模様。
 もう一度梅雨入り宣言を見なおそうという話もあるようだが、まあ、どっちでも構わない。


     一見無造作に見えるが・・・・              ヤマシャクヤク   
 
 私にとって幸いだったのは、先月末から今月初頭にかけて、それぞれ遠来の客を迎えることになっていて、はじめの予想ではすべての日が傘マークや雲マークだったのが次第にいい方に修正され、結果としてはすべて傘いらずだったことである(これは前回も書いた)。
 私の心がけがよほど良かったといいたいところだが、ここは訪れた客に花を持たせて、その人たちの心がけのせいとしておこう。


         両方とも知らない花、あるいは同行した人に聞いたのだが忘れた

 前回の記事で挿絵代わりに使った湖東三山の写真もその一環だったのだが、これは高校時代の文系サークル出身の同級生たち(なんともう60年間の付き合いだ!)とのお出かけであった。
 当初は、三山すべての制覇を意気込んでいたが、結果は最初の西明寺でギブアップ、三山ならぬ「散々」という体たらくであった。


      赤い花が咲くエゴノキ?           モリアオガエルの巣、見っけ!
 
 ここに載せるのは、その最終日、三重県からの遠来のご夫妻と同行した中濃の隠れ家のようなカフェとそれに付帯する自然のロケーションをうまく生かしたガーデンの風情である。
 私自身は4度目の訪問だが、ご一緒する人たちがみな一様に喜んでくれる。


       コウホネ(河骨)の花             もちろんササユリ   

 四季折々の花などの配置もむろんだが、それぞれのスポットにマッチした小物の配置など細やかな気配りとセンスが見て取れる。
 所詮は素人写真、どこまでお伝えできるかはともかく、その一端をお知らせする次第。

  
      テッセンの若い花?          ホテイアオイとキントト
                   
 
 【言い訳】どこかで、そう簡単に花鳥風月に耽溺するものかと大見得を切ったが、やはりこうした自然の妙、それに加えた人為の技には脱帽せざるを得ない。
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怒涛の4日間を終えた普通の日記

2013-06-03 17:52:57 | よしなしごと
 写真は5月の末日、なんと60年間の付き合いという高校時代の同級生たちと訪れた滋賀県の湖東三山のうち西明寺で撮ったもの。

 昨日までの月末月初めの4日間は遠来の人たちや古くからの友人たちと出合い、然るべき場所を訪れ、語り、聴き、飲み、食うという連続であった。名付けて怒涛の4日間。
 正直いっていささか疲れたが、しかし、数々の出合いや語らいはそれぞれ新鮮で、いろいろな人たちと一緒に過ごした時間は刺激的で楽しいものであった。
 おそらく、すぐ近くに迫りつつある私の認知症状を幾分押し戻すのに、なにがしかの効果があったものと思われる。

 

 幸いだったのは、梅雨入り後で、最初はベタベタ並んでいた傘マークや雲マークがドンドンいい方向に転じ、初日のはじめ、ほとんど傘が要らない程度のパラパラの洗礼はあったものの、全体としては天候に恵まれたことである。
 私の日頃の心がけがいいせいだと思いたいが、どうやら、訪れた人たちの心がけのせいのようだ。

 

 いずれにしてもそれらをつつがなく終えた今日、平凡な日常をゆったりと消化している。

 午前中は、昨夕、遠来の友と夕食を摂った折、飲酒をしたので預けておいた車をとりに行き、そのついでに、クリーニングに出しっぱなしで忘れていた冬物の衣類をとりに行った。
 4日間、夕食は全て外食だったため、ほとんど空っぽだった冷蔵庫を埋めるべく食糧の買い物もした。

   

 午後、衣替えで普通に洗えないものの「おうちクリーニング」を行う。
 手順は分かっているのだが、これが普通のクリーニングとどう原理的に違うのかはさっぱりわからない。

   

 4日間採らなかったせいで熟した桑の実が地上に落ち、辺りを紫に染めている。
 ザル一杯を収穫した。
 学童保育の子どもたちが、口を紫色にして食べてくれることだろう。

 

 久しぶりに庭木に水をたっぷりくれてやった。
 とても梅雨の最中とは思えないようなそよ風が心地よい。

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今も鳴り響く記憶のなかのサイレン

2013-06-02 01:09:08 | 想い出を掘り起こす
  写真は私の散歩道から。内容には関係ありません。

 年輩の方ならよく知っているものに、サイレンの音がある。例の「ウ~ッ」と鳴り始めそれがリフレインするもので、そのリフレインの仕方に差異があり、その差異で意味内容を伝えたりした。戦時中の警戒警報、そしてもうひとつランクが上の空襲警報などがそれである。空襲警報はいかにも切羽詰まった感があり、B29の下を逃げ惑う私たちの心胆を寒からしめたものである。

          

 昭和30年代から40年代まで、そうしたサイレンの音は学校や役場、それに工場などあちこちで始業、休憩、終業のたびに聞こえ、これを聞かない日はほとんどなかったものだが、最近ではせいぜいパトカーや消防車ぐらいでしか鳴らすことはなくなった。

          
 
 実はこのサイレン、広範に普及したのは戦時中のことであり、1937年(昭和12年)、日本の戦時体制がいよいよ厳しい状況に入りつつあった時期に制度として決められ、警戒警報や空襲警報などの伝達手段として全国にくまなく設置されることとなった。

          
 
 昭和40年頃まで、活動していたのはその名残りで、さまざまな時刻を告げる合図として随所で聞こえ、特に工場地帯では欠かせぬ音の風物詩であった。その後それらが設備として老朽化したり、あるいは騒音などの問題もあってチャイムや音楽にとって変わられ、激減したものだろう。

          

 実は私、このサイレンの手動式のものを鳴らしたことがある。中学生の時か高校生の時、学校に常備されていた羽根車式のそれをいたずら半分で回してみたのだ。
 わずか30センチ四方ぐらいのそれは、思わぬ大きな音を出し、用務員のおやじさんが飛んできてこっぴどく叱られた。
 それに触ったのはその一回きりだが、手回しのハンドルが初めは重々しい抵抗をみせながらも次第に軽く廻るようになり、それにつれて音が大きくなってゆくその感触のようなものを今もはっきりと覚えている。

          

 そんなものはもうないだろうと思って「手回し式サイレン」をネットで検索してみたら、なんと立派に残っていて、27,000円ぐらいから手に入るようだ。誰が買って、どんな用途に使うのだろう。やはり、地方の消防団などであろうか。

              
 
 あの音に促されて防空壕へ逃げ込むような体験はむろんまっぴらだが、反面、あの音色に対してのある種の畏敬のような感情も否めない。夜空を駆ける探照灯の明かりの右往左往をあざ笑うようによぎって飛ぶB29のまがまがしい機影は、恐怖の対象であると同時に何か超越した感もあった。その記憶のなかの映像には必ず空襲警報のサイレンの音がBGMとしてオーバーラップするのである。

          

 実際のところ、その情景のもとで何万、何十万、いや何百万の人びとが逃げ惑い、そのうちの多くの人たちが命を落としたり、家族や家を失ったのだった。だから敗戦後しばらくは、道を歩いていてすぐ近くでサイレンが鳴り始めると、一瞬ビクッとした経験を持つ人は私を含めて多かったはずだ。

          

 まあ、パトカーや消防車も含めて、サイレン音などは鳴らないないほうがいいのだが、にも関わらず、サイレンが鳴るとある種の爽快ともいえる緊張感を覚える自分がいる。しかし、お前だけ勝手に戦時中に戻れといわれそうだから、このへんでやめておこう。

 おまけにネットで拾った空襲警報のサイレンの音を載せておこう。
    http://www.youtube.com/watch?v=6mxuRb9NmHM
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