六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

アーティストみんなでなれば恐くない

2008-02-28 03:35:48 | 書評
 以下は、私の若い友人、大野左紀子さんの近著に対する感想文である。
 
 『アーティスト症候群 アートと職人、クリエーターと芸能人』 (明治書院)

            

 著者を簡単に紹介しておくと、実は高校生の時に会った事があるのだがその経緯は省略するとして、いわゆる成人して会ったときには彼女はまさしくアーティストであった。自分も作品を発表し、ある塾で若いアーティスト志望者たちに教えてもいた。
 新聞紙上などでも若手アーティストとして取り上げられ、物好きな私は、その個展を覗きに行った事がある。
 
 その彼女が、数年前、そのアーティスト生活から足を洗ったのだ。
 どんな経緯かなぁと思っていたらこの本が出た。いわば、彼女のアーティストからの決別宣言のようなものだ。

 一方、世の中を見渡すとどこもかしこもアーティストだらけである。
 ジャリタレがいつの間にかアーティストと呼ばれ、役者や歌手、お笑い芸人がやはりアーティストと称賛される。
 これにクリエーターという呼び方も加えると、まさにゴマンではきかないほどである。10個石を投げればそのうち半分はそれらに当たりそうな勢いである。

 それではそうしたアーティストやクリエーターとは何者で、どんな人たちなのかという、私のような素人に澱のように溜まっている疑問に迫ってくれるのがこの本である。

 前半、世に氾濫するアーティスト、ないしはまさにその症候群に言及する彼女の舌鋒は鋭く面白い。
 面白さのひとつは、アーティスト流行りの現状に対する著者の批判(悪口)にある。この人の悪口は巧い。ツツツツーと対象に近寄り、それをパッチンと叩いて戻ってくる、いわば、ヒット・アンド・アウエイの面白さである。
 悪口のいい方が面白いだけではない。その内容が、私のような素人が、何だか違和感があるけどそれを正面切っていえないしなぁと口籠もっていた事柄を、極めて痛快にしかも適切に暴いてみせるからである。だから、それを読むと、ア、そうなんだ、それが私の違和感の中味だったのだと納得できてしまうのだ。

 
   もちろん、これはアートではありません。キッズソフトでも描ける落書きです。

 
 しかし、これは主として前半の叙述に関してである。
 後半、アートという世界の現場から内在的に解きあかされる事柄と、それに対峙しながらその「水路」を離れるに至る著者の決意の瞬間は、地味だけれどこの書の中心をなすものである。
 
 しかしそこで語られている問題は、いわゆるアートの世界の固有の問題ではないような気もする。アートの世界では、著者が明らかにしたようにもはやアップアップの状態であるのかもしれない。
 しかし、表象の世界は広い。何か、物的対象を用いた表現であれ、言葉の戯れであれ、自分自身の立ち居振る舞いであれ、私たちは、常に既にそうした表出の世界で生きている。
 そして、それへの自己言及的な配慮は、なにがしかのスノビズムを含みながら、狭義のアートに似た状況下にあるともいえるのではないだろうか。
 著者のこの本自体がその一環としての新たな表出であることは疑いえないように思う。
 
 以上が私の感想である。
 言い添えるなら、私は今のところ二足歩行が可能だが、それが怪しくなってヨイヨイになったら絵でも描こうかと思っている。
 絵画に生涯を賭けたアーティストからは噛み殺されそうな言い分だが、安心して欲しい、決して「アーティスト」と名乗る事はないだろうから。

 いささか固い事を書いてきたが、著者の叙述がいかにユニークで面白いかを目次によって示しておこう。

   *はじめに  一枚のチラシから
   *美術家からアーティストへ
   *アーティストだらけの音楽シーン
   *芸能人アーティスト
   *「たけしの誰でもピカソ」と「開運!なんでも鑑定団」
   *職人とクリエーター
   *「美」の職人アーティストたち
   *私もアーティストだった
   *「アーティストになりたい」というココロ
   *あとがき

 





 
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父が遺した季節感

2008-02-27 01:55:31 | 想い出を掘り起こす
 私には戦死した父と育ててくれた養父の二人の父がいると度々書いてきたが、これは養父の方の話である。もう十数年前に他界したが、生きていればちょうど百歳である。
 
 私が養父から引き継いだというと大げさになるが、貰ったりしたものに若干の植物がある。
 そのひとつは結構大きい南天であるが、実家の改築の際、邪魔になるというので貰ってきて私のところへ植えた。細い少しカールしたような葉の珍しい南天で、白い花を付けたり赤い実がなったりはするものの、季節感を感じさせるほど派手ではない。

 
          このカタバミは去年撮したもの

 もう一つはカタバミの花だが、養父はそれを「サクラソウ」だといって持ってきた。確かに花の形状も似ているのでずっとそう信じてきたのだが、一度、日記にして自分のページに載せたところ、かなりの人から訂正のコメントを貰ってはじめてそれがカタバミである事を知った。
 これはこの時期、まだ早いのだが、もう一ヵ月もしたらあちこちで花を咲かすだろう。
 というのは、あまり庭というものを管理していないので、彼らはあちこちに住みやすそうなところを見付けては勝手に増殖しているからだ。

 
           まず二輪、だが次々と続きそう

 最後がここに載せた紅梅の鉢である。
 二月も終わりだというのに雪に見舞われている昨今だが、それにもめげず、先発隊としてまず二輪ほどが開いた。
 冬から春への先駆けとして咲くせいもあって、亡父の遺したもののうちでは、これに一番季節感を覚える。

 柳行李ひとつをもって雪深い田舎から材木屋に丁稚奉公に来て、やっと年季明けで自分の店を持った途端に戦争にとられ、敗戦時は満州のハルビンにいたせいで、そのままソ連軍にシベリアへ連れて行かれ、四年間の収容所暮らしと重労働、体がガタガタになって帰ってきてからも商売一筋であった父、材木を外から見ただけで中の木目の模様からどこにどんな節があるかが分かる、それについてはどこの大学教授よりも確かだと自慢していた父、私が15才になったとき「昔でいえば元服だ」といって酒を飲ませようとし母に叱られていた父、そんな父が花や植物を愛でる余裕を持っていた事にホッとしたものを覚える。

 
   梅の花芯はすこしエロティック。そういえば花はエロスの器官だった

 酒を飲む以外、父からなにも受け継がなかった不孝者ではあるが、こうして紅梅の前に立つと様々な思いが去来する。
 私がいうのもなんだが、父は高等小学校しか出ていなかったが実に利発であった。あの利発さは、なまじっか本を読んだりしたぐらいでは越えられないだろうと思う。

 そんな私の感傷をよそに、梅はただ、なぜなぜなしにその花を開き続けようとしている。




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「真」を「写す」のだろうか、写真は?

2008-02-25 01:15:12 | よしなしごと
 下手の横好きで写真を撮るのが好きです。
 狙ったものが狙ったように撮れたり、意外に面白く撮れたりすると嬉しくなります。
 
 考えてみれば、「写真」という言い方は外来語(フォトグラフやピクチャー)の翻訳としてはかなり特殊だと思います。「真を写す」ということですが、原語にはそうした意味合いはないのではないでしょうか。
 この場合の「真」とは何でしょうか。それまでの絵画表現などに対して、遠近法や陰影のそれにおいてより「真」に近いということなのでしょうか。

 

 しかし、工学的に表現されたそれは、本当に「真」なのでしょうか。
 私たちの視線やものを観る見方は、決して写真のようではありません。
 まあ、言ってみれば、自動車教習所でよく見せられる運転中の視線の動きのように、それは常に何かを巡って移動していて、写真のように風景が一挙に与えられるわけではないのです。
 ようするに、写真のように視界にあるものをすべてを平等に写し取っているのではなく、そこにある志向や関心の向くところによって、常に視線や視野が揺れ動いているといえます。

 だから私たちは、視界の範囲内にある見たものを、すべて記憶の像として残すことは出来ません。写真のようにはです。例え視界のど真ん中に大きくあるものでも、私たちの志向や関心から外れたものは、写らないというか記憶から欠落してしまいます。

 したがって、工学的に固定された写真を「真」の像とすることは、私たちの視線や視界から言えば逆にリアルではないことになります。
 また、ある意味では、写真の方が対象を捉えるに優れているとはかならずしも言えないのです。写真が二次元的な画像として表面のみを示すに対し、私たちが実際に観るときには、写真では見えないその裏側も含めて見ていることがあります。また、忠実な遠近法では遠方に小さくしか写らないものを、近くに引き寄せて見ることもできます。

 

 要するに、工学的写真といえども、レンズやフィルム、現像液や印画紙というものに媒介された「ひとつの」視野、視線であることには変わりないのであり、近代の一時期に現れた景観の摂取の一方法に過ぎないのです(デジもその応用)。

 問題は、そうしたフォトグラフィやピクチャーという言葉が、なぜ「写真」、つまり「真を写す」と訳されたかです。
 そこにはおそらく、私たちのリアルな見るという行為では、常に揺れ動き、定かではない視野や見え方の背後に、本当の景観というものが厳然としてあり、それが工学的に反映されるものとしての写真なのであって、私たちのリアルな視野や視線は、それからの逸脱やバリエーションに過ぎないという考え方があるのでしょう。
 私たちの具体的な視野(=現象・見えるもの・現れ)を超えたところにほんとう(本質・真)の景観(写真)が厳然としてあると主張しているという意味で、ある種の形而上学にも通じる気がします。

 


 しかし、だからといって写真の機能を貶めているわけでは決してありません。
 その記録性は極めて優れていますし、いわゆる記念写真などはいかにキッチュであれ、その場のアウラを写し取ったものとして残ります。
 そしてまた、人間の視野や視線とのこの違いこそが、写真を絵画とは違った芸術へと開くものでもあるように思います。
 写真は、絵画に対して「真」なのではなく、新しい「もの」や「こと」への視線を生み出すことによって新たな「リアル」を開示したともいえるでしょう。
 
 などということをボンヤリ考えながら、今日もまた、カメラを手に、なんか面白いものはないかとキョロキョロする私なのです。

      写真はそれぞれ、昨日の岐阜の雪景色。



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百均の優れものと中国製品・2

2008-02-20 03:44:39 | 社会評論
 食を中心に従前からくすぶっていた中国製品に関する問題がいっそう注目を集めている。当然であろう。
 ただし、親中派であれ嫌中派であれ、この問題に政治的バイアスをかけて論ずることは現実性を欠いた無効な言説に過ぎないであろう。

 例えば、この問題を正面から取り上げることを抑制しようとする親中的態度があるとしたら、それはひいきの引き倒しというものである。
 何よりも、具体的に犠牲者が出ていること、今後ともその可能性があることを無視することは許されない。

 逆に、これをもって鬼の首をとったように言い立てる嫌中的態度も解せない。中には、まるで、犠牲者が出たことを喜んでいるような言説すらある。また、これをもって中国製品のボイコットを呼びかけるのも早急というべきだろう。

 この二つの言い分は、基本的なところを見落としている。
 それは、日本の食糧自給率が40%を切っていること、食材輸入量のうち30%以上を中国に依存しているという現実である。
 そして後述するように、その様相が基本的に変わらないとしたら、この二つの言説はともに現実逃避であり、問題と正面から向き合っていないというべきであろう。

    

 中国の食材を避けたいと思うのはもちろん理解できる。そして、実は親中派の人たちにもそうしている人が結構多いはずなのだ(逆に嫌中派でありながらそれに無神経で、現実には消費している人もいるはずだ)。
 しかしながら、中国製品のボイコットには現実性がないし、そればかりか不可能ですらあり、むしろ困るのはこちらの方だということだ。

 先に、食の自給率について述べたが、今度は外食率についてみてみよう。これが30%を超えていて、私たちの生活スタイルの変化などによりいっそうその率が高まる可能性が指摘されている。
 ということは、私たちがいくら自分で買うものから中国製品を外しても、それを口にする機会はいくらでもあるということだ。

 各種大手の外食産業は、当初こそ、「中国製品は使用しません」と大見得を切っていたが、「すかいらーく」をはじめ、各チェーンが続々と使用を再開しつつある。おおかたの社員食堂などでもそうである。スーパー銭湯の軽食部門なども、もともとそれなくしてはやってゆけないコスト構成なのだ(私はその現場にいたことがある)。
 要するに、コスト面で中国製品の使用は半ば前提となってしまっているのだ。原油高や穀物高が続く中で、この上、安い中国の製品を仕入れリストから外すわけにはゆかないのだ。

 それでは危険承知でそれらを食えというのかと追求されそうだが、前提になっている現実は、自給自足によるものやお墨付き国産品のみを用いた自炊を行っていない限り、それらは「常に既に」食わされてしまっているということなのだ。
 また、それを拒否することは、高級料亭、あるいは専門店並みの価格で食をとらなければならないことを意味する。そしてそれは、大部分の日本人にとって不可能なことなのだ。

      

 こうした事情の背後には、日本が食料生産を手放し、中国との間に分業体制を作ってきたという歴史的経緯がある。食のみにかかわらず、いわゆる労働集約産業を海外に依託してきた経緯がある。それらは、いわゆるグローバリゼーションの内実をなすものであり、今後、ますます進行してゆくことは必至であろう。

 ではどうすればいいのか。
 中国が安全なものを作るようにし向けてゆくしかない。製造体制や管理体制、検査基準についての技術供与を強化し、そのための情報交換を緻密にしてゆくしかない。その意味では今回のような事件は(犠牲者の方には申し訳ないが)チャンスなのである。
 中国にとっても日本市場を失うわけには行くまい。だからこそ、この機に彼らの安全基準のレベルアップを図るべくいっそうの情報提供や技術供与を強化すべきなのである。

 この問題は、親中派のように、出来るだけそれに触れずにいても、また、嫌中派のように中国にそっぽを向いていても、何とかなるようなものではない。
 これが冒頭に述べた、政治的バイアスをかけて論じることの非現実性と非有効性の意味である。
 
 繰り返すが、むしろ、日本の食の将来にとって避けて通れない問題としてちゃんと問題に向き合うことが大事なのである。そして、中国との間に、官民を問わず、現実的な問題解決の措置が計られるべきである。
 これが不可能なら、東京を始めとする大都市の都心にブルドーザーを入れてすべてを撤去し、昔ながらの田園地帯に戻す他はないのだ。

      

 問題を拡散させないために、食に限定してきたが、その他の中国製品の氾濫にしても、労働集約型の産業や付加価値性の低い産業を海外に追いやった結果なのである。
 この論は、そもそも百均について触れた前回の日記の続きなのだが、百均という形態が可能になったのもそれらの結果である。
 
 嘘だと思ったら、中国製品の全面輸入禁止に踏み切ることを想像してみればいい。百均の売り場はがらがらになり、それ自体が成立しなくなるであろう。
 そんなことになったら、必要なものはまず百均を覗き、無ければ専門店をというパターンで生活をしている私は、たちまち路頭に迷うのである。


日本人は、物忘れが早い
 かつて大メーカーの粉ミルクにヒ素が混入し、それを飲用した乳幼児に多数の死者、中毒患者を出したことや、食用油にPCB(ポリ塩化ビフェニル)が混入し、それを摂取した人々に、肌の異常、頭痛、肝機能障害などを引き起こし、その赤ちゃんにまで母乳を介して影響を与えた(いわゆる「黒い赤ちゃん事件})ことをすっかり忘れている。
 また、わずか数十年前、日本の製品は「安かろう悪かろう」だと、当時の先進諸国から非難やボイコットをされてきた事実があることもすっかり忘れている。
 
 それらの試練の中で鍛えられ、日本の製造業は今日にまで至ったのである。
 それらの製造業や建設業の幾つかが、そうした経過を忘れ、近年、偽装や詐欺まがいのことをはじめだしたことは憂うべきことである。

 むろん、これをもって中国製品の安全性を甘く見てやれということでは決してない。
 逆に、これらの経験の中で掴み取ってきたスキルを分け与えることが、まさに今必要だと思われるのだ。

 

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百均の優れものと中国製品・1

2008-02-18 16:39:56 | よしなしごと
 これは何だかお分かりだろうか。
 直径15センチほどの八角形の容器状のものである。

 

 上から見ると中央の四角形を含めて5箇所に分離されている。
 これを探していたのだ。
 というより、これを見かけたとき、そうだ、これこそ私が探していたものだと直感したのだ。

 

 これは本来は各種のリモコンを収納しておくものだそうだ。そんな用途など全く思い浮かばなかった私は、持ち帰って貼ってあったシールを見てそれがリモコン入れであることにはじめて気付いたのだった。

 で、どう使うかという、写真でお分かりのように、ペン立てを中心とした文具類の小物を入れるのに使うのだ。
 これは便利だ。
 ボールペン、鉛筆、シャープ、物差し、ハサミ、ピンセット、コンパス、ホッチキス、ラジオペンチ、筆ペンなどなどあらゆる小物を一箇所に集約しておけるのだ。

 今までの私はというと、やれ筆ペンがない、あれはどこだったか?え~と、ピンセットは?といった具合で、その作業をする前に、そのための道具を探す方に時間を取られてしまっていたのだ。
 これなら一覧性があっていい。

 

 もう一つ、下の鉛筆はその機能というより価格の安さがありがたいのである。
 私は、本を買う金がないので、もっぱら図書館を利用する。
 そしてそれらは返却しなければならないので、かなり克明にノートを取って読む。そうすれば当然筆記用具がいる。
 いろいろ試みて来たが、今は小学生に戻ったつもりでもっぱら鉛筆を使っている(細かい文字は細手のシャープ)。

 その鉛筆であるが、20本入りなのだ。しかも、ちゃんと消しゴムまで付いている。
 さっそく使ってみたが、しいていうと、芯の滑らかさにややムラがあるかとは思うのだが、苦になるほどではない。消しゴムなどは従来のものよりよく消えるほどである。
 私がいくら克明にノートを取っても、この20本でひょっとしたら一生分あるかもしれない。

 

 さて、これらはすべて中国製である。
 鉛筆などは、普通、金文字でメーカー名が入るところに、誇らしげに「MADE IN CHINA」と記されている。

 昨今、中国製品の安全性への疑問が高まっているが、まあ、以上の製品については、私はペン立てにかぶりついたり、鉛筆を舐める癖もないので、大丈夫だろう。

 次回はその渦中にある「中国製品」についてさらに書こう。

百均のボールペンに、五本入りぐらいのがあるのだが、これはあまりお奨めしない。途中でインクがでなくなったり、半年ぐらい経って新しいのを使おうとしても始めっからダメなものもある。 

<お詫び> 前回の記事、映画「ラストコーション」に関する記述に、事実誤認による誤りがありましたので訂正させていただきました。





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映画「ラスト・コーション(LUST,CAUTION)」

2008-02-16 03:07:04 | 映画評論
 映画「ラスト・コーション(LUST, CAUTION)」 2007年 中国・アメリカ

      

 ひとは、常に既に、ソシキやシクミ、あるいはコウゾウの中で生きている。
 例えそれが、どれほど固い決意によるものであろうが、さらにそれを越え、それを支配するソシキやシクミ、あるいはコウゾウがある。

 主人公の女性、ワン(タン・ウエイ)は、その固い意志による決断にもかかわらず、その上位のソシキにとってはひとつの駒であるにしか過ぎない。

 また、その標的のイー(トニー・レオン)も、もっとも完璧な意志の持ち主であるかのように見えながら、さらに上部の監視下にあることが後半で明らかになる。 

 そうしたソシキやシクミ、あるいはコウゾウを超えるものとして、余剰としての情愛や性的結合などが対置されるのだが、それらはやがて、また、ソシキやシクミ、あるいはコウゾウのもとに回収されて行く。

 にもかかわらず、ソシキやシクミ、あるいはコウゾウをはみ出してゆくものとしての情愛や性を含めたひととひととの繋がりこそがリアルな生であって、それらがいかに余剰や夾雑物であろうとも、それを生ききることこそが、ひとの生を機械とは違うものにしているということなのではないだろうか。

 監督は『ブロークバック・マウンテン』のアン・リー)。

<お詫び>当初の記述に誤りがありました。
     題名は「LAST CAUTION」ではなく「LUST,CAUTION」でした。
     また、間違った情報に依拠し監督のアン・リーを女性としてしまいました。
     以上、謹んで訂正致します。
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それにしても早すぎるぜ、櫻井君!

2008-02-14 13:58:28 | よしなしごと
 私自身の年齢のせいだろう。訃報が立て続けに届く。

 かつてお世話になった先輩格でTV関係の仕事をしていたSさん
 高校時代の同級生、K君
 そして若い友人の櫻井 進君
 
 この10日間に、三つの訃報とはちょっとこたえるではないか。

 

 Sさんはもう何年も会っていないが、私が商売をしているときはよく来てくれた。カウンターでいつもにこにこして、私をからかったりしたが、嫌みはなかった。臥せっていらっしゃるとは聞いていたが、改めて訃報に接すると淋しいものがある。

 同級生のKは、日本古代史などを独学で学んでいたが、かなり独断的であった。
 その独断的な面や、ナショナリズムに偏した解釈に私が異議を差し挟み、議論になることもしばしばであった。
 でも、決して憎めない相手で、会わないと淋しかった。
 私が、マニュアル・カメラに興味を示すと、機械の選定から初歩的な技法など、懇切に教えてくれた。
 私も古代史やカメラをもう少し勉強してから、そっちへ行くから、お前もちゃんと勉強しとけよ

 この二人は、私より先輩と同年であるが、最後の櫻井君は若すぎる。私より20才近く若いのだ。
 しかも、ひき逃げ同様の交通事故だなんて。

 確か、近代思想が専門だった。
 「批評空間」や「現代思想」にもときどき書いていた。

 最後に会ったのは先月中頃で、その折り、彼が去年、雑誌「現代思想」に書いた「大名古屋論 ポスト・フォーディズム都市の行方」について、その写真の出来栄えも含め感想を述べ、こうしたルポ風のものが君には合っているのではないかといったところ、今後はその路線で行くつもりで書いたのを分かってもらえてうれしいと、たいそう喜んでくれた。

 その後の二次会でも始終にこやかで、隣の酔っぱらいが彼のスキンヘッドを撫でさすっても苦にすることなく目を細めて談笑していた。
 それが彼を見た最後だった
 事故に遭うなんて、どこに目を付けて道を歩いてたんだ。車はみんな凶器だぞ。
 なんてこと、いまさらいっても始まらないか。
 
 考えてみれば、櫻井君を知ったのはまだ彼が20代の頃だった。
 河合塾の講師をしていたと思ったら、しばらく大阪大学へいっていて、名古屋大学へ帰ってきたと思ったら結局、南山大学の教授に落ち着いた。


 彼の著書(単行本になったもの)は以下である。
 * 江戸の無意識?都市空間の民俗学(講談社)
 * 「半島」の精神誌?熊野・資本主義・ナショナリズム(新曜社)
 * 江戸のノイズ?監獄都市の光と闇 (NHKブックス)


 何だか、訃報ばかりの中で、気持ちがグラグラしていてなにを書いていいのかサッパリ分からない

 とにかく三人の方それぞれのご冥福を祈りたい。
 とくに櫻井君、それにしても早すぎるぜ!

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それにしても早いぜ、カワゲラ君!

2008-02-13 02:20:11 | よしなしごと
 季節外れという言葉を、最近とみに聞くようになった。
 温暖化現象などとの関係で過敏になってきたこともあろう。


 しかし、それはそれとして、季節外れというのは常にあったのであり、気象現象はともかく、生物などのそれは、一方では体内時計の適合不良や気象条件に騙された受け身のものもあるのだろうが、逆にそれらを契機としながら、自己の季節領域を拡大する積極的なものもありはしないかと思うのだ。

 長いスパンで見ると、そうした生物の営みで形成される自然の季節感のようなものは、ドンドン変化しているはずだ。
 生物たちは、ただ気候の命じるままに生を営んでいるわけでもあるまい。その生への欲望は、自然のちょっとした隙をついて、空間的にも、そして時間的にもその生の領域を拡大しようとしているのではないだろうか。
 そしてそのためには寒暖に対する新たな耐性をも獲得して行くのではあるまいか。

      

 などということを考えさせる契機になったのは、私の眼前のガラス窓にとまった一尾のカワゲラとおぼしき昆虫なのである。体長はほぼ1.3センチほどであろうか。
 白い方は、物好きな私がわざわざ表へ回ってとったもので、黒いシルエットのものは、室内からとったものである。ガラスの汚れは、先般の雪のせいだ。

      

 いやぁ、正直言って早すぎるのだ。
 昆虫図鑑で調べると、この虫、四月から七月にかけて羽化するとある。
 まさか人間様の「立春」などというかけ声に騙されたわけではあるまい。

 この虫の名前はミドリカワゲラにほぼ間違いない。
 念のため、ネットの昆虫図鑑から引用した下の写真と比べて欲しい。

           

 はじめになぜ、「季節外れもその生物自身にとっては積極的な意味があるはずだ」といささか強弁したかというと、このミドリカワゲラにその生を全うして欲しいからである。
 もともと彼らは水中での幼虫期が長くて、羽化してからの生活はあまり長くないはずだ。
 その短い羽化の生活を、「しまった、間違えちゃった」とは思わせたくないではないか。

 間違いではなく、おのれが選び取った生であるとして、ちゃんと生きて欲しいのだ。
 僕を訪れたミドリカワゲラよ、君に僕の好きな言葉を教えよう。

 「セ・ラ・ヴィ!」 
 そうなんだ、これが人生なのだ!

 ところで、虫に人生はおかしいかな?
 「これぞ生きるということだ
 ならいいか。
 誤解するなよ。諦めではないぞ。積極的に引き受けるということだぞ。

 そんなことを考えていたらどっかへいってしまった。
 物好きな僕は、またまた表へ回って、寒さに耐えかねてそこらに墜落しているのではないかと探してみたが、どこにもいなかった。

 どうやら無事に翔んでいったようだ。
 そう思いたい。

 

 

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【ズンドコ節考・最終回】貫く情愛

2008-02-10 04:59:49 | よしなしごと
 これまで書いてくるうちに、コメントやメール、そして直接お目にかかった方から、これもあるぞ、あれもあるぞという情報を沢山いただきました。
 しかし、更に書き進めることは私の情報収集能力や筆力を越えています
 ここらで一応区切りをつけることをお許しいただき、総括的なことを幾分述べたいと思います。

 厭戦歌」という言い方が従前からあったのかどうかはよく分かりません。
 これまで述べてきた歌たちは、軍歌でもなく、かといってあからさまな反戦歌でもなく、「厭戦歌」という括り方ではじめて統一的に捉えられるのではないかと思ったのです。
 第四回で述べましたように、実質的に反戦歌が存在し得ない中で、戦時下という極限状況を幾分斜に構えたり茶化したりするところに厭戦歌が成立したように思います。

 それらは、自分たちの置かれた状況を一応突き放したところにおいてみるある種のユーモアを必要とします。戦後、それらをカバーした曲が、一部を除いてはコミカルな調子を持っていることはその反映ではないでしょうか。

 

 同時にそこには、そこはかとない無常感があることも否定できません。
 何しろ、戦争という逃れがたい状況の中で、死と背中合わせであったり、それが垣間見えるところで唱われるのですから。それらはいろいろの屈折を経ながら、戦後のカバー曲の中にもその反響をもたらしているようです。

 第一回で、氷川きよしの歌を割合ニュートラルだといいましたが、青春歌謡であるはずのその出だしが、

  風に吹かれて花が散る 雨に濡れても花が散る
  咲いた花ならいつか散る おなじさだめの恋の花

 であるのは、「花は桜木 人は武士」や「咲いた花なら散るのは覚悟」の残響ともいえます。

 

 また、当初私は、「男女の情愛の歌に隠れて厭戦が唱われている」のだというように捉えていました。しかし、いろいろな歌詞を見てくるうちに、その逆も真なのではないかと思うようになりました。
 つまり、恋愛どころではない厳しい状況に置かれながらも、「それを貫いて男と女の情愛が唱われている」側面もあるということです。
 そしてそこがまた、公の軍歌にはない潤いを感じさせるところでもあるようです。

 また、厭戦歌を唱う庶民を、一応戦争に狩り出される被害者、犠牲者の立場から見てきました。しかし、その被害者、犠牲者が、当時の国家の命令によるとはいえ、同時に近隣諸国に対しては加害者として振る舞ってきた側面を見落とすわけにはゆきません。
 しかし、その詳細については、主題から逸れるので触れることはしませんでした。

 いずれにしても、いくら斜に構えようがどうしようが、それらの歌はしょせん引かれ者の小唄(だから「○○小唄」が多いのでしょうか)に過ぎないともいえます。
 肝心なことは、そうした状況を二度と作り出してはいけないということです。
 
 私の年代ですと、軍歌であろうが厭戦歌であろうが、古い歌にある種のノスタルジーを感じてしまいます。
 しかし、これを書きつづってきた今、それらとは朗らかに決別し、やはり底抜けに明るい「きよし」の歌や、マイトガイ「アキラ」の歌や、そして、どんちゃん騒ぎの「ドリフ」の歌の方を選びたいと思うのです。
 
 長々と書いてきましたが、私より若い年代の人が、「へえ、そんなことがあったんだ」と思っていただけることが望外の幸せです。
 
 最後までお目を通していただいた方に多謝

 

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【ズンドコ節考・9】 歌のリサイクル?

2008-02-08 06:45:53 | よしなしごと
 これまで、俗謡風に唱われたもののうち、厭戦歌に属するようなものをピックアップしてきましたが、それらがいずれも作詞作曲が不明であったり、既にある曲のパクリであったりしたことを見てきました。
 ここには著作権やオリジナリティの尊重といったモラルはいささかもなく、ただただ、その旺盛なパロディ精神を駆使して、元歌以上に心情を込めたりすることにより、元歌よりも民衆の中に浸透してしまうというしたたかさが見られます。

 ここでは、今までの厭戦歌の系統とは少し離れるかもしれませんが、そうした同じメロディの使い回し、いわば歌のリサイクルの面白い例を見てみましょう。以下に三つの歌を掲げますが、それらはいずれも同じメロディなのです。

 まず最初は、「アムール河の流血や」です。
 これは今日ではあまり知られていないので、分かりにくいかも知れませんね。
 これは、旧制一高寮歌で、作詞:塩田環、作曲:栗林宇一であることが明らかになっています。歌詞は以下のようです。


1 アムール河の流血や 凍りて恨み結びけん
  二十世紀の東洋は 怪雲空にはびこりつ

2 コサック兵の剣戟や 怒りて光ちらしけん
  二十世紀の東洋は 荒波海に立ちさわぐ

3 満清すでに力尽き 末は魯縞も穿ち得で
  仰ぐはひとり日東の 名もかんばしき秋津島


4 桜の匂い衰えて 皮相の風の吹きすさび
  清き流れをけがしつつ 沈滞ここに幾春秋

5 向ヶ丘の健男児 虚声偽涙をよそにして
  照る日の影を仰ぎつつ 自治領たてて十一年

6 世紀新たに来れども 北京の空は山嵐
  さらば兜の緒をしめて 自治の本領あらわさん

 1901(明治34)年に旧制第一高等学校(現在東大教養部)の第11回記念祭寮歌として作られたものだそうです。
 当時の風潮として、漢語の厳めしい語彙が並んでいますが、二〇世紀初頭の高揚した気分と、極めて時事的な問題とがオーバーラップした一種のアジテーションなのです。

 背景となっているのは1900年のロシア軍と清軍との小競り合いの中、ロシア軍が清国民を無差別大量虐殺し、アムール河が血に染まったという事件への悲憤慷慨ですが、よく読むと、殺された清国民への同情に発するというより、3番に見られるように、満清つまり当時の中国大陸の主権者だった連中は、もはや頼りにならないから、「仰ぐはひとり日東の 名もかんばしき秋津島(=日本の別名)」ということで、われわれ日本こそが大陸をも含めて支配すべきだという大陸進出への呼びかけの方が強い内容なのです。
 それが、「北京の空は山嵐」という6番に呼応し、「兜の緒を締めよ」で結ばれるわけです。

 

 さて、では次の歌に移りましょう。
 これは戦前を多少ご存知の方には、「アア、あれか」と思われるものです。

 「歩兵の本領」(作詞:加藤明勝、作曲:栗林宇一)

1 万朶(ばんだ)の桜か 襟の色 花は吉野に嵐吹く
  大和男子と生まれなば 散兵線の花と散れ

2 尺余の銃は武器ならず 寸余の剣何かせん
  知らずや ここに二千年 鍛えきたえし大和魂

3 軍旗まもる武士は すべてその数二十万
  八十余ヶ所にたむろして 武装は解かじ 夢にだも

4 千里東西波越えて 我に仇なす国あらば
  港を出でん 輸送船 暫し守れや 海の人

5 敵地に一歩 我踏めば 軍の主兵はここにあり
  最後の決は我が任務 騎兵砲兵 共同せよ
 (この調子で延々10番まで続くのですが、以後は略)


 1911(明治44)年に作られたものですが、文字通り歩兵の心得などを歌にしたものです。
 もう既にこの時代、「散兵戦の花と散れ」ということで、散る、逝くが主題になっていることが気にかかります。
 それらは、2番の武器を頼りにするな、「鍛えきたえし大和魂」のみが肝要なのだという精神主義に濃厚に現れています。
 こうしてみると、日本軍は十五年戦争以前より、一貫して精神主義に貫かれていたことが分かります。そして、こうした精神主義こそが、「死して虜囚の辱めを受くるなかれ」(戦陣訓・8 東条英機の作ったものといわれる)などの様々な不合理なタブーを生み出し、もってすぐる戦争においての犠牲者をいたずらに拡大したことを思うと暗澹たる気持ちにならざるを得ません。

 それは例えば、サイパン島における女性や子供をも巻き込んだ玉砕(無謀な突進や自決による全滅作戦)や、沖縄における島民への自決の勧告(強制?)などですが、当時の戦地のどこででもその精神が強要されました。

 ビルマ(現ミャンマー)では、降伏を拒否した兵士たちがジャングルを彷徨い(死の行進)、ついには人肉を食すまでにり至りました。私の亡父は、まさにそこで「戦死」したのですが、戦死公報とともに来た遺骨箱には、石ころが入っているのみでした。

 また、漫画家・水木しげるは、その作品『総員玉砕せよ!』に九死に一生を得た自己の戦争体験を描き、それは、2007年8月12日にはNHKスペシャルの終戦記念日関連特番としてドラマ『鬼太郎が見た玉砕 ~水木しげるの戦争~』として放送されました。

     

 ここまで紹介した二つの歌は大日本帝国の精神的支柱のような詩によって唱われてきたのですが、次の局面にいたって意外な変転を遂げるのです。
 それが以下の詩によるものです。
 ここまで来ると、かなりの方が、「ア、それなら聴いたことがある」と思い当たるのではないでしょうか。

「聞け万国の労働者」(作詞:大場勇、作曲:栗林宇一)

1 聞け 万国の労働者  とどろきわたるメーデーの
  示威者に起こる足どりと 未来をつぐる鬨の声

2 汝の部署を放棄せよ  汝の価値に目醒むべし
  全一日の休業は  社会の虚偽をうつものぞ

3 永き搾取に悩みたる  無産の民よ 決起せよ
  今や二十四時間の  階級戦は来りたり

4 起て労働者 奮い起て  奪い去られし生産を
  正義の手もと 取り返せ  彼らの力何物ぞ

5 われらが歩武の先頭に  掲げられたる赤旗を
  守れ メーデー労働者  守れ メーデー労働者

 大日本帝国の精神を歌いあげていたはずの同じメロディが、今度は労働者階級を奮い立たせる歌となって現れるのです。
 この歌は意外と古く、1920(大正9)年、日本最初のメーデーが東京の上野公園で開かれたときに作られたのだそうです。前の二つと同じメロディですから作曲者が同一であるのは当然ですが、この歌の作詞者・大場勇という人は、当時鉄工所の労働者だったそうです。

 

 ところで、これらの三つの歌は、わずか19年間の間に作られ、唱われたものです。なぜこんな同じメロディイが、違うシチュエーションで使い回されたのでしょうか。
 確かに、前二者と最後のものでは全く性格が異なるように見えますが、しかしまた、共通点もあります。それはこの三つとも、人々を奮い立たせるアジテーションの歌だということです。このメロディは単純で唱いやすいため、そうした用途に適しているのでしょう。
 
 そしてそこに、このメロディが、いろいろ使い回されているにもかかわらず、いわゆる厭戦歌には使われなかった理由があります。
 今まで見てきたように、厭戦歌というのは、公の建前によるアジテーションに対し、斜に構えたところで唱われるものだからです。
 
 そういえばこのメロディは、寮歌や軍歌、そして労働歌として唱われる一方、各学校での応援歌に多用されていることを見ても、奮起を促すに適したメロディであることがうかがえます。
 ちなみに、私の卒業した高校の応援歌にもありました。ついでながら、その学校では、「ラ・マルセイエーズ」も応援歌に入っていて驚いたものです。

 以上見てきたように、公にレコードまで出ている歌においてすら、メロディの使い回しのようなことが公然と行われているのですから、しょせん俗謡の仲間である「ズンドコ節」やその他の厭戦歌は、その自出や系譜は極めて曖昧なままで歌い継がれてきたのです。
 しかしながら、それがゆえに公式のものでは表現できない庶民の本音のようなものがそこへと込められたともいえます。


おまけのトリビア
 
 現在は、この三つの歌ともに、栗林宇一の作曲となっていますが、どういう訳か、「歩兵の本領」に関しては、永井建子(けんし 男性です)の作曲とされていました。
 しかもそれは、60年以上もそうなっていて、改めて遺族が話し合って栗林宇一の作曲であることが確認されたのは1976(昭和51)年のことだそうです。
 この永井という人は、長年、軍楽隊の指揮をしていた人ですから、それ用に編曲したのが作曲と間違えられたようなのです。

 もう一つ、とびっきりのトリビア。
 この曲、北朝鮮でも、朝鮮人民軍功勲国家合唱団が朝鮮語でカバーして唱っているそうです。
 ホラ、やっぱり団結し、奮起せよという歌にぴったりでしょう。



コメント (1)
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