*写真は私の散歩道から。内容には関係ありません。
年輩の方ならよく知っているものに、サイレンの音がある。例の「ウ~ッ」と鳴り始めそれがリフレインするもので、そのリフレインの仕方に差異があり、その差異で意味内容を伝えたりした。戦時中の警戒警報、そしてもうひとつランクが上の空襲警報などがそれである。空襲警報はいかにも切羽詰まった感があり、B29の下を逃げ惑う私たちの心胆を寒からしめたものである。
昭和30年代から40年代まで、そうしたサイレンの音は学校や役場、それに工場などあちこちで始業、休憩、終業のたびに聞こえ、これを聞かない日はほとんどなかったものだが、最近ではせいぜいパトカーや消防車ぐらいでしか鳴らすことはなくなった。
実はこのサイレン、広範に普及したのは戦時中のことであり、1937年(昭和12年)、日本の戦時体制がいよいよ厳しい状況に入りつつあった時期に制度として決められ、警戒警報や空襲警報などの伝達手段として全国にくまなく設置されることとなった。
昭和40年頃まで、活動していたのはその名残りで、さまざまな時刻を告げる合図として随所で聞こえ、特に工場地帯では欠かせぬ音の風物詩であった。その後それらが設備として老朽化したり、あるいは騒音などの問題もあってチャイムや音楽にとって変わられ、激減したものだろう。
実は私、このサイレンの手動式のものを鳴らしたことがある。中学生の時か高校生の時、学校に常備されていた羽根車式のそれをいたずら半分で回してみたのだ。
わずか30センチ四方ぐらいのそれは、思わぬ大きな音を出し、用務員のおやじさんが飛んできてこっぴどく叱られた。
それに触ったのはその一回きりだが、手回しのハンドルが初めは重々しい抵抗をみせながらも次第に軽く廻るようになり、それにつれて音が大きくなってゆくその感触のようなものを今もはっきりと覚えている。
そんなものはもうないだろうと思って「手回し式サイレン」をネットで検索してみたら、なんと立派に残っていて、27,000円ぐらいから手に入るようだ。誰が買って、どんな用途に使うのだろう。やはり、地方の消防団などであろうか。
あの音に促されて防空壕へ逃げ込むような体験はむろんまっぴらだが、反面、あの音色に対してのある種の畏敬のような感情も否めない。夜空を駆ける探照灯の明かりの右往左往をあざ笑うようによぎって飛ぶB29のまがまがしい機影は、恐怖の対象であると同時に何か超越した感もあった。その記憶のなかの映像には必ず空襲警報のサイレンの音がBGMとしてオーバーラップするのである。
実際のところ、その情景のもとで何万、何十万、いや何百万の人びとが逃げ惑い、そのうちの多くの人たちが命を落としたり、家族や家を失ったのだった。だから敗戦後しばらくは、道を歩いていてすぐ近くでサイレンが鳴り始めると、一瞬ビクッとした経験を持つ人は私を含めて多かったはずだ。
まあ、パトカーや消防車も含めて、サイレン音などは鳴らないないほうがいいのだが、にも関わらず、サイレンが鳴るとある種の爽快ともいえる緊張感を覚える自分がいる。しかし、お前だけ勝手に戦時中に戻れといわれそうだから、このへんでやめておこう。
おまけにネットで拾った空襲警報のサイレンの音を載せておこう。
http://www.youtube.com/watch?v=6mxuRb9NmHM
年輩の方ならよく知っているものに、サイレンの音がある。例の「ウ~ッ」と鳴り始めそれがリフレインするもので、そのリフレインの仕方に差異があり、その差異で意味内容を伝えたりした。戦時中の警戒警報、そしてもうひとつランクが上の空襲警報などがそれである。空襲警報はいかにも切羽詰まった感があり、B29の下を逃げ惑う私たちの心胆を寒からしめたものである。
昭和30年代から40年代まで、そうしたサイレンの音は学校や役場、それに工場などあちこちで始業、休憩、終業のたびに聞こえ、これを聞かない日はほとんどなかったものだが、最近ではせいぜいパトカーや消防車ぐらいでしか鳴らすことはなくなった。
実はこのサイレン、広範に普及したのは戦時中のことであり、1937年(昭和12年)、日本の戦時体制がいよいよ厳しい状況に入りつつあった時期に制度として決められ、警戒警報や空襲警報などの伝達手段として全国にくまなく設置されることとなった。
昭和40年頃まで、活動していたのはその名残りで、さまざまな時刻を告げる合図として随所で聞こえ、特に工場地帯では欠かせぬ音の風物詩であった。その後それらが設備として老朽化したり、あるいは騒音などの問題もあってチャイムや音楽にとって変わられ、激減したものだろう。
実は私、このサイレンの手動式のものを鳴らしたことがある。中学生の時か高校生の時、学校に常備されていた羽根車式のそれをいたずら半分で回してみたのだ。
わずか30センチ四方ぐらいのそれは、思わぬ大きな音を出し、用務員のおやじさんが飛んできてこっぴどく叱られた。
それに触ったのはその一回きりだが、手回しのハンドルが初めは重々しい抵抗をみせながらも次第に軽く廻るようになり、それにつれて音が大きくなってゆくその感触のようなものを今もはっきりと覚えている。
そんなものはもうないだろうと思って「手回し式サイレン」をネットで検索してみたら、なんと立派に残っていて、27,000円ぐらいから手に入るようだ。誰が買って、どんな用途に使うのだろう。やはり、地方の消防団などであろうか。
あの音に促されて防空壕へ逃げ込むような体験はむろんまっぴらだが、反面、あの音色に対してのある種の畏敬のような感情も否めない。夜空を駆ける探照灯の明かりの右往左往をあざ笑うようによぎって飛ぶB29のまがまがしい機影は、恐怖の対象であると同時に何か超越した感もあった。その記憶のなかの映像には必ず空襲警報のサイレンの音がBGMとしてオーバーラップするのである。
実際のところ、その情景のもとで何万、何十万、いや何百万の人びとが逃げ惑い、そのうちの多くの人たちが命を落としたり、家族や家を失ったのだった。だから敗戦後しばらくは、道を歩いていてすぐ近くでサイレンが鳴り始めると、一瞬ビクッとした経験を持つ人は私を含めて多かったはずだ。
まあ、パトカーや消防車も含めて、サイレン音などは鳴らないないほうがいいのだが、にも関わらず、サイレンが鳴るとある種の爽快ともいえる緊張感を覚える自分がいる。しかし、お前だけ勝手に戦時中に戻れといわれそうだから、このへんでやめておこう。
おまけにネットで拾った空襲警報のサイレンの音を載せておこう。
http://www.youtube.com/watch?v=6mxuRb9NmHM
戦後になって、空襲を思い出すから止めてほしい、という声が寄せられ毎年検討事項になりましたが、役所お得意の後送りで、サイレンを鳴らす時計が手動式から電動式に切り替わった1969年まで鳴っていました。
たしか何年か前の8月15日正午、「この日、忘れまじ」と多治見市でサイレンが鳴りました。
「まがまがしい」という語感がぴったりで、おそろしいです。そして続いてやってくるB29の爆音は、お腹の底から響いてくるようで、本当に恐かったと母が言っていました。その音源を探しましたが、見つけられませんでした。
そういえばそのむかしは大砲だったのですね。
土曜日の「半ドン」の由来も確か、その「ドン」が鳴ると休みになるということからだと聞いたことがあります。
そうですか、やはり空襲を思い出すからというクレームがあったのですか。そうでしょうね。
文中にも書きましたが、子供の頃空襲を経験した私ですら、急にサイレンが鳴り出すと不安と緊張を覚えたものです。
文中に書きましたように、いろいろなところにサイレンが設置されていましたので、カルテットやクインテットもザラで、それらが時差をもって重複するのがさらに恐怖を掻き立てました。
B29の音源、前に聞いたことがあったように思いますので、見つけたらお知らせします。
これから、怒涛の4日間の最後のイベントに出かけますので・・・。