六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

神の視座からの殺戮 映画「アイ・イン・ザ・スカイ」を観て思うこと

2017-01-29 00:39:35 | 映画評論
 とても良くできた映画だと思う。演出にそつはなく最後まで画面に釘付けにされるし、起承転結は明確だし、テンポにも狂いはない。にもかかわらず、観終わったあとになんともいえぬ不快感、違和感がオリのように残る。
 急いで付け加えねばならないが、そうした残る思いのゆえにこの映画は失敗しているといおうとしているわけではない。むしろ、その不快感、違和感をちゃんと残したがゆえに、この映画はその辺の軍事サスペンスを超えているとは(ひとまず)いえる。

 そう、映画はいわゆる軍事サスペンスのジャンルに属するであろう。そのサスペンスは終盤に至りある結末へといたり、それまで強いられていた緊張から観客は解き放たれる。
 一般的にいって、この種のサスペンスではそうした形で、観客はある種のカタルシスを味わう。しかし、この映画ではそうではない。
 映画のなかで構想されていた敵の殲滅という意味ではそれは完膚なきまでに遂行された。まだうごめく敵へのダメ押しまでも含めて。
 しかし、その任務遂行に当たってのもうひとつの懸念については、それを完全に払拭することはできなかった。作戦実行のために、その条件が課したハードルを強引に引き下げるという恣意的な作業を行ったがゆえに。

             

 ここで、多少のネタバレは覚悟で映画の状況を概説しておこう。
 ケニアの首都ナイロビのある家屋で、東アフリカでNo.4、No.5を含むテロリストたちが集まり、今や自爆テロの準備がなされつつある。それを何千メートル上空の無人軍用機(グローバルホーク型のドローンか)と地上の工作員が操るハチドリやコガネムシ型の小型ドローンが逐一捉えていて、米英の合同作戦により、それへのピンポイントの攻撃が着々と進行しつつある。

 しかし、ここにひとつの問題が・・・。テロリストたちがいる家屋と壁ひとつ離れた箇所で、一人の少女がその母親が焼いたパンを売っているのだ。
 テロリストへの攻撃がいくらピンポイントで行われても、その少女が死亡する確率は65~75%あるとする。無辜の少女を巻き添えにしても攻撃すべきかどうかがジレンマとして提示される。攻撃を断念すれば、室内で着々と準備されつつある自爆テロで少なくとも何十人かが死亡する可能性がある。
 強硬派と慎重派とがせめぎあうなかでひとつの強引な案がひねり出される。爆弾の着地点を、ほんの少しずらせば、少女の死亡する確率は45%に軽減されるというのだ。

 何やかやあって、作戦は実施され、テロリストたちは殲滅され、そして少女は・・・・。どう思い返しても後味の悪さがベッタリと残る。
 その後味の悪さを、映画そのものはどこまでのレベルで捉えているのかは不明だが、以下は私の所見である。

          

 ひとつは、軍事サスペンスというからにはそこには戦争があるのだが、これがはたして戦争といえるかということだ。
 ここには絶対的ともいえる軍事的非対称、不均衡がある。米英側は、大小のドローンを用いて、テロリストの一挙一投足を把握しているのに、テロリストの方は自分たちの身近に迫っているものをまったく知るところはない。

 だから、ここで行われたことは断じて戦争ではない。一方的な処刑なのだ。ジレンマもまた、処刑の方法をめぐるものでしかない。問題設定はヒューマンな装いを凝らしているものの、トータルな状況は決してヒューマンなものではなく、ただ無機的に効率を慮るものにすぎない。

 このとき米英の合同作戦本部はいったい何と闘っているのか。映画を観るとわかるように、彼らは敵と戦っているのではない。彼らの行為にたいする同盟国内での評価や国際世論の結果に対して戦っているのだ。

          

 彼らが敵と戦っていない理由は今ひとつある。それは、現地の工作員一人を除き、誰一人戦場などにはいないのだ。それぞれが、ロンドンの作戦本部など「現場」から何万キロも離れた地点で、現場を映し出すモニターを見つめているだけなのである。
 テロリストにピンポイントの攻撃を仕掛ける要員もまた、アメリカはネバダの空軍基地に設けられた指令室からのボタンで、空中のドローンに発射の信号を送るのみなのだ。
 繰り返すが、ここには圧倒的な非対称と絶対的不均衡がある。邦題が「世界一安全な戦場」とサブタイトルをつけているが、それは断じて戦場ではない。最終処理工場の遠隔指令室なのだ。

 ついでながら原題の「アイ・イン・ザ・スカイ」は天空の眼、つまり神の視座を意味する。その視座に立ちながら、彼らは誰がどういう状況下でどのように死ぬかを「決定」するのだ。
 かつて、ハンナ・アーレントは、アイヒマン裁判を傍聴し、アイヒマンの所業について触れた際に、「君たちは、誰が生きていいか、誰が死すべきかを決定したのだ」と非難したのだが、今それが、自分の手を汚すことなく、何万キロも離れたところから行われている。

 流石にこの映画では描かれていないが、作戦終了後、笑顔で談笑し、恋人とワインを開けたりすることもできるわけだ。

               

 この非対称性は、軍事技術等によってもたらされたものであろうが、一方、徹頭徹尾な「ヨーロッパ中心主義」をも含意している。ようするに、監視し、処罰する側、その判断基準を自らのうちにもち、必要とあらばいつでも決断しうる絶対的主体としての自ら。この文明の代表としてのヨーロッパ。
 その支配する意志の前には、その他の異なる価値観をもった者どもは、もはやいかなる意味でも主体ではなく、処理や処分の対象としての客体にすぎない。
 この場合、ヨーロッパ中心主義のうちにこの日本という国も当然ながら含まれている。

 グローバリズムのなかではじき出されてゆく者たちの抵抗、それをヨーロッパ風の理性のなかで抑圧し、歯向かうものには圧倒的な軍事力でもって殲滅する、これは1990年代から一貫して行われてきたことで、その「ネズミ刈り」がハイテク化されて到達した「成果」が、この映画がみせるものであり、そうした状況に、ヒューマンな判断というスパイスをちょいとばかり振りかけて見せたのがこの映画ともいえる。

 これほどまでに「神の視座」から監視され、支配され続けている者たちが、自らの主張をどのように発信しうるのか、自爆テロやその他のテロルを放棄してどのように対峙しうるのか、それを深く考えさせられるところである。
 自爆テロがもっているメッセージ性は、ヨーロッパ中心主義が身にまとったハイテク支配システムへの最後の抵抗ではないだろうか。

            

 あえていうならば、私は殺戮を決定するボタンを握りしめて、枝葉末節的なヒューマンな問題で躊躇する側にではなく、彼らの「神の眼差し」のうちで殺される側にこそ立ちたい。この映画の結末が示すように、テロリストたちも、そしてその壁の外でパンを売る少女も、結局は同じ定めを背負わされているのだ。

 はじめにも書いたが、そうしたことを考えさせる意味で、この映画はよくできている。制作陣が上に書いた問題をどのレベルまで意識していたのかは別にして・・・・。 
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忙しかった(?)一日の、長〜い日記

2017-01-27 11:39:36 | 日記
 朝起きて最初の仕事は、昨夜回しておいた洗濯機のなかから洗濯物を出して干すこと。朝の気温が低いと、冷たい洗濯物を広げて干しているうちに指先が凍えて感覚がなくなってくる。
 干し終えて部屋へ帰ると湯を沸かしてコーヒーを淹れる。温かいマグカップを両手で包み込むようにしていると、やっと指先の感覚が戻ってくる。

          

 新聞を読む。ネットで情報をという手もあるが、やはりジャンルごとに分けられた一覧性のある紙面で、どの情報を摂取するのかの選択自体がこちらの情報への主体的な接近だと思い、新聞は捨てられない。いつもは一時間ぐらいかけて読むが、出かける日にはそんなにのんびりしてはいられない。いつもチェックしている箇所と、見出しで選んが箇所のみを読む。

 出かける。駅まで2キロ。自転車でもしれているが、冬季はバスにする。寒いし、バスのほうが安全だ。
 ただし、帰りが遅くなると、田舎の路線バスは終車が早く終わっしまう。むかしはよく歩いたが、今はその元気がないのでタクシーを使う。ただし、タクシーは苦手だ。黙って運転してくれる人はいいが、サービスのつもりで話しかけられるのが困る。無愛想にするのは失礼だし、かといって興味もない話題に調子を合わせるのは媚びているようでいやだ。

          

 それはともかく、今日はバスで出かけ、JR、地下鉄と乗り継いで名古屋の中心街近くでの同人誌の編集会議に出かける。私と、私とは何ヶ月か下のYさん以外は80代。それぞれお元気なのは同慶の至り。
 最初はそれぞれの情報交換。知人の現状などがいろいろもたらされる。
 ついで、今用意している春号への各自の進捗状況の確認。
 各自の進み具合はまちまち。これで、ハラハラドキドキしながらなんとか発刊にこぎつけるのがいつものパターン。

 会議終了後はランチの会食。よもやま話をしながらのそれ。
 いつもと違う店で、いつもと違うものを食べたせいか、途端に胃腸が痛む。人間は大雑把な割に胃腸はデリケートなのだ。

 散会後、せっかく名古屋へでてきたのだから有意義にと、愛知県美術館での「ゴッホとゴーギャン展」へ。
 二人がともに過ごした1888年の2ヶ月、それへの収斂と別離をコンセプトにしたこの企画は、両者の画集などであまり見かけない絵もあって面白かった。
 私のお気に入りは、ゴッホの「収穫」で、底抜けに明るい色調で、73×92cmとは思えぬ広がりをもち、児童のような対象への即物的な関心と、にもかかわらず、内なる制御し難い情念とが程よく昇華されたような作品であった。

          

 まだ帰るのには早かったので映画に。観たのは「アイ・イン・ザ・スカイ 世界一安全な戦場」で、ある種の軍事サスペンスもの。提示されている事実の起承転結は明快で、映画としても良くできているが、その解釈は重層的だ。この映画が示す世界の現実をどう受容するのかはもう一つ違う次元での考察が必要だろう。
 これについてはあらためて書きたい。

              

 18時30分、会社勤めの人たちでごった返す電車に揉まれながら岐阜ヘと帰着。
 うちへ帰っても誰もいないから、駅構内で夕食をとる。チエーンのイタメシ屋。ここは実に安い。ワインのデキャンタ(250ml)が200円。決して美味いワインではないが、和食チェーンの大半が「飲み放題」に使っているあの箱入りワイン(?)よりは遥かにマシだ。
 それに鶏肉入りのサラダが299円。キャベツとベーコンのペペロンチーノが399円。合わせて898円。
 新書版の三分の一ほど読んで1時間を過ごし、しかもこの値段は安い。腹ごなしにはこれで十分だ。

 なお、隣の二人席には女子高校生が二人粘っていたが、聞こえる話は結構シリアスなもので、それなりの読書や思索の痕跡が伺えるものであった。帰り際、私が会計伝票を落としたのをわざわざ席を立って拾ってれくれた。
 お礼とともに、「お先に」と挨拶をしたら、爽やかな笑みで応えてくれた。

          

 岐阜駅構内には食料品のスーパーがある。しかも、夜の時間帯だと魚などのナマモノが半額になっていたりする。
 ナマモノは買わなかったが、カイワレ、ラディッシュ、うにくらげ、タラの芽、生高山ラーメン一食分、刻み白菜漬けを買って869円。

 まだバスのある時間帯なのでそれで帰る。
 朝、干して出かけた洗濯物を取り入れる。夜気ですっかり冷たくなっているので、乾いているのかどうかもわからなかったが、部屋へ取り入れたらちゃんと乾いていた。

 おっと、明日は生ゴミの収集日だった。朝早く起きるのが苦手だから、家中のゴミをかき集めて大きな袋に一杯分を出す。前夜に出すと、朝方、カラスに荒らされることが多いが、私の町内は、近くの洋菓子店さんが、特大のゴミ箱を用意してくれているので、それに入れればカラスの心配はない。

 それらを済ませて、コーヒーを一杯。TVを付けたらトランプ氏が本領発揮で暴れているのを報じていた。アメリカは、そして世界はどうなるのだろうか。
 アメリカではどんどん株が上がっているという。一国経済主義がかくも評価されるのは健全なのだろうか、それとも危機はらみなのだろうか。
 まだまだよくわからない。
 
 ただ、いえることはポピュリズムに後押しされた自国中心主義が各国で勢いづき、それがグローバルな新自由主義と絡み合って、力を誇示し合う展開、いわば協調や調和を吹き飛ばす展開になる恐れが多分にあるということだ。
 「闘争」「勝利」への進軍ラッパが聞こえるようだ。

 
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闘う大統領!

2017-01-21 14:53:18 | 日記
            

  
 トランプ氏はいう。偉大なアメリカを取り戻す戦いが始まったと。
 それに先立ってわが安倍氏はいった。失われた70年を取り戻すのだ。そのための憲法論議をよりシビアに始めるのだと。
 闘争し、勝つことへの執念。

 かつてナチスの将校、ヒムラーはその配下の兵士たちにこう語ったという。
 「自然を見よ!どこをみても闘争がある 動物界でも植物界でもそうである。闘うことに疲れたものは没落するしかないのだ」 

 これらは社会ダーウィ二ズムに依拠した言説といっていい。
 現状を是認し、そこで闘えという。そして、そこで勝利したもののみが生き延びることができると。

 しかし、動物界や植物界はヒムラーのいうような弱肉強食の世界ではない。そこにあるのは適者生存の論理で、環境に適応し得たものが生き延びるということだ。
 もし、弱肉強食が一般的だとすると、虎やライオン、猛禽類などが今や絶滅の危機にあり、逆に敵を襲うことを知らないうさぎなど草食のいわゆる弱小動物が増え続けているのがなぜかをか説明することができない。

 人間の世界はさらに異なる。適者生存の範囲を自ら広げる能力、これが動植物とは異なる点であり、それがいわゆる文明といわれるものだ。
 だから、闘って勝つことによってのみ活路が開けるというのは実は野蛮への後退にすぎない。
 適者生存の拡大という文明が、悲惨の減少や生存率の向上に繋がるとしたら、闘って勝つは、必然的に他方での敗者を生み出し悲惨を撒き散らすこととなる。

 「闘って勝つ」を国是とすることは、したがって文明からの退却、野蛮への転落を意味する。
 人間の想像力は、闘って勝つ以外の道をも見いだせるはずだし、そうあるべきだろう。
 
 東西で、そして南北から聞こえる「闘って勝つ」のスローガンはとてもおぞましいものに聞こえる。
 21世紀を、新自由主義が跋扈する時代にしてはならない。
 なお、「闘って勝つ」というほど勇壮ではなくとも、現状を固定したものと考え、そのなかでうまく立ち回ることができれば大丈夫だとたかをくくるのも、いわば新自由主義の取り巻きとして、それを支え続けるものというべきだろう。

 いよいよ、虎が野に放たれた感がある。






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洗濯物と水仙

2017-01-19 11:15:07 | 日記
               

 寒い朝に洗濯物を干すのは冷たい。手の指先の感覚が無くなるほどだ。それでも、パンパンと布を広げて干す。
 この間の雪で倒れてしまっていた水仙を摘んで手向ける。生前この時期になると自分でもそうしていたようだ。
 「あまりたくさん折ってくるなよ」というと「だって、倒れたままではかわいそうでしょ」などといっていた。
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今年初、そして久々の映画『エヴォリューション』

2017-01-15 01:06:25 | 映画評論
 今年はじめて映画を観た。しかも2ヶ月ぶりだ。映画館の暗闇が懐かしい。
 その映画にどれを選ぶか迷った結果の選択だった。
 
 評論家のものは参考にはするが必ずしも選択の基準にはしない。ヨイショもあるし、その評論家自身の好みを知っていないと外れることもあるからだ。
 ユーザーレビューはよく観る。それも複数の人のものを観る。
 みんながいい点をつけているのは概していい映画だともいえる。
 その逆にみんなが悪い点をつけているのは概して良くない。
 もちろんそれらの逆もある。

          

 食指をそそられるのは、ひとつ星☆から5つ星☆☆☆☆☆まで評価が割れているものだ。
 これにも二種類あって、映画をよく観ていそうな人が☆☆☆☆☆でそうでもない人が☆という場合とその逆のケース、すなわち、みんなが☆☆☆☆☆なのに玄人風の人が辛いというケースだ。
 だがこれも、映画をよく観ている人の判断が必ずしも当たっているとは限らない。なまじっかよく知っているだけに、思い込みや深読みで映画をはみ出たところで評価してしまうケースもあるからだ。逆に、一般的に良くできているものに、ないものねだり的な注文をつけたりすることもある。

          

 それはさておき、私が☆☆☆☆☆と☆が入り乱れる評価のものに惹かれるのは、「どれどれ、俺が決着をつけてやろう」という思い上がりも多少はあるが、それのみではなく、それだけ評価が乱高下するということはそれだけの多様な要素をもっていて、そこには私が観たことのないものや展開が含まれているのではないかと思うからだ。

 まあ、前置きはさておき、そんな形で評価が激しく割れる映画がたまたまあったのでそれを観た。
 『エヴォリューション』がそれである。監督はルシール・アザリロビック(女性)。2015年、フランスの作品である。女性監督ならでの発想による映画かもしれない。
 一口で言えば、SFっぽい要素を孕んだホラーなのだが、ギェ-ッと驚くシーンは実際にいろいろあるものの、それらが実に静謐のうちに提示されるので、その驚きは外部に発散されるというより、私たちの内面での疑問や違和感、そして得体のしれぬ恐怖として堆積されてゆく。

            

 舞台はなぜか男の子たちと成人した女たちのみが住む離れ小島。それだけを聴くと何かメルヘンチックな感もあるが、その構成が織りなしている秘密が次第に露呈してくるに従い、そうとはいっていられなくなる。
 それらが、おそらくこれまで映像化されたことのない奇怪さを孕むものとして提示される。 
 当然それらが意味するものへの解釈への欲望が芽ばえるのだが、それに思いを巡らす暇もなく美しかったり妖しかったりする映像が次々に、しかもそれぞれがごく丁重にゆったりと映し出されてゆく。

           

 男の子たちをを映し出す以外のシーンや映像は、おそらく意識して無機的に撮られている。ラストシーンへとつながる強い心情的なつながりを示唆する展開はあるものの、それらもまた極めて静謐なタッチで淡々と描かれる。
 ただし、主人公の少年ニコラと怪しげな女性集団の一人でもありながらニコラに心動かされたステラとの海中での交歓シーンは実に美しくかつ妖しく、そしてぞくぞくするほど素晴らしい。
 
 なお、そうした愛の交歓を思わせるシーンがあるにもかかわらず、ステラを演じる女性は無機的にして無表情である。むろんそうした演出なのだが、それを演じるロクサーヌ・デュランという女優の表情はどこか、ルネサンス以前の宗教画に見るマリアを思わせる。いって見れば、慈母らしくない慈母ともいえる。

           

 ラストシーン、ニコラ少年が一人、小舟でたどり着く場所が唯一私たちがよく見知っている風景ともいえる。
 それはこの辺りでいったら四日市など、日本のあちこちにある石油コンビナートの海側からの夜景で、その含意するところも謎といえば謎だ。
 私たちがこの映画で見てきた奇っ怪な過程そのものが、この高度に工業化された社会の未来に横たわるまさにエヴォリューション(進化)の内容なのか、それとも、この現実の日常を遮断し、切り裂いた突然変異として、次のエヴォリューションを引き起こす予兆の啓示なのか、その判断は私たちに委ねられている。
 そして、この映画にいくつの☆を付けるかの判断も・・・。

 加えていうならば、成人の男性が一人も出てこないというだけで何処かバランスを欠いた危うい感じを持つのは私が男だからだろうか。
 あ、それに特筆すべきは、海辺そのものの風景、打ち寄せる波、海中のシーン、揺らめく海藻に珊瑚たちが、そして行き交う魚類の群れなどのそれぞれが、素晴らしくクリアーに美しく撮られていることである。

 今年最初の映画がこれでよかったと今は思っている。






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久々の名古屋です!

2017-01-13 10:43:07 | 日記
             
 
 名古屋という街についてはあまりきちんと向かい合ったことはない。
 ひとつには私の怠惰だが、もうひとつには18歳で名古屋の学校に通いはじめて以来、岐阜の人間であるはずの私はその大半を名古屋で過ごしてきて、その街を対象化して見るにはあまりにも身近かすぎたということもある。
 
 その名古屋との付き合いは60年に及ぶ。そのうち名古屋に住んだのはサラリーマン時代の10年ほどだが、学生時代も、自分で名古屋に店をもってからも、ほぼ毎日名古屋へ通い、その生活基盤は名古屋にあった。
 店をたたんでからの十数年は、その時間の大半は岐阜で過ごしたが、交友関係や映画やコンサートなどでは名古屋との関わりが強く、最近でこそ訪問回数は減ったものの、月数回は名古屋を訪れていた。
 
 岐阜で書を読んだり文章を書いたりしていても、それは名古屋で発刊している同人誌のため(というか、それへの発表が読書やその整理原動力になっていた)が多かったから、精神的には名古屋とは深い結び付きがあったといえる。
 そんな私だが、昨年の11月に、取り込みごとがあって以来、2ヶ月近く名古屋とはご無沙汰している。11月23日に、ちょっと期待していたコンサートで名古屋へ行くことになっていたのだが、それどころではなくなった。その折の無駄になったチケットが、いまも引き出しのなかに眠っている。
 
 これまで述べてきたように、18歳の折に名古屋へ通学しはじめて以来、1ヶ月以上名古屋から遠ざかっていたのははじめてなのだが、ほかならぬ今日の午後、実に久々に(と私には思える)名古屋へ出かける。
 用件は、まさにその18歳の折からの知り合いのYさんと、共通の友人であり、もう40年ほどの付き合いがあるNさんと合うためだ。このNさんは、中国は山西省に住んでいて、たまたま日本へ来ていて、まもなく帰るという日取りのなかでの出会いだ。
 
 私の一身上にいろいろなことがあったあとだけに、どんな表情であったらいいのかにも戸惑いはある。しかし、長年の付き合いだから、自然の流れに任せればと思っている。
 なんだか、名古屋再デビューのような心持ちだが、そういえば、60年前とは著しく変わった名古屋という街をあらためて眺める機会でもあろうかと思う。
 二人との会話も楽しみだ。
 それでは行ってきます。






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新春の散策と木々のそよぎに思うこと

2017-01-06 01:01:53 | よしなしごと
 12月31日、1月1日、2日の3日間は一歩も家を出なかった。
 3日には、すぐ前にできたドラッグストアで買い物をしたが、往復にして100メートルちょっとを移動したに過ぎない。

           

 このままでは足腰が萎えて死んでしまいそうなので、4日、郵便局に書留便を出しに行ったついでに少し歩いた。
 郵便局で用件を終えてから、自宅を中心点にして、半円を描くように一時間半ほどフラフラした。途中で立ち止まってあたりを眺めたり、写真を撮ったりで、時間の割にはあまり歩いてはいない。それでも携帯の歩数計は6,000 歩ほどを記録していた。

               

 新しい建造物などがあると、ここは前はなんだったのだろうと思い起こそうとするのだがなかなか思い出せない。まさに去るものは日々に疎しだ。
 人間の記憶力なんていい加減なもので、自分の関心の対象外のものはどんどん削除してゆく。だから、そこに以前あったものをちゃんと見ているはずなのに、新しいものができてしまうと、以前あったそれを思い出すことができない。

               
 
 一方、それほど一筋縄で行かないのもまた人間の記憶である。
 夢の中などで、半世紀も前にほとんど業務的にしか会ったことがないぐらいで、したがってその後思い出したこともなかったような人が、名前も顔も鮮明に現れ、しかもその夢にとってけっこう重要な役割を担ったりする。

               

 これなどはPCでいうと、とっくに削除し、ゴミ箱に入れたものが回帰する例、あるいはもっというと、ゴミ箱を空にするという措置を取り、もう回復しようにもし得ないはずのものが戻ってくる例で、その筋の専門家が、ハードディスクに残る痕跡からそうした情報を復活させるのに似ているのかもしれない。

               

 なぜそんなことどもが夢の中で回帰するのかは、フロイト流にいえば、その夢のテーマと、その忘れ去られたはずの人どもとの間に、ある類似点や語呂合わせ的な共通性があって、したがってそれが夢の素材として選ばれて登場するということになるのだが、それを追跡し、突き止めるのは私の力には余る。だから、「なぜ、あいつがいまごろ」とただただ驚き訝しく思うのみなのだ。

               

 なぜこんなことをあらためて書くかというと、そういう夢が最近すっかり多くなっているのだ。繰り返していうと、こうした夢でも見ない限り、決して思い出すこともなく、私にとってはなかったこと同様の人物やシチュエーションがしばしば登場し、目覚めてから、そういえばそんな人もいたっけとか、そんなところへ行き、そんなことに遭遇したなぁという思いに駆られることが多いのだ。
 まあ、これは単純に、私が老境に差し掛かり、死期もそれほど遠くないということだと思う。
 ついでに、この前も書いたが夢には時制がないから、登場する人物はみな生きている。亡父も亡母も、そして私の連れ合いも。

           

 話はころっと変わるが、抑圧され生存の危機にある人間にとって最後の抵抗、最後の手段は移動である。逃亡、亡命、逃散、越境などがそれで、現在、それが大規模に生じているのが難民という事態だ。21世紀は難民の時代といわれ、それをめぐっていわゆる南北のありようは決定的に変化するといわれている。しかし、ここでいいたいのはそれについてではない。

           

 話は植物のそれである。
 植物は、一部のものを除いて基本的に動きが封じられている。環境の変化などに対しては、もっぱら座してそれに適応してゆくしかない。
 私たちが、年月を経た老木などに接する際、崇高にも似た感を覚えるのは、それらがひたすら耐え忍んだ年月、にもかかわらず自己の遺伝子に刻まれた設計図を全うすべく奮闘した気の遠くなるような年月、それらを何処かで感じるからではないだろうか。

           

 今回、ここに載せた写真は、6,000歩の散歩の中で私が見かけた植物たちで、場所柄そのほとんどが人の手が入ったものである。だから崇高さなどとは縁遠いといえる。
 しかし、どのような事態になろうがそこにとどまり、それを引き受けて生きていることには変わりない。ニーチェの「ウィ」は、そうした植物たちのそれであり、彼はそれを、人間たちに普遍させようとしたのだろうか。

           

 あちこち脱線ついでに、先ほど述べた人間の移動という行為に関してだが、私自身の将来の問題として、子どもたちに海外への移住という選択肢もあることを漏らしてみた。さしたる反応ななかった。そんなことをいったってどうせできはしないだろうと、足元を見透かされているのかもしれない。
 確かに、私の能力や可能性からいったらその実現性は乏しい。
 しかし、人間には究極の移動、飛躍とか狂気という手段があるのだ。

 一方、人生至るところ青山(=死に場所、もしくは墓所)ありだとしたら、その青山を自分の恣意で決めるのは「いたるところにある青山」という趣旨とは逸脱するのかもしれない。
 このあたりが自力と他力が別れるところか。

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