六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

金のやりとりしか問題にしないCOP10ってなんなのさ?

2010-10-30 03:02:00 | 社会評論
      
                   黄昏の長良川

 COP10というのは金の話ばかりで、希少生物の話など本当にしているのかい?
 もし本当に真面目に話し合うなら、長良川河口堰でヤマトシジミが絶滅したり、鮎やサツキマス、
それに海と川とを行き来する魚たちが激減している足下の事実をこそ問題にすべきだろう?
 それらをひた隠しにし、子供たちを動員して「希少生物を大事にしましょう」と表向きの合唱さ
せながら、会議では金のやりとりしか話し合わないとしたら、こんな会議はせいぜい「資源売買会
議」と名乗るべきで、希少生物を看板にするなど全くの欺瞞ではないのかい?
 少なくとも、この会議によって、長良川の自然破壊はまったく留められはしない。
 大騒ぎしているこの会議って何?

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何と遠くまで来たことでしょう。

2010-10-26 02:38:37 | よしなしごと
 
 誕生日です。
 還暦プラス十二支一回り。
 何と遠くまで来たことでしょう。
 自分でも驚き、かつ、戸惑っています。
 戦前、戦中、戦後を生き、二十一世紀へと迷い込んだストレイシープです。
 しかし、生き延びたものは生き延びたもので仕方がありません。
 それなりに気張らず、かといってだらしなくならず、出来るところまでやってみようかなと思っています。
 今後ともよろしくお願い致します。


 写真は九頭竜湖畔の野菊です(10月24日撮影)。 
 
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遠来の友と逢う 年月のはぐくみ

2010-10-24 00:02:59 | 想い出を掘り起こす
 写真は本文と関係ありません。

 懐かしい人と逢いました。
 かつて私が名古屋でやっていた飲食店でバイトをしてくれていたTという人です。
 仕事っぷりも良くて、なかなか切れるタイプなのでこれはただ者ではないぞと思っていたら、果たせるかな、在学中に起業をしました。当時はしりのIT関連企業でした。
 
 そんなことで、バイトをやめても今度は顧客としてスタッフなど引き連れてきてくれるようになりました。
 まるでサークル活動の延長のように若い男女がわいわいがやがやと賑やかな様子でしたが、その後の情勢の変化のなかでいろいろ紆余曲折があり、深刻な挫折も味わったようです。
 このひとの偉いところは、それでも逃げ出さず、踏みとどまって負債は負債としてリスタートを成し遂げたところです。
 
 その後もその頃の縁で一緒に飲んだり、彼の結婚式に呼んでもらったりしていたのですが、私が名古屋での仕事をやめたのと、彼が仕事の都合で東京へ転居したことなどあって、少し縁遠くなっていました。
 再び接触が始まったのは彼が私のブログにコメントなどくれるようになったからでした。

     
                    22日の夕焼け
 
 その人が岐阜へやってくる機会があり、その奥方共々、久々に逢ったわけです。
 若い頃のある種の気負いのようなものは影を潜めましたが、その代わりどっしりと何でも受けて立つ風格のようなものが感じられました。
 いろいろ面白いアイディアを持っている人で、電子ブックへの登録や蔵書処理などについてのノウハウを聞くことが出来ました。
 近日チャレンジしてみたいと思います。

 若い物知りの友人で、こちらが気兼せず尋ねることが出来る人がいることはいいことです。
 私の年代になると、若い人たちの方が遙かに実践的な情報を持っています。
 しかし、本当に若い人は私たちにそれを伝える術を持っていません。
 ですから、彼らの情報と私たちは隔絶されたままです。
 その点、このT氏のような立場の人は私にとっては貴重な人です。

     
              10月10日に埋め戻した水仙の芽吹き

 IT関連などの仕事をしている人というと何となくがちがちの合理主義者を想定しがちですが、そしてたぶん、仕事の面ではそれは不可欠なのでしょうが、一歩それを離れると彼は自然児です。
 休日には山へ登り海へ潜り、IT関連の仕事に飽きたら、自分で獲ってきた魚を開いて干物にして売る店でもやろうかなどといいます。

 彼がチマチマとした合理主義者ではないことを立証するのは今回の岐阜訪問のいきさつです。
 彼ら夫妻が岐阜を訪れた主たる目的は、二、三日後に控えた奥方の誕生日記念のディナーのために、東京青山の四つ星か三つ星かのレストランのシェフもご推奨という岐阜のとある中華レストランの訪問でした。
 夕刻まで彼らと話し込み、私もその店の前まで一緒に行きましたが、「アラ、こんなところにこんな店が」という感じのところでした。帰ってからネットで調べたら、なるほど、知る人ぞ知るという店のようです。

        
                 同じく水仙の芽吹き

 新幹線に乗り、一泊してまで岐阜の中華レストランへ奥方の誕生祝いのためにディナーに来る、チマチマとした合理主義者に出来る技ではありません。
 ワインアドヴァイザーの資格を持つ奥方の表情が輝いていたことはいうまでもありません。

 ところで偶然ですが、その奥方と私は誕生日が一緒で間もなくです。
 私をどこかのレストランへ連れて行ってくれる人はいませんか?
 え?○○という居酒屋の芋の煮っ転がしがうまい?
 そ、それでもけっこうです。






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トホホな一日 「大奥」とシューマン

2010-10-21 04:25:54 | よしなしごと
 私のドジは自慢じゃないが年季が入っています。
 かねてから予定のコンサートがあり、そのために名古屋へ出かけるのですが、そのためだけでは交通費がもったいないと午後映画を見てからコンサートという手順にしました。
 映画はイランの作品で「彼女が消えた浜辺」です。
 昼食を終えてから家を出ても間に合う予定でした。
 
 お目当ての映画館へは7~8分前に着きました。
 でも、なんだかロビーの様子は変なのです。早速チケットを買おうとしたら「次の上映は6時からですがいいですか」といわれました。
 え?え?え?それではコンサートと重なってしまいます。
 「あのう、これって45分からではないのですか」
 「いいえ、35分からでもう始まっています」

     
               都会のなかの雑草

 今の映画館はスクリーン数以上の複数のプログラムをもち、しかも日にちによって上映時間がころころ変わるのです。
 どうやら、私の調べたのが古かったか見間違えたかしたようです。
 その館の他のスクリーンでやっている「冬の小鳥」という映画はもう見てしまったばかりなのです。

 さてどうしましょう。
 コンサート開始までの4時間ほどをどう過ごしたらいいのでしょう。
 読むべき本はもっています。
 しかし、4時間過ごせる空間がありません。
 喫茶店のはしごも憚られます。

 やはり映画を見ようと思いました。
 多くのスクリーンをもっているシネコンで、その時間帯を過ごせる映画を何でもいいから観ようと思いました。それがどんなに私の趣味と合わなくとも、忌避することをせず絶体に観ようと心に決めました。
 善(?)は急げです。そのシネコンのある名駅前へ逆戻りです。

        
                ひとりぼっち
 
 地下鉄の階段を下りました。
 発車間際のブザーにせき立てられて慌てて飛び乗りました。
 発車しはじめたとたん、私の体が揺らぎました。あらかじめ進行方向に体重をかけていたのですが、それが揺らぐのです。無理もありません、私が体重をかけていたのとは反対の方へ走り出したのです。
 景色が反対に流れます。

 私は慌てて反対方向の地下鉄に乗ってしまったのでした。
 次の駅で乗り変えました。
 もちろん私の愚行を知る人は誰もいませんが、私自身がその鈍くささを自分に責めていました。

 シネコンへ着きました。
 ほとんど映画の題名も見ないようにして、ひたすら時間帯に合うものを探しました。
 ありました。「大奥」です。
 かつて何十年か前にテレビでちらっと見た、木暮美千代(このひとあとで調べたのですが、1990年になくなっていますから私の記憶もかなり古いですね)のお局さんなんかが出てくるもののリメイクかなと思って、観ることにしました。

 ところがどっこい、まったく事情が違う映画でした。
 まか不思議な病気の蔓延により、青年や壮年の男性の8割がこの世を去るという時代(江戸時代)に物語は設定されているのです。
 こんな時代ですから、政治経済などの権力はすべて女性のもとにあります。将軍も女性で、従って、その大奥は男性が女性の将軍の「おなり」を待つ場なのです。
 何の予備知識もなく観た私はその設定に驚きました。

    

 映画の詳細は語りますまい。
 私にとって満足だったのは、20001年の「GO」で眼にとめ、その後、2005年の「メゾン・ド・ヒミコ」を観てお気に入りになった柴咲コウが、女性将軍吉宗役で出てきたことです。毅然とした役を全うしながらどこか現代的なヒューマンな余地を残してしまうところが不自然なのですが、こうしたエンターティメントには欠かせない要素だろうなと変なところで納得しました。

          
               ピアノトリオのセッティング

 これで時間は埋められ、いよいよ当初の目的のコンサートです
 ピアノトリオで、曲目は以下の通りです。
 演奏者などは下記に記しますので興味のある方はどうぞ。

  *ショスタコ?ヴィチ ピアノ三重奏曲 第一番 ハ短調
  *シューマン     ピアノ三重奏曲 第一番 二短調
  *ドボルザーク    ピアノ三重奏曲 第四番 ホ短調 ドゥムキー


 私のお目当てはシューマンです。私はシューマンが好きなのです
 あの地底からわき上がるような悲哀感、あれは何でしょう。存在そのものの悲哀?
 この曲では、もっぱらチェロがその悲哀感を引き出しています。
 私はそのサワリでゾクゾクッとするのですが過剰反応でしょうか。

 コンサートの終了後、近くの飲食店で、私の好きな福井県のお酒「黒龍」を飲み、ヒラメ刺し、キス天ぷらなどをいただき余韻に浸りました。
 いろいろトホホな一日でしたが、最後はそこそこ充実した一日でした。
 シューマンの悲哀がまだ耳にこびりついています。
 あの地底からの悲哀が迫ってくるのです。

        
                アンコール曲

<データ>ピアノ三重奏曲の演奏者
 「ウィーン・フーゴ・ヴォルフ三重奏団」
   ピアノ:マリノ・フォルメンティ ピアニスト兼指揮者
        このトリオでも実質的なリーダー
   ヴァイオリン:ダニエル・ゲーデ(前ウィンフィルコンマス)
   チェロ:ラファエル・フリーダー(ウィンフィル団員)

 


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京都の秋 大谷廟と清水寺

2010-10-18 03:20:52 | 写真とおしゃべり
 秋晴れの一日、新幹線で京都へと向かいました。
 物見遊山ではありません。昨年亡くなった母の納骨のためです。

        
               京都駅大階段
 
 新しい京都駅は初めてです。もちろんこの間、京都へ行ったことはありますが、いつも車で、駅頭に立つのは初めてなのです。
 この駅は歴代4代目になりますが、私は2代目から知っています。
 とりわけ、2代目は想い出が深いのです。
 というのは、1950年(昭和25年 朝鮮戦争が始まった年です)私は小学校の修学旅行でこの駅で乗り換え奈良へ行ったのですが、その折りが2代目の駅で、その僅か一週間後、この駅は火災で全焼したのでした。

  
       二代目京都駅             三代目京都駅
 
 なお、当時の小学校の修学旅行は日帰りで、しかも今日ほど交通事情が良くないなかでかなりのハードスケジュールでした。明け方、まだ暗いうちに岐阜駅を出発し、帰ってきたのは真夜中で各父兄が迎えに来るという状況でした。

 脇に逸れました。
 京都駅から大谷廟にむかい、納骨の手続きをしました。
 今から十数年前、亡父の折には随分待たされた記憶があり、今回は早めに出かけました。
 しかし、大谷廟の方でもその後、受け入れ状況の合理化を図ったのでしょうか今回は思ったより早くことが進みました。

     
         線香の煙がたなびくなか、納骨完了

 で、時間が余ったのですが、私は是非、清水寺へ行きたいと思いました。
 私はまだ行ったことがなかったのです。しかもかなり前、清水への坂の途中まで行きながら、よんどころない事情で引き返したという苦い経験があったのです。

 実は全身がけだるいという風邪の症状で、そもそも京都へ行けるかどうかの不安もあったのですが、その頃にはけっこう状態も良くなり、「よっし、これなら行ける」との確信が湧いてきました。
 大谷廟からのルートは、大谷領の墓地群を抜けてゆくルートです。
 「陸軍一等卒 勲八等 ○○○○ 支那事変にて没」などという墓標を見ながら清水へと向かいました。 

     
          大谷廟から清水へ お墓のジャングル

 清水は折からの日曜日とあって、かなりの観光客が群れています。
 ひときわ目立つ・・・耳立つのは中国からの観光客です。彼らの言葉は、日本語よりトーンが高く、大声で話すため、よけい耳立ちます。
 観光客の渦のなか、中国からの団体客のガイドがいっそう高い声で説明をしています。
 着物姿の数人の若い娘たちが楽しそうにおしゃべりをしているのですが、それが中国語なのに驚きました。
 ここには尖閣がどうとか領土がどうとかの問題はないかのようです。

     
                 清水の舞台 
     
                 清水 音羽の滝
                               

 ところで、この清水寺はなぜこんな建築が困難な場所に建立されたのでしょうか。平地に寺を造るに何倍もの技術や困難があったことは容易に想像できます。こうした困難な場所の聖地という点では、日本でも他に、ほとんどロッククライミングでしか近づけないような寺があることが知られています。
 中国やチベット、中近東などで見られる懸崖仏などもそうでしょう。
 これらは仏教のみにとどまらず、例えば、キリスト教についてもそうです。信じられないような絶壁に建つ教会や修道院の存在がそれです。

        
               舞台を下から見る

 たぶんこれらは、聖と俗をへだつ表象であるのかも知れません。
 しかし、そうだとするなら、仏教にしろキリスト教にしろ、解脱はひとの心がけ次第で容易なのだと説きながら、一方ではそうした俗から離脱するためにはある種の超越が必要であることを示しているようにも思えるのです。

 そんな小理屈はともかく、清水へ着いたあたりから、登りでエネルギーを消費したにもかかわらず、体調が良くなってきました。阿弥陀如来のご加護でしょうか、それとも亡き母の守護でしょうか、肉体的疲労は残ったものの、風邪特有のあの気だるさは、ほとんど消え失せるに至りました。

        
             京都タワーに別れを告げて

 帰途、京都駅隣接の伊勢丹の地下で、私の好きな「すぐき漬け」と大根の「ぶぶづれ」を買いました(なり田)。それと、聖護院の「生八つ橋」も買いました。
 なお、「ぶぶづれ」とは「ぶぶ」=お茶、「づれ」=連れで、お茶の際につまむ漬け物だと売り場のお姐さんが教えてくれました。私がそれを「酒連れ」と翻訳して買い求めたことはいうまでもありません。

 


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風邪ひきダウンと稲刈りウオッチング

2010-10-16 02:33:17 | 写真とおしゃべり
 風邪を引きました。
 終日けだるく、何もする気が起こりません。
 かといって受け身になってくだらないTVのお世話にはなりたくありません。
 読書にも集中できません。
 そんなとき、私の部屋から見える田圃で稲刈りが始まりました。
 二反ほどの田を、ひとりの男性が粛々と刈り取ってゆきます。

 以下に写真を掲載します。ご覧下さい。

     
              漢方薬局の前をゆくコンバイン
     
              モルモン教会の横をゆくコンバイン
     
                  カラスとコンバイン
      
     道ばたに積み上げた収穫物と通りかかったモルモン教布教の若者(米国人?)   

     
       自転車やトラックが通りかかるなか運搬車への積み込み作業
     
                   最後の手作業
     
      刈り終わった田圃 このあとキジバトやムクドリなど数十羽が集まった
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「朋来たる」と黒い鰯雲 そして風邪?

2010-10-14 18:06:50 | よしなしごと
 昨日は汗ばむぐらいの好天のなか、同人誌の仲間たちがわざわざ名古屋から来てくれました。
 「朋有り遠方より来たる 亦、楽しからずや」といいたいところですが、もはや名古屋は遠方ではありません。JRで僅か18分、もって岐阜は完全に名古屋の衛星都市化しつつあるのです。
 これは岐阜にとっては大問題です。

 とはいえ、わざわざ来てくれた仲間たちにとっては辺境の地へのご出馬、やはりありがたいという他はありません。
 迎え撃つ岐阜勢は2名、途中迷子が出る挿話もありましたが、こぞって県美術館へ。

     
             これは岐阜駅南口

 ここのロビーで次号の編集会議。
 漠然としたものが一つの形として立ち上がって行く過程はなかなか楽しいものです。

 ひととおり打ち合わせが済んだところで、近くのイタメシやさんでランチタイム。
 なんかいろいろなシステムがあるようで、客席係の女性が私の頭上でなんたらかんたらの2人用セットや、やはりなんたらかんたらの3人用セットがあり、それらを注文するとピザは食べ放題、ソフトドリンクは飲み放題、デザートは3品まで無料と説明してくれました。
 
 懸命に説明してくれた彼女には悪いのですが、こうしたシステムになれない私にはなんか異国の音楽を聴いているようでほとんど全体像をつかまえることは出来ませんでした。
 それでも、何が何とか放題で、何が無料かのところはしっかり聞き落とさないようにしました。

 ランチを終えて、岐阜駅までOさんの車で送ってもらい別れました。
 その夜、Oさんのデジカメで撮ったみんなの写真を早速メールで送ってもらいましたが、みんな楽しそうな表情をしていました。

     
              
 夕刻、近くのクリニックへ行きました。
 どこか悪いというより、睡眠障害用の薬をもらいに行ったのです。
 出かけるとき、ダイナミックに輝く雲を見かけカメラに収めました。傾きかけた夕陽に輝いています。

     
        大きい画面ですと左上のトンビが見えるはず

     
         雲はだんだん細かくなってゆくようです

 帰途、同じところを通りかかると、陽は山の端に落ちたようで先ほどの雲も、もう白くは輝いていません。その代わり少しばらけて、鱗雲か鰯雲に変身しつつありました。
 黒い鱗雲です。
 そういえば、いつかの満月の折に、夜空いっぱいの鰯雲を見かけました。
 地球もなかなか味なことをするものです。

 いくばくもしないうちに夜色があたりを支配し、自販機の灯りが一段と明るさを増すのでした。
 まことに秋の夕陽はつるべ落としといった具合です。

     

 昼間暖かかった延長で、薄着で黒い鱗雲もなど観察していたせいと、せっかくまとまった同人誌関係の表紙やイラストなどを整理して、面倒をみてくれるひとのところに送るべく夜更かしをしたせいもあって、今日はどうやら風邪気味です。微熱も出てきたようです。
 午後から昨日行ったばかりのクリニックへ出かけようとしたのですが、あいにくの木曜日、午後は休みです。
 仕方がないので去年の風邪薬ののこりを飲みました。効くでしょうか。

 風邪気味の時はコップいっぱいのホットウィスキーという裏技をもっているのですが、今夜しなければならない締め切りがある仕事があります。
 それが済むまでおあずけです。

 

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田圃のなかの「百貨店」 そして、老い

2010-10-12 01:39:32 | よしなしごと
 前日の日記には実は続きがあるのです。
 スーパーで買い物をして、まさに稲刈り寸前の田圃ウオッチングなどしながら家路についたことは書きましたね。
 それやこれやで道草をしながら、やっと家の近くに来たときです。背後でギギ~ッと自転車のブレーキの音がします。振り返るとひとりの老人がが声をかけてきました。

 ご承知のように私自身がれっきとした老人ですから、私が老人という以上私よりも明らかに年配です。おそらく一回りは上で、下手すると九〇歳に近いかも知れません。
 
 それはさほど珍しくもありません。私の父も85歳でなくなるまで、自転車に乗っていましたから。乗っていたどころではないのです。今から一五年前の年末、正月をベスト・コンディションで迎えたいと病院へ自転車で出かけ、その検査中に倒れ、年が明けてから亡くなったのでした。
 というわけで、父が最後に乗った乗り物が自転車だったのです。

 話を戻します。その老人が私に訊くのです。
 「おにいさん、この近くの百貨店を知らんかなぁ?」
 このばあいの「おにいさん」は、年上に向かってというより年下のものに「あんちゃん」というようなものです。

        
          この突き当たりの辺に「百貨店」があります

 それよりもその質問の内容です。
 「百貨店ですか?」
 「そう、百貨店」
 今まさに稲刈りが始まろうとする田圃が点々とあるこの都市郊外に、そんなものがあるはずがありません。
 でもこの都市にも百貨店はあり、自転車でなら行けないわけではありません。現に、私はいつも、四キロ弱のそこへは自転車で行っています。

 「百貨店というと高島屋ですか?」
 「いや、そんな名前じゃないな」
 「あとはもっと近くに新岐阜百貨店というのがありましたが、もうやってませんが」
 「いや、そこでもない」
 「近鉄百貨店というのがあり、昔は丸物といいましたが、それももうありません」
 そのほか、大昔にやめた山勝百貨店とか丸宮百貨店とかが念頭に浮かび、思わず岐阜の百貨店変遷史のようになりそうでした。
 
 その折り、その老人は、私のぶら下げていたスーパーでの買い物に目をやり、
 「そういうの売ってるとこや」
 といいました。
 え?あのこれって百貨店ではなく・・・・・と思っているうちに謎が解けました。
 老人はスーパーのことを百貨店といっていたのです。だから、買い物をぶら下げた私に尋ねたのです。

 「あ、それって V というスーパーですか?」
 と訊くと、
 「うん、何やらそんな横文字風のとこや」
 とのことです。
 早速、先ほど私が買い物をしてきたスーパーのありかを教えました。
 「ホラ、今車が曲がったとこ、分かりますか?ホラ、今度は出てきた」
 と指さして教えると、どうやら了解したようです。
 それにしてもこのご老人、そのスーパー帰りの私の背後からやってくるなんて完全に方向が一八〇度違っています。
 もし、私に会わなかったら、どんどん遠ざかってゆくところでした。

 老人は「おにいさん、すまんかったな」と礼をいって自転車にひらり・・・といいたいところですがよたよたと乗って戻って行きました。
 心配なので目で追っていましたが、時々ふらっと車道の方にはみ出ます。
 そのたびに通りかかる車は大きく迂回して避けて行きます。
 そんなことの繰り返しで遠ざかって行きました。
 どうやら、私が教えた百貨店・・・ではなく、スーパーの場所も分かったようです。

        
     このご婦人は別人です。でもこんな感じのところでふらついたら・・・

 見送りながら私もいろいろ思いを巡らせました。
 私も陽気のいい間はかなり遠くまで自転車で出かけます。
 私の住んでいるような中都市では、自転車がけっこう手軽なのです。都心でも駐車場を探す手間などを考えると自転車の方が早いくらいです。
 それに、自称「道草王子」の私にとっては自転車は実に都合がいいのです。

 しかし、あの老人よりもはいいとしても、私も決してスイスイではないのだろうと思います。いつまでまともに乗れるのでしょう。車の運転手に気を遣わせることなく乗れるのでしょうか。
 またいつまで、スーパーと百貨店の違いを了解していることができるのでしょう。

     
        ここからご老人の姿が見えなくなるまで見送りました

 自転車や百貨店だけではありません。
 今の世の中、新しい情報や事物が幾何級数的に増殖し、現在でもとてもついては行けません。もちろん、百科事典のようにすべてに通じていなければなどとは思ってはいません。
 人様に迷惑をかけず、出来ればオレオレ詐欺にもかかることなく、はた迷惑な老人にならず日常生活を過ごして行けるかどうかです。

 まあ、結論から言って、そんなことは不可能でしょうね。
 しかし、よくしたもので、そんな頃になると自分がはた迷惑な存在であることも分からなくなって、自己主張を続けるのではないでしょうか。
 
 百貨店とスーパーの違いが分からなくて何が悪いっ。
 自転車がふらついて何が悪いっ。
 ようするに、ぼけるが勝ちじゃっ。
 なあ、おにいさん。

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水仙の埋め戻しと「はつしも」の刈り入れ時期

2010-10-10 23:59:40 | 花便り&花をめぐって
 水仙の花が急に咲かなくなって驚いたのは一昨年のことでした。
 毎年咲いていたので、放りっぱなしにしておいたのが良くなかったようです。
 ネットで調べたら、葉が枯れる7月ぐらいに球根を掘り出して、日陰の風通しの良いところに保管し、10月ぐらいに埋め戻せとのことです。
 昨年はそれを実施しました。
 でもって、日本水仙もラッパ水仙も見事に昔日の面影を取り戻し、ホッとしたものでした。

     

     
      これは今年の春の花 上:日本水仙 下:ラッパ水仙のいろいろ

 で、今年もそのとおりにすることにしました。7月球根を掘り起こしました。
 昨年埋め戻した際の倍ぐらいに増えています。
 風通しのいいところへ置いておきました。

 ところで、先日、庭の片隅でなにやら芽が出ているのを見つけました。
 水仙です。今年の7月に掘り出した折、残っていたものがもう芽を出したのです。
 えっ、あっ、もう?ということで、やっと時間がとれた10日の午後に埋め戻しの作業にかかりました。
 私の家は山土の埋め立てに建っているので、けっして土地は柔軟ではなく、少し掘ると固い石ころや、無政府的に這い回る植木の根っこにぶつかります。

 それでも額に汗をしながら、球根を埋めるべく溝を何本も掘り、肥料を撒いてから球根を順次植えて行きました。途中で、日本水仙とラッパ水仙の球根が分からなくなってしまい、エエイッとごっちゃに植えてゆくこととなりました。来春はきっとランダムにかつまだらに咲くことでしょう。
 もっともこの二つの水仙、開花に時差があり、まず日本水仙が花を付け、一ヶ月近く遅れてラッパ水仙が花開きます。

 球根が増えて倍ぐらいになったといいましたね。
 猫の額のような庭、とても全部植えきれません。
 空いているプランターを使い、それでも余った分は遊んでる植木鉢や、ほんのちょっとした片隅などに植えました。
 さて、成果は来春のお楽しみ。それまでは何とか生きていてその結果を見とどけなくっちゃぁ。
 フ~、疲れました。

     
     
     

 夕刻、近くのスーパーへ買い物に出かけました。
 帰途、あたりに目を懲らすと、田圃では夕日を浴びて稲が頭を垂れています。部分的には稲刈りを済ませたところもありますが、大半はまだです。
 岐阜の県産米は「はつしも」といって文字通り、初霜が降りる頃に収穫する遅い品種です。
 この田は少しだけ、鎌で試験的に刈ったようで、それが寝かせてありました。
 素人目にはびっしり実がついているように見えるのですが、果たしてどうなんでしょう。

     

 田の入り口に、カードが立てられていて、それには、品種「はつしも」、生産者名、田圃の所在地、面積、などが記されています、
 それを撮したのですが、撮している私の影も、秋の夕日のせいで、長々と画面に登場しているのがご愛敬です。
 明日ぐらいから、本格的に稲刈りが始まりそうです。

 水仙を埋め戻した頃に稲刈りが始まり、ラッパ水仙が咲く頃、田起こしが始まるようです。
 たかが水仙の球根を埋め戻しただけなのに、私も自然の輪廻に手を貸しているような気分になりました。

 

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墓碑銘と野菜と紫式部、白い曼珠沙華とおまけのカワセミ

2010-10-08 01:56:13 | インポート
 秋晴れの一日、三キロほどの道のりを自転車を駆って人に会いに出かけました。
 前にも書きました六〇年ほど前に卒業した小学校の同窓会の幹事たちに会うためです。

 少し余裕を持って、あたりに漂うキンモクセイの香など嗅ぎながらふらふらと自転車を漕いで行くと、いきなり墓地に行き当たりました。どうやらもう一本右か左の道を行くべきだったようです。

 しかし、お墓に行き当たったからといってひるむ私ではありません。私自身、行き着いたら墓場だったという頃合いにもうさしかかっているのですから・・・。
 そこでお墓ウオッチングです。

         

 新しく建てられた墓は、表面の研磨もなめらかすぎで、かつまたシンメトリーで面白味に欠けます(その下で眠っている人、ゴメンナサイね。これはきわめて私的な趣味の問題ですから)。
 などと思っていたら、そうでない墓がありました。けっこう年代物です。

         

 碑銘には、「故陸軍歩兵一等卒 水崎鶴吉の碑」とあります。
 どこでどの様に亡くなったのでしょうか。
 一等卒といえば、兵隊の階級でいえば二等兵の上で下から二番目ですから、さして偉くはありません。しかし、そのことと彼がどんな人物であったかということとはまったく関係はありません。
 ましてや家族にとっては、大将や元帥に比べてもはるかに大切な人で、だからこそこんな立派な墓を作ったのでしょう。
 一等兵ですからまだ若い兵卒でしょう。その命がむざむざ奪われたのですから、家族としてはせめて彼が生きた証にこれを立てたのでしょう。私のように年老いてくたばるのとはわけが違うのです。

 そんな道草をしながらも、会合の時間には間に合いました。
 私はひたすら、パソコンを使って案内状などを作る係に徹して、小利口に何か提案したりすることは控えました。なにせ私は、この小学校では五年生の三学期に、疎開先の小学校から転校してきたまさに外様に過ぎないのです。

 私の作った案内状の草案は若干の注文があったものの、ほぼその通りに承認されました。
 帰り際に、私の労をねぎらうということでしょうか、同席した女性から段ボール箱一杯の野菜をいただきました。
 サツマイモ、ニガウリ、ナス、衣カツギなどのほか、珍しいところでは、さやが赤いオクラもはいっていました。
 ほかにはワケギの球根ももらい、帰ってから早速プランターに植えました。
 
 食い物に卑しい私は、こうして彼や彼女らの軍門に下るのでした。
 衣カツギは早速夕餉の食卓に登りましたが、本当に美味しくいただけました。
 あのメンバーたちがこれを読む可能性はほぼ100%ありませんから、決してお世辞ではありません。
 あ、それから、綿の花というか綿そのものをもらいました。

      

 帰り道、違ったコースを通ったおかげで、紫の小粒な真珠に逢うことが出来ました。紫式部のたわわな実です。
 写真を撮っていたら、通りがかりのおじさんが寄ってきて、「この実は何ですか」と訊くので、「ムラサキシキブという花がこの様に結実したのです」と説明すると、「なるほど、ムラサキシキブねぇ」としきりに感心していました。
 かつて私も、この様にして誰かにこの花や実を教えてもらったことがありました。
 その誰かが、とある女性であったことをはからずも思い出し、まさに胸キュンものでした。

      

      

 ついでにもう少し寄り道をしてみました。
 白い曼珠沙華というものがあることを知ったのはいつ頃のことだったでしょうか。
 子供の頃、「赤い花なら曼珠沙華 オランダ屋敷に雨が降る」で始まる「長崎物語」(昭和十三年1938年発売)という歌を知っていたので、曼珠沙華は赤だと決めこんでいたのですが、今では白いそれを知っていますし、それが毎年咲く場所も知っています。
 で、そこへ行ったらやはりありました。
 もう赤いのは終わりを迎えているのですが、白いものはこれからといった風情です。

      

         

 ふと頭上を見上げると、ザクロとキノコが共生しています。
 すぐ近くではカラスウリが色づきはじめたのですが、まだまだ赤みが足りません。
 あの灼熱の夏の間に、これらが着実に準備されていたのですね。

         

         

 家の近くの田は、もう稲がたわわに実を付けています。
 ほとんど兼業農家のこの地区では、次の連休ぐらいに、一斉に稲刈りが行われるのでしょう。
 地球は、いろいろ取りざたされ危機的な面もあるようですが、私にとってはまだまだ徘徊に値する星のようです。

【今日の残念賞】
 これも帰途です。近所の幅5メートルにも満たない小川に架かる橋から下を見おろしていました。小魚などいないかを確かめていたのです。すると突然橋の下から鮮やかなコバルトブルーのものが飛び出し、水面をかすめるように上流へ・・・。
 あっ、カワセミだっ、と視線で追いかけると、50メートルぐらい離れた上流の橋の下に・・・。
 カメラを構えながら静かに接近し、その橋のたもとまで来ました。
 しかし、その気配を察したのかまたしても上流方面に逃げられました。
 慌ててカメラを構えたのですがもう点にすら写りません。
 未練がましく上流へいってみましたがすでに姿を現すことはありませんでした。


コメント (5)
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