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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

【小説を読む】これまでサダを文芸作品として対象化したものがあったろうか?

2018-08-31 15:41:46 | 日記
 小説、『サダと二人の女』(山下智恵子 2018年8月10日刊 風媒社 330頁 1,700円+税)を読んだ。
  書名から分かるように、これはいわゆる阿部定事件のヒロインであるサダと、二人の女性の物語である。年長のサダ、そして同様の事件を起こし、「戦後のサダ」などと騒がれたもうひとりの女性(チエミ)、さらには現代を生きる家庭の主婦(萌子)なのだが、後者二人の年齢差はさほど開いてはいない。また、前者の二人には実在の人物でありモデルがいる。
 それをそれとして取り上げるには相当の覚悟を要する。いくら小説とはいえ、モデルがある以上その考証などが必要で、それから大きく逸脱すると現実感を損なう。
 かといって、ルポルタージュやドキュメンタリーではないのだから事実を列記すれば済むわけでもない。

 考証によって最低限の輪郭を得た人物やその立ち居振る舞いは、さらに作者の考察と想像力による肉付けで私たちの前に実在するかのような生きたリアリティをもって現れる。
 それは(私のような)荒っぽい人間では思いつかないディティールに及ぶ。衣服、台詞、立ち居振る舞い、食い物、小道具類、当時の物価、舞台となった土地の景観などなど、そうしたものによる作者の肉付けによって、サダが、チエミが、萌子が私たちの受容のなかで具体的に生きて行動しはじめる。

           

 と同時に著者は、それら主人公たちが生きた時代の背景や事件、同時に進行した時代そのものの推移を挿入することを忘れない。それらは三人の登場人物それぞれに係るのだが、とりわけサダにおいては昭和の一桁から二桁へと、そしてあの戦争と戦後へと時代がドラスチックに動いたのであり、それらは随所にさらりと描写される。
 とはいえ、それらの歴史背景と登場人物を短絡させて説明する愚は慎重に避けられている。
 主人公たちはそうした時代に流されたり、抗ったりしながら自分の生を紡いでゆくのだがその時代の動向に還元されるわけではない。むしろそれからの逸脱、余剰のようなものこそが実際の生といえる。

 ところで、この「阿部定事件」、かつては人口に膾炙されたものだが、妖婦列伝などの通俗本や実録もの以外で、彼女を対象として取り上げた文学作品はあっただろうか。
 映画では大島渚の『愛のコリーダ』などが知られているが、文学作品ではほぼないといって良いのではないか。

 戦後、坂口安吾がサダ本人と対談し、それをもとに短いエッセイなどを書いているが、どこか腰が引けている感がある。
 「あなたは間違っていません」とさかんに繰り返すのだが、どう間違っていないのか、サダとその行為をなぜ評価するのかを積極的に言い切ってはいない。坂口をもってしても心身ともに合一という性愛の高揚、一見プリミティヴでありながら、その実、人間にのみ許されたひとつの愛の形をうまく対象化し得なかったのだろうか。
 彼はサダとその相手、吉蔵の事件を、吉蔵のマゾヒズム嗜好にサダが合わせた結果だとしているが、そこへ還元していいものかどうかにも問題がある。
 
 坂口の成果としては、吉蔵と出会う以前からサダの男出入りは多く、恋多き女と思われていたのに対し、彼女が本当に恋したのは三二歳の折、すなわち、吉蔵に出会った折の一度だけであることを聞き出したことである。
 彼女は、本当に自分が心身ともに好きになった相手が、また自分のことを心身ともに好きになってくれたという充実感をもって本当の恋とする。そしてそれが吉蔵との出会いだったのだという。
 (しかし、とはいえそれは移ろうものであり、その移ろいの予感があったがゆえにその絶頂でピリオドを打ったのではなどと注釈をつけたくなるが、それは知に走り過ぎというものだろう。)

         

 さて、この山下さんの小説以前のこの事件に関する文学作品についてみてきたが、実は一九四七(昭二二)に、織田作之助が書いた『妖婦』というタイトルの短編があることはある。
 しかもこれは、当のサダ自身が読んでいて、先に見た坂口との対談でもこれに触れ、他の通俗本には激しく抵抗し訴訟沙汰まで辞さなかった彼女が、暴露本でもなくエロ本でもなく「織田先生のような書き方なら」とこれを容認する発言をしている。
 しかしこの織田の短編は、明らかにサダの子供の頃から思春期に至るエピソードを連ねてはいるが、主人公の名は「安子」であり、小説としての芯もはっきりしないまま、安子が兄に花柳界に売られるところまで(これは事実と相違する)の中途半端なプロローグに終わっているといってよい。

 といったわけで、この山下作品のサダは、おそらくサダをその生涯にわたって(ということはその晩年も含めて)追い続けたほとんど唯一の文学作品ではなかろうか。
 もちろんたんなる伝記ではない。先に見たように、作者の努力による考証に裏付けられ、さらにはその想像力によって肉付けされたサダが、その幾分危うい思考や行動のパターンを伴って私たちの前にいきいきと再現される。その意味で、サダの造形化はじゅうぶん成功しているといえよう。

 サダは強烈なのだが、それに寄り添うように書かれた二人の女性もまた印象的である。
 そのうちの一人、チエミは、貧困と暴力のうちに育ちながら、そこから離反しようとすればするほど、またもやそれに取り憑かれ、一度は死を決意したどん底から這い登るものの、やっと見出した場がもろくも崩壊し、またしても司直の手にかからざるを得ない女性である。作者は、やはりいくぶん危うい彼女の生涯を温かい眼差しで描き続ける。
 すでにみたように、彼女にも実在するモデルがある。したがってここでも裁判記録など考証の努力は尽くされ、それに想像の肉付けをされた女性がさもありなんという風情で描かれている。

 もうひとりの萌子は現代の普通の家庭を生きる主婦である。「普通」であるがゆえにある種の不定愁訴のような澱をもった主婦でもある。彼女もまたその前半では危うい場を経由しつつふとしたきっかけでその関心が変化する。
 その変化は二つの面で見られる。ひとつは知り合った相手の子供の発育不全に対する関心から社会的なものへ、あるいは具体的実践的な場への関わりが始まるということである。
 いまひとつは、一度、プラトニックなものへと引き戻された男性への関心であるが、これは、まだどう転ぶかわからないという余韻を残したまま終幕へと至る。

 これら二人の女性は、一面ではサダと絡み合いながら、そしてまた一見、無縁のようでもある。しかし、当初は時空を超えて並行していたようなこの三人の像は、作者の構想のなかで三つ編みのようにあざなえる様相を呈してくる。
 そして最終章、この三つ編みの先に結ばれたリボンのような印象を残して小説は終わる。ここでリボンというのは名古屋の鶴舞公園という限定された場での三人の交差を指すのであるが、その経緯は実に面白い。(実話では知られることがなかったサダの晩年も示唆されてもいる。)

 題材は決して明るいとは言い難い。でも読み終わったあと、幾ばくかの清涼感を覚えるのは、ある時は危うく、切なく、苦しく、追い詰めれれたかのような女性たちではあるが、その三人が懸命に生き抜いた結果たどり着いたある種、見晴らしの効いた風景への到達、そんなことを思わせるからであろうか。
 もって回ったこともいったが、小説そのものは一気に読ませる面白さをもっている。

 ====================================
 
 この小説は、昨年秋の終刊まで、私も所属していた同人誌『遊民』の仲間だった山下智恵子さんが、同誌の第三号から第一六号まで一四回にわたって連載されていていたものです。

 改めて通読してみると、ある種の感慨が湧いてきます。それは、ひとつには作者である山下さんがほぼ七年の間、いかに心血を注ぎ、かつ呻吟しながらこれを生み出したかを身近で知っているからです。
 また、連載時に手にした感じと、一冊の冊子(三百三十ページ)となったのではまずそのボリューム感が違います。冊子を手にした質量感がこの間の彼女の努力の実体的な重みとして伝わってくるのです。
 もう一つは、なんといってもその内容です。
 細切れで読んだときにはよく見えなかったこの書の全体の構想、そしてその展開の流れが説得力をもって迫ってきて、こんな面白い小説だったのかと改めて思った次第です。
 読書好きの方にお勧めできる一冊です。
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【旅での出会】ロンドンとパリの人びと

2018-08-26 12:01:34 | 写真とおしゃべり
 ロンドンやパリは人種や民族のるつぼです。
 花の都としての観光客の多さばかりではありません。そこで生活し、その経済を支える人たちがすでにして多種多様なのです。
 ロンドンでのホテルのフロントは、4人ほどで回転していましたが、いわゆる白人は一人でした。旅をする者に目に付きやすい公共交通機関などで働く人たちも多種多様でした。

 ヨーロッパでは、こうした人種や民族の多様性に反発する排外主義的運動が目立ち始めたと伝えられますが、その基盤には、こうしたすでにして多くの「異民族」が社会に浸透している現象があるものと考えられます。
 もちろん、かといってこうした民族排外主義に理解を示そうとは思いません。

 まあ、そんな背景についてはともかく、ロンドンとパリではいろんな人達をウオッチングしてきました。
 その一端を以下にまとめてみました。


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
          

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【旅の写真から】飛行機、そして翼の下

2018-08-25 01:12:49 | 写真とおしゃべり
 七年ぶりに飛行機に乗った。外から見ている段にはそうは思わないが、機内に乗り込んでみると改めてこれが飛ぶんだよなぁという変な感慨に襲われる。

 今回利用したのはすべてフィンエアー=フィンランド航空。だから往復ともにヘルシンキ経由になる。
 往路は中部交際空港ーヘルシンキー(エアバス)ーロンドン・ヒースロー。ロンドンーパリ間は鉄道でユーロスター。復路はパリ・ドゴール空港ー(エアバス)ーヘルシンキー中部国際空港。

 ヘルシンキとロンドン、パリとヘルシンキ間はそれぞれ二時間半ほどでエアバス。エアバスはあまり高度を高くとらないのか、以下に載せた地上の写真なすべてパリ=ヘルシンキ間のエアバスからのもの。

パリ、雨のドゴール空港
 
 今回の旅は天候に恵まれたが、パリを発った折は激しい雷雨で、飛行機が飛ぶのだろうかと思ったりした。

 
   

パリ=ヘルシンキ間(エアバス)
 
 飛び立つまでは雨だったが、ヘルシンキへ向かうにつれ天候は回復。
 途中でも、そしてヘルシンキに近づいても、下界の景色がよく見えた。

   
 
 
 
 
 


中部国際空港にて
 到着したのが日本時間で午前だったので、空港内でゆっくり休んでから岐阜行の電車に乗った。
 乗ってきたフィンエアーの飛行機が、ヘルシンキへ向けて飛び立つのを目撃した。考えてみたら10日前、ここから飛び立ったのと同じ便だった。
 飛行機や乗り物は少年時代の夢を再現し、くすぐる。ただし、飛行機に関しては、私の少年初期のそれはすべて戦闘機や爆撃機、ようするに軍用機のイメージしかない。
 いってみれば私は、飛行機が戦争の道具でしかない時代に飛行機に出会ったのだった。

 
         
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【二都物語】ロンドンとパリのバス やはり軍配はロンドン?

2018-08-24 02:06:41 | 旅行
 ロンドンの二階建てバスについてとんでもない思い違いをしていた。
 「二階建てバスも走っているだろう」と思っていたのだが、そうではなかった。二階建てバスが主流というかスタンダードで、とりわけ市内バスではそれ以外のバスを見かけることは少なかった。
 市内の路線バス以外の観光バスなども、二階建てがが多く、普通のバスは圧倒的に少数派であった。
 ユーロスターの列車に乗ってロンドンを離れるとき、ロンドンの郊外で車窓から見た路線バスの溜まり場のようなところは圧巻だった。二階建てバスがズラズラズラ~ッと並んでいたのだ。

 対するにパリでは、観光バスの一部にオープン型の二階建てバスが走っていたが、路線バスやその他のバスでは二階建てはまったくみられないか少数派であった。
 そのかわり、路線バスでは真ん中に蛇腹の連結部分をもつ連結ロングバスが多く、ロンドンでは上に積んでいたものを、同一平面で前後にに連結しているようだった。

 結果として、ロンドンでは何回かバスに乗ったが、パリでは一回だけだった。
 ロンドンでのバスの二階からの眺望は、どこか人間の優越感をくすぐるものがある。事実、街の景観が素晴らしくいい。日頃、見下されている生活を送っている私には、一層そうであったのかもしれない。

ロンドンで見たバス
 
 
 
 
 
 
          

パリで見たバス

 
 
 

ヘルシンキ空港でみたシベリウスの楽譜付きバス(「フィンランディア」か?)

          

 
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【二都物語】ゆる鉄ちゃんの撮したロンドンとパリの駅と列車

2018-08-23 01:05:18 | 旅行
 ロンドンでも、パリでも、ホテルは駅の近くであった。
 美術館などの散策が終わって、ホテルへ返って休憩後、足がのばせる範囲内だったので、散歩方々、駅構内に入り、アトランダムに写真を撮ってきた。ヨーロッパの駅は、改札などを経ることなく、止まっている列車の近くまでいって写真を取ることができる。
 一度だけ、警備員に誰何されたが、「ピクチャー」といってiphone を見せたら、ちゃんと通してくれた。
 
 駅といっても、それぞれがターミナルで、地図で見たら三角州のような、あるいは熊手のような末広がりの突き当りの駅である。何本もの線が近距離、遠距離と発着していて、構内も周辺も賑やかなことこの上ない。

ロンドン ユーストン駅
 この間見たうちで、唯一建物が近代的な感じのものであった。時刻表はまるで空港のそれのようで、多くの人たちがそれを見上げていた。

 
 
 
          


ロンドン セント・パンクラス駅
 最初見た時、この新ゴチック様式の壮大な建物が駅であるとは信じられなかった。しかし、まごうことなく駅であった。
 大時計の下には、高さ9メートルの熱烈なキッスをするカップルの立像があり、その付近にそれを真似ているカップルもいた。
 この駅では、パリやブリュッセルなど、英仏海峡トンネル経由のユーロスターが発着していて、出入国の手続きは空港のそれと全く同じであった。
 ロンドンの最終日、ここからパリ北駅に向けて発った。

 
      
     
 

パリ 北駅 
 ユーロスターの到着駅。かなり離れたホテルへのチェックインが迫っていたので、ここの構内ウオッチングができなかったのは残念。

 
 

パリ サン・ラザール駅
 ここはホテルの前だったのでゆっくり構内もチェックすることができた。外観は伝統的な感が強いのだが、内部はけっこうモダンな感じである。
 列車もいろいろあって一日中いても飽きないかもしれない。

 
 
 
 
     
           

 今回見た駅はそれぞれ終着駅(始発駅)であるが、何となくそれ特有の雰囲気を持っている。
 入ってくる列車は、しばらく止まってまた発車という途中駅と違って、最後の客を吐き出しても、どっしりと止まって動かない。
 出てゆく列車は、まさにこの地を去るという別離の表情でそのテールランプとともに小さくなってゆく。
 駅にはそれぞれの表情があって面白い。


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高校野球と市場の論理またはグローバリゼーション

2018-08-22 00:54:12 | よしなしごと
 高校野球に興味を失ったのはいつ頃からだろうか。自分の出身校が昔の強豪校だったせいもあって、けっこう興味は持続したのだが、今のように私学の絶対的優位が固定して以来、ああ、これもやはり資本や情報の論理の延長なんだとスーッと冷めて今日に至っている。

             

 そんな私が今年、やや興味を持ったのは、金足農の活躍によるところが大きいのだが、終わってみれば奇跡などは起こらず、やはり冷徹な論理が貫徹していたといって良い。決勝戦は大差で大阪桐蔭と予測していたので、決して落胆などはしていない。

 昔っから私学の雄といった存在はあった。しかしかつてのそれらは、現在の資本や情報による競争以前のもので、公立とほぼ互角な状況下にあったといっていいだろう。
 
 その辺がなんだかおかしな感じになってきたのは、東北や北海道の学校の選手が、関西弁でインタビューに応じるようになってからである。
 これらは、ようするに高校球児たちが学校のショーウィンドウを飾るコマとして、あるいは商品として全国規模で流通し始めたことを示している。資本力やマネージメントに優れた学校が、全国にくまなく情報のネットを敷き詰め、お買い得商品を逃さないようにし始めた結果なのだ。

             

 今回、大阪桐蔭の主力として活躍した根尾選手は、岐阜の飛騨地方の出身である。ひと昔前なら、飛騨地方の高校に進学し、飛騨の星として県大会のベスト4ぐらいまで進むか、あるいは県都、岐阜市に下宿して岐阜の有力校に入学し、甲子園ぐらいには行けたかもしれない。
 しかし、いまや大阪のチームの一員である。張り巡らされた情報網があらゆる対象を商品として資本の前に並べてみせる時代、それらは飛騨地方にも及び、運動能力に長けた少年を有力な買い手のもとへ届けたとしても何の不思議もない。

             

 高校野球は一応、都道府県代表となっている。しかし、そうした全国規模での球児たちの流通の前に、それはいまや全く意味を失ってしまっている。
 例えば、今回、岐阜県代表として甲子園に駒を進めた大垣日大は、レギュラー枠に占める岐阜県出身選手は3人のみで、他の十数人は他の都道府県出身者であった。

 そしてそこに、大垣日大が「岐阜の」強豪校としていまや甲子園の常連となった原因もある。キッカケは1967年以来40年にわたって愛知の強豪・東邦高校の監督を努めた阪口慶三氏を、2005年に監督として迎え入れたことによる。長年強豪校の監督を努めた氏は、多くの教え子を送り出し、そのうちの何人かは地域の少年野球の指導者となっている。彼らは坂口氏の、そして大垣日大の有力な情報ネットワークをなしているといっていい。
 それに引っかかった子たちは、誘われて大垣日大へやってくる。そして、それらの球児がチームの中核をなしている。地元の野球少年ではなく、全国規模での試練のなかで選抜されてきた球児たちの軍団、それが強豪校の条件なのだ。

 こうして、資本力、情報力などなどに優れた学校が全国規模での球児たちのマーケットで、いい商品を大量に仕入れる。その段階で、チーム力の大半は決まってしまうといって良い。
 もちろん、スポーツだから、番狂わせなどもある。今回の金足農の活躍はそうだし、あの投手、吉田君が上に述べたような有力私学の情報網に捉えられてそこへ進学していたら、そこでめでたく優勝投手になっていたかもしれない。

              

 高校野球には冷徹な論理が貫徹している。それは資本の論理、市場の論理、あるいはあらゆるものを商品として資本の前に繰り広げてみせるグローバリゼーションの論理といっていいだろう。
 だからもし、高校野球に興味を持ち続けるとしたら、そうした論理が覆る偶然性に期待しながら、あくまでも判官びいきに徹することではないかと思っている。

             

ここまで書いて、金石農の吉田投手一人に連投させたことの危険性を指摘する声が広がっているのを知った。
 冗談ではない、複数の有力投手をローテーションよろしく順次登板させるというのは、そうした複数の投手を傘下に置くことが出来るチームにおいてこそ可能なことなのだ。金石農は、吉田投手が投げぬいて予選を勝ち抜き、甲子園でも決勝戦にまで駒を進め得たのだ。

 もちろん、何があっても一人で投げ抜けなどという精神論に加担するものではないが、複数の投手をうまく回してというのは、そうした余裕を持ちうる「有力校」についてのみいえることで、そうではない地方の野球部は、たまたま入部した有能な投手一人に頼らざるをえないのだ。

 また、それによって肩を壊して将来を失う(将来に向けての商品価値を失う)のではという懸念も見え隠れするが、そこで燃焼するのもありではないか。野球をする少年の全部が全部、プロ野球選手としての商品価値を保持する必要もあるまい。

 
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【二都物語】ロンドンの地下鉄&パリの地下鉄

2018-08-21 16:11:46 | 写真とおしゃべり
 「ゆる鉄」ではあれどレールの上を走るものには注意を惹かれる。
 両都市とも地下鉄網は充実している。
 時刻表はあるのだろうが、それを感じさせることがないくらいひっきりなしに運行している。目的駅に着いて出口が少し遠いともう次の電車が入ってくる。

 
 

 違いは、ロンドンのそれはカマボコ型で意外と小さいことである。列車の端の大男たちは身をかがめるようにして乗っている。その点、パリのそれは日本のものと同様にゆったりしている。また、ロンドンでは見なかった防護柵が主な駅のホームには取り付けられていた。

 

 
 ただし、パリには古いタイプの車両も走っていて、一応自動ドアなのだが、自分で取っ手を操作しないと開かないものがある。それを知らないとまごつく。結構そうした車両はあるようで、2日の滞在で数回乗っただけだが、2回ほどがそのタイプだった。

          
         ここまでロンドンの地下鉄 以下はパリのもの
 
 縦横無尽に走っているせいで、駅は結構深い。とりわけロンドンのそれは深かったように思う。そのかわり、ロンドンもパリも、バリアフリーは徹底している。日本の場合、古くできた駅ではエスカレーターやエレベーターは端っこの方で探すのに苦労することがあるが、こちらはもともとそれらが主体で、階段を昇降する機会は極めて少ない。

 
 

 両方共、機能本意にできているので、待たされてイライラしたり、ホームから地上へ出るだけで疲れるようなことはない。
 うまく利用すれば、つっかけで近所へ出かけるように市内のどこへでもゆくことが出来る。

 
 ロンドンでもパリでも、やっと地下鉄の利用に慣れ、土地勘もついて、あちこち自由に行けると思い始めた途端にそこを離れなければならなかったのは残念だった。

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ロンドン・パリ駆け足旅 覚書き 7 〆はやはりルーブルで!

2018-08-19 00:12:20 | 日記
第八日 8.8 実質最終日
 
 昨日休みだったルーブルヘ 8時半前に着いたがもう200人ほどが並んでる 開門は9時
 開門待ちの行列の間を、警察犬をつれた警官がパトロール 持ち物検査もものものしい



    
 
 ルーブルは大英博物館同様、収蔵物が多すぎる マップで予めチェックしておいためぼしいものとその周辺を中心に観ることとする

      
      
 
 美術の教科書に載っているようなものに「あ、実物だ」と感心している私ゃ完全にお上りさん やはり人気は「ミロのヴィーナス」と「モナリザ」 ヴィーナスはなんとか正面から撮れたが、モナリザは正面には行くことすらできなかった
 まだまだ観るべきものはあるのだが足の疲れが限界 とにかく広くて移動にも大変なのだ










 一応まあまあというところで切り上げて、シャンゼリゼから凱旋門へ コンコルド広場からがシャンゼリゼ散策の出発点なのだそうだが、それでは死んでしまう 地下鉄でジョルジュⅤまで行く ここまでくれば凱旋門まで500mほど 





 
 凱旋門の上に登ることが出来るとのことだが長蛇の列 戦中戦後の配給世代は並んで待つのは嫌い 諦める 長い地下道を通って向こう側へ ロンドンのシティもそうであったがそちらの方向には新しい高層ビル群がほの見える
 エッフェル塔も先端部分だけだが観ることができた
 パリの二日間はオルセーとルーブル主体でそこで人類が生み出した多彩な「制作品」、多様な表現とその方法を堪能することができた こういうものを観ると、人間って動物もまんざら捨てたものではないなと思う

    
 
    
 
 ホテルに戻ってから近くのパサージュを見て回る フーリエやベンヤミンイメージしたものとは違い、すっかり商業設備として組み込まれている
 百貨店プランタンは外観だけ サンラザールの駅構内を散策し、列車の発着風景を観る
 最後のパリの夜 駅近くのオープンカフェで過ぎゆく人々を眺めながらワインとチーズなどを楽しむ 
 明朝はオペラ座横のロワシーバス乗り場からドゴール空港を目指す フィンエアを利用した関係でヘルシンキ空港経由でセントレアヘ
 かくてわが晩年の旅、「二都物語」は終わりを告げようとしている

【12.4キロ 21,311歩】
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ロンドン・パリ駆け足旅 覚書き 6 オルセーでフランス近代絵画の精髄に出逢う!

2018-08-18 14:56:15 | 日記
第七日 8.7
 
 地下鉄でルーブル美術館へ 地下鉄を降りた出口がコメディ・フランセーズ 1680年創立の王立(後の国立)劇団の本拠地 1970年頃の日本公演を観たことがある ルーブルはその向こう いやに人出が少ないなと思ったら今週の火曜日は休館日だとか

          
 方針を転換してセーヌ川対岸のオルセー美術館へ ここはかつての駅舎を改造した長方形の大規模美術館で、先般訪れた火力発電所を改造したロンドンでのテート・モダン美術館を思い出す 


 
 オルセーは印象派など近代のものが多い だから、順序としてはルーブルを観てその後にオルセーをと思っていたのだが、休館では致し方ない ルーブルは明日だ
 オルセーは思ったとおり構造的にはテート・モダンとよく似ている しかし、ひとの入りは全然違ってこちらのほうが賑やかだ やはり、モダン・アートより印象派の方が人気があるのだろう








 印象派前後の錚々たる作品がならんでいる 私たちが画集で見る場合、その絵の大きさがよくわからないのだが、こうして実寸で観るとまた多少印象が変わる。
 観る、観る、観る、とにかく観る 観るべきものがあまりにも多いので、これといったものはカメラに収め、あとで反芻することに


 
 好きなセザンヌを間近で見ることができた あの静物の配置と色彩、トランプをするひと、晩年に描き続けたサント・ヴィクトワール山、そこには存在者としてのそれの背後に存在そのものを求める意志のようなものがあるようだ


        

 ひと通り観てから、館内のカフェで軽食でもと思ったが、それらしいコーナーはどこも芋を洗うような混雑で外へ出ることとする
 今日のあとの予定はセーヌの中洲、シテ島とノートルダム寺院 ひとまずはそちらの方へ ここで大失態 ルーブルが休みでセーヌの反対側へ渡ったことを失念していたため、シテ島とは逆のコンコルド方面へ歩いていたのだ それに気づいたのはかなり歩いたあとで入ったオープンな感じのレストランで 
 まずは喉の疲れを癒やすビール 日本ではあまり飲まないビールをこちらだはよく飲んだ やはり空気が乾燥しているせいか


 セーヌの河畔へ出て、河畔の風情を味わいながら今度は間違いなくシテ方面へ
 新しい橋という名前のもっとも古い橋、ポン・ヌフを渡ってシテへ
 ここでまた迷う ゆけどもゆけどもノートルダム大聖堂は見えてこない
 やがて観光客がフラフラ返ってくるような風情の河畔に至る
 彼らに訊いたら、その方向でいいという といったことでやっと辿り着く 道を間違えたおかげで、ノートルダムの背後から行く事となったようだ
 中を見たいと思ったが、ここも大行列ができていて一時間以上は確実にかかりそう さんざん歩いたあとで炎天下で一時間以上はつらい
 あきらめて寺院前広場の木陰で休憩 世界中から集まった人びとのウオッチングなどをする いわゆるヒジャブというスカーフ状のものを頭にしたイスラム教徒の女性も多い 異国の神の偶像を観るなどというのは戒律に反しないのだろうかと余計な心配をしたりする


 
 すぐ近くで撮影クルーが どうやらチャイニーズのお金持ちの婚前写真の撮影らしい ここで撮したものや、凱旋門、エッフェル塔などをバックにしたものを編集して披露宴で上映したりするのだろう
 
 再びセーヌを渡り、市役所や区役所のある北側からメトロに乗ってホテルへ帰る 今日はよく歩いた

【13キロ  21,980歩】
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ロンドン・パリ駆け足旅 覚書き 3 議会政治のメッカ

2018-08-16 23:47:57 | 日記
第四日 8・4

 相前後しましたが、「3」を載せたつもりが消えてしまっていますので、改めて載せます。申し訳ありません。
 
 朝食後バスで昨日も来たトラファルガー広場へ そこから徒歩でホワイトホール通りを摂って国会議事堂方面へ 広い通りの両側は官庁街か ただし土曜日とあって人影なまばら 通りの中央分離帯には偉人らしき人の像や各種モニュメントが建てられている


 
 やがて通りの名が文字通りパーラメント(議会)通りに変わり、突き当りが議事堂 これは後で見ることにし、左折すると急に人通りが多くなる ウエストミンスター駅から観光客がどんどん吐き出されてくるからだ それらの人の列に身を任せてウエストミンスター橋へ出る 初めてのテムズ川だ



橋の真ん中ぐらいからあたりを見渡す 水は茶色く濁っているがこれは前から聞いていたからこんなもんだろうと思う
 下流には「ロンドン・アイ」と呼ばれるでっかい観覧車が悠然と回っている その他由緒ありそうな建造物がひしめいているが、どれがどれかを特定できない
 上流側の橋の袂には、おなじみの国会議事堂が そしてその後方にはあのビッグ・ベンがと見上げたら・・・・、なんとただいま工事中、しっかりガードに覆われて観るすべもない

 
 橋の上で見ていささか驚いたのは、かつて祭りや競馬場の周辺で見られた街頭賭博、いわゆるデンスケ賭博の多いこと 殆どのものは3つの容器のひとつに玉を入れ、それを移動させてたまの所在を当てさせるもの もともとマジックだからよほど注意をしていても当たらない 取りっぱなしでは誰も賭けないのでたまに当てさせるがその相手はたいていサクラ こんなものをロンドンのど真ん中で見るとは思わなかった 世界のお上りさんがひっかかっている
 議事堂の周辺へ 中へ入っての見学も可能だが、先に触れたように土曜日とあって大勢の人々が待っている 限られて時間であちこちという身には待ち時間が惜しいのでパス


       
 
 隣のウエストミンスター大寺院もイギリス国教会の総本山的な位置にあるだけに、参拝希望者はさらに多く、炎天下の中、順番待ちの信者(?)たちが長蛇の列をなしている これも外観だけでパス


           
 
 議会前広場での銅像を見て歩く ガンジー、リンカーン、ロイド・ジョージ、チャーチルなどの銅像に加えて、女性参政権実現100週年を祈念して今年建てられたその活動家、ミリセント・フォーセットの像については別稿で述べたとおり

   
            
             
 
 その後、地下鉄でグリーンパークに移動し、文字通り木立の多いグリーンパークを横切ってバッキンガム宮殿へ エリザベス女王を表敬訪問しようとしたが、おもちゃのような衛兵の他に完全武装の警官がいたりしたので怖くなってやめる



 国内からはもちろん私のような東洋の果からのお上りさんも含め世界中のいろんな人々でごった返している 人混みのなかでの暑さはたまらない 宮殿前のヴィクトリア記念堂を一周してグリーンパークの木陰の芝生へと避難 通りかかるいろんな人種、年齢層のファッションなどを眺めてしばしの休憩


     
  
 地下鉄でラッセル・スクエアへ戻り軽食 ホテル近くのダヴィストック・スクエアガーデンズで休息 家族連れや友人同士、PCを抱え込んだ人など思い思いの時間を過ごしている その間をリスが食べ物をねだってちょこまかしていた      

【10.8キロ 17,423歩】
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