六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

ジャンボ・タニシとハンナ・アレントお姉さん

2009-07-29 03:51:50 | よしなしごと
 相変わらずの雨です。
 8月になったら、伊吹山のお花畑の写真でも撮りに行きませんかという案内のはがきを出しに行きました。
 雨の外出はおっくうですが、昨日も書いたように運動不足気味なのですこし歩くつもりで出かけました。

 とはいえ、郵便ポストはそれほど遠くはありません。ですから往復したところであまり体を動かしたことにはなりません。
 そこで、さほど強い降りではないのを幸い、雨中の散歩としゃれ込んだのです。
 同じ雨の中を歩いていても、用事で渋々歩くのと自ら選んで歩くのとでは景色も違って見えます。重力に逆らった無謀な行為に過ぎない山登りが、登山の楽しみを知る人にとっては無上の楽しみであるのと同じことです。

 
             蓮根畑で見つけた新しい花

 いっそう青みを増し、逞しく育った稲田の傍らを行くと、ひと頃に比べるとかなり減ったとはいえ、あの毒々しいピンク色をしたジャンボ・タニシの卵が稲株にしがみついています。関西方面で食用にするために輸入され、その後放置されたというこの外来種のタニシは、いまや広範囲に生息圏を広め、在来種のタニシが絶滅したこの辺りにも幅をきかせています。しかし、それもまた、すこし触れたように2、3年前のピーク時に比べればかなり減少しているのです。

 ここで私たちは二重の気味悪さに遭遇します。それは、この外来種の繁殖そのものにまつわるものと、それをも駆逐する強力な薬が使われたのではないかという疑いとです。在来種のタニシが絶滅したように、あるいはイナゴが絶滅したように、はたまた、アメリカザリガニすら姿を見せなくなったように、蛙が減少し、とりわけ殿様蛙などまったく見かけなくなったように・・・。
 小動物を絶滅させる力は今のところ私たちには「無害」であるとしても、その力の蓄積は何らかの形で人類そのものを襲うのではないでしょうか。

 
             ハスの葉に可愛い水溜まりが

 そこには、自然を人間に役立つ原材料としてのみ見て、それを力によってねじ伏せようとするある種の暴力があるように思います。その暴力は同時に、私たちの共同体を生産性向上のシステムとしてのみ捉え、その成員をないがしろにするものと共通していると思われるのです。例えばそれに、「近代合理主義」という名を冠することができるかも知れません。

 しかし、厄介なことに、それらは私たち人間の営みと離れたところからやって来たものではありません。むしろ、人間の(と一般化しないで私たちのというべきでしょう)あくなき欲望の拡大こそがその根底にあるのではないでしょうか。
 「食う寝るところ住むところ」という生物一般の「欲求」を越えて、「よりよく食い、よりよく着たり住んだりしたい」という人間の「欲望」こそがこの不気味さを生みだしてしまったのです。
 この「欲望」はつまり「生産力」として機能し、その拡大こそが至上なものとして、私たちの存在意義すら規定しています。

    
      小さな祠だが屋根が立派、一度、由来など調べなければ

 前世紀の「社会主義」の実験も、この「欲望=生産力」としての人類のありようを制御することはできませんでした。
 それは同時に、自分たちの未来を自分たちが制するという実験の失敗でもありました。

 雨の散歩はともすれば絶望的な響きをもたらします。
 しかし、と私は思うのです。
 この社会主義の実験も含め、私たちは私たちの未来を完全に制御することなどできないかも知れない、いやできないだろう、しかし、その成否をも含め公共の広場(ポリス)での開かれた人間の「活動」を通じて決して行く、それが人間的な営為ではないか、そう言い残したハンナ・アレントの言葉が耳に残るのです。


 
            底紅ではない白い木槿(ムクゲ)の花
 
 彼女は決して単なるオポチュニストではありませんでした。むしろ、ハイデガーなどとの交流を通じ、西欧哲学全般の帰結としての深いニヒリズムを自ら体得しつつ、さらにはその帰結としてのユダヤ人排除の危険に自ら身を晒しながら思索した結果としての人間の公共的あり方のイメージ、私はその思想を慈しむように想起します。
 それは安易なオポチュニズムやペシミズムではなく、人間が自分の未来を自ら決して行く理想的なありようを静かに指し示しているのみです。

 あ、私の雨中の散歩はとんでもなく飛躍したようですね。
 でも私は思うのです。
 人間が悧巧であれば未来は明るいというオポチュニズムや、何はどうあれ未来は暗いというペシミズムの安直な結論を縫って、そこでこそ思索しなければならないのだと・・・。
 それを教えてくれたのが私のお姉さん、ハンナ・アレントでした。
 雨はどこか懐かしい思いへと私を導くのです。


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真面目な梅雨と愚痴々々日記

2009-07-28 01:47:20 | よしなしごと
 今年の梅雨は真面目によく降ります。
 真面目すぎて各地に人命を含む被害をもたらしているのは困ったものです。
 物事には限度がありますから、真面目ならばいいというものではありません。

 私の地方も例外ではないのですが、幸いにも継続して降ることがないので、具体的な被害は免れています。一日に何度か、ドカドカッと降ってあとはだらんとした曇り空が延々と続くといった具合なのです。

 

 おかげで自転車に乗る機会がほとんどありません。途中で降られる可能性が極めて高いのです。自転車で行けるところへは自転車でというセオリーが大幅に狂っています。
 そのせいで運動不足となり、さらには私の体重の増加という結果を引き起こしています。
 この一週間ほどでおおよそ1.5キロも増えました。それでも、もともとスリムなせいで、いわゆる標準体重(身長ー100×0.9)をまだ4.5キロぐらい下回っています。

 

 最近なんだか疲れやすいので(むろん加齢に依るのですが)、この際すこし体重を増やそうかとも思いますが、かといってさほど食欲があるわけでもなく、運動しなければしないでストレスもたまりますから厄介なことです。

 これから月末にかけて、仕事関係やその他で、やらなければならないこと、読まなければならない本など山積しているのですが、どうもどこから手をつけていいものやらさっぱりはかどりません。

 

 机の上もゴチャゴチャ、パソコンの周りもわけが分からないものの散乱、誰か片付けに来てくれないかなぁ・・・、あ、ダメダメ、自分で片付けても何がどこにあるかさっぱり分からないのに、人様に片付けてもらったりしたらもう金輪際出ては来ません。
 
 これが年齢を重ねるということかなぁと、どんより垂れ下がった重々しい雲など眺めながら、同様に気を重くしています。

 なんかだらしのない愚痴ですね。
 コラッ、あんたもっとシャンとしなさい! いい年してからに・・・。
 だから・・・、そのいい年が問題なんですよ。


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【読書ノート】『 「女」が邪魔をする』

2009-07-27 00:14:01 | 書評
    大野左紀子 『「女」が邪魔をする』(光文社)

 『「女」が邪魔をする』とある。
 具体的に誰がどのように邪魔をされるのだろうか。
 主語である女に「」が付けられているのも要注意だ。

 などと構えて読み始めると大変そうなので、著者には申し訳ないが出来るだけさらっと読むことにした。
 実は、著者の本を読むのは三冊目なのだが、正直言ってこれが一番読みやすい。かといって、別に内容が簡単だというわけではない。
 
 ひとつにはこの書が、私自身が齢70を超えるにもかかわらず、また、私にはうかがい知れぬ現代の風俗から多くの題材が採られているにもかかわらず、私の中の「男」との相関関係のなかで読むことができるある種の普遍性を持っているということである(反面、私はまだ若いということの証左でもある)。
 いまひとつは、すでに述べたが、私などの情報網にひっかからない現代風俗の推移のようなものが生きた題材として提示され、そうか、あれはそういうことなのかと10年遅れの雑誌を大掃除の際見つけて拾い読みしているようではあれ、ある程度勉強が出来たということもある。
 しかまあ、それは副産物のようなものだからやはり冒頭の設問に戻らねばなるまい。

     

 具体的に邪魔をされているのは当事者である女であったり、あるいは、それに相当する「男」としての自己構築を迫られる男でもあるとも読めるだろう。
 ただし、ここには圧倒的な非対称性があり、見られ、鑑賞され、吟味される性としての女性側のハンディは否めないところがある。

 そうした「女」であることの問題が、一見風俗やファッションの話に絡みながらも、さらには結婚やきわめてドライな経済的収入の話にまで至って展開される。その意味ではこの書は観念的なそれではなく意外と堅実でさえある。

 私はこの本の実質的な終章は第九章(「女」はどこにもいない)だと思う。
 なぜなら、この章が「はじめに」で提起した「引き出しの中に入れたもの」に呼応しているからである。そしてまた、それまで縷々述べられてきた「女」が、歴史的に形成されてきた記号であること、しかもその記号は日々変動のうちにあり、なまじっかな啓蒙で開かれるような柔なものではないことがハッキリ述べられているからである。

 ボーボワールがその『第二の性』で、「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」と女性の生理的側面と記号的側面の乖離を説いてからちょうど六〇年、私たちはあの衝撃が少しも薄らいでいないことを知るのである。むろん、それを受けた女性自身の側の意識における変貌とその記述の進歩には格段のものがあるのだろうが。

 著書の結語部分に戻ろう。
 「女」というのが記号であり、それに擬態し演技している自分を意識し、それを取り除いたときに、そこには何があるのだろうか。引き出しに仕舞い込んだものを思いきって外気に曝すとき、そこには何が現出するのだろうか。
 著者はいう、それらは「女」の外部にある実体ではなく、「女」を生きることの限界としてのみ立ち現れるものなのだと。「女」の外部は、ノイジーな通奏低音のようなものとしてのみ立ち上がることができるのだと。

 ようするに、「女」そのものが記号としての属性を日々加えられるものとしてつかみどころのないものであり、したがってその「女」の外部も、「女」を生ききる営為の限界においてほの見えるものなのだというわけである。
 こうまとめてしまうと、それはただ、ぐるっと一回りしただけのようであるが、これを経由するかどうかは、女に付けられた「」を、可視として生きるか不可視のままに生きるかの違いではないかと思うのだ。

 最後に、私が並行して読んでいたある書から以下の部分を引用してお茶を濁すとしよう。
 
 <芸術、文体、真理の諸問題はしたがって、女性の問題から切り離すことはできないのだ。しかしこの共通の問題性をただ単に形成することは、「女性とは何か?」という問題を宙づりにしてしまう。人はもはや女性を、あるいは女性の女性性を、あるいは女性の性的素質(セクシュアリテ)を探求することはできない。例えそれらを探求せずにはいられないとしても、既成の概念の様式もしくは知の様式にしたがってそれらを見出すことは、少なくとも不可能である。>
 
 これは「ニーチェ・女性・真理」を副題とした『尖筆とエクリチュール』というフランスの哲学者の書の一文である。
 これに付け加えるならば、ニーチェは巷間、様々な叙述によって反ー女性主義として知られているが、彼がもっぱら非難したのは「女」として対象化されたそれであって、彼はどこかで、「女性というもの、女性自体の真理自体というのは存在しない」と述べている。

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私の友だちのアルカイダ氏を紹介します。

2009-07-26 02:05:14 | インポート
 「友だちの友だちはアルカイダ」と奇妙なカミングアウトをしてもほとんど問題にされなかった大臣がいましたが、あの人、もう一度赤絨毯を踏めるのでしょうか。最後に、郵政に関する保養所の件でお尻をお捲りになるというパフォーマンスをなさいましたので、それが票に繋がるかも知れませんね。

     
      まずはアルカイダさんと遭遇した会場の窓からの風景

 ここで私が紹介するのは「友だちの友だち・・・」といったわけの分からないアルカイダさんではありません。
 ずばり、私の知り合いで、しかも何を隠そう昨日、某M協会の納涼懇親パーティでお目にかかったアルカイダさんです。
 場所柄、戦闘服ではありませんでしたが、由緒正しいアラブの衣装で登場されました。
 たぶん、ビン・ラディン氏の名代だと思うのですが、ラディン氏に比べれば眼光も穏やかで、口調も優しい方でした。

 
             なにやら歓談中の様子

 なんといっても関心は今後のテロルのご予定です。
 私は率直に尋ねました。
 氏は、日本では選挙以後の情勢を見てからとのことでした。
 「そうするとどちらか勝つと可能性があるのでしょうか?」
 と、尋ねる私に、
 「どちらというより、結果として事態が閉塞的になった場合です。とりわけ私は、多党制が好きなので、二大政党制という名の下に国民にとって事実上の選択肢がなくなり、事態が固定化した場合には・・・」
 と、そこまで聞いたとき、やはり別のアルカイダのお友達が、<音楽評論におけるアルカイダ氏の立場について>という話を持ってきて具体的なテロルの日程を聞き出すことは出来ませんでした。

 
      「D」は Demon の D か Demonstration の D か?

 なお、このアルカイダ氏については、公安当局や警察庁もほとんど正体を掌握していないと思いますが、ここに掲載した写真以上の情報が必要な場合には私に連絡をして下さい。金額さえ折り合えば詳細な情報を売ります。
 はした金ではだめですよ。どっさり裏金があるはず、それらのなかから機密費ということでせめて億単位の支払いを要求いたします。

 なお、これでアルカイダ氏の一人の面が割れたとして、戦前の治安維持法で行われた、何かの際の事前拘束、予備逮捕、ないしは別件逮捕は許しませんよ。
 このアルカイダ氏はお友達ですから、知り合いの弁護士などを動員して、彼の人権を守る所存です。

    
     手にされているのは火炎瓶などではなく単なる飲料水です。

 アルカイダ氏は酒類を口になさいませんが、納涼パーティの各テーブルを巡回なさって、楽しいお話しを繰り広げていらっしゃいました。

「あるかいだし」と入力すると「ある買い出し」と変換されてしまう。
  戦後の「買い出し」を経験した私の意識が、ATOKにしみついているのだろうか。









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見ている少女

2009-07-24 17:38:38 | ポエムのようなもの
   

           見ている少女

         私 ほんとうは見ている側なのに
         見られてしまうこともあるみたい
         でも たしかに見たの
         私が私を見ているのを

         私と私の視線はいつも微妙にずれて
         火花を散らしたりはしないみたいね

         こうして逸れてしまった視線は
         いったい どこへ行くのかしら
         緩やかに飛翔する放物線の先に
         視線を集めた墓場があるそうよ

         そこには見えなかったものや
         不本意に見えてしまったもの
         それらがごちゃ混ぜになって
         崩れ落ちる予兆に支配された
         不透明な塔がそびえているの

         闇がやってくるみたい
         私には見えるんだもの
         その闇の端正な輪郭が

         その闇の端っこの方で
         やはり私は見ているの
         私を見ている私の視線のおぞましい暗紅色の 
         すこし捻れた 古びた洗面器のような輝きを

         だから私は見ると見られるの
         引っ張りっこの真ん中にいて
         なるべく公正に叫んでいるの
         赤勝て! 白勝て!
 
         え? 私はどっちの側かですって?
         そんなの始めから決まっているわ。
         引っ張りっこに勝った方じゃない。
 
 





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居酒屋の夢を今も見ます。かなりリアルに・・・

2009-07-23 04:27:58 | 想い出を掘り起こす
 今なお、飲食店をやっていた頃の夢を見ます。
 昨夜も見ました。
 もう閉店してから10年が経つというのにです。
 まあ、未だに宿題が間に合わないという子供の頃の夢も見るのですから、10年前はありえますよね。

 なぜこんなことを書くかというと、昨夜の夢は幾分違っていたからです。
 飲食店時代についてのこれまでの夢というのは、作った料理が客のところへ届いていない、慌てて作るのだがそれも届かない、さらに作り直そうとするのだが素材や調味料が足りない、若い衆を買いにやらせるのだが帰ってこない・・・、あるいは、レジを打っているのだがなかなか計算が合わない、合ったと思っても顧客からクレームがあり打ち直すと違っている、さらに打ち直すとまた違っている、気がつくとレジにはずら~っと顧客が待っている・・・とそんなのばかりでした。

 目覚めると不快感が残るような、ようするに悪夢が多かったのです。
 しかし、昨夜の夢は違っていました。

 

 夢の状況は明るいイメージの店への改装を果たしたその当日のようです(私の店は照明は明るかったのですが幾分黒っぽい感じの店でした)。
 早くから馴染みの客が来てくれています。
 私のところへ握手をしに来てくれる人もいます。
 ガールフレンドがお祝いの花を持ってきてくれました。
 「あまり大きな花だと邪魔になるからと思って・・・」といって、小ぶりのミニバラかなんかの鉢植えを持ってきてくれました。
 彼女を席へ案内し、カウンターにその鉢を飾りました。

 飲食店時代の実際の私は、焼き方として焼き物を担当しながら店全体を眺めていたのですが、夢のなかでは店主でありフロアーの責任者でした。
 突然、常連の顧客から、「マスター、今日のお勧めはなんだい」と訊かれました。
 「しまった」と思いました。
 いつも、「今週のお勧め」と「今日のお勧め」を店内に明示するのに、改装オープンの忙しさに紛れそれが出来ていなかったのです。

 早速、板長のところへ行って、「今日は何を勧めたらいい?」と尋ねました。板長は恰幅のいい割烹料理店上がりのひとです。「そうですね。今日は甲烏賊(こういか)のいいのが入りましたからそれで行きましょう。刺しはもちろん焼きや揚げ物もいけますよ」とのこと。

 おう、それはいいというので早速店内表示をと思い墨や筆を用意しようとしました。
 そのとき、フロントの女の人から「マスター、お客さんです」と声がかかったのです。
 変な話ですが、そうして声がかかるのは「顧客ではないお客さん」なのです。
 顧客ならわざわざ「お客さんです」などは必要なく、「いらっしゃいませ~」でいいのですから。

 

 慌てて入り口へ向かうと、そこには品のいいおばさん(今の私よりは遙かに若い人なんですが、夢のなかでは年上のひとなのです)がにこやかに立っています。
 この辺が夢らしいのですが、初対面にもかかわらず、私はこの人が誰なのかすぐに分かりました。
 彼女は、さっき述べた板長のサブ、つまり板場の「二番」の母親なのでした。

 「いつもうちの息子がお世話になりまして」と母親。
 私はその母の手を取るようにしてその息子が働いている辺りのカウンターに案内しました。
 私の店はオープンキッチンで、調理師と顧客の垣根はなかったのです。
 息子の二番は、腕はまだまだでしたが、人柄がよくスタッフからも顧客からも可愛がられていました。
 その息子が、「なんで来たんだよー」と生意気な口をききます。

 「バカ、そんなこと言ってる暇があったらお袋に巧いものを食わせてやれ」と私。
 二番は照れたように笑って、「へい」と返事を返します。
 フロントの責任者でレジも担当している女性を呼んで、お袋さんの伝票について指示をしました。
 無料にしては彼女のプライドを傷つけるし、もう来てはくれないだろう。
 かといって正規の値段をもらうわけには行かない。
 だから、「何がどれだけ出ても2千円をもらっておけ、それでは少ないといわれたら、今日は改装記念のサービスディですと答えておきなさい」と指示を出しました。

 そしてネタケースのところを通りかかると、先ほど板長のいった甲烏賊が美味そうに光っています。
 あ、まだ、これを店内表示していなかった、しなければ…というところで目覚めました。

 こうして改めて書くとなんだか他愛ない夢ですね。
 でも目覚めたとき、いつもの悪夢からの目覚めと違って、なんだか少し自分の人生が肯定されたかのような気分になったのです。
 もちろん、実際に店をやっていた頃はこんなに調子のよいものではありませんでした。
 自分の醜いところもすべて露呈してただ懸命にやって来ました。
 顧客とも喧嘩をしましたし、私を怨んでいる従業員だっていると思います。

    

 夢は、その見ている過程ですでにして「加工」が施されるといいます。そしてまた、それを想起するとき、第二次の加工があるといいます。さらにそれをこうして記述するときには第三の加工が施されているのかも知れません。

 でも、それを含めてこれは私が自分の店についてこれまで見た夢のなかで一番いいものなのです。
 そうした加工を施してはじめて自分の過去を受け入れることが出来る私自身の弱さかも知れません。ようするに、そうしたありようを肯定ではないにしても「さもありなん」として許容したがる自分がいるのです。

 本当にとりとめのない話になってしまいました。
 読んでくれたひと申しわけありません。
 書く前から、起承転結など全くないままに書いてきてこうなりました。
 お許し下さい。

 

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バンザイで蜘蛛の子散らす永田町

2009-07-21 16:21:04 | 社会評論
 TVから時ならぬ「バンザイ!」の声が聞こえました。
 衆議院の解散だそうです。

 なぜ、それが「バンザイ!」なのかはいまだによく分からないのですが、戦後21回目の解散、かくいう私も年の功で何回ものこうしたバンザイを聞いてはきました。
 バンザイをしている人たちも複雑なのでしょうね。
 とりわけ自民党にとっては今回の解散は険しいもので、神風でも吹かない限り大幅な減少と政権党からの脱落がかなり濃厚だからです。
 ですから、やけくそ解散、玉砕解散などともいわれたりしています。

       

 その中でも事情はそれぞれあってさらに複雑なのでしょう。
 選挙基盤が強固で、「どっこいそれでも生き残る」というひともいれば、それが心許なく、もはや二度と赤絨毯を踏めない人たちもいるからです。
 いずれにしても「議員と物乞いは三日やったら辞められぬ」という甘い蜜を吸ってきた身としては、その去就に万感の思いを込めてバンザイを叫んだことでしょう。

 そうそう、かつて我が郷土が生みだした怪物議員の大野伴睦という人は、「猿は木から落ちても猿だが、政治家は選挙で落ちれば政治家ではなくなる」という名言を吐露していますが、今回は猿・・・いや政治家ではなくなるひとがたくさん出るのでしょうね。

 政権交代、政権交代といったって、さほど期待が持てるものではないし、まあ、同じ穴の狢のようではないかという声が聞こえてきます。
 こうした声には二通りあって、ひとつは自公も、そして民主も信頼できないとして、その他の党を推す人たちです。さらにひとつはそもそも政治になんて何が出来るかという幾分ニヒルな立場です。

 なるほどとも思えるのですが、そしてまた、政権交代というものに過度の期待を持ちえないのではとも思うのですが、しかし、政権交代してみることそれ自体に意義があるように思います。民意によって政権の形を変えることが出来るということが必要なのだと思います。
 それが主権在民、民主主義の基礎だからです。
 戦後六〇数年、駆け引きによる野合のようなものやまったく奇天烈な大連立というものがありましたが、明確な民意による政権の交代というものをこの国はほとんど経験していません。

     

 ですから、あれかこれかの固定したものに縛られるのではなく、タックス・ペイアーにそれをちゃんと還元してくれる政治の形をドンドン追い求めるということが必要だと思うのです。その意味では今回の解散の意義は、戦後ほとんど固定してきた政権党を中心とした政・官・財のありようを流動化させる端緒を切り開くものでもあると思います。

 選挙後の政界再編も十分予想されますし、それも視野に入れてです。

 本当のことをいうと私自身はこのレベルの「政治」への関心は希薄だったのですが、今回はじっくり見てみようと思います。

 

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私のツール・ド・フランスと川柳もどき

2009-07-19 17:57:52 | ポエムのようなもの
 かんかん照りでしたが、ここんところ運動不足でしたので、自転車で母の病院へ出かけました。帽子を目深にかぶった怪しい自転車爺さんの出動です。

 ゆっくりで20分、慌てても15分ぐらいかかります。
 途中から、怪しげで生ぬるい風が吹き始めました。
 病院へ着いた頃にはあれほど日が照っていたのに、どんよりとし始めました。
 おまけに遠くからですが雷鳴が聞こえます。
 怪しい風もどんどん強くなってきます。

 これはまずい、夕立の襲来の予兆が完全に揃ったのです。
 帰りのずぶ濡れもありますが、より心配なのは二階の窓という窓をあけっぱなしにしてきたことです。
 家人も出かけていません。
 実は先般も同じ失敗をし、その折りは家人が在宅だったため、二階の廊下を少し濡らすという最小限の被害で助かったのでした。

  
 
 母の病室に駆け上がりました。おかげで小康状態です。
 たぶん分かってはいない母に、それでも言い訳をしました。
 「雷が来そうだから来たばかりで悪いけど帰るね」
 「ううう・・・」
 「ゴメンね」
 今までこんなに短時間で帰ったことはありません。

 病院を出ると西の空が真っ黒です。
 怪しげな風もいっそう強くなっていました。
 ツール・ド・フランスもかくやとばかり必死でペダルを漕ぎます。
 なんか面白いものがあったらカメラに収めてなどと思って出かけたのですがそれどころではありません。

 とりあえず帰宅まではセーフでした。
 雨にではなく汗にぬれたゴールでした。
 風は強まり、近くの田圃では稲が波打って揺れています。
 しかしもう余裕です。さあ来い、と身構えていました。

  

 来ました!
 しかしなんと、ほんのお義理ほどにパラパラとしたのみでした。
 これは第一陣でこれからだと思いました。
 しかし、「これっきり、これっきり、これっきり~ですよ~」でまた空が明るくなりました。
 ようするに、この辺にも少し撒いておこうかといったぐらいの気まぐれな雨なのでした。
 なんたるチア!惨たるチア!

 先ほどまでは「降るな、降るな」と祈っていたのに、今は「なぜ降らないんだ、このペテン師が」と空を見上げて罵っているのですから勝手なものですね。

 と、ここまで書いていたら、雷雨ほど激しくはないのですがパラパラと雨が落ち始めました。
 少し溜飲を下げた私なのでした。


【引く】
 引くものがない引き算をなおも引く
 地平線水平線を引き直す
 身を引いた分だけ潮が満ちてくる
 猫を引く皿引くそして吾も引く
*
  (*正しくは「猫を追うより皿を引け」)

<番外>
 また一人アドレスブックに線を引く

【昼】
 真っ昼間私の影が逃げまどう
 常識がピリオドを打つ白昼夢
 真昼にヤー ニーチェの髭の密なこと
 けらけらとやたら笑って捨てる昼


【鍵】
 鍵穴を抜けた光の粒子たち
 その昔もってた世界を開く鍵
 歪んでる鍵だからあく部屋に住む
 鍵穴がない鍵だけど捨てられぬ
  


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「フリーター薫」君の本を読みました。

2009-07-17 18:03:40 | 書評
 ネットで知り合った人がスカウトというかプロデュースという形で関わり合った新刊書を頂きました。
 『どうして僕には仕事がないんだろう』フリーター薫著 徳間書店刊 がその書です。
 
 書の帯にはこうあります。
 「派遣、コンビニ、ネットカフェ。
  頑張って仕事をしても、年収はいつも200万円以下。
  おまけに、一人暮らしでうつ病に・・・・・。
  このボクに社会復帰の日は来るのだろうか。
  他人事とは思えない、リアルエッセイ!」


 とはいえ、とりあえずは他人事でしかありません。
 私が働いていた頃とは時代が違うし、とりわけ人が働くという形が大きく変わってしまった時代の話だからです。
 私のような、終身雇用の年功序列を基本とした(とはいえ、それは大まかな建て前に過ぎなかったのですが)労働形態とは異なったものがそこにはあります。こうしていつの間にか変貌していた雇用形態が問題として噴出したのはつい先頃のことなのです。

 

 日本の労働者のありようはいつの間にか使い捨ての消耗品と化していたのでした。
 それまであった資本対労働のある種の対称性(それ自身が見せかけであったのですが、一応形はなしていました)は大きく変動し、まったく非対称に、資本の側の恣意のままに、必要に応じて集め、必要がなくなれば放り出すという原則が確立してしまっていたのです。
 これらが、規制緩和という名のもとに行われた派遣法のなし崩し的改悪によってもたらされたものであることはこの間の事態があからさまに証明しています。それらは、法的に醸成された差別や権利制限の問題であるのですが、それを棚上げして、放り出された労働者の「自己責任」として片付けられようとしているのです。
 この書は、それをあからさまに、あるいは声高に告発するものではありません。むしろ、それをおのれの問題として引き受けながら、そのおのれとおのれの置かれた状況とを冷徹なほどの視線で見つめ綴ったものなのです。

 だから読み手の私たちは、彼がどのようにしてそこにいるのか、そしてそれは、巷間にいわれている「自己責任」をどれほど孕むものかを念頭に置きながら読むこととなります。

 

 書き出しから読み進めると、彼は実は気配りが効き、事物を客観的に見ることが出来るバランス感覚をもった青年であることが分かります。
 しかし、その彼が中途から次第に怪しくなり、うつ病と認定される辺りから様相は一変します。私などは、その病因そのものがあるプロバイダーのコールセンターで、オペレーターとして働くうちに蓄積されたストレスの横溢であるように思うのですが、即断は避けましょう。
 「プロバイダーのコールセンターでのオペレーター」などと横文字が並ぶと、一昔前の私ならなんとかっこいい職種だろうと思ってしまうのですが、ようするにパソコンに振り回されたユーザーたちの鬱憤の捨て所であったり、クレーマーたちの優越感の発露の場であったり、さらには彼の任務とはまったく関係のない言いがかりや不定愁訴の場であったりするわけです。
 しかし、お客様は神様、それへの反抗は許されません。自虐的なほど丁重に応答しなければならないのです。

 どんな理由でうつ病になったにしろ、企業にとってはそれは「自己責任」ですから、ていよく放り出すことが管理者たる者の責任であります。
 社会的なセーフティネットも、彼の必死の要請にもかかわらず、それを救い上げる機能を持ってはいませんでした。
 働くことも出来ず、世間からも疎まれ、当然のこととして金もなくなれば引きこもるしかありませんし、事実、彼もそうなるのです。
 世間にはこうした人々が増加しています。こうして肉体的に、あるいは精神的に病む人や、貧困へと追い込まれる人たちのひとつの到達点が、年間三万人を超える自殺者の一角を占めることはいうまでもありません。自殺者には数えられない野垂れ死にも同様な問題に起因する場合が多いのです。

 
 
 そうした彼が、一応はそこから抜け出ることが出来たのは、自己やその周辺を冷徹に見つめ、それを記述するという自己客観化の術を身に付けていたからではないかと思います。

 次いで彼は、ネットカフェで働くことになるのですが、私などにとっては得体の知れない空間であるこの場所で、日々なにが起こっているのかがうかがい知れて興味津々というより、こうした空間を生みだしている時代の不気味さをつい思ってしまうのです。
 その意味ではこの書は、オペレーターやネットカフェ、あるいはコンビニの風俗を通じて透けて見える私たちの時代を一面から照射しているといえます。
 なお、時々出てくるお袋さんが面白く、お節介で唐突な彼女ではありますが、そこには少なくとも彼を、交換可能な個としては見ていないまなざしがあるように思うのです。
 
 「自己責任」の問題に戻りましょう。これらを通読して、なお著者の個性から発するわがままではないかと思うむきもあるでしょう。確かにそこから抜け出して「正規の」働き手になった人たちもいます(それとてリストラから自由であるわけではないのですが)。しかし、現代は、というより現代の企業は、彼のような不正規な存在を必要とし、働き手のうち何割かの人たちは彼と同様の境遇たらざるを得ないようになっているのです。
 それを法的に規定しているのが、先に見た規制緩和による派遣法の無限ともいえる拡大なのでした。

 彼自身が正規の労働者として働くことを忌避しているわけではありません。この書の冒頭は以下のようにして始まるのです。
 「『ボクは社会や組織の歯車にはなりたくないんですよ』なんてことを言うヤツがいたら、長い棒きれを振り回してどこまでも追いかけまわしてやりたい。
 この若造が、未成年が、何を言いやがる、という気持ちになる。うん年前、大学を卒業した頃の自分もまさにそんな若造で、できることならタイムマシーンにでも乗って追いかけまわしに行きたい。」


    

 ここからは私見ですが、よくいわれているように現代は、一人一人が家族や地域共同体、そして本来は共同作業の筈の職場においてすらも切り離された個としてあります。これが「自己責任」の土俵ですが、さらにはこの個への分割は、「そう、世の中にはいろんな人がいてそれぞれが自由なんだよね」という口当たりのいい他者理解の言葉として表れたりもします。
 しかし、この一見すると他者の承認のように見える立場は、決して他者の他者性のようなものへの許容を含んではいないのです。むしろ逆に、他者からの連鎖を解かれた自分を防衛し、他者を突き放す役割を果たしているに過ぎません。

 そして、こうした「私は私、他人は他人」という一見開かれたもの言いが、実はもっとも閉鎖的なそれであり、それら砂のような群衆を適度に取り集め、必要な機能のみを取りだし、不要なものはあっさりと投げ捨てる現在の産業構造への拝跪や隷属の背景をなしているのです。

 私たちはこの寂寞とした世界で、どのように連帯を築くことが出来るのでしょうか。

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花の命は短くて・・・あっと驚く為六郎

2009-07-16 03:52:01 | 花便り&花をめぐって
 最初に、オヤこんなところに蓮の畑がと思ったのが6月の28日でした。
 それ以来時折覗いたのですがさしたる変化はありませんでした。

 

 そして7月9日、ついに蕾をひとつ見つけました。
 その折り、重なる葉の陰で、すでに花開いていたものもありました。
 その蕾の有様ですが、もう今にも花開かんとする風情でしたので、その後も折りに触れて通りかかり見続けたのですが、少しずつ蕾は大きくなっている様子は見えるものの、なかなか開花しませんでした。
 13日もそうでした。

    
 
 しかし、14日、ついにそれ花開く時を迎えたのです。
 全体にピンク色なのですが、花弁の先ほど色濃く、その淡いグラデーションが微妙なアクセントをもたらしています。
 しかし、写真で見るように、まだたなごころを丸めたぐらいで、明日にはさらに艶然と開くのではないかと期待させるものがありました。

    

 そこで15日、期待を抱きながら何度目かの訪問をしました。
 そして驚きました。
 花弁一枚残さず完全に散って、その跡にはこの植物の名前の由来になったという蜂の巣(はちす→はす)のような果実の部分が残されているのみなのです。昨日からのほぼ24時間、激しい風雨などはありませんでした。
 つまり蓮の花は開花して一日の寿命しかないのです。

    

 この辺りは湿地帯でもないので蓮根畑もほとんどありませんが(現に、私が目撃しているのも畑の中にやや唐突にある蓮根畑なのです)、加えて、これほど寿命が短いがゆえに、この花を目撃する機会が少ないのかも知れません。

 まあ、散ったものは仕方がないにしても、幾分哀れを誘うのは、その散った残骸がまるで証拠品のように残されていることでした。
 一番下の写真をご覧下さい。
 左下の最寄りの葉に白く積み重なったもの、これこそ昨日はピンクに輝いていたあの花弁たちの終焉の姿なのです。

    

 標題にした「花の命は短くて・・・」というのはある程度年配の方はご存じだと思いますが、作家・林芙美子の『浮雲』の中の言葉で、「花の命は短くて苦しきことのみ多かりき」と続きます。
 これだけを見ると、何となくロマンチックな感じで、事実、この言葉だけが一人歩きすることが多いのですが、彼女自身は決して一筋縄では行かない人で、ドストエフスキーを結構読み込んでいたりするようです。

 私のもっている1937年発刊の「林芙美子選集・第五巻」(改造社)の彼女の後書きは、こんな引用によって括られています。
 「世世常住なるは流転のみだ 生は死にいたる永劫の出血である(ビヨルネ)」
 なお、このビヨルネという人はいろいろ検索してもよく分かりませんでした。
 おそらく、70年ほど前には、書を読むひとには知られていたのかも知れません。

 私がこの本にこだわるのは、それが林芙美子の直筆サイン入りだからです。
 森 光子さんが大奮闘をして芝居の方は大受けですが、それを契機に林 芙美子ブームが起きないだろうかと密かに期待しているのです。そしたらこの本をお宝鑑定団に出して・・・。

 あ、私ってやはり文学とは無縁のようですね。
コメント (2)
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