六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

馬に出会う。そして、ラストラン。

2012-04-29 16:16:27 | 写真とおしゃべり
 4月ももう終わろうという晴天の日、ラストランの写真と動画を撮って欲しいという要請を受けて、愛知県は一宮市の郊外へと出かけた。
 「ラ」ストランであって、レストランの打ち間違えではない。
 また、ラストランといってもマラソンのそれではなく乗馬のラストランである。

       

 子供の頃、疎開していた集落には馬や牛を飼っている家があり、彼らが農作業や荷駄を引くのは当たり前の光景で、したがって、それらをごく身近で見ていたものだ。
 小学校の同級生の何某は、馬にいたずらを仕掛け、馬を怒らせ頭をがぶりとやられ、幸い大事には至らなかったが、その歯型が禿になって残った。
 私の疎開した先の家には馬はいなかった(ただし、土間を挟んで居住部分の向こう側に馬小屋の跡が残っていた)が、家の近くを通った馬が糞をするたび、婆さんが「六、早うとっといで」というので、ちりとりと竹箒のちびたのを持ってそれをとってきた。どうするのかというと、畑にまいて肥料にするのだ。



 飼い慣らされた馬はおとなしく、人懐っこい。
 カメラを構えると、その鼻面をレンズに押し付けてくる。
 今日のラストランをするひとが乗るのは、エスポワールという名の馬である。
 おとなしく賢そうな顔をしている。
 しかし、よく見ていると馬の眼というのはどことなく哀しげで、森の中の人知らぬ湖を覗くような気分にさせられる。そして、それを覗く者の罪を静かに問うているかのようなそんな眼差しでもある。



 ラストランということで馬術競技用の正装で乗るらしい。
 着替えたりする間、馬場や厩舎を見て回る。
 こじんまりとはしているがよく手入れがされている。
 近くにけっこう交通量の多い道路があるが、それを除けばのどかな郊外の風景が広がっている。
 草の匂いが一面に広がっていて、つばめが肩口に触れ合うように飛び交う。もうすぐ、揚雲雀の季節がやってくると、頭上から賑やかなさえずりが降ってくることだろう。



 ラストランが始まった。
 馬の乗り方などはまったく分からないが、いろいろスピードや走法を変えて乗っているらしい。
 それらを写真と動画に収める。
 ひとしきり乗ってから、馬場を後にする。
 さすがに幾分寂しそうだ。
 この人が今後馬に乗るとしたら、なんかの拍子にビジターでここを訪れるか、あるいは、観光地などの牧場で乗るぐらいだろう。



 去る人がいれば来る人もいるのだろうか。
 帰り際、可愛い女の子が二人、馬を見に来て、「ほら、おじいさん、白いお馬だよ」と教えてくれた。
 やがて、彼女たちにも素敵な白馬の王子が現れることだろう。

これを書いている間、頭の中をある一つの歌がぐるぐる回っていた。
 それについて書きたかったが、散漫になるのでやめておく。
 また、機会を見て書こう。

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雨の奥美濃・せせらぎ街道・明宝磨墨の里公園界隈で

2012-04-27 03:25:25 | 花便り&花をめぐって
      

 4月はいろいろあってヒッキーを決め込んでいたのことは先般の日記にも書きました。大好きな映画も、TV以外では一本も観ていません。
 このままでは老化は進む一方。情報弱者、買い物弱者、交通弱者、などなどのボキャが頭に浮かびます。

      

 雨の一日、それらのボキャを振り払うように、誘われるまま奥美濃はせせらぎ街道、明宝磨墨(するすみ)の里公園へと出かけました。
 公園界隈は花桃や紅白の枝垂れ桜、さらには山桜も入り混じり、さながら花の競演状態でした。


 
 傍らの吉田川の清流も爽やかに、こうなるとそぼ降る雨さえも完全に風情のうちです。雨のせいで人出がないのも私にとっては好ましいのです。 
 もう何十回も利用したこの街道筋は、四季折々の趣があって、いつ来ても飽きることはありません。


 
磨墨の里
 前にも書きましたが、佐々木高綱と梶原景季の「宇治川の先陣争い」の際、梶原が騎乗したといわれる名馬「磨墨」はこの郡上(ぐじょう)地方の産であるといわれています。
 郡上節の「春駒」の一節は以下のように歌っています。

   郡上は馬所(うまどこ)
    あの磨墨の名馬だしたも 
    ササ気良の里 
    七両三分の春駒春駒

 以下はその動画です。
 http://www.youtube.com/watch?v=cdH0SKUtdFE
 1)上村美保子とJIGENによる唄とベースのユニット桃梨(MOMONASHI)によるもの。
 http://www.youtube.com/watch?v=Iv38vNg0Tq8
 2)正調郡上節によるもの(踊り付き)

 なお、「磨墨」や郡上節についての更に詳細な記述は一昨年の以下の拙日記をご参照ください。

 http://pub.ne.jp/rokumon/?daily_id=20100812
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出番を待つ 晩春から初夏へ

2012-04-25 01:47:54 | インポート
 ちょっと遅くやってきただけに今年の春は駆け足なのでしょうか。
 24日には30度越えの真夏日を観測したところもあったようです。
 2日続きの雨とそのあとにやってきたこの暖かさに誘われて、わが家でもいろいろな植物が出番を待ちかねています。

       

 まずはアケビの新芽なのですが、実はこれおじゃま虫なのです。
 もう30年ほど前、渓流釣りに行った帰りに山からとってきたものを二、三本植えたのですが、それが伸びるは伸びるは、ついには何本かの植木を完全に覆い尽くすほどになりました。それでいてあけびの実は二、三個しか採れないのです。
 
 笑い話にしているうちはよかったのですが、電話の引き込み線にまで這い上がり、とうとう、当時の電電公社に注意を受けるに至りました。一度は無償で除去してくれましたが、次回からは故意の損傷として有償にしますと脅されました。
 ここにいたっては、ついに、泣いて馬謖を斬らざるをえなくなったたのです。
 できるだけ根っこから除去したつもりなのですが、根が地を這っているものとみえ、それ以降、毎年新しいものが何本か生えてくるのです。鮮やかな新芽を除去するには忍びないのですが、放置しておくと前の二の舞で、民営化されたNTTは無償で除去はしてくれないでしょうから、見つけ次第取り除いています。
 これももう少し猶予を与えてやりますが、あと何日かの運命です。



 ツツジのつぼみもはち切れそうになって来ました。
 赤いのものと白いものがあるのですが、どういうわけか白いもののほうが早いようです。
 写真を撮っていたら何やらもぞもぞしています。数ミリの可愛いてんとう虫です。
 
       

 このてんとう虫、なかなかの愛嬌者で、最初、花のつぼみのところでもぞもぞしていたと思ったら、私のカメラのレンズの方へやって来るではありませんか。そこで「ハイ、ポーズ」です。
 実は私、去年まで、このてんとう虫は赤星てんとう虫だとばかり思っていました。しかしじつは違うのですね。赤星の方はもっと大きな楕円の赤が背中に付いているもので、こちらの方はナミテントウムシというのだそうです。

       
 
 しかもこのナミテントウムシ、実に色々なバリエーションがあるのです。
 これはネットの図鑑から拾ったものです。

          

 最後はスズランの新芽です。日陰に置いてあるので少し遅いかも知れません。
 うっかりすると花が咲いているのも見落としてしまいます。
 葉陰で人知れず静かに咲く奥ゆかしさ、まるで私のようですね。
 (今笑ったひと、廊下で立っていなさい!)

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苗木は野菜の幼稚園

2012-04-22 11:47:43 | 写真とおしゃべり
 農協へいったら「苗木祭り」というのをやっていた。
 各種野菜などの苗を売っているのだ。
 子供の頃(といってももう60年ほど前になるのだが)田舎で育ち、今また郊外で畑の多いところに住んでいる私にとっては、たいていの苗木はそれと特定できるのだが、中にはわからないものも2、3ある。
 これらは、ここ半世紀の間に一般家庭の食卓に登るようになったもので、子供の頃にはその存在すら知らなかったものだ。
 回答はこの末尾を参照されたい。






   これは難問 苗というか根っこ     これもちょっと分かりにくいかな





 で、私はというと苗木は買わなかった。私のうちは山土の石ころだらけの埋め立てで、これらが育つには土壌改造からしなけれがならないからだ。
 買ったものといえば、朝とれの竹の子(今年2回目)と、葉物野菜、それに県産米のハツシモだ。
 ここ近年、地産地消でハツシモを食べている。美味しいお米だ。

     【解答編】 トマト      シシトウ
           カボチャ     ナス
           アスパラガス   オクラ
           スイカ      ピーマン
           キュウリ

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東浩紀『一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル』を読む

2012-04-21 02:32:45 | 現代思想
                  
 
 タイトルの書の読後感です。
 本書の概要は既にいろいろな人が要約しているので割愛。
 問題点のみ記述。

1)ルソー的な一般意志をバージョンアップした「一般意志2.0」は、ネットの、たとえば東が例に出している「ニコニコ動画」で拾えるのか。
 その包接範囲なども含めてそれを彼のいう数学的意味でのモノとしての一般意志となしうるのかどうか。

2)ハーバーマスとハンナ・アーレントをともに「熟慮民主主義」としてくくっているが、これはいささか荒っぽい括りではないか。
 ハーバーマスはともかく、アーレントは「熟議」や「コミュニケーション」に力点を置くのではなく、そこへと参加できる人間の可能性の条件についてつねに語っている。
 それはゾーエーとしての生命活動(=労働)からの解放としての「活動」だが、それらが常にうまくゆくとはいっていない。ようするに、公共の場へと参加しうることに意義を見出しているのである。
 この書の場合、そうした公共の場への参加は「ツイート」に還元されてしまうのだが、果たしてそれでいいのか。

3)集合的無意識の集積された一般意志2.0として可視化された「データベース」と、意識としての「熟議」が相補的に働いた政治のイメージが語られるが、その「相補」の具体的なイメージが見えてこない。
 ニコニコ動画によるフィードバックとそれへの呼応として一応は語られているが、その双方向的なチェック機能はどのように働くのだろうか。

4)モノとしての一般意志2.0に従った政治は小さな政治を理想とするとあるが、それのみではローティのいうところの「悲惨の減少」は実現しないのではないか。述べられている「治安警察国家」の他に、たとえば、ベーシック・インカムのような政策が実施されないところでは、アーレントのいうところの「経済」や「労働」に足を取られざるを得ず、したがって常にバイアスのかかった「一般意志(?)」しか形成されないのではないだろうか。

 それらの疑問を禁じ得ないのであるが、20世紀の政治を止揚した形態を、アーレントやローティに沿いながら考えてきた私にとっては、この二人に言及しながら、こうした政治のイメージが出来上がるということに、大いに刺激を受けた次第である。
 著者は、これはエッセイであり論証という点に重きは置いていないという。しかし、明らかにこれまでの著者の延長上に位置づけられる論考であり、したがって、上の私の疑問などもふっきる形で、さらに論証を深められることを切望する。

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新緑の候の川柳もどき(今年はじめてかな)

2012-04-18 23:39:44 | インポート
       

      【夜】
       たわむ夜 不眠がメルトダウンする
       あの日から私の夜に色がない
       夜という赦しのなかでまるくなる

       

      【流れる】
       さよならはいつものっぺり流れ着く
       拾われずいまも流れる桃でいる

       

      【人生】
       人間を辞めたくなった日の日記
       一篇の詩を葬って苦い朝
       セ・ラ・ヴィと見定めたから蒼い空

       

      【日本】
       にっぽんはさわがしすぎるからにほん
       インパルで散った親父のあゝ日本
       日本を消化せぬまま古希過ぎる

       

      【帰る】
       帰り道今日着たものは脱ぎ捨てる
       数だけは合わせて今日の終電車
       闇に背をまあるく溶かし帰るひと

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日記らしい(?)日記 私の4月15日

2012-04-16 15:16:10 | よしなしごと
  今月になって初めて名古屋へ出た。
 これまで、定例の会合や映画、コンサート、美術展などで月数回は出かけていたのだが、ここのところいろいろあって月半ばにしてやっと出かけることとなった。
 あと一回ぐらい出かけることができるだろうか。

       
           オアシス21では似顔絵大会が開催されていた

 そういえば今月になってから、自宅から半径5キロ以上には出ていない気がする。
 まるでヒッキーだが、私のような歳では危険な傾向だ。
 ようするに、それだけ世界というか世の中というかに接する機会が減っているわけで、情報との接触、とりわけ五感を用いた感覚的触れ合いがなくなり、その分、老化が加速するというわけだ。
 この五感を用いるという点では、今のところ、TVやパソコンでは代えがたいものがある。

       
              描き手の方のキャラもいろいろ

 地下鉄のなかで仲の良さそうな二人連れの女の子を見ていた。
 せいの低い丸顔の女の子は眼がくりくりしていて猫のようだった。
 相手と話す仕草も、どことなく甘えた感じがした。
 もう一人は決して険しい顔立ちではないが、ややキリッとして、犬に似ているような気がした。なんかとてもいいコンビに思えた。

       
                 こちらはロボットが
 
 同じ駅で降りたのでよほどそれを指摘してやろうかと思ったがやめた。
 そんなことをしたら変なジジイとしてその筋へ突き出されかねないからだ。
 地下鉄の車両やホームでは、迷惑行為があったらその旨お知らせくださいというアナウンスが常に流れている。
 でも、この犬猫コンビ、なかなかいい雰囲気で、本人たちにもそういってやりたかった。

       
                    憩う人たち

 その後、コンサートではないが、CDでベルカント歌手の歌声を10人分(エンリコ・カルーソーからエディタ・グルベローヴァまで)を聴いて、その脳髄に達するような声に痺れた。
 人間の声は鍛錬次第であんな表現ができるのだと、当たり前のことをいまさらながら確認した。

          
                    色即是空 

 赤ワインを飲んだ。
 ほろ酔いで夜の街を歩いた。春宵一刻値千金だ。
 JRで自分の街まで帰って自転車で帰宅。
 頬に当たる風が心地よく、つい先日まで、「今年はいつまでたっても寒いね」と言っていたのが嘘のようだった。

          
                 消防車と名残の桜
 
 帰宅してゆっくり入浴。
 パソコンを開いたら親しい人からのメールが入っていたので慌てて返信を書いたが、どうも15日中には間に合わなかったようだ。
 偶然というものは恐ろしいもので、その日の午前中、その友人がちょうど40年前に書いた小説が載った文芸同人誌を本棚の隅から見つけ出していたのだった。

       
                  地下鉄にて・1
             

 それを読んだ。
 同人誌から『文学界』に転載されただけあって、読み応えがあった。
 70年代の帰結のようなあの連合赤軍事件があった年だけに、それと名指されないままにそれらに枠付けされた時代の情況そのものが、モノクロの情景をみるように伝わってくる。
 その文章の繊細さには参った。澱んだ感やざらついた感がまるで自分の五感で感じているように伝わってくる。

       
                  地下鉄にて・2

 実は、小説というものを一度は書いてみたいと、戯れに書き始めたものがあるのだが、言葉をまるで音楽における音のように駆使してそれを表現するというその技法に比べれば、私の書きかけのものはまるでレポートか報告書に終わっていて、小説にまで昇華されていないことを骨の髄まで知らされた。
 でも、こういう衝撃は、どこか心地よいものがある。
 


野田内閣の大飯原発稼働再開の決定に強く反対し、抗議します。
 あわせて、直ちに国会を解散し、その再開について、国民の信を問うことを要求します。

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花の終わりと若葉のラプソディ そしてあの歌

2012-04-13 23:04:19 | 写真とおしゃべり
 季節の移ろいというか時間の経過というのは、どこかしら残酷な面を持ち合わせている。
 せっかく到来したものを早々と追い立て、もうそれらが過ぎ去ったものだと烙印を押し、ついには記憶の中からも追い払い、なかったことにしてしまう。

       
       ウメ

 とりわけ花の終わりの時期にはそれを感じさせるものがある。
 桜という花がぱっと咲いてぱっと散るということから、そうした思いを増幅させるるのだろう。
 だから、それを素材にした感傷的な詩歌や無常感に触れた言葉はきりがないほどある。
 そしてそれらのほとんどが、それを自分自身の春、あるいは人生の経過と重ね合わせている場合が多い。

       
       ツツジ
 
 しかし逆に私のように、もう何度春を迎えられるかは心もとない身としては、そんなところにいちいち立ち止まっているわけにはゆかないのであって、ただただ新しく到来するものを受容するほかはない。
 これは花や季節の移ろいに託した疎外論のようなものへの私なりの戒めでもある。
 ゆくものを本来性の喪失として嘆いているよりも、来たるべきものを「ヤー」といって歓迎し、それとともにあるべきだろうと思うのだ。

       
       マサキ
 
 などと気取ってみてもみなくとも、移ろうものは移ろう。
 花は水面に墜ち、花筏となって流れ、そのあとから新緑が追いかける。

       
       ナンテン
 
 この時期になると思い出す歌がある。
 小学生の折、覚えた歌であるが、調べてみると1942年(昭和17)、国民学校初等科第四学年用の音楽教科書に載った歌とある。
 題名は「若葉」、作曲者は平岡均之、作詞は松永宮生。
 その歌詞は次のようだ。

  1) 鮮やかな緑よ 明るい緑よ
   鳥居を包み 藁家(わらや)を隠し
   香る 香る 若葉が香る
  2) さわやかな緑よ 豊かな緑よ
   田畑を埋ずめ 野山をおおい
   そよぐ そよぐ 若葉がそよぐ

 http://www.youtube.com/watch?v=2Snu6SaPMMo
    (絵はいまいち。でも載せてくれただけでいい)

       
       サクラ
 
 曲調も明るくていいと思う。
 戦時一色の1942年に、よくもこんな美しい歌が国民学校唱歌に登場したものだと思う。
 私自身が歌ったのは戦後まもなくだったが、それでもこの明るくてさわやかな歌は強く印象に残っていて、この季節、ふと気づくと知らぬまに口ずさんでいたり、脳内で反芻したりしている。

          
          サンショウ

 鮮やかな緑、明るい緑、陽光を浴びて光る緑、こんな素敵なものがやってくるのに、どうして散る花を惜しんだりしていられようか。
 若葉は香る、そよぐ、そして光る。
 私はそのなかで面を上げ続けていたい。
 


   *野田内閣による大飯原発再稼働の容認に反対し、強く抗議します!
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六も歩けば花鳥にあたる マイ・プロムナード

2012-04-11 01:38:21 | 写真とおしゃべり
       

 ここんとこ3、4日ほどというもの家からほとんど出ていないので、足腰が萎えるといけないと思い、近くの「マイお花見ロード」を中心に花を愛でる散策をと洒落こんだ。
 前にも書いたが、水路を挟んで数百メートル以上にわたる桜が咲き誇るのだが、見に来る人は少ない。「マイお花見ロード」と呼ぶ所以である。

       

 花は今を盛り。もう2、3日もしたら立派な花筏が見られるだろう。

       

 この時期この水路にはカルガモがやってくる。たいていはつがいだ。
 そしてもうしばらくすると、ぬいぐるみのような仔ガモたちを連れた編隊が見られることとなる。

       

 一羽、ちょっと羽が変なのがいた。
 見ていたら泳ぐのには不都合はなさそうだが、飛べるのだろうか。ちょっと心配。

       

 鳥といえば、スズメが花の蜜を吸っていた。こんな場合メジロが絵になるようだが、この辺にはあまりメジロは来ないし、スズメだってけっこう可愛いのだ。

       

 桜の下ではたんぽぽが負けじと咲いている。
 以前、農道ののり面にびっしり咲いているところを見つけたが、舗装工事かなんかの影響で今はそんなに密集して咲いてはいない。

         

 帰途、集落の中のむかしながらの細い道を辿っていたら、桃の花に出会った。
 ここはときどき散歩するところだが、桃の花に出会ったのは初めてだ。
 なんだかとても得をした気がした。

       

 桃といえば、むかしは「桃色遊戯」という言葉があって、新聞などにも、中学生だか高校生だかが「桃色遊戯で補導された」などという記事が載っていた。私なんぞは半分怖いような、半分羨ましいような気持ちでそれらを読んだものだ。
 もうそれに該当する行為は、中高生の間でも日常の当たり前のことになってしまい、それを識別する言葉も死語になってしまったのであろう。

       

 最後は、ソラマメとイヌフグリの花である。
 以前、こんな可憐な花を「犬のふぐり」とは気の毒なと憤慨していたら、「大丈夫、今の若い人は《ふぐり》という言葉の意味なんか知りはしないから」と慰留された。
 以来、そんなものかなぁと思うことにしている。

       

 2時間近くぶらぶら歩いたら、足腰に「チカレタベー」というサインが出た。
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大飯原発の再稼働に反対いたします。

2012-04-09 04:06:31 | 社会評論
       

 野田内閣は大飯原発再稼働に関し、4閣僚による関係閣僚会議を行い、慎重かつ熟慮を重ねてその安全基準を検討すると明言しました。
 そしてその二日後には実質上の再稼働ゴーサインともいえる安全基準を採択し、近々、枝野を現地に派遣し地元の了承を取り付けるといっています。

 多忙な4人がたった2日間でどのような熟慮を重ねたのでしょうか?
 その討議の過程は公表されていません(議事録がないのが彼らのやり口)ので詳細はわかりませんが、そんな熟慮などはまったく行われず、「はじめに再稼働ありき」をただただ追認しただけであることは火を見るより明らかです

 フクシマの具体的かつ最終的な検証もまだ終わっていません。それどころか未だ当事者がどんな状況にあるのかもつかめていないのが実情です。昨年末の常温停止の政府宣言も嘘っぱちであったことは今なお原子炉の温度の度々の異常上昇が見られることで明らかです。
 放射能も垂れ流し状態で、大気は無論、海水、地下水、土壌などへの汚染も続いています。昨日も、愛知県の幼稚園の給食用の椎茸から基準値をはるかに越える放射能が測定されたばかりです。

 政府に安全を具申したのはあの悪名高き経産省原子力安全・保安院で原発を客観的に見ようとする学者や有識者をあらかじめ排除した原子力ムラの下請けでイエスマンの集まりにほかなりません。
 これらの決定は、まるでフクシマがなかったかのようなのです。そしてフクシマで繰り返された「絶対安全」の神話がまたしても幅を効かせようとしているのです。

 冒頭に述べたように、これで関西電力の作業工程表が出されれば、枝野が地元の説得に出かけるわけですが、ここにも大きな問題があります。
 現行の規定では、地元の県知事と市町村長が了承すれば再稼働ということになるのですが、福井県知事というのは福井県にもんじゅやふげんを含めると15基もの原発を導入した賛成派の人脈に連なる人物です。
 そしてまたおおい町の町長は、関西電力におんぶにだっこの下請け企業の会長格なのです。
 この人達が住民や近辺の立場に立って客観的判断ができるとは到底思えません

       

 この「地元」という限定がクセモノなのです。
 大飯原発は小浜湾に突き出た半島の先っぽにあります。その立地条件からして、もう何年も前に原発はいらないとしてそれを拒否した小浜市民の実に70%をその10キロ圏内に抱え込んでしまっているのです。これが「地元」おおい町の住民よりはるかに多い数字であることは言うまでもありません。

 そればかりではありません。地図で確認していただくとお分かりのように福井県の嶺南は南北に狭いところです。したがって、大飯原発から30キロの圏内には隣接する滋賀県や京都府が含まれてしまうのです。
 大飯での事故の被害はさらに広域化する恐れがあります
 
 岐阜県のNPOが先月行った福井県の原発地帯の海岸から200個の風船を飛ばした実験では、約二時間で岐阜の西濃地方、続いて中濃地方、そして東濃地方にも落下が確認されました。さらには愛知県でも何個かが確認されました。
 これらは山林に墜ちず人の目に触れたものだけですから、ほとんどすべてが途中の滋賀県にもそして岐阜県や愛知県にも至ることが確認されたわけです。
 なお、風向きによっては養老山脈沿いに三重県に至ることも十分考えられるとのことです。

 これらは決して被害妄想や風評ではありません。
 フクシマの経験が明らかなように、茨木や千葉、東京や神奈川など関東一円に放射能のホットスポットが存在し、その地区の農産物が出荷できない情況にあるのです。
 また、たとえ低量の放射能であってもその時間の経過による累積放射能の人体に与える影響は間違いなく障害をもたらすと思われます。
 プルトニュウムをコップに一杯ぐらい飲んでも影響はないというご高説をお述べになる東大教授がいらっしゃいますが、よいこの皆さんは決して真似をしてはいけません

 これらの事実が示すのは、もはや原発に地元はないということです
 したがって、枝野と地元(福井県・おおい町)の談合で再稼働を決めるような問題ではないのです。

       

 関西電力が、今夏電力不足に陥るという宣伝がまことしやかに流されています。確かに関西電力の原発依存度は高いのですが、それも彼らの得意な台詞を使えば「自己責任」ともいえます。
 ただし、それによる危機を回避する方法はいくらもあります。原発依存度が低い中部電力は今夏のピーク時でも、十数%の余力があるということですし、九州電力にも余裕が有りそうですから、そちらから融通をしてもらい、あとは管轄内での節電をすれば十分乗り越えられるのです。
 ここで危機感を煽る彼らのやり方はまさに汚いという他はありません。

 政官財、それに御用学者がつるんだ何が何でも原発という野蛮なエネルギー政策をこの辺で断ち切らねばなりません。その廃棄物は子々孫々にまで溜まる一方で、クリーンどころか蛸が足を食うようなエネルギーなのです。
 また、小金を生産性の低い地方に対してばら撒き、その金に依存せざるを得ない体質にしておいてから危険を押し付けるというやり口はもろに差別の構造を示しています。

 民主党であろうが何党であろうが、原発再開を強行する内閣にははっきりと「ノー」を突きつけ倒閣運動をすべきだと思います

 なお、これに関連する件を前回の記事にも書きました。
  あわせてご覧下さい。

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