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六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

板取川紀行・水と緑に満たされて

2017-09-30 02:30:01 | 写真とおしゃべり
 過日、長良川最大の支流、板取川へ名古屋の友人を案内する機会があった。
 おおよそ半世紀前、渓流釣りにしばしば訪れた溪で、それなりの釣果を得た記憶もある。

 途中、長良川から別れた板取川沿いにある森のカフェ、「ル クレール せきや」に寄る。ここは岐阜から小一時間ほどのところで、名古屋など都会地の人をしばしば案内しているが、杉林に囲まれた空間に広がる自然と共存したガーデンはみごとで、感嘆されることが多い。
 ただし、今回訪れた感じでは、いくら自然と共存しているとはいえ、それなりの手入れは必要なわけで、その面ではかつてに比べやや荒廃の感が否めないかなと思った。ただし、これを維持するのは実に大変なことなのだから致し方ないかなとも思う。

      

 そこでの小休止のあと、向かったのは最近話題の「モネの池」である。
 もともとは根道神社の境内の石段下にある名もない池だったのだが、水が透明で睡蓮が咲き誇り、独得の雰囲気があるところから、誰言うともなく「モネの池」と呼ばれ、口コミやネットで広がった結果、今では観光バスが止まる景観スポットとなっている。
 もちろん、かつてこの溪へよく来ていた頃にはこんな池があることは知る由もなく、単なる通過点に過ぎなかった。

     

駐車場には平日であるにも関わらずかなりの車がとまり、大型の観光バスも駐車していた。そして少し離れた池の周りには、多くの人たちがひしめいていた。
 思ったよりは小さい池であった。それと季節を外していたので、睡蓮の花もなく、黄色のコウボネの花が2、3輪見られる程度で、あの睡蓮に満ちたモネの池とはかなりイメージの乖離があった。

     

 ただし、山裾にあるという条件もあって湧水があるようで、水はあくまでも澄み切っていた。よく、透明度が高くて舟などが空中に浮かんでいるかにみえる写真があるが、それほど深くはないがそれと同じ現象が見られる。何尾かの鯉が放たれているのだが、それらがまさに浮遊しているかのようなのだ。
 本家のモネの池にこだわると幾分肩透かしの感があるが、これはこれで美しい。睡蓮の季節だったらもっと感動的だったろうと思う。

     

 名古屋からの客人に、もう一つ見せたいものがあった。それはさらに上流にある川浦渓谷(川浦と書いて「カオレ」と読む)である。
 この渓谷とはじめて出会ったのはもう半世紀近く前である。冒頭に書いたようにその頃、私は渓流釣りにはまっていて、中部地区の溪々へ、アマゴやイワナを求めてよく通っていた。こことの出会いもその折で、いまほど道路事情が良くないなか、ポンコツ車でよく来られたものだといまにして思う。

     
     

 その折、川浦には大きなアマゴがうじゃうじゃいるという噂を頼りに行ったのだが、数十メートル下を切り立った岸壁に挟まれて流れる渓谷にどこからどう降りるのかもわからず、諦めてほかの谷へ入った思い出がある。
 その後訪れたのは、いまから数年前、地域の写真クラブの人たちに同行した際であった。人の入川を拒む岸壁の間を流れる溪は昔のままであったが、それを見る私の目は変わっていた。かつては釣りの対象であった渓を、いまはそれ自身の景観を楽しむ目線で見ているのであった。

 
 
                             右の地図の航空写真

 その目線で見ると、この渓谷は、これまで訪れたどの渓よりも険しく、かつ、美しいことに気付いた。写真で見ていただくとわかるように、これは渓谷というより文字通り峡谷で、相当の水量の流れが、左右から迫る岸壁に阻まれて、細い流れを余儀なくされ、そこから解き放たれた途端、歓喜の轟音とともに白泡を放って流れ下る、その繰り返しがこの渓谷を彩っている。
 今回もまた、その絶景を満喫することができた。

 そこを最後に下りに転じ、途中、美濃市のうだつの上がる街並みを眺めて帰途についた。
 川はいい。水はいい。山林が大半を占める岐阜県は、それに満ち満ちている。

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難民を射殺する前に麻生君が考えたほうがいいこと

2017-09-24 11:30:39 | 社会評論
 おお、麻生太郎氏よ!
 国連総会などで北朝鮮とアメリカとのガキの口喧嘩のような応酬がなされ、麻生君の盟友、安倍君はトランプに追随し、「もはや対話は終わった」と両者の軍事衝突を煽るかのような演説をぶち上げた。
 それがどれほどの悲惨を招くかは、双方が遠距離攻撃の手段を持ち、更には核兵器を所有しているとあって深く考えるまでもなく明らかである。

             

 もしガチンコ勝負になれば、北は壊滅的な打撃を受け、崩壊を余儀なくされるであろう。そうした国家単位の問題はともかく、問題はそこで生活している庶民である。おそらく多くの民が難民として近隣諸国へ押し寄せることとなる。

 わが麻生君は流石に先見の明があって、それら難民に言及している。「武装難民かもしれない。警察で対応するのか。自衛隊、防衛出動か。射殺ですか。真剣に考えなければならない」というのが彼の予測というか見通しである。

           

 武装したままで難民というのは考えにくいが、いずれにしても「射殺」さえも考慮に入れるその思考の凄まじさには戦慄すべきものがある。難民を射殺するというのはそれが多発しているシリアやそれらと対応しているヨーロッパでも聞いたことはない。

 ところで、麻生君の出身母体が「麻生セメント」であることはよく知られた事実である。
 その麻生セメントであるが、そのまた前身は麻生鉱業という炭鉱であった。戦前、この炭鉱では、半ば強制動員された朝鮮人労働者や被差別民が働いていたが、あまりにも劣悪な労働条件に、労働争議が起こっている。

             
                麻生鉱業で働いていた捕虜たち

 さらに敗戦間際には、第二次大戦中の捕虜300人ほどを働かせていたのだが、そのうちの何人かが、やはり劣悪な労働条件のなかで死亡している。
 
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BA%BB%E7%94%9F%E9%89%B1%E6%A5%AD

 麻生太郎君が、今日政治家として副総理の地位を占め、夜な夜なバー通いをしうるのはそうした麻生財閥の蓄財のおかげなのである。
 ようするに、植民地支配や戦争という状況下にあって、難民に相当するような人たちを劣悪な条件下でこき使ってきた一家の歴史が今日の麻生君を産んできたわけだ。
 その麻生君が今や、難民の射殺に言及するということはどういうことなのだろうか。

             

 彼にとっては、私たちのように政治情勢によっていかんともしがたく漂流し、難民化せざるを得ない存在は、劣悪な条件でこき使うか、場合によっては射殺して抹消すべき消耗品にすぎないのだ。
 ここには恐るべき人間観の荒廃があるのだが、ノーテンキな彼はそれに気づくこともなく、「合理的な」解決法としてそれを述べ立てているのである。
 少し前には、「いくら志が良くても、ナチスのように何人も殺してはいけない」と発言し、それを撤回したが、今回は「自衛隊、防衛出動か。射殺ですか。」と殺すことをも辞さないという「志」を披露したことになる。


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ケバい魅力をたたえた街・大須 チョイ見と思い出など

2017-09-22 11:52:11 | よしなしごと
 つい最近、僅かな時間であったが名古屋の商店街、大須を訪れる機会があった。
 私が根城としてきたやはり名古屋の今池同様、下町の商店街であるが、さまざまな要因があって現今では大須の方が勢いがある。

           
 
 歴史的にも大須のほうがはるかに古い。もともとこの街は、大須観音の門前町として発展してきたのだが、その大須観音が、かつては現在の岐阜県羽島市桑原町大須にあった真福寺寶生院が徳川家康の命により現在地に移転されたものだということからして400年の歴史をもつことがわかる。
 なお、岐阜育ちの私は、羽島市に大須という地名があることは知っていたが、それがこの大須につながることは長じて初めて知るところとなった。

           

 ようするに大須は、私がこの街を知った頃には、観音様の門前町として、善男善女、ジジババが集まるところだった。それを示すように、この街の道路は、赤門通り、万松寺通り、仁王門通り、門前町通りなど、それぞれが抹香臭いネーミングに満たされている。しかし、それが今日、ある種のトレンドとして街の味わいを加味する雰囲気を醸しているのだから面白いものである。

           
           
           

 そうしたジジババの街大須は、東京の巣鴨ほどのブランド性を持ち得ず、1960年代から70年代にかけては衰退の兆候を見せ始めるのだが、そこへ一石を投じたのがアメ横ビルなど家電店やパソコンショップの進出で、それらが若者が来る街としての新たな発展を生み出し、秋葉原(東京)、日本橋(大阪)に次ぐ日本三大電気街の一つに数えられるようになった。
 基本的にはそれが今日の大須を支えている。街には若向きのオープンカフェのような作りの飲食店が溢れ、私のような焼跡派にはいささか入りにくい感もある。

 そうしたこの街の「正史」とは別に、私にはある種の個人的な思い入れもある。
 その一つは、いわゆる「大須事件」である。
 時は1952(昭和27)年7月7日、当時まだ国交がなかった中国との日中貿易協定の調印式に臨んだ社会党の帆足計、改進党の宮越喜助代議士の歓迎集会が今はなき大須球場(中日スタジアムがない前にはここでプロ野球などが行われていた)で行われ、それが当時の日本共産党の軍事路線などと相まって大荒れに荒れ、警察官70人、消防士2人、一般人4人が負傷し、デモ隊側は1人が死亡、19人が負傷という事態に至った。

           

 この事件は、同じ年の皇居前広場での血のメーデー事件、大阪の吹田事件と並んで、三大騒擾事件といわれた。
 当時私は中学生で、それらの詳細を知るべくもなかったが、同じこの国の戦後のなかで、いろいろな問題が発生しつつあるのだという漠然とした予兆はあった。
 私を同人誌に誘ってくれた故・伊藤幹彦さんが、当時高校生の身でこのデモに参加し、警官隊の制圧にあってほうぼうのていで逃げ延びたのを知ったのは10年ほど前だったろうか。

           
  
 もう一つの大須での思い出は、ロック歌舞伎スーパー一座による夏の「スーパーオペラ」、冬の「スーパー歌舞伎」であった。
 私はそのほとんどを観ているが、かつての浅草オペラを思わせるそれは、底抜けに面白かった。劇団長の原智彦を始めとする劇団員は舞台で弾けていて、アドリブの政治批判なども辛辣にして痛快であった。
 惜しむらくはそれも2008年の舞台を最後に幕となってしまった。そしてその主宰者で演出家であった岩田信市氏も、今年、冥界へ旅立ったという。

           

 そんな大須の街を今回はチラ見程度の散策であったが、平日にも関わらずそのパワーは十分感じることができた。
 ド派手で、ストレートに迫りながらもどこか郷愁に満ちたこの街の不思議な魅力、それは四百年の歴史と、ITが生み出した若者文化との融合、加えて東南アジアやブラジルなどのエスニックな要素が溶け合ったトレンディな味わいのなかにこそあるのだろう。
 加えていうならば、写真で見るようにケバい街であるが、そのケバさがこの街の得体のしれぬ多様性の表出なのかもしれない。
 
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船頭重吉の漂流譚 劇団PH-7『石の舟』を観る

2017-09-18 22:56:55 | 催しへのお誘い
 久しぶりにナマの演劇を見ました。
 劇団PH-7による『石の舟』(脚本:北野和恵・演出:菱田一雄 於:名古屋市守山文化小劇場 9月16日・17日)がそれで、その下敷きは三田村博史の力作、『漂いはてつ』によります。

             

 話の概略は知多半島在住の小栗重吉が船頭を務める督乗丸が江戸からの帰途、遠州灘沖で遭難(文化10年=1813年)、以後484日という長期間太平洋を漂流し、イギリス船に救助され、日本人としてはじめてアメリカ大陸に上陸したという話です。しかしその後、カムチャッカ半島経由してちょうど200年前の1817年に帰国したものの、その間、14人の乗組員中12人を失い、結局帰国できたのは船頭重吉のほかは伊豆の音吉のみでした。

           
              

 それらのいきさつは、重吉からの聞き語りを記した池田寛親の『船長日記』に残されています。
 それらによれば、重吉は無事帰還できたものの、手放しで喜ぶわけにもゆかず、何よりも船頭という立場でありながら、多くの乗組員を失ったという自責の念が重く残ったといいます。そこでじゅうきちは、今でいうところの栄誉賞に相当するものとして与えられた苗字帯刀をも返上して、諸国を遍歴し、その経験を物語る傍ら、喜捨を求めて回ることとなります。

 そして、そうして集まった浄財をもって、いまは帰らぬ12名の者たちの名を刻み込んだ石で作った舟型の供養碑を名古屋の笠寺観音にの境内に奉納します(今は移転され、熱田区の成福寺に置かれています)。
 それがつまり、この芝居のタイトルになってる『石の舟』なのです。

           

 さて、その芝居を観たわけですが、事前に私には2つの気がかりがありました。
 そのひとつは、いわゆるアングラ劇団として30年以上のキャリアをもつこの劇団が、この原作のもつシリアスな内容と、劇団の持ち前であるエネルギッシュでヴィヴィッドな舞台表現をどうつなげてゆくのだろうかということでした。
 もう一つは、私はこの劇団の芝居を3回ほど観ているのですが、そのいずれもが何DKかのアパートぐらいの狭い空間でのもので、それはそれでうまく演じられていましたが、それが今回のような、大劇場ではないにしろ一定の空間をもった舞台で、どう展開され表現されるのだろうかということでした。

 幕が開くと、舞台は上下の2層に別れていて、この2層は2つの時代に隔てられていました。上層は200年前の笠寺観音を中心とした、つまり重吉が生きた時代の場、下層は、重吉の物語を書いている作家とその母が住む現代の場。

 上層には、すでに観た重吉の自責の念が吐露される場があり、下層には、どうやら失踪した父を持つ母子の物語があるようです。
 もちろんこの物語が平行して進むわけではありません。やがて上層と下層、200年前と現代とが混在しはじめ、時空を超えた場が作られてゆきます。そのあたりから、この劇団のパワーが全開となり、台詞と肉体のパフォーマンスが入り乱れ、観る者をグイグイと惹きつけてゆきます。

 そして、芝居は、重吉が建立した石の舟の出現とともにクライマックスを迎えます。重吉の苦悩にも、そして作家母子の問題にも希望の光が差し込むこととなります。
 そこに、観音様を出現させるのも面白いですね。慈母のような観音は、それらすべてを包み込んで、おおらかな肯定のうちへと導く存在です。

 ここには、アリストテレス流のカタルシスがあると同時に、ベートーヴェンの第九に歌われるシラーの詩、「苦悩を抜けて歓喜に至れ」が鳴り響いているようにように思いました。

           

 といったわけで、私が観る前にもっていた2つの気がかりは、みごとに解消されていました。そこには、やはりあのエネルギッシュなPH-7の舞台があり、そして確かに、ひとつの確固とした重吉像が描かれていました。 
 舞台も前面のせり出しも含め、そしてまた、上下の立体関係も含め、うまく機能していたと思います。
 いってみればこれは、重くて長い重吉の漂流譚の要となるエキスをうまく表出し得た脚本と演出の勝利というべきだろうと思います。
 ラストシーンは感動的なものでした。

 こうしてこの劇団の熱気に当てられて、頬を火照らせて帰途についたのでした。


《分かる人にはわかる追伸》オーリーさん、いい機会を与えてくれてありがとう。すべてを包み込む、ふくよかな観音様、素敵でしたよ。

 
 
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異才が語る現代芸術? ミシェル・ウェルベックの小説『地図と領土』を読む

2017-09-16 13:52:16 | 書評
 先般読んだミシェル・ウエルベックの小説、『服従』に続いて『地図と領土』(2010年邦訳は2013年)を読んだ。この作品は、以前読んだ『素粒子』(1998年)と最新作『服従』(2015年邦訳は2017年)との間に書かれている。
 『服従』と『素粒子』が近未来にまで時間が及ぶSF的な色彩を持っていたのに対し、『領土・・・』は一見リアルタイムのように見える。しかし、読み進むにつれてその最後は2046年であることがわかる。ただし、その近未来に何か突飛なことが起こるわけではなく、先進国においてのポスト産業社会化が淡々と描かれて終末に至る。

             

 この小説の一番面白いところは、作者のミシェル・ウエルベックその人が「登場人物として」でてくることである。作家が登場人物であることなどさほど珍しくはなく、一人称として「私は」と語られる作品は山ほどあるし、日本のいわゆる私小説というのはまさに作家の自己顕示そのものであろう。
 しかしこの小説における作家の登場はそうではない。彼は、重要な役どころではあるが、映画でいったら助演者としての登場で、会話での発言以外に「私は」で語ることはない。ようするに、あくまでも、「登場人物として」出て来るのだ。
 彼についての言及はもっぱら主人公であるアーティスト、ジェド・マルタンによる観察や世間の眼差しでもって描写される。
 
 つまり、ミシェル・ウエルベックは、主人公やその周辺から観察される対象であり、その観察され見られている様子そのものを他ならぬミシェル・ウエルベック自身が書くという一見煩雑な入れ子状をなしている。
 だから、ここに登場するウエルベックは彼の自意識である面もあるとはいえ、たぶんに創作された人物でもある。ただし、彼が、『素粒子』などの作品を書いた著名な作家であるという設定は変わらない。

 彼と、主人公ジェドとの対話はけっこう面白くて、それがこの小説の重要な前半をなしているのだが、なんとそのウエルベックが、後半に至るや、死んでしまうのだ。しかも、猟奇殺人事件として惨殺されてしまうのだ。
 その殺され方たるや凄まじいもので、警察の鑑識課員たちがパニックに陥り、嘔吐するなど仕事にならないくらい凄惨なのだ。
 ウエルベックは、自分がかくも無惨に殺されるさまを、どんなふうに書き進めたのだろう。読者の驚愕を先取りしながらニヤニヤしながらペンを進めたのだろうか。

              

 ここから一変、物語は警察(二人の刑事が面白い)による犯罪追求の推理小説のような趣をもつのだが、実際にはそうならず、突如あっけなく事件は解決し、残されたアーティスト、ジェドの物語へと戻り、そしてその最後2046年にまで至ることとなる。

 こう書くとなんだか波乱万丈にみえるが、内容はシリアスで、現実のアート、あるいは小説をも含めた芸術活動への問題提起を含んだ「美学」ないしは「哲学」的な考察に満ちている。
 主人公は、その点で小説家、ウエルベックと意気投合していて、ジェドのタブロー時代の最後の作品は、ウエルベックの肖像画となる。

 アーティスト、ジェドは、最初、ミシュランの地図の写真や、さまざまな「商品」のカタログ写真風の作品でデビューし、それがある程度評価されるや、それをあっさりと放棄し、ついでタブローを手がける。
 そのシリーズは一貫して現実に活動している人物をその場面において絵描くというもので、例えば、「ビル・ゲイツとスティーヴ・ジョブス、情報科学の将来を語り合う」といったものや、あるいは彼が関わりあった娼婦の肖像であったりで、ようするに実在の人物(著名人については実際に現存する時の人たち)であり、それらのお披露目の個展のカタログにはミシェル・ウエルベックの長い一文が載るという仕掛けになっている。

           
 
 このシリーズはまたまた大成功で、一枚が何百万フランで流通し、彼は一躍、富豪になることとなる。
 しかし、これもまた、最後のウエルベックの肖像をもって筆を折ってしまう。
 そして、ウエルベック殺害事件後は、父祖の代からの田舎に引っ込み、広大な土地を買い、それを「領土」として、ほとんど隠棲のような生活を送る。
 しかし、彼の死後明らかになったのは、彼自身商品化しようとはしなかった作品の制作で、ヴィデオで延々、自分の領土内の自然を撮り続け、それらをオーバラップしたり、さらには産業資本によって生み出された商品群が風化し、色あせ、崩壊していく像と重ね合わせたりしたような作品ならざる作品を残したというのだ。

 ここに至ってこの小説が、「何もかもが市場での成功によって正当化され、認められて」ゆく風潮に抗う姿勢に貫かれていることがわかる。主人公、ジェドはその立場で、かつ、「テーマなどにはなんの重要性もない」「ただ形象化の活動のみに価値がある」といった現代芸術への反発という点でミシェル・ウエルベックと共鳴し合うのだ。
 そういえば、ウエルベックの小説は、どれも極めてアクチュアルなテーマ性に満ちている。

           

 途中で挿入される、ジェドがその老いたる父親と最後のディナーを共にするパリの雪の夜の会話が印象的である。彼の父親は、建築業者としてリゾート建築などキッチュなものを手がけて成功するのだが、いまは引退して老人ホームでわびしく暮らしている。その父が、ジェドとのほとんど最初で最後の会話で、自分は建築業ではなく、建築家になりたくて様々なコンペに応募したことのある青年時代のことを語る。彼のひとつのイメージは、奇想天外な共同体のありようをその実現さるべき建築とともに構想したかの空想社会主義者、シャルル・フーリエにも関連する。
 だから、機能本位のバウハウスやル・コルジェビをも肯定することができない。その彼が、「市場の論理」に敗北してキッチュな建築を余儀なくされ「建築屋」で生涯を送った事実には同情を禁じ得ない。

 「市場の論理」への抵抗といったが、主人公のジェドそのものが、それを超越しようとしながら、その作品が二度、三度と市場に評価され、巨万の富を手にするというのは皮肉というほかなない(実在するミシェル・ウエルベックも巨万のと実を得たかどうかは知らないが「市場」で成功していることは間違いない)。

 ただし、主人公のジェドがそれを目指してきたこともまた間違いない。その作品の系列をみるや、地図を対象としたり、カタログ的なものの写真などは無機的な記録そのものをさらに記録するという超越性を目指しているし、具象的なタブローに描かれているのは情報の生産現場、あるいはそれの残滓や余剰のようでもある。そして最後のヴィデオ作品は産業社会そのものの崩壊を記している。

              
 
 この小説は、現代アートに暗い私にも示唆するところが大きかったのだが、それらに興味をもっている人たちが読んだらより深い対話が成り立つのではないかと思った。
 なお、主人公ジェドの各作品は、ウエルベックの筆によって描かれているのだが、実際にはどんなものであったのかは、私の貧しい想像力でイメージするほかないのはもどかしい。ウエベリックはどんな具体的像として、それを思い描いていたのだろうか。

 

ジェドのどうしても描ききれなくて、結局、自らカンバスを破ってしまった作品に、「ダミアン・ハーストとジェフ・クイーンズ、アート市場を分けあう」というのがしばしば出てくる。
 この二人の固有名詞だが、私もよく知らないので調べた所、前者は、牛の死体をホルマリン漬けにするなどの奇抜な作品で知られるいわゆるコンテンポラリ―・アーティストであり、後者は、アンディ・ウォーホル風のキッチュな素材を使ったアーティストらしい。
 で、彼らを題材とした作品を完成し得ないところに主人公、ジェドのいわゆる現代芸術批判があるようで、それはまた、ウエルベックのそれと重なるようなのだ。


『服従』についての感想は、9月4日付けで掲載している。これも面白かった。
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ダジャレの効用? 六匹のカエルのウエルカム物語

2017-09-12 11:45:32 | 想い出を掘り起こす
 名古屋は今池の街で飲食店を経営していたことはたびたび書いた。
 閉店してからもう十数年になる。
 ほとんどのものを、その店を買い取った次の経営者にそのまま置いてきたり、常連客に記念で差し上げたりしたが、食器類などのほか若干のものを自宅へもって帰った。といっても、乗用車のトランクに入るぐらいだからたかが知れている。

 最近わが家を訪れた人が、玄関前の植え込みの傍らにあるものに気付いて、「可愛いですね」といってくれた。
 それがこの写真のカエルたちで、食器以外に持ち帰った数少ないもののひとつである。とくに価値があるものではないが、とても手放しがたい思い出があってもって帰ったものである。

     

 見ていただくとおわかりのように、茶色のカエルはそれぞれ子ガエルを背負っている。青いのは単独で二匹、合わせて六匹である。実はこの数、そしてこの茶色と青色の混合のなかに、それぞれ物語があるのだ。そして、それがゆえに持ち帰ったといっていいだろう。

 まずはカエルたちを入手したいきさつである。
 店をミニ改装した折である。私の店はカウンター前に氷を敷き詰め、そこにその日仕入れた魚類や野菜類を展示していて、顧客が、それを煮てくれとか焼いてくれという注文に対応するようにしていたので、その片隅に何かアクササリーのようなものがほしいと思っていた。

 ちょうどその折、陶器市かなんかの催しがあって、そこでまずは一番大きい親子ガエルを見つけて買おうとした。その時、陶器屋のおっさんがいった。
「お兄さん、客商売だろ?」 
 当時私は、いかにも客商売ですという面構えをしていたようだ。
「そうですがなにか?」
「だったら、カエルの一匹や二匹買うのはやめたほうがいいよ」
「どうして?」
「だってそれじゃぁ、せっかく来た客が《帰る》って、帰っちゃうだろう?」
「へぇ、そう。だったらカエルはダメということかな」
「そんなことはないよ。客が来るようにすりゃぁいいわけだから、どうせ買うなら六匹買いなよ。ほら、客を《六カエル=迎える》っていうだろう」

 そのおっさんおうまい弁舌に感心して、結局親子ガエルを大・中・小と三セット、つまり六匹を買って帰り、カウンターに飾った。
 カウンターの客が退屈している折など、「お客さん、そこにあるカエル、なぜ六匹かわかりますか?」と、さも自分のオリジナルであるかのようにそのいわれを話たりした。すると次回は、その人が連れてきた人にさらにそれを吹聴するなどして、常連客の間には、「六文銭(店名)の六カエル」としてすっかり定着し、店のマスコット的な存在になった。

 しかし、この話には続編があって、どのくらい経ってからだろうか、その三セットのうちいちばん小さなものが盗られてしまったのだ。もちろんさほど価値あるものではないから、軽いイタズラ心だったものと思う。
 その当時、飲食店から小物を失敬することはしばしばあり、それらはなんの罪悪感も伴わず行われていた。一番多いのは箸置き、これは家族の頭数に合わせて盗られるので、どんどん減ってゆく。消耗品のように何百個単位で仕入れていた。
 そのうちにこちらも知恵がついて、最初の頃は、魚や野菜などけっこう面白いデザインのものを使っていたが、それはやめにして、モノクロでほとんど模様のない地味なものを使い始めた。盗難はめっきり減った。盃や徳利も盗られた。徳利には店名を入れていたが、店を閉めたいまでも、どこかの家庭にあるのかもしれない。

 といったわけで、四カエルになってしまい、私が嘆いて、どこかで補充しなければと思っていた折から、当時の客は粋な人が多くて、何日かしたある日、常連さんのひとりが、「おんなじものがなくて申し訳ないが・・・」といって二匹の陶製カエルをもってきてくれた。それが上の写真の青い二匹のカエルだ。これは他のものと違って、おんぶはしていないバラだが、トータルで元のように六カエルになったことは間違いない。
 涙がちょちょ切れるほど嬉しかった。以来彼らは、盗難に遭うこともなく、閉店までカウンターで店内を睥睨し続けたのであった。

 こんな「六カエル」を、閉店するかといってむざむざ手放せないだろう。この置物たちには私の城であった店の思い出があり、とりわけ客との濃密な関係を築くことができた栄光の日々(?)の痕跡があるのだ。
 もって帰って以来、玄関先でいまも頑張っている。 
 ただし、客商売をやめたいま、訪れる人といったら新聞配達と郵便屋さん、それに時折、貧しい老人の懐を狙ったさまざまな勧誘人たちぐらいである。

 カエルたちも、手持ち無沙汰であろうと、私がときどき頭を撫でてやる。
 なんたって半世紀近い付き合い、私の守護神のようなものだから。


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映画『ふるさと』を観る いまはなき徳山村へのレクイエム

2017-09-09 14:24:41 | 日記
【映画の概要】『ふるさと』は、1983年公開の神山征二郎監督、加藤嘉主演の日本映画。揖斐川上流部、徳山ダムの建設で湖底に沈み行く岐阜県揖斐郡徳山村(現揖斐郡揖斐川町)を描く。徳山村の出身で、同地で分校の先生をしていた平方浩介の著書『じいと山のコボたち』(童心社)の映画化。認知症の老人と少年の親交を描きながら、消え行く徳山村の美しい自然を表現している。文化庁優秀映画奨励賞など多数の賞を受賞。主演の加藤嘉がモスクワ国際映画祭の最優秀主演男優賞を受賞。

    ===================================
              
 
 Aさん、お薦めいただいた映画「ふるさと」観ました。
 まだ水に沈む前の徳山村の風景を懐かしく観ることができました。一九八三年に作られた映画ですから、まだ村がほぼ残っている頃ですが、同時にぼつぼつ村を出る人が出始めた頃ですね。
 私はこの映画を、作品として客観的に鑑賞し、批評めいたことを述べることにはあまり気が進みません。ただただ懐かしく思えるのみなのです。

 まさにその徳山村へ私はアマゴやイワナなどの渓流魚を求めてしばしば出かけていたのです。正確にいうと、あの映画が出来る少し前まで行っていたのですが、あの頃にはもう行っていません。工事で破壊されてゆく村の姿を観るのに忍びなかったからです。
 ですから、私が行っていたのは、一九七〇年代の初めから八〇年代の初めまでの一〇年ぐらいです。

           
    水没する前の本郷地区 殆どの建物は取り壊されている。左上の小学校、
    水が満たされつつあるとき訪れた際、高台にあったせいでそれだけがぽつ
    んと取り残されていて哀れを催した。いまはもう全てが水の下。


 ちょっとした商店などがあった村の中心、本郷などが出てくるのも懐かしいのですが、やはりアマゴを求めて入った渓谷の様子が忘れられません。
 映画では、中頃から渓流釣りシーンが出てくるのですが、まさにあんな感じで渓に入っていました。映画では、ジイと子どもが連れ立って行くのですが、私は一人です。釣り仲間と一緒に行っても、それぞれ別の渓に入りますから釣っている間は一人です。
 渓流釣りは、鮒釣りや海釣りと違って、渓をどんどん登りながら釣り進みます。映画でもジイがいっていましたが、アマゴはとても敏感な魚ですから人の気配を悟られてはいけないのです。彼らは上流を向いて餌が流れてくるのを待っていますから、上流から接近したのでは絶対
釣れません。

           

 深山幽谷の中を一人で釣り登るのは、都会の喧騒の中に暮らす身にとっては稀有な経験です。渓はその流れる音や虫や鳥などの小動物たちの声に満ちているのですが、にもかかわらず、そこには絶対的な静寂があります。
 そんな静寂を破って、竿先に魚信があり、それに応じてグッと合わせると、水中の生物の鼓動が張りつめた釣り糸を通じて私の身体に伝わり、私はそれを読み取りながら、彼、また彼女がどれくらいの大きさで、どちらの方にどう逃げるのかを推し測ります。
 そこを間違えると、もともと、魚たちにさとられないようにと使っている細いテグスが無情にもぷつりと切れてしまうのです。こうして、魚との駆け引きに勝利してはじめてそれをゲットできるのです。釣り上げた魚たちの美しいこと。それに触れた掌には、その細かい鱗がダイアモンドの粉のようにキラキラと輝きます。

           

 釣れなくとも、渓歩きは愉しいものです。
 折々の花々が咲き、こごみ、わさび、たらの芽などの山菜が出迎え、りす、猿、かもしかなどの野生動物と出会うこともあります。
 夏の夕暮れは、ひぐらし(かなかな蝉)が鳴き、河鹿蛙が哀愁を帯びた声を震わせます。それを聞くと、竿をたたんで、暗くなる前に戻り、渓を出るのです。

 そうしたことどもがすべて、現在のあの広大な水の下でかつてあったのです。私などはほんの一〇年間のビジターにしか過ぎなかったのですが、一万年以上前の石器時代からの人の営みがいまやすべて貯水量日本一というあの巨大な水の下なのです。

              
 
 映画に戻りましょう。ジイが隣家の少年と釣りを始めることによって認知の症状が薄らぐのは象徴的です。
 認知症というのはいまや社会問題にもなりつつありますが、かつてはそんなに多くはなかったのではないかという仮説があります。ようするに、定年の制度化など、人をリアルな現場から引き離す近代以降にそれは増えたのではないかというのです。
 私はこれは一理あるのではないかと思います。というのは、古典などを読んでいても、あまり認知の話は出てこないからです。

 ジイは、連れ合いを亡くし、具体的な仕事から遠ざけられることによって認知の症状を発症しますが、かつてアマゴ釣りの名人といわれたその秘伝を、少年に伝える過程のなかで覚醒します。この事実は、現実とのリアルな関わりこそが人の晩年に光をもたらすことを証しているようです。

           

 神山征二郎監督は、この映画ではその郷土愛(岐阜北高出身)を随所に見せながら、老人と子どもと自然という絶妙の取り合わせのなかで、失われてゆくものへの郷愁をうまく描き出しています。
 私としては、ダムが出来ることをめぐって村落の中にさまざまな問題が発生し、そこにある種の人間模様と言うかドラマがあったことを知っているので、その辺の背景にも触れてほしかったという気持ちがあるのですが、まあ、それもいってみればないものねだりで、かえって映画のストーリー展開を複雑にするのみだったかもしれませんね。

 渓へ行かなくなって以来、静寂のなかでひとり佇むという経験をほとんどしていません。まだ、多情多感であったあの頃(三十代)、現実を相手に一敗地にまみれた二十代の自分をうまくまとめきれないまま、もやもやする思いをあの自然のなかで癒やしていたのだろうと思います。そんな自分を、いまとなっては慈しむように回顧することができます。

          
     今はすべてがこの湖底 ここで暮らした2,000人近い人たちの思いも

 いろいろな思いを惹起する映画でした。
 Aさんがそうした機会を与えてくれたことに改めて感謝します。

【映画予告編】
 https://www.youtube.com/watch?v=sYhUd7bsc3Y

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ミッシェル・ウエルベック『服従』とフランス大統領選挙の現実

2017-09-04 17:04:38 | 日記
 『服従』はフランスのゴンクール賞作家、ミッシェル・ウエルベック(1958~)の最新作(2015年)である。
 何かと話題の多い作家であるが、私はたぶん、『素粒子』(1998年)以外は読んでいないと思う。

 『素粒子』もそうであったが、この『服従』も恋愛と性愛と欲望処理のはざまを漂うような、いってみれば恋愛不全の主人公の描写と、SF的なテーマが入り交じったような小説である。
 『素粒子』の方は、遺伝子工学の究極としての未来に展開される「ポスト人類」、ないしは「ポスト人間」を取り上げていたが、『服従』の方はより近未来の話で、それだけに現実性があり、すでに現実そのものではないかと思われるような要素も多い。

              

 時代は2022年でわずか5年先、小説発表時から見ても7年先にすぎない。この年は、今年がそうであったように、フランス大統領選挙(5年任期)の年である。
 主人公は、フランスの小説家、ジョリス=カルル・ユイスマンス(1848~1907年)の研究で学位を取った40代のソルボンヌの文学教授である。このユイスマンスはデカダンスの聖書ともいわれるような作品『さかしま』を書くのだが、後年はカトリックに改宗し、カトリック神秘思想ともいわれる作品群を残す。
 このユイスマンスの生涯は、それ自身が『服従』という作品の伏線になっていることを、読み終わった段階でわかる仕掛けになっている。

           

 小説の出足は、ユイスマンスのデカタンス同様、フランス小説特有のアンニュイも加わり、いささか内面的な描写が続くが、先にみたその年の大統領選の話に及ぶにつれ、ぐんと現実味を増す。
 小説によれば、その第一回目の開票結果は以下のようだとある。
   ・国民戦線 ル・ペン  34.1%
   ・イスラム同胞党 アッベス 22.3%
   ・社会党候補   21.9%

 ご覧のように、いずれも過半数を獲得していないため、上位二人の候補に絞った2回めの投票が行われることになる。

 ところで、今年5月に行われた大統領選の第一回目の投票を調べたら以下のようであった。
    ・アン・マルシェ(EM=前進)マクロン 24.0% 
    ・国民戦線 ル・ペン  21.3%
    ・中道右派 共和党 フィヨン 20.0%
    ・左派 メランション 19.6%
    ・社会党 アモン 6.4%

 なお、この小説では、政治家や文学者などの著名人は、実際の人物が登場している。だから、今年も登場しているル・ペンはまさに初代党首のジャン=マリー・ル・ペンの娘で現党首のマリーヌ・ル・ペンその人である。

 ところで、ウエルベックが描く2022年の第一回投票の結果では、フランスの大統領は極右政党かイスラム系政党のいずれかに絞られたことになっている。
 これは、ありえない話ではない。上の今年の大統領選のデータを見てほしい。第5共和制以来のフランスの政治的な傾向、中道右派とと中道左派の2大政党間の政権交代という図式がほとんど崩壊しているのがわかるだろう。

 ついでに、今年の第2回目の得票は以下のとおりである。
    ・マクロン 66.1%
    ・ル・ペン 33.9%
 一見、大差のようだが、17%の票が動けば結果は逆転するのだし、国民戦線のこの間の党勢の伸びからみたら、それは決して非現実とはいい切れない。

 さて小説に戻ろう。
 結局2位にとどまれなかった社会党(この場合、左派一般としていいだろう)は、「拡大協和戦線」を立ち上げイスラム同胞党を支持することになり、中道右派なども同調し、イスラム政権が誕生することとなる(第2回投票の数字は書かれてはいない)。 

              

 このイスラム政権は、ISやタリバンなどのように原理主義的なイスラムではなく、その原理によっての恐怖政治を行うようなことはない。
 しかしである、なんといってもイスラムはイスラム、その教義は緩やかにだが現実を支配し始める。
 そのひとつは、イスラム政党がここまで力をつけるにあたっては、社会のあちこちにわたってその根っこが広がっていたということであり、またひとつには、政権の意向を忖度し、それを内面化する人たちが増えてきたということにもよる。

 主人公のセフレで、彼がいくぶん気持も惹かれていたユダヤ人の女性は、家族ぐるみでイスラエルへと移住する。
 ミニスカートを始め、身体を露出した女性の服装はしだいに影を潜め、逆にスカーフを着用する女性が増えてくる。
 一夫多妻制が制度としてではないにしろ現実的にみられるようになり、相手に恵まれない男性のための「お見合い機関」のようなものが現れ、第一夫人や第二夫人を斡旋する。斡旋された当人は、政権への、あるいはイスラムへの忠誠を誓うところとなる。

 義務教育は小学校止まりとされ、女性の高等教育への道はほとんど閉ざされることになる。
 公務員や大学の教官のなかでも、そのポストはイスラムかどうかによって左右されるに至る。

           

 それらが怖いのは、あからさまな強制によるものではなく、人の欲望のコントロールとして、じわじわじわ~っと進行してゆくことである。
 主人公は当初、それらの変化を冷めた眼差しで見ているのだが、やがてそれらは彼自身の身辺にも及び、彼自身の決断を促すに至る。

 あのシニカルでデカタンスを愛し、出来事から一歩引いた眼差しをもった彼はどうなるのだろうか。
 そこにこそ、彼の研究対象であり続けたユイスマンスの生涯がオーバーラップする瞬間である。
 小説は次のように結ばれる。

「 ・・・・・・・・新しい機会がぼくに贈られる。これは第二の人生で、それまでの人生とはほとんど関係のないものだ。
 ぼくは何も後悔しないだろう。」

 なお、ウエルベックがこの作品を発表した2015年1月7日、奇しくもシャルリー・エブド襲撃事件が起こっていて、その後、彼自身、警察に身柄を保護されたり、さらには、自ら姿を消したりしたようだ。

 ことほどさように、この小説は決して荒唐無稽なフィクションではなく、21世紀の世界を垣間見させるものでもある。
 ヨーロッパ全体での国民戦線のような極右の進出、トランプのフェイクな発言、日本での歴史修正主義の跋扈などなどと並んで、イスラム勢力の急進・穏健各派のありようは、今後の世界を考える上での大きな要因であり続けるだろう。
 
 そしてそれらは、社会主義圏崩壊でわが世を謳歌した資本主義圏内での大幅な格差、それを支えるイデオロギー・新自由主義の冷徹さに対する一つの応答として現れ、それらを背景とした支持を集めているだけに、ただ否定し、退ければ済む問題でもないと思われるのだ。

 小説の鑑賞としてはいささか無粋に過ぎたかもしれない。



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夏の終わりとスーパーへの買い物、そして人類の滅亡

2017-09-02 14:34:55 | よしなしごと
 「このクソ暑いのいつまで続くんじゃ」という、私の上品極まりない呪詛が効いたのか、9月の声をきくや、昼間こそ暑さは残るものの、朝晩はぐんと涼しくなった。
 昨日は一日中デスクワークで、朝からパソに向かってショボショボと陰気なことといったらありゃしない。なんとか予定の仕事を終えて気がつけば4時を過ぎている。
 
 こんなことしていたら背中がまあるくなって本当におじいさんになってしまう。少し背筋を伸ばして運動しなければと、近くのスーパーまで徒歩で出かけた。
 スーパーへいって棚を見て歩いたが必要なものはさしてない。野菜も農協から仕入れたばかりだし、動物性蛋白質もほとんど必要はない。ではなぜわざわざここまで歩いてきたのか。運動の必要があったのは事実だが、それだけではなく、たしかに前日からこれを仕入れなければと思っていたものがあったはずなのだ。
 
 一巡したがそれを思い出せない。その間、カゴには98円の水菜と消味期限間近で値引きの練り物など2、3品を入れる。しかし、必要なのはこれではなかったはずだ。
 
 二巡目、もう一度野菜の棚からじっくり見てゆく。すると、それがあった。そうなのだ、必要なのは生姜だったのだ。この間、奴豆腐を食べるにも、冷や麦をすするにも、生姜は不可欠なのだ。高知産のそれを、形がよく、使いやすく、ロスが出ないという基準で選ぶ。
 これで帰ってもいいのだが、これまで買ったものの総額は500円にもならぬ。変な見栄で、これでレジに立つのはなんだか惨めな感もある。そこで肉のコーナーで、この前の健康診断で医師から、「血の気が少ないから肉類も摂るように」といわれたのを思い出し、国産牛の細切れで120gが300円台であるものを買った。
 
 そんなものは牛肉のうちに入らないといわれそうだが、これでも玉ねぎか何かとさっと炒めると、けっこううまいのだ。
 うちの父母の代では「肉」というだけでごちそうだった。そしてそれはハレの日の食い物だったのだ。まあ、こんなこといっても、所詮は貧乏人の負け惜しみに過ぎないのだが。
 結局、レジでの支払いは850円ほど。

            
               

 帰途、少ない買い物で荷が重くないのを幸い、回りを見回しながらゆっくり歩を進める。両側にはまだ残っている田んぼ。もう稲刈りのニュースもあるなか、この辺りは遅場米の産地でまだ稲は青々としているのだが、流石に穂が出始めている。

 その手前の休耕田では、小サギのつがいが散策していた。頭上の電線には、ムクドリが30羽ほどとまって喋りちらしている。一見無統制な集団のようで、みな同じ方向を向いているのが面白い。

            

 もっと目を上げると、もう完全に秋の空だ。鱗雲、鰯雲、羊雲などがやがて暮れなぞむ空に混然と展開している。
 耳を澄ますと、田や路傍ですだくのももう秋の虫たちだ。

            

 こうして季節はめぐる。冒頭に書いたような私の呪詛とは無関係にだ。この循環は年々歳々、幾分の変化はあっても、大きな差異はない。もしその差異が大きくなった場合、といっても宇宙規模ではほんの少しの変化で十分なのだが、人類を始めとする生物全体にとってはまさに天変地異の大エポックとなるだろう。

            

 そのようにして地球の歴史はあるし、その過程で多くの生きものたちが滅んできた。かつて生態系の頂点にあったという恐竜もそうだ。彼らはいまや、岩石の一部を構成し、私たちの足下で眠っている。
 人類もやがてその轍を踏むだろう。そして、私たちが眠る大地の上を、私たちが想像もしなかった生きものたちが闊歩するやも知れない。

            

 変な話だが、自分たちが滅んだ、あるいはもっと卑近な例として、自分が死んだ後の世界を見ることができないのは、野次馬根性だけで生きているような私にとっては、実に残念なことといわねばならない。でもよく考えたら(よく考えなくとも)、死ぬということはそういうことなのだ。



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