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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

ヨーロッパ白人男性中心のヘテロセクシャリズム? ミシェル・ウェベリックの『セロトニン』を読む

2020-07-28 14:36:52 | 書評

 ミシェル・ウェルべックの小説は、しばしば私を不快にさせる。しかし、途中で投げ出したことはない。
 その不快さのひとつは性描写にある。彼によれば、それはほとんどペ*スとヴァ*ナの接合に還元されてしまうかのようだ。それでいて、それへの執着はかなりのものがある。
 
 もうひとつは、時折現れるミソジニー的な表現だ。この小説の前半に現れる日本人女性・ユズ(彼女の性生活も奔放で、集団での行為から獣姦にまで及ぶ)との関連もそうだ。
 彼女に面と向かって「メスブタ」と罵る場面もあるのだが、「おいおい、そんな彼女を結婚ではないにしろ、当面の伴侶に選んだのはお前だろう」と毒づきたくもなる。

            
 
 彼女が日本人だから私の中にある同胞意識が反応するわけではない。私にはそんな愛国主義や民族主義はない。
 この作品にも部分的に出てくるし、それを主題とした作品(『プラットフォーム』2001年)にもあるようにタイを舞台としたセックスツアー(それは西洋人男性の男性性を取り戻す試みとされる)などから考えて、ヨーロッパ白人男性中心のヘテロセクシャリズムの匂いが否定できないのだ。

 にもかかわらず、なんやかんやいいながら彼の小説をつい読んでしまっていて、『素粒子』を皮切りにこれで6冊目になろうか。
 それらのうち、『地図と領土』、『服従』については、やはりブログに書いているので、下記にその所在を示しておこう。

 なぜ読んでしまうのか、恐らくそれは、そのアクチュアルなリアリズムのせいであろうか。わざわざ「アクチュアルな」と形容したのは、彼の小説は決して一般のリアリズムの域に収まるものではなく、むしろ逆に、SF的な奇想天外な展開が多い。 
 『素粒子』や『地図と領土』はその結語部分は未来社会だし、『服従』はフランスにイスラム政権が発足するというシチュエーションによるものだ。

        

 したがって一般的な意味では空想に属するのだが、それでいてまさに現実を鋭く抉り取ったような、少なくも静謐な現実観察では得られないリアルさがある。それは恐らく、私たちのこの現実の可能世界を垣間見させる試みかもしれないのだ。「アクチュアルな」リアリズムと形容する由縁である。

 ただし、表題の『セロトニン』にはそうした飛躍はほとんどない(中盤の農民闘争を除いては)。
 セロトニンとは何か、私の初めて出会う言葉である。それは幸福ホルモンと呼ばれる神経伝達物質で、抗うつ剤の「キャプトリクス」がその分泌を促進するという。そして、これは主人公の常用する錠剤でもある。

「それは白く、楕円形で、指先で割ることのできる小粒の錠剤だ」

 これがこの小説の書き出しだ。そして全く同じ一文が、この小説の最終節の冒頭にも出てくる。
 主人公、フロラン=クロード・ラプルストはうつ病のためこの薬を常用し、そのために性的に不能に陥っている。そのジメジメした閉塞感が全編を覆う。

 彼は、少し触れたように、日本人の女性・ユズと同棲しているが、ある日、蒸発し、世間との接触をほとんど断つ引きこもりの生活に入る。彼が為すのは、タバコの吸えるホテルを見つけてそこをねぐらにし、過去を回想し、映画『舞踏会の手帳』よろしく、過去に関係のあった女性、ただし一人だけは唯一、親しかった男性を訪ね歩くことであった。

        

 それらの詳細は書くまい。
 印象に残るのは上に述べた男友達(彼は古い館を継承している領主の末裔にして自身酪農の経営者である)を訪問している間に起こった、農民たちと政府との壮絶な闘いの場面である。
 これは明らかに、グローバリゼーション、さらには欧州統合による矛盾の集積、ないしはその一つの帰結であり、「闘い」は悲惨な「戦い」へと展開される。

 もうひとつ息を呑むシーンは、主人公がかつて唯一愛し合え、幸せだったと自認する相手カミーユ(その幸せを壊したのも彼自身なのだが)の現在の居場所を探り当て、彼女に知られることなく、ストーカーとしてその公の生活から私生活までを監視下に置き、ある日ついに、狙撃用の銃の標的として意外な相手を捉えるシーンである。照準はピタリと合わされ、引き金に指がかかる。

        

 ウェルベックの小説が、いかに荒唐無稽な状況を描いていても、そこにはアクチュアルなリアリズムがあるといった。
 この小説においてのそれは、経済と性生活においての(新)自由主義の中で生じる格差を描いているといってもよい。その格差の底辺に対し、様々な「幸福産業」が「救いの手」を差し伸べる。しかしそれらは、常に様々な副作用を伴い、敗者は決して復活することはない。
 彼が服用するキャプトリクスが、その副作用として不能を伴うように。

        
 この小説にしばしば登場するパリ、サン=ラザール駅 一昨年夏、この近くで3日間を過ごした。写真はその折、撮ったもの

 結局彼は、窓から飛び降りて一挙に片を付けるか、それとも「幸福産業」の手を借りて緩慢な死を待つかを迫られる。
 いわゆる勝ち組に与し得ないものにとっては、この選択肢しかないのかという問いは、答えられないままにそこに置かれている。
 この小説においても、そしてこの現実においても・・・・。

 やはり、ウェルベックの小説からは目が放せない。

 *https://blog.goo.ne.jp/rokumonsendesu/d/20170904

 *https://blog.goo.ne.jp/rokumonsendesu/d/20170916

 

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7月終わりの三題噺・・・・マンゴーの種・音楽・蝉の棲み家

2020-07-26 23:57:19 | よしなしごと
【マンゴーに関する探究心】
 沖縄の方からマンゴーを頂いた。
 これまでマンゴーは、デザートやスィーツで切れっ端を食したことはあるがまるまるいただくのは初めてで、八十路すぎの初体験だった。同梱の説明書に従ってなんとか食べ方を習得した。
          
 ところで、その種はどうなっていいるのか全くわからず、それを探索。結果として、果実の中心に、甲イカの甲のように、平ぺったい種があることが判明。
 写真がボケているように見えるのは、その甲状の種子の周りに細かい繊維状のものがついているためだ。
           
 こんなこと知らずに死んでも構わないのだが、地獄の閻魔様との雑談のネタになるかもしれない、などと思ったりしている。
 しかしながら、最初の一個は、偶然この種と平行に包丁を入れたのでうまく食すことができたのだが、2個めは心して切らねばなるまいと思っている。
 
【ラジオで音楽を聴く】
 二階の自分の部屋にはささやかなオーディオセットがあり、ラジオも聴くことができるが、階下のリビングルームとダイニングキッチン(アコーディングドアで接続)にはTVはあるがラジオはない。
           
 調理などをしている間、TVには背を向けているので、どうせ音を聴くのならラジオがほしいと思っていたが、古いポータブルシステムがあることを思い出してそれを引っ張り出してきた。
 
 20年以上放置してあったものなので音が出るのかも心配だったが、ビニールにくるんで保管してあったせいかそこそこの音が出る。
 先ごろ固定電話を撤去したのでその後へ設置。正式型名は「パナソニック ポータブルステレオCDシステムRX-DT501」。
 
 当時はかなりしたのではないかなぁ、などと思いながら聴いている。
 連休中は、NHKFMでクラシック三昧を放送していたので、それを楽しんだ。
 
【ゴメンよ!蝉たち】
 庭のあちこちで蝉の抜け殻を見かけるようになった。でも、蝉の鳴き声を聞くことはない。
 これらの蝉の幼虫が地中に潜った頃、うちには桑と枇杷の樹があり、どちらへも蝉がよく止まって鳴いていた。とりわけ桑には、何十匹という数が止まり鳴き声を競っていたものだ。しかし、今やそれらの樹々はない。
 ようするに、彼らにその樹液を供給する樹がなくなってしまったのだ。三年ほど前、それらの樹があまりにも大きくなりすぎて管理不能となったので、伐採してしまったからだ。
 長い地中生活を終えて、さて地表のうまい樹液をと出てきた彼らにとってはまるで詐欺にかかったようなものだろう。本当にゴメンよ、と詫びるほかはない。
          
 これでも君たちのことを心配しているのだよ。というのは、樹液を出しそうな樹々のあるところまではここからかなり距離があるからだ。羽化したばかりの君たちが、ちゃんとそこまでたどり着いているのだろうか。
 私自身寂しいのは、二階の私の部屋の数m先でのBGMのような鳴き声がもう聞けないことだ。夏の終り頃にはツクツクボウシも来ていた。それらを聞くことももうあるまい。


 
 
 
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風営店への警官の立ち入りに反対します。

2020-07-20 15:54:08 | よしなしごと

 各紙が伝えるところによると、新型コロナウイルスの感染拡大防止策に関連し、菅義偉官房長官は、キャバクラやホストクラブについて「風営法(風俗営業法)で立ち入りができる。そういうことを思い切ってやっていく必要がある」と述べ、警察官による立ち入り調査に合わせて感染症対策を徹底するよう店側に促していく考えを示したそうである。

 久々に「風営法」という言葉に接した。
 現在の風営法は正式には「風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律」といって、1984年に制定されたものだが、この法にはその前身があって、それは1948年に制定された「風俗営業取締法」というものであった。

        

 この、「取締法」に注目していただきたい。そして、取締法という名前の法が他にあるかどうかを検索してみてほしい。確かにある。「覚醒剤取締法」「大麻取締法」などがそれだ。それらはすべて、この国では予め犯罪とみなされているものを対象にした法である(大麻については異論があるだろう)。
 ということは、この風営取締法は、風俗営業店を予めあってはならないものとして、それを取り締まることを目的としたものであった。

 では、風俗営業とは何であるか。一般的なバー、キャバレー(当時のグランドキャバレー)、クラブ、料亭などなどがそれである。その他にも、「喫茶店、バーその他設備を設けて客に飲食をさせる営業で、国家公安委員会規則で定めるところにより計つた営業所内の照度を10ルクス以下として営むもの(前号に該当する営業として営むものを除く)。店員による接待の無い低照度飲食店。 - 低照度のライブハウスやクラブなどもこれに該当する」とある。
 それらに対応したのが風営法対象外の一般飲食店で、ようするに、夜の街は、風俗営業と飲食店とで成り立っているわけである。

        

 しかし、風俗営業を予めあってはならないものとしてその取り締まりを行う旧風営法は、営業店にとっては厳しいものがあった。
 一番厳しかったのは営業時間で、0時をすぎると違反として検挙された。他には従業員と顧客との距離、照明のルクス、などなど細やかな規定があり、違反が重なると営業免許が取り消されることもあった。

 70年代初頭、私は飲食店をもったが、当時は午前2時まで営業していた。れっきとした飲食店であったが、それでもしばしば、無知な警官のパトロールがやってきて、「もう0時過ぎなのにいつまで営業しているんだ」などといってきた。
 「うちは飲食店ですから、署へ帰って六法全書でもご覧になったら」と追い返したりもした。

 しかし、たまらないのは常に取り締まり対象にされていた風営店の方だ。彼らは「社交事業協会」という業界団体を介して、その法の撤廃ないしは改正を求め続けた。
 一方、60年代後半から現実的な対応として登場したのがいわゆるスナックバーである。このおそらく日本独自のよくわからない業態は、風営法の網から逃れるために考え出されたものである。

        

 スナックは文字通り軽食を意味する。スナックバーのコンセプトは、われわれは軽食を提供する店だから風俗営業店ではないということで、バーなどとの差異化を謳い、営業時間の規制などから逃れようとするものだった。これは全国津々浦々に広がった動きで、既存のバーもその看板に「スナック」と付け加えるほどであった。
 それでも、スナックと当局の取り締まりとの攻防戦は続いたが、そのあまりの多さに実質的に風営法は機能不全になった。

 そうした趨勢と、業界の運動が相まって、新しく改正されたのが1984年の「風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律」であり、「取り締まり」の文字は消えた。
 私は当時、この改正を喜んだ。風営店は広い意味で私の店のお隣さんであり、客の行き来もしょっちゅうで、いわばともに夜の街を支えてきた仲間たちであった。

 今回、図らずも風営法の登場を目の当たりにしたのだが、驚き、自分の不勉強を恥じたのは、警官による立入検査がなおも生きていたことだ。私たちが想定しうる一般的な営業において、警官がいきなり立ち入るようなものが他にあるだろうか。
 ようするに、初代の「風営取締」の「取り締まり」の部分は今なお、立派に生きていたわけだ。

 コロナ予防の重要性はよく分かる。だが、なぜ警官の立ち入りなのか。保健衛生当局の援助ではなぜだめなのか。
 ここには旧風営法同様の、取り締まり対象として一段見下ろすような風俗営業観がある。風俗営業に対して強権をもってあたる以外に方法はないのか。それは、風俗営業、あるいは夜の商売に対するある種の差別意識ではないのか。

        

 圧倒的に多くのスナックやバーは、市民生活にしっかりと根を下ろした存在であり、飲食店と変わるところはない。

 確かに夜の街は都会の暗部をなしている面もある。だから真昼の都市を絶対的な基準にすれば、そうした夜の街は、ある種怪しげな匂いもするかもしれない。
 しかし、無色透明、機能本位の都市なんて、まるで影のない風景のように、かえって怪しげで気味が悪いではないか。
 また、そこへ流れ着くことによって生きている人たち、そこでこそ自己を肯定できる人たちもたくさんいて、それらの人たちとの交流も随分してきた。
 だから、彼らを単に「取り締まり」の対象にすることを肯定するわけにはいかないのだ。

 何がいいたいかというと、コロナ対策に名を借りた風営店への警官の立ち入りなどという乱暴で無粋な方針には反対だということだ。保健衛生当局による適切な指導とアドヴァイスこそが必要なのだ。

 

 

 

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20世紀の予言を検証・・・・というほどのことでもないのですが。

2020-07-17 15:56:21 | 想い出を掘り起こす

             

 『昭和史をどう生きたか』という半藤一利による、半藤自身がが諸人士と対談した記録をまとめた書がある。そのなかで、故・丸谷才一との対談には、二〇世紀にまつわる「予言」の話が出てきて面白い。
 以下はそれらをノートしたもの。

             

【当たり】
 戦前の石原莞爾の「いまにマッチ箱一つで都市が吹っ飛ぶような爆弾ができる」
【ハズレ】
 同じく石原莞爾の「満州国をもって五族協和の王道楽土ができる」
【当たり】
 N・ファーガソン(米学者)「欧米の植民地は経済人が運営しているが、日本のそれは軍人によるものだから必ず失敗する」

【ハズレ】ワシントンのポトマック川でラングリー博士の飛行機の公開実験が行われ、離陸と同時に川に墜落。NYタイムズは「いずれ飛行機は完成するだろうが、それは百万年先か二百万年先だろう」と報じた。
 その九日後、ライト兄弟が飛行実験に成功した。

【ハズレ】カーネギー「産業と科学技術の進歩せいで、二〇世紀には戦争はなくなるだろう」

【ハズレ】「やがて人と獣との会話が自由になり、単純労働は動物にとって変わられるだろう」これは外れたが、ロボットがその任についている。ただし、単なる単純労働ではなく、やがてAI が人を支配する可能性も・・・・。

【ハズレ】J・F・エリオット(米外交官)「日本が真珠湾を攻撃するのは不可能」(1938年)。これは3年後に実現。

           

【当たり】山本五十六「アメリカと戦争をしてはいけない。全世界を相手にすることになる。ソ連との中立条約は当てにならない。いつ攻め込まれるかわからない。
 自分はやがて討ち死にするだろう。
 東京は三度ほど丸焼けにされるだろう」(1940年)

【当たり】大本教出口王仁三郎「一九三一年は『イクサ始まる』と読み、皇紀に直した二五九一年は『ジゴクはじまる』と読む。だから大戦争が起こり惨禍が広がる」と1931年に予言。この年、満州事変が起こる。

【当たり】米SF作家が原爆開発の短編小説を書き。そのプロジェクト計画に「ハドソン川計画」と名付けた(1944年)。あまりの符号に驚いた参謀本部が慌てて飛んできた。その計画は実際に進んでいて、名前は「マンハッタン計画」だった。
 これは予言というより、作家の想像力が産んだ偶然の一致。

           

【当たり】アーノルド・トインビー(英歴史学者)の1932年の予言「日米戦は必ず起こる。日本は孤立し壊滅する。またこの間に、大英帝国は次第に没落する。
 この最後のものは、「予言」というより、歴史家が世界情勢を分析する中で導く出した、裏付けのある推測と言えるだろう。

 ところで、21世紀の「予言」や「予測」は混沌としている。それは恐らく、その出鼻をくじくように「9・11」があったからだろうと丸谷は語っている。

 

 

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若読みの修正 小林秀雄『モーツァルト』再読

2020-07-14 17:34:09 | よしなしごと

 所属する会で、小林秀雄の『モーツァルト』に関しての講演が行われるということで、その下調べとして当該書を再読した。最初に読んだのはもう半世紀以上前になろうか。で、その折、その書から何を得たのかはさっぱり記憶にない。「道頓堀を歩いていたとき」とか、「tristesse allante=かなしみが疾走する」などのフレーズを断片的に覚えているのみだ。

 モーツァルトの音楽もろくすっぽ聴いてもおらず、その伝記的な事実にも暗く、ましてや小林の圧倒的な博識にもついてゆけず、ただただ「読むべき教養書」としてその論理のみを追った読書だったのだから、ほとんど何も理解し得なかったのも無理はない。典型的な若読みのなせるところであろう。

            

 この半世紀、いろいろ身につけたものを動員して再度挑戦したわけだが、以前よりも見通しの良い読書になったのは当然としても、なおかつ、そのいいたいところをつかまえるにはさほど容易ではない書ではある。

 モーツァルトが天才であることは自他共認めるところである。その才の一つが、本来、線的に時間系列を追う音楽を、彼は一覧性のように全体像として想起することができたということである。こうした能力は、ジャンルは違うが、ミッシェル・フーコーにもあり、彼の読書は、ページを開いた途端、そこに書かれている事柄が一覧性として受容でき、行を追って読むことなしに、ページを順次繰ってゆくのみで極めて短時間に書を読み上げたという。

 モーツァルトに戻ろう。彼はその能力を手紙などにも書いていて、したがって彼が楽譜を書く際は、鼻歌交じりや周辺と冗談を交わしながらもそれをなし得たというのだ。なにしろ、頭に浮かんでいる総譜をただ五線紙に書き写せばよかったのだから。したがって、彼の書いた楽譜は戸惑いや苦闘の痕跡、書き直しなどはほとんど見られず、とてもきれいだったという。

            

 しかし、小林が語ろうとしたのは、そうした天賦の才能についてではない。たしかにそれはありうるかもしれない。しかし、それだけでは彼の音楽の本質を言い当てたことにはならない。
 小林は、この論考の中盤で、シューマンを筆頭とするロマン派の音楽に対する姿勢との対比でモーツァルトを語ろうとする。シューマンの功績は、その音楽と同時に、音楽を語る言葉を見出し、言葉や概念の音楽化を見出したことにある。彼が最初の音楽評論家と称される由縁である。

 しかし、これには功罪相半ばというかある意味で否定すべきだ小林はいう。必要以上に饒舌であり、論理的で、真に迫ろうとする衝動は音楽ではないというのだ。
 「明確な形もなく意味もない音の組み合わせの上に建てられた音楽という建築は・・・・」で始まる一節は、「人々は音楽についてあらゆる事を喋る。音を正当に語るものは音しかないという真理はもはや単純すぎて(実は深すぎるのだが)人々を立ち止まらせる力がない。音楽さえもう沈黙を表現するのに失敗している今日・・・・」と綴られる。

 小林はそこを抑えておいて、モーツァルトの経歴を振り返る。そしていう。モーツァルトの「円熟し発展した形での後の作品に現れる殆ど凡ての新機軸は、1772年の作品に芽生えとして存在する」と。「16歳で、既に、創作方法上の意識の限界に達した」ということの内容として、モーツァルトがその父に書いた「作曲のどんな種類でも、どんな様式でも考えられるし、真似できる」という手紙を引用する。

           

 「抵抗物のないところに創造という行為はない」とするならば、モーツァルトは天才が故にその「精神の危機」がいささか早く到来したといっていい。この危機への対応は「困難や障碍の発明による自己変革」でなければならない。
 そうして自らに課した宿題の提出、それこそが1782年から85年にかけて作曲されハイドンに捧げられた六つの弦楽四重奏曲(いわゆるハイドン・セット)だと小林はいう。そしてこれはまた、音楽上の借財の返済でもあったという。
 小林は少し上ずったトーンでこの一節をこう締めくくる。「・・・・モーツァルトの円熟した肉体が現れ、血が流れ、彼の真の伝説、彼の黄金伝説は、ここに始まるという想いに感動を覚えるのである」と。

 さらに、モーツァルトの作曲中のラプトゥス(情熱、熱中ぶり)などを紹介し、義兄のヨゼフ・ランゲの未完の肖像画などに触れたあと、モーツァルトの孤独と悲しみに言及する。例の「tristesse allante=かなしみが疾走する」も登場する。この「かなし」についてはサラッと触れられているだけだが核心を衝いているだろう。
 小林はいう。「・・・・万葉の歌人が、その使用法をよく知っていた〈かなし〉という言葉の様にかなしい」と。だとするならば、この〈かなし〉はなにかの欠落や喪失を嘆くものではなく、存在論的なそれ、いわば実存的な〈かなし〉にほかならない。だからそれは「ただのありのままの孤独」、つまり、自嘲やイロニーとは無縁な〈孤独〉に結びつくものであるとされる。

           
小林が参照したヨゼフ・ランゲ(妻コンスタンツェの姉・アロイージアの夫、つまり義兄)の手になる未完の肖像画。文中の記述によれば、小林はモノクロでしか見ていない。

 小林は、このモーツァルトの〈かなし〉と〈孤独〉に対比させるように、もう一度ロマン派を批判的に振り返る。「浪漫派以後の音楽が僕等に提供してきた誇張された昂奮や緊張、過度な複雑、無用な修飾は、僕等の曖昧で空虚な精神に、どれほど好都合な隠所を用意してくれたかを考えると、モーツァルトの単純で真実な音楽は、僕等の音楽鑑賞上の大きな試金石であると言える」と。
 そして、モーツアルトの歌劇などで肉声に与えられた音楽としての歌声を指摘したあと、圧巻の最終節に入る。

 最終節の前半で小林が注目するのが、モーツアルトの作曲が、ある主題に基づく目的の達成としての熟考による「制作」などではなく、「その場その場の取引」に過ぎなかったこと、そしてそれを、「外的偶然を内的必然と観ずる能力」によって自分の課題として引き受けることによって成り立っていたことを強調する。
 これはどういうことかというと、おのれに降りかかるものを忌避せず、「ヤー」といって引き受けるニーチェ的な運命愛(Amor fati)、それによって生じる偶然的なものとの出会い、即興性などを「これぞ我が人生」(セ・ラ・ヴィ =C'est La Vie) 受けて立つというモーツァルトの生き様そのものを示しているわけである。

 それを小林は、以下のようにまとめる。
 「彼はその場その場の取引に一切を賭けた。即興は彼の命であったという事は、偶然そのもの、未知のもの、予め用意した論理ではどうにも扱いえぬ外部からの不意打ち、そういうものに面接する毎に、おのれを根底から新たにする決意が目覚めたという事なのであった。単なる即興的才の応用問題を解いたのではなかった。恐らく、それは、深く、彼のこの世に処する覚悟に通じていた」。

 これがほとんどこの一文の結論のようなものだと思うが、若干の補足が続く。
 「モーツァルトは何を狙ったのだろうか。恐らく、何も狙いはしなかった。現代の芸術家、のみならず多くの思想家さえ毒している目的とか企図とかいうものを、彼は知らなかった」
 これにさらに言い足して、「歩き方が目的地を作り出した」ともいっている。

 そしてこれらのモーツァルトのありようが、彼の死生観、毎日の眠りに明日があるのかを問うというその死生観に根ざすものであることを示唆し、この一文は終わる。
 「彼の音楽は、その驚くほど直な証明である。それは、罪業の思想に侵されぬ一種の輪廻を告げている様に見える。僕等の人生は過ぎてゆく。だが、何に対して過ぎてゆくと言うのか。過ぎて行く者に、過ぎて行く物が見えようか。生は、果たして生を知るであろうか」

 この死生観は、恐らく小林のそれと深く重なり合うものであろうと思われる。
 そしてこの一文は、K626の『レクイエム』の冒頭に言及して閉じられる。


以上は読書ノートですから、私の主観は排し、もっぱら小林の主張に沿うべく書かれたものです。

 

 

 

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廃線名残りのプラットフォームにわが青春の面影が・・・・

2020-07-12 11:43:42 | 想い出を掘り起こす

 時折、篠突くような雨の降る土曜日、近所のサークルの人たちといくぶん遅い紫陽花でも見にゆこうかと岐阜県は池田町、そして本巣方面に向かった。当初は、もっと山深い板取方面へとのことだったが、連日の降雨で危険もあるとのことで急きょ変更したのだった。

        

        

 雨に煙る花の写真もたくさん撮ったが、それらは花の好きな友人たちに任せるとして、その帰途、思いがけないものに遭遇したのだった。
 それは両界山横蔵寺から岐阜へ向かう県道235号線を、懐かしい思いを抱いて(なぜかは後述)走っていいるときだった。道路に並行して、廃線になった鉄道のプラットフォームがくっきりはっきりと残っているのを目撃したのだ。

        

        

 それは、2001年10月に廃線になったかつての名鉄谷汲線の駅跡である。かつての北野畑駅跡である。廃線になって20年近く、こんなにはっきりとプラットフォームが残っているところは珍しい。明らかに人の手によって保たれているとみた。

 そもそも、谷汲線とはなんぞやという岐阜限定のローカルな話題を一般化する努力をすべきだろう。谷汲線は岐阜県大野町黒野と西国三十三満願霊場・谷汲山華厳寺のある谷汲を結ぶ路線だった。ただし、黒野始発ももちろんあったが、岐阜市の忠節駅発の揖斐線経由で黒野から分離してゆくものや、岐阜市の中心地、名鉄新岐阜駅(現在の「名鉄岐阜」)前始発で、岐阜市内線を走り、忠節駅から揖斐線を経由し、谷汲まで行くものもあった。

           

        

 なぜ私がこの電車を懐かしむかというと、高校時代の教師がこの路線の終点、谷汲近くの長瀬というところの寺の住職をしていて、在学中も、卒業してからもよくその寺へ遊びに行ったからである。そのメンバーもほぼ決まっていて、高校の文系サークルを仕切っていた五人組であった。仕切っていた文系サークルとは、新聞部、演劇部、歴史研究部、文芸部などであった。この五人のメンバーは、これらの部を横断的に行き来していた。
 夏休みに、これら文系サークルの合同キャンプなども行ったことがある。その内の歴研の顧問がこの教師だった。

           

           

 寺は広くて集まりやすい。だから何かというとこの寺に集まり、夜を徹して天下国家に激論を飛ばしたり、無鉄砲な文学論議に花を咲かせた。その折、往復に利用したのがこの路線だった。高校生の頃はもちろん、社会に出てからもいつも電車を利用していた。
 マイカーブームなどというのは私の世代が30代を迎えたあとの話なのであった。

 だからこの土曜日、私が車の窓から眺めた根尾川(揖斐川支流)西岸などの県道235号線の風景は、今から60年~50年前、かつての谷汲線の車窓から眺めたものだったのだ。そして、このプラットフォーム跡・・・・、私のうちに、衝かれるものがあったはご理解いただけるだろう。
 ついでながら、この地点に至る前、かつて私たちの訪れたこの教師の寺は、彼が亡くなって(嗚呼、その折、弔事を読んだのは私であった)以降、引き継ぐ者がなく、廃寺になり、しばらくその建造物自体はあったが、いまでは取り壊され、八重葎の荒れ地になっているのを目撃してきたばかりなのであった。
 さらにいうなら、かつてその寺を訪れた五人組のうち、すでに二人は他界している。

           

        

 廃屋、廃墟、廃線などにいくぶんフェチ気味な私だが、かつての様相をはっきり残しているこの駅の佇まいに、過剰な反応をしたのかもしれない。そこには、わが青春の痕跡が、具体的なカタチを伴って残っていたのだから。
 写真でご覧になるようにフォームは一本で、レールも手前側一本に見えるが、じつはこの駅、単線の相手方との調整をするためのいわゆる一面二線駅で、向かって左の、いまはススキや山の木々が侵食している側にも線路があった駅である。
 最後に、ネットから拾った現役時代の写真を載せておこう。これは谷汲方面から見たもので、フォームの向こうに、いまはなき駅舎も写っている。その駅舎のあたりは、私が撮った写真では、瓦礫が若干残っていて、たしかにここになにか建造物があったのではという幽かな痕跡を残すのみだった。

        
 
 なお、廃線時の一日の乗降客数は10人以内だったとのこと。

 ちょっと湿っぽい話になったので、ここで笑えない冗談を少々。
 「廃線」と「敗戦」を惜しむ人にそれぞれ。
 *廃線を惜しむ人に
 「廃線になる前、その路線にどれだけ乗っていましたか?」
 *敗戦を惜しむ人に
 「無謀な戦争に突入する前、それにどれだけ反対しましたか?」

 

 

 

 

 

 

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マルクス・ガブリエルの「新実存主義」とは何か?

2020-07-10 00:08:01 | 現代思想

 マルクス・ガブリエル『新実存主義』(広瀬 覚:訳 岩波新書)を読了した。
 この著者のものは、前に『なぜ世界は存在しないのか』(清水一浩:訳 講談社選書メチエ)を読んでいる。率直にいって、彼のその「新実在論」と称するものが、哲学史上で、ないしはポスト「ポストモダン」といわれる現在において、どう位置づけられるべきものなのかに戸惑いを覚えながら読んだ。

 今回の挑戦は、そうした戸惑いをどこまで払拭できるかへの試みでもあった。
 ところでこの書名は「新しい」実存主義を意味している。古い方の実存主義はというと、第二次大戦後の一大思潮として、私の少し上から私たちの年代まで、サルトルなどのその哲学上の展開に触れてはいなくとも、その文学作品(サルトル、カミュ、ボーボワールをはじめ、多くの作家をその系列に数えることができるかもしれない。いってみれば、文学的な生の一回性のようなものに馴染みやすい思潮だったから)や映画などで、意識するとしないに関わらずそれらに触れてきた。

              

 こと人間に関しては、まずその本質があって、それに従い私たちがたち現れるのではなく、私たちがどうあるか(どう実存しているか)によって私たちの本質が決められてゆくという「実存が本質に先立つ」というこの主張は、私たちが何にどう関わるか(投企)が私たちを決定するとし、その投企の対象はこれと限定されてはいないという意味で、「自由への恐怖」などともいわれた。その意味で、この思想はある種の決断主義ともいいうる。

 この実存主義は、私たちがいまここにあるということ自体が、単に投げ出されてある(被投)ということではなく、すでにして何ごとかの規定を受けているものであり、したがってその決断の内容も、仕方も、それらとは無縁のところで行われるわけでもなく、「自由の恐怖」というのも観念的な幻想に過ぎないとして次第に後退してゆく。
 しかし、芸術の分野では、その一回性、既存の制約を打ち破る偶然性の発露として、実存的な衝動は生き延びているのではなかろうか。

 それはともかく、それではそうした古い実存主義に対してガブリエルのそれはどう新しいのであろうか。
 先に第二次大戦後の実存主義ブームの中心にいたサルトルについて触れたが、一般的にそれに先行し実存哲学の系譜に属する思想家には、キルケゴール、ニーチェ、ハイデガーなどの名が挙げられる。しかし、新実存主義においては、カント、ヘーゲル、マルクス、キルケゴール、ニーチェ、ハイデガー、サルトルの名が挙げられている。これは妙なことなのだ。カントの「普遍的理性」、ヘーゲルの「絶対精神」、マルクスの「自覚したプロレタリアート」などは、強固な本質規定として、「実存が先行すべき」実存主義とは対峙してきたものにほかならない。

        
 
 しかし実は、ここに新実在論に基づくガブリエルの「新しい」実存主義を解く鍵があるともいえる。
 ガブリエルは、自分がサルトルから継承したものを次のようにまとめている。
 1)人間は本質なき存在であるという主張
 2)人間とは、自己理解に照らしてみずからのあり方を変えることで、自己を決定するものであるという思想

 この2)のまとめ、「自己理解に照らしてみずからのあり方を変える」という僅かな拡大解釈の中に、カントやヘーゲル、そしてマルクスが登場する余地があるのである。彼らは、大きな意味では、対象を受動的に解釈する、あるいは対象からの一方的な侵食に身を任せることなく、まさに「自己理解に照らしてみずからのあり方を変える」試みをなしたと評価するわけである。

 もう一つ指摘すべきは、彼はここで、人間の「心」に関する問題を、自然科学的な理解へと還元する自然主義と闘っているということである。この自然主義とは、ようするに人間の心や意識のありようを、脳内のニューロンの働きとして説明しうる…今はできなくとの将来はできる…とするもので、人間を自然の延長(のみ)として考えようとするものである。
 この悪しき自然主義の極論は、他者も自身も、所詮は物質の運動にすぎないというニヒリズムへと誘う。
 だから彼のこの第一章「新実存主義」には「自然主義の失敗の後で人間の心をどう考えるか」というサブタイトルが付けられている。

 思えば、ガブリエルの「新実在論」は、この現実、事実自体などは存在せず、言語を中心とした私たちの営為によって構築されたものに過ぎないというポストモダンに帰結するような「構築主義」に対抗するために構想される一方、自然主義による人間そのものとあらゆる意味の場である世界(地理的な意味ではない。むしろハイデガーの世界内存在に近い意味での世界)の抹殺に対抗するものであった。
 その意味では、彼の「新実存主義」は、その「新実在論」の人間における展開を示すものといえる。

 いずれにしても、マルクス・ガブリエルの展開にはまだまだ良くわからないところがあり、上の整理も的を射ているかどうかわからない。ましてや、この哲学のもつ意味合いのようなもの、実践的な指針としてのそれなどの検証はこれからだろうと思う。
 ただし、一部の社会学などでは、すでにそれを方法に取り入れているようにも見受けられる。
 

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