六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

ブルーな土曜日の八つ当たり的感慨

2010-02-27 16:17:41 | よしなしごと
【はじめに】もう何度かの土曜日を経験してきた。
 70年以上生きてきたから、毎年五十数回の土曜日があるとして、約4,000回の土曜日を迎えてきたことになる。
 それらのすべてがハッピィであったわけではない。
 もしその全てがハッピィだとしたら、日曜日も月曜日も黙ってはいまい。

 そんなわけで、今日は幾分ブルーな土曜日である。
 そのわけはいうまい。いったところで人様の共感を得られる話でもない。
 当然のことではあるが、こんな日の感慨は幾分八つ当たり気味になる。
 どんな風にかというと、以下のようにである。

  

午前中、近くの診療所へ行く。いわゆる病気の部類には入らないのだが、年齢から来る症状に対し薬などなど注入してその作用を和らげようという魂胆だ。
 今回の目的はふたつ。ひとつは睡眠障害。
 私のそれは途中覚醒といって、寝付きは悪くはないのだが2時間もすると目が覚めてしまい、そこから先の睡眠がうまく進まない。昨夜は特にひどかった。
 変なときに目覚めてしまうと、変な想念に取りつかれる。
 例えば、地球が爆発するのではないか、そしてそれはたぶん私のせいなのだといったことなどである。老人性の鬱というきわめて適切な表現が相当するのだろう。

 もうひとつは、鉄板を背負ったように肩から背中が重いということである。
 これも老人病には違いないが、徳川家康の「人生は重き荷を背負いて…」を連想させる。家康も頑固な肩こりであったに違いない。

 それにしてもこの診療所、何度訪れてもBGMはモーツアルトの40番、しかも第一楽章のみのリフレインである。いくらモーツアルト好きでも食傷気味である。何よりもそこに四六時中いる自分たちが飽きないのだろうか。

  

今日の新聞は読むところがない。品のない週刊誌以下の内容である。
 A新聞の一面は、張という棋士が七冠を達成したという囲み記事のほかは、コラムも含めてすべてあの話である。
 いま、それと並行して冬季国体が開催されている。A新聞は、それに関して、一段で見出しも含めて16行で片付けていた。

     
    マニュアル写真をスキャナーで取り込んだのでよけいひどくなった

私の住む地域で文化祭というものが行われている。市町村という大きな単位ではなく、小学校の一校下の規模である。その校下でのサークル活動の発表会と思えばいい。
 見に出かけた。写真のコーナーで足を止めた。
 「春へのざわめき」というタイムリーな題名を付けた作品があった。
 しかし、その写真がよくない、やたら煩雑で、神経症を絵にしたような作品である。
 どこのどいつがこんなものをと作者名を見たら、私の名前が記されていた。
 下手くそめが!

     

ブルーな土曜日といっても悪いことばかりではない。
 私のうちの早咲きで桜ん坊のなる木の蕾が、昨日の雨にも誘われてもうかなり膨らんできた。
 もう一週間もしたら、咲きそうな勢いである。

【おわりに】もうあと何回土曜日を迎えることができるだろうか。
 そのうちにはもっとブルーな土曜日もきっとあることだろう。
 今日はたぶん、そんな日のための練習に違いない。
 

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春を呼ぶ対話@名古屋栄第二公園

2010-02-25 02:24:00 | よしなしごと
  

 公園の日溜まりでのある会話です。

女性像「おじさん、今日はのんびりしてるわねぇ」
おじさん「まあな」
女「今日の予定分のアルミ缶、もう集めちゃったの」
お「あくせくしたってはじまらないから今日は日向ぼっこさ。
  ところであんた、春はどこから来るか知ってるかい」
女「アラ、そんなこと考えたことはないわ。どこからかしら」
お「そうだなあ、むかし(1946年)♪朝はどこから♪という歌があってさ」
女「まあ、随分古い話ね。で、どこから来るの」
お「それがな、こんな風に続くのさ。
    朝はどこから来 るかしら
    あの空越えて 雲越えて
    光の国から来るかしら……・

女「なかなか面白そうな歌詞じゃない」
お「そうなんだけどさ、そのあとがいけない」
女「いけないってどういうこと」
お「そのあとはこう続くんだよ
    いえいえ そうではありませぬ
    それは希望の家庭か ら
    朝が来る来る 朝が来る
    <お早う><お早う>

女「それのどこがいけないの」
お「かんがえてみろよ、俺だったあんただって家庭なんてもっちゃいないだろう。そうすると、俺たちンところへは朝は来ないことになってしまう」
女「あ、そうか。家庭がないと朝も来ないんだ」
お「うん、決して悪い歌ではないんだけどね、この歌によると二番の昼も、三番の夜もみんな健全な家庭によって来ることになっている」
女「でもどうしてそんな歌が作られたの」
お「この歌が作られた1946年=昭和21年というのは、敗戦の翌年なんだよ。この歌は国営放送の<ラジオ歌謡>という番組で歌われたんだ。そしてこれは一種のキャンペーン・ソングでもあったわけだよ」
女「へえー。で、どうして家庭なの」
お「まず、戦争によって事実上、家族が分断された。それと、天皇を頂点とした国民みな家族という理念が崩壊した」
女「じゃぁ、その家庭の再構築がテーマなの」
お「そうともいえるな。ただし、その家父長的色彩を薄めて<希望の家庭>などと表現するところが戦後的なんだけどな」

  

女「ところでおじさん、さっきの質問だけど、春はどこから来るの」
お「あんたはどう思うんだい」
女「そうねぇ、私ってここで年中、噴水の水を浴びてるでしょう。
  だからね、その水がいままでほど冷たくなくなったとき」
お「なるほどねぇ。<水ぬるむ>だなぁ」
女「感心してないでおじさんはどうなの」
お「それがよく似てるんだなぁ。ほら、俺たちって芝生や地面の上にシートなど敷いて寝ることが多いだろう。そのときの地面の温もり、それが春さ」
女「ヘエー、そうなの。いろんな春の感じ方があるのね。そういえばこの間、
  そこのベンチに座ってた人、春になると鼻がむず痒いといってたわ」
お「そりゃぁ、花粉症だな」
女「ほかには、野球やサッカー、競馬が始まると春だという人もいるわね」
お「そりゃぁひと様々だけど、共通するものがひとつだけあるな」
女「それってなあに」
お「自然の運行さ。ほらそこのしだれ桜の木、枝々に確実につぼみを付けはじめてるだろう」
女「アラ、そういえばそうね」

 やっと暖かい陽射しが戻ってきた公園で、二人の会話は続くのでした。

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犬山郷愁物語 静心なく花の散るらむ

2010-02-23 15:52:56 | 想い出を掘り起こす
 久々に愛知県犬山市へ行きました。
 始めて行ったのはもう65年ほど前です。
 戦争にとられていた父の無事を祈願しに、信心深かった母に連れられ、犬山城麓の針綱神社に行ったのです。いまから調べてみると、この神社の御利益は、安産、子授けだとのことですが、戦争未亡人になりかけの母がそれを願うわけはありませんから、もう少し下位のメニュー、厄除け、長命を祈りにいったに違いありません。

  
         夕日に映える郷瀬川のせせらぎと石垣

 もっとも母は、汎神論といえばいささか格好がいいのですが、どちらかというとアミニズム信仰のようなものでしたから、ありがたいものがあるというと、お狸様でもお蛇様でも拝みに行っていました。ですから、その神社が掲げる効能書きや礼拝のマニュアルなどはどうでもよかったのでしょう。

 それ以降しばしば犬山へは行く機会があり、国宝・犬山城や、織田有楽齊のやはり国宝である茶室・如庵など印象深いものが結構あります。
 とりわけ、その如庵へ10年ほど前母と行った折り、たまたま花の時期で、如庵を出ると、風もないのにはらはらと桜が降りかかるように散ってきました。私はそれを見て母に、「ホラ、あの歌の通りだよ」といってやりました。

  
     1842年に建てられた豪商奥村家 現在はフレンチレストラン
 
 その歌とは、百人一首にある、「ひさかたの光のどけき春の日に静心なく花の散るらむ」(紀友則)で、まさにそんな情景だったのです。それを母に告げたのは、かつて家族じゅうでカルタ遊びなどした折、母はこの札だけは絶対にひとにとらせなかったという事情があったからです。
 なぜかというと、この札に出てくる「静」(戸籍上ではカタカナでシズ)が自分の本名だったからです。余談ですが、普通は「静子」で通していました。

 ですからこの札には絶対に固執していました。私など、その在処がわかっている折りには、「ひさか……」ぐらいで手が出そうになるのですが、グッとこらえました。その札をとってしまうと途端に母の機嫌が悪くなるからです。

  
       「静心なく花の……」 この写真は去年のもの

 如庵に戻りましょう。ほんとうに花が雨のごとくはらはらと降りかかってきたのです。あの辺は老木が多く、たぶんソメイヨシノではないエドヒガンかなにかでけっこう樹高があり、そこから降りかかるそれは滞空時間も長く、まことにもって幻想的でした。
 母はそれを見上げながら、「ほんとうにそうだなぁ」と童女のように顔をほころばせていました。

  
         現在の犬山橋 これについてはまた書きたい

 ほんとうは、今日は犬山橋について書きたかったのです。
 しかし、つい昨年亡くなった母のことに筆をとられ、前置きのつもりが長くなってしまいました。
 犬山橋についてはまたの機会にします。

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彼女たちの弾けるチンドン屋さん

2010-02-22 14:24:12 | よしなしごと
  

  過日、名古屋で若い女性ばかりのチンドン屋さんに出合った。
 「写真を撮ってもいいですか」と尋ねたら、「どうぞ」と答えてわざわざ立ち止まりポーズをとってくれた。

 「ブログに載せるからね」といったら「キャッ、キャッ」と弾けるように笑った。
 私の、「ありがとうね」の声を背にまたまた賑やかな行進が始まった。

  

 飲食店の開店の宣伝で、私もチラシを一枚もらった。
 せっかくだから所用を済ませたあと寄ってみようかと思ってよく見たら、どうも若向きのお店らしい。
 結局、一人で場違いな場所に飛び込むのも躊躇され、やめてしまった。

 彼女たち、ゴメンね。
 今度は熟年向けの酒と肴の美味しい店を宣伝して下さい。

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ナチスの開発した技術の恩恵にあずかる

2010-02-20 12:36:38 | 歴史を考える
  

 戦争が様々な技術などを開発するという事実がある。
 原子爆弾などの核兵器の開発がその最たる例であるが、その他にも様々なものがある。ナチスのロケットは今なお大陸間弾道弾として活躍している。季節風に乗せて爆弾を運ぶという日本の風船爆弾は、そのプリミティヴさと不正確さで、技術として残ることはなかった。

 ナチス・ドイツは、先に見たロケットにとどまらず、様々な殺戮の技術、とりわけ大量殺戮のそれを開発した。ユダヤ人やロマ(当時の呼称ではジプシー)、コミュニストなどの反体制分子を殺し尽くすのがその政策の根幹にあったからである。その数おおよそ六〇〇万人であったという。

 大量の人間を殺すのに、ソビエト軍がカティンの森(ポーランド)で銃弾でもって一万二千人のポーランドの将兵を殺戮したという例もあるが、それは非効率的であるし、 一方で戦争を継続している中にあって、その弾薬も惜しまれる。六〇〇万人を殺すには六〇〇万発の銃弾が要るからである。
 
 そこでもっと効率がよく、一挙に大量の人間を「処分」できるようにと開発されたのがアウシュヴィッツなどに設置されたガス・シャワー室であった。これでもって一挙に効率は「改善」された。

 なぜ「改善」といったかというと、その前段階があったからである。その前段階というのは、箱形のトラックに人間を詰め込み、そこへガスを発射するという装置であった。この場合は、死体を埋める地点へ行く途中で殺戮を完了できるという利点があったが、一方、トラックに乗せることができる人数しか殺せないという点での限界があった。

 その「改善」による効率化がガス・シャワー室だったのである。中には、ちょっとした講堂にに相当する広さもあったという。かくして効率は「改善」された。さあ、ユダヤ人でもロマでもコミュニストでも、皆さんいらっしゃいということで、ドイツの支配するヨーロッパの地域から「最終処分」の対象者が集められた。

 今日の「朝日」朝刊は、徳島県と奈良市で、このガス・シャワー室の前の段階、つまりトラックの中で野良猫や野犬を処理する方法が採用されていて、既に一万数千匹がそれによって処分されていると伝えている。
 理由は、処分場近くの住人による処分場建設時の受け入れ条件にあるという。ようするに、「ここでは殺さないでくれ」ということだ。

 それに対して行政が応えたのが前述の方法である。
 それについての是非は敢えていうまい。ただし、住民たちや行政はナチスの開発した技術に感謝しながらも、たまにはそうした方法を含む殺戮手段によって六〇〇万人の人間が「処分」されたことを思い起こすべきだろう。

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田園改造計画只今進行中 !

2010-02-19 14:41:10 | よしなしごと
 2月1日の拙日記で触れたややレトロな建設機械の件ですが、今度はそれを使って行われている作業についての報告です。
 私がここに越してきて以来四十数年間、ここはズーッと水田でした。
 最初のは昨秋の写真ですが、こんなにたわわに実っていました(手前の箇所は休耕田です)。

 
 
 ここに昨年末から異変が起き始めました。前述の機械が入って何やら作業が始まったのです。何がどうなるのだろうと思ってその変転ぶりを見極めようとしていたのですが、作業は遅々として進みません。二、三日根をつめて作業が続くかと思うとしばらくの間放っておかれます。

 

 何やら土を掘ったり集めたりしているようですが、その全貌はつかめません。
 はじめは土壌改造か何かで土を全部入れ替えるのかと思いました。
 今年になって、何やら線状のものが走っていることに気付きました。畝なのです。それまでは真っ平らな田圃にくっきりと畝が立ち上がろうとしているのです。

 
 
 それでも田圃の一隅に小山のように積み上げられた土が残っています。たぶん、畝の凹面から削り取った土なのでしょう。
 で、どうなるんだろうかと見守っていたのですが、それから一ヶ月ほど放置されたままでした。ようするに二月一日の拙日記で述べたのは放置されたままの状況だったのです。

      

 そして、二、三日前から、やっと新しい動きが始まりました。小山のような土が、中型のトラックに積まれてどこかへ運ばれ始めたのです。
 山のように積み上げられた土が、田圃の真ん中でもどこか別の隅でもなく、まさにここにおかれて理由がやっとわかりました。この面こそトラックを横付けできる道路に面しているからです。

 

 写真でご覧になるように運搬の作業は行われています。一体土はどこへ運ばれているのでしょうか。全部一人の作業ですかが、積む、運ぶの時間的なサイクルから見てさほど遠くではなさそうです。あとをついて行けば分かりそうなのですが、そこまでするのは野次馬道から著しく逸脱することとなります。

 
 
 今日も土は運ばれています。あれだけ畝を作っただけなのにけっこうな量があるもんだと感心しています。
 いずれにしろ、水田から畝が出現し、四十数年見慣れた水田に代わって、何か稲作以外のものが始まりそうなのです。それが何であるかはさっぱりわかりません。
 願うことなら、私の目を楽しませてくれるものをと思うのですが、それは勝手な言い分に過ぎません。
 というようなわけでそこに何が作られるのか、それはどんな絵になるのか、私の野次馬根性はまだまだ続くのでした。

 

 最後ですが、私がここに来てからだけでも四十数年、それ以前おそらく何百年にわたって稲作の田圃であったところを、他のものに転作するということには重大な決断が必要だったことでしょう。
 そして、昨年から三ヶ月にわたってまったく一人で、機械を操作して畝を作り、トラックを運転して土壌も運ぶという作業をこなしている彼の姿からは、その決断をなんとしても生かしてみせるという固い意志が溢れているようにみえるのです。
 一介の野次馬ではありますが、彼の決断とそれによる労役が、豊かな成果をもたらすよう祈っています。

 何ができるのか楽しみだなぁ。
 また報告しますね。

 

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Tシャツと車と弟と女将の話

2010-02-17 16:28:29 | よしなしごと
      

Tシャツを自分でデザインし売っていた。
 そこへ彼女がやってきた。彼女には一枚献呈してあったのだが、デザインはともかく、その色目が気に入らないから換えてくれという。
 私のそばにもう一人の女性がいて、「アラ、あなたにはそれがぴったしよ。ほかの色なんてかえっておかしいわよ」という。
 先の女性は意志の強さでは定評がある。
 「じゃぁ、いただかなくとも結構よ。あらためて買うわ」といって傍らのレジに2,900円を投げ込むようにして入れると、自分のお気に入りの色目のものをわしづかみにして去っていった。

  


喫茶店で本を読んでいた。
 突然、女性の声が聞こえた。
 「アラ、私の車がなくなっているわ」
 振り返ると顔見知りの女性だった。
 「どうしたんですか」とたずねると、「ヴァイオリンのお稽古の帰りにね、この店の前に車を止めてお茶をしてたの」という。
 なくなったのはほんの十数分ぐらいの間のことで、もちろん施錠がしてあり、駐車違反でもないところだった。
 店のマスターを呼んでたずねると、「あ、今度は車ですか。昨夜はうちの冷蔵庫がなくなりましてね」と何やら悲痛な表情をして天を仰いだ。

  

「もう憶えてはいませんか」と声がした。
 何のことかなと思って彼女の顔を見つめる。
 「まあ、誰でもそんなことは覚えてはいたくないですよね。ましてやそれが身内のことだったら」
 「身内のことというと」
 「あなたの弟さんのことですよ。ホラ、酔っぱらって縁側から転げ落ちた」
 いわれればそんな光景が目に浮かぶ。
 でも、あれはほんとうに弟のことだったのだろうか。そもそも、私に弟がいたのだろうか。
 「まあ、いいです。思い出したらメールでも下さいな」
 と、彼女は私の顔を見ないようにしながら去っていった。

  

知り合いの飲食店で、その店の亭主とカウンター越しに飲んでいた。
 背後でガラガラッと戸が開いて、どうやらこの屋の女将さんがどこかから帰ってきたようだ。
 「六さんが来てらっしゃるよ」と、亭主。
 私が振り向いて挨拶をする暇も与えず、女将は私の背後に回り両方の肩に手を置いて、「ア~ラ、ほんとうにお久しぶりね」という。
 ちゃんと相手の顔を見て挨拶をしたいのだが、真後ろ過ぎて顔が見えない。
 首をめぐらそうとすると、女将もまたその方向とは逆に顔を逸らし、どうしてもその顔が見えない。それを2、3度繰り返すうちに、私の中に疑念が湧いてきた。声もそっくりなのだがこの女性は私の知っているあの女将ではないのではないか。
 そう思って正面の亭主を問いただすように見ると、彼は困惑をしたような笑みを浮かべたかと思うと、いきなり自分の顔を両手で挟んで、ムンクの叫びのような表情をして見せた。

        *   *   *   *   *   *   *

  
 
 こんな細切れの夢を幾度も見たせいで、寝起きがきわめて悪かった。
 今日しなければならないことがどっさりあるのに、それに取りかかる気がしない。
 とりあえずは些細な雑用だけして、どうして私はちゃんとことに取りかかることができないかの言い訳としてこんなものを書いている。
 難儀なことである。
 
 どっかで車が急発進する音がした。
 あ、クスリを飲まなくちゃぁ。
 

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不思議な空間へのトリップ

2010-02-15 02:00:23 | よしなしごと
 茜部と書いて「あかなべ」と読む。岐阜市の南部の地名である。
 881年以降、平安時代を通じて奈良の東大寺の荘園となり、染料となる茜草を栽培していたらしい。
 その茜部のさらに南端近くで、荒田川と境川という、ともに一級河川ではあるがさほど大きくはない二つの川が合流する地点があって、そこには川に挟まれ鋭角になった空き地がある。
 荒田川寄りからは、手すりも何もない幅1メートル強ほどのコンクリート製の橋でその空き地へ行くことができる。

  
              これは境川の側

 その空き地であるが、公園か何かに仕立てようとしていろいろ工事を試みたのだが、断念したらしい痕跡がある。ほぼ中央にメタセコイアが植えられ、いかにも素人風な文字で「メタセコイア」と書いた札がかけられていたりする。おまけにこのメタセコイア、イルミネーションでライトアップされていたらしく、今なお、豆電球を付けたコードが樹の上から地上に向かって張り巡らされている。

  
            荒田川の方のせせらぎ

 このメタセコイアを中心に、複数の桜の若木が植えられ、どうやら早咲きのもののようで、やや小粒で緋色がかった花々がもう二分咲きになっていた。この時期、この桜が唯一この土地で華やいだ色をなしている。その他にも植樹をしたらしい樹木や、工事中のまま放置された材料なども散見できる。

  
            やや小粒な早咲きの桜が
 
 二、三年前にひょんなことでここを訪れて以来、時折気になってやって来る。
 二つの川に挟まれた地形が好きなのと、何よりも公園造成が途中で放棄されている謎のようなありようが気にかかるのである。
 地域の人たちの計画だったのだろうか、それとも誰か個人の企画だったのだろうか。

  
     まだ造成が続いているのだろうか?それとも別の資材?     

 いずれにしても不思議な空間で、一度など夢のなかで、ここにポツネンと立っている自分を見たことがある。
 こんな場所であるから夢のなかでなくとも人気はなく、ここにしばらくいても人に出合ったことはない。時折、農作業などで対岸を通るひとがいるが、そこにいる私をたぶんいぶかしげな面持ちで見ていることだろう。

  
     合流点から南西の下流方面には重そうな冬の雲が
     
 さて、何となく私たちの日常から置き去りにされた異次元のように中途半端なこの場所は、今後どんな変化を遂げるのだろうか。時折は訪れて、その変遷を見届けたいものである。
 さほど暇でもない身なのに、われながら物好きなことではある。

【おまけ・この空間の利用方法】
1)暖かくなったら、座椅子など持っていって、日光浴をしながら終日読書をする。BGMは鳥のさえずり。この日確認しただけでも、モズ、背黒セキレイ、カワラヒワなどがいた。
2)親しい人たちと月見の宴でも張る。人家との距離があるから、よほど大声で騒がない限り、迷惑にはならない。
 

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桃厳寺で大仏様ににらまれた話

2010-02-13 00:16:15 | 想い出を掘り起こす
 過日、名古屋は千種区の桃厳寺へ行く機会がありました。
 ここは信長の父、織田信秀の菩提所(ただし建立したのは信長の弟、信行)だそうですが、一方、知る人ぞ知る歓喜仏を蔵したり、名古屋大仏などを擁し、けっこう人気があるお寺と聞いています。

 
 
 ただしここの大仏様はそんなに古いものではありません。1987年といいますから20年ちょっと前の建立です。写真で見ると濃い緑色をしていますが、この彩色はまだ数年前に施されたもののようです。
 ほかの特徴としては、この大仏様、蓮の花の上ではなく、10頭の象に支えられていらっしゃいます。

    

 大仏様のほかには、先にちらっと触れた歓喜仏があり、これはどうやらセクシーな弁財天様のようですが、急いでいたので拝観料〔1,000円〕を払って拝むことはしませんでした。なお、ここで拝観料を払うと、その弁天様のほか、男根の林立する様が拝めるのだそうです。

    
 
 ところで、この大仏様とのご対面ははじめてなのですが、多少の因縁があるようなのです。といいますのは、当初この大仏様は、1988年の夏季オリンピックに名古屋が立候補した折、その開催に合わせて開眼式を行うよう計画されたらしいのです。
 しかし、ご承知のように名古屋は開催地に選ばれませんでした。そこでこの大仏様は当初の予定を一年早めて建立されたのだそうです。

    

 それがなぜ私に関係があるかというと、当時、私はそのオリンピックの誘致に反対していたからです。自民党から共産党まで、すべての党がオリンピックの推進派というそのなかでです。

    
 
 なぜ反対したかというと、名古屋にはほかにしなければならないことがいっぱいあること、その会場に予定された平和公園近くは、名古屋人の墓所の近くで、そこを切り開いてしまうことは単に自然破壊に留まらず、都市環境そのものを破壊すると思ったからです。
 経済的な波及効果もいわれましたが、ようするに土建行政の最たるもので、推進に名を連ねた偉いさんたちはスポーツなどには一切関心などなく、ただただ、獲らぬ狸の皮算用をするのみでした。

 

 まあ、そんなわけで私は、この大仏様の開眼式をオリンピックに合わせるというセレモニーの妨害をしたことになるのかも知れません。気のせいか私を見下ろす大仏様の眼差しは幾分険しいものがありました。

 

 それはともかく、その他、この桃厳寺で考えたことなどがあるのですが、結構重い話になりそうなので機会を改めたいと思います。
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無党派の寺院と日本人の(私の?)宗教観

2010-02-10 15:11:52 | 写真とおしゃべり
 雪がちらつく寒い日、名古屋市は千種区の覚王山日泰寺界隈を散策した。
 私が三十年ほど商売をしていた場所からさほど遠くはないが、とはいえ、あまり足を運んだ覚えはない。



 覚王山日泰寺は珍しく無宗派の寺院である。正確に言えば十九ほどにも及ぶ各宗派が加入している寺院である。なぜそんな寺が出来たかというと、タイから仏舎利(お釈迦様のお骨)が贈られたのを記念して各宗派が合同でそれを祀ったことによるという。だから日泰寺というのは「日本とタイ」の寺という意味である。

 
              近くの鉈薬師堂庭園にて
 
 しかし、世界にも、日本のあちこちにも仏舎利塔が数多くあることから見るに、お釈迦様という人はよほど小骨が、失礼、お骨が多かった人のようだ。

    
              同鉈薬師堂門前にて
 
 無宗派の寺だといったが、もともと日本人は無宗派のようなもので、葬儀や法要の場合には、やれうちはお西だ 、お東だ、あるいは禅宗だなどと読経の仕方や作法にまでうるさいが、日常ではそんなことは一切関係なしに、どこかに古寺名刹があると聞くと観光バスで押しかけたりする。

    
 同鉈薬師堂お百度石 これを起点に本堂まで百回お参りをすると願いが叶う
 
 その観光バスに乗っている人たちの宗派がまたばらばらなのだから、呉越同舟ならぬ誤宗同車という次第になる。随分前だが、奈良の大仏様の前でお題目を称えているのを聞いたこともある。
 まあ、どっかの国のように、同じ宗教のなかで、宗派が違うばかりに殺し合いにまで至るよりもは平和でいいのかもしれない。もっともこの殺し合いも、純粋に宗派の問題ではなく、うしろで糸ひく国際政治の影響が濃厚なのだが。

 
                 専修院にて

 日本の話に戻ろう。日本での宗派意識が曖昧であるといったが、もともと歴史的にいってそうであったのではないかと思うのだ。というのは、日本の宗派分けは各個人がその宗教的信念に基づきそれを選んだのではなく、江戸時代の実質的な戸籍であった一定の寺の影響範囲にある者はすべてその寺の「宗門人別帳」に記入されたという事実によるものではないかと思うからだ。

 
               同じく専修院

 この人別帳に書かれなかったり、除外された者は、いわゆる無宿者であり、いまのネットカフェ住まいの人が就職などで差別をうけるのと同様、その市民権においての制限があったという。
 ついでながら、国民総背番号制や住基ネットは現代版の人別帳ともいえる。

 
                これも専修院

 といったようなわけで、ほとんどの日本人の宗派意識はせいぜいのところ、お焼香のときにお香を何度摘むかぐらいの差異に解消される。
 だから、大仏様の前で称名を称えて大仏様を面食らわせたり、天主堂でお念仏を称えてキリスト様を仰天させるぐらいは日常茶飯事なのである。

 
              近くの茶店の入り口

 私の母がそうであった。生家はお東、嫁いではお西であったが、神仏はむろんのこと、お狸様からお蛇様まで、あらゆるものを信仰し、それなりに寺銭、ではなくお布施を弾んでいた。万物に仏が宿るということならそれはそれでいいので、私は母は汎神論者だったと思う。

    
               火除けの常夜灯
  

 残念ながら母の死は、彼女が願ったようにポックリとはゆかなかったのだが、森羅万象に敬意を払っての往生だから、もし霊的な世界があるならば、あらゆる霊から優遇されているはずである。

    
          日泰寺入り口付近の座像 白いのは雪

 これまで書いてきたことから、私は日本人の宗教観念の曖昧さを揶揄したり批判したりしているとするのは誤解である。実は私は、それでいいと思っているのだ。宗教間の差異、宗派の差異などは実に些細なものである。ましてやそれで殺し合うようなものではないはずだ。

 
           参道の石屋さん 小物も作っている

 カントは「崇高」という言葉で、人間の想像を絶する巨大なもの、壮絶なものを現した。そこには当然、圧倒的に大いなるもの、人知を越えた圧倒的な力の作用が含まれるのであり、それが宗教観の根底にあるのだと思う。
 この事実は、姑息な自力で己や世界を支配しようとする態度とは全く違うものがある。

 
           参道で見つけた大粒の白南天

 とはいえ、私は人間の努力を否定しようとは思わない。いな、むしろそれこそが人の生涯である。己の自由にはならぬ圧倒的に大いなるもの、圧倒的な力のうちにありながら、なおかつ己のなし得ることに励む、それでいいのだと思う。
 ただしそれは、常に真理は己のもとにあり、世の必然性が手中にあるとすることとは対極の態度である。そうした姑息な自力で己や世界を支配しようとする傲慢さはオウム真理教のそれであり、スターリニズムやナチズムのそれである。





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