六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

10日前の野蒜と映画『靖国 YASUKUNI』

2008-04-30 17:54:21 | よしなしごと
 10日ほど前、住まいから三分かからないところにある田圃ののり面で、野蒜(ノビル)をとってきました。
 下の写真がそれです。
 
  一部は紐のように結んで天ぷらにし、後はぬたにしました。
 横にある真珠のような小粒のものは、親の株にくっついていたもので、これは生のまま、生味噌をちょいとつけて食べました。
 酒が進んだことはいうまでもありません。

 

  ところで、前にここに書きました映画『靖国 YASUKUNI』、名古屋においての上映は日本会議などの抗議活動の展開予告や、訳のわからない脅迫じみた電話などのため一時延期になっていましたが、そうした騒動がかえって世論を盛り上げ、このたび改めて上映が可能になりました。
 六月下旬の日程に入りそうです。

  映画の評価はともあれ、作られた作品は広く観られ、その上で論議を展開すべきだというまっとうな考えの人たちが、とにかく上映そのものを妨げようとする人たちに敢然と対応した結果だと思います。

  時間が経つということは、そこにあったものがなくなったり、なかったものが現れたりいろいろ変化するということです。
 この映画についても、稲田とか有村とかいう連中がキャンキャン騒いだおかげで、かえって問題の所在が広く伝えられ、事態が好転したといえます。

  10日前に食べた野蒜の群落地、昨日通りかかったらもう葱坊主のようなものが出かかっていました。
 これからとってきても、もう堅いことでしょう。
 まこと、時間とは物事が変化することそのものだと思います。


 *明日は、名古屋のテレビ局が報道など諸方面を集めて行う上記映画の試写会に行って参ります。
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花と虫と、そして人間の脆弱性?

2008-04-29 18:20:09 | よしなしごと
 郵便局へ出かけた。
 片道10分ぐらい、田園に沿い、また川沿いに自然が臨める道を行く。

 花々はあでやかに咲く・・ばかりではない。
 以下は、その道すがら見かけた野草ないしは地味な花たちである。

     
         コノテガシワという木だと思う

 花が植物の生殖に関わる機関であることは誰でも知っている。
 そしてそのために、できるだけあでやかに咲くのだと思っている。
 とりわけ虫媒に頼る植物にとってはそうだろうと思っている。

  
       この木にも十字架のようなかわいい花が

 しかし、それは私たちの後知恵である場合が多い。
 色合いも大きさも、さほどあでやかではなく、むしろ私たちがよほど気をつけて見ないと見過ごしてしまうような、地味な花たちが、それなりに虫を集め、ちゃんと繁殖しているのである。

 もちろん元々あでやかな花は自然界に多いのだが、今日、園芸品種としてもてはやされているもののほとんどは、本来はより地味であったものを観賞用にと人間が手を加え、生み出したものが多いのである。

 
          アカメガシの花だろうか

 地味な花では虫も寄るまいと思うのは大きなお世話である。
 あでやかな色にしたって、虫が私たちと同じ視野や視界を持ち、その上で判断しているとは限らないのだ。
 
 大きさにしたって、虫の身体の大きさからすれば、小さな花でも十分大きいのだ。
 人間にとってのバラの大輪と、虫にとってのイヌフグリの花とどちらが相対的に大きいかを考えてもわかろうというものだ。

 
        石灯籠の石積みにしがみつくカタバミ

 だから、植物や虫にとって、花はあでやかで大きい方がいいというのは、私たちが勝手に花や虫を擬人化し、彼らの目的意識やその関連などを付与しているに過ぎないのである。

 花はなぜなしに咲き、虫はまたなぜなしに飛ぶ。
 それらは全く異なった行動の系列であって、それぞれの系列にとっては偶然にしか過ぎない。
 しかし、それら二つの系が交差するところに、花の営みと虫の営みの相互の共同性のようなものが生み出される。
 それが自然のおもしろいところである。

 
           ぺんぺん草の仲間の群落

 だから、自然の営みは、私たちが後知恵で考えるように、「何々のために」という目的意識の系列ではないのである。
 自然という言葉には、「おのずから」とか、「ひとりでに」という意味があることを思い出してみよう。
 
 
       よく見る花だが名前は知らない(ゴメンね)

 では人間様の営みはどうか。
 一人一人は目的意識を持っているだろう。
 あるいは、ある集団もそうしたものを持つであろう。

 しかし人は何十億人といて、また、国家や民族をはじめとする各種集団も無数である。
 それらがクロスするところに私たちは生きている。
 だから、相互の目的意識の違いのようなものが、私たちのありように無数のバラエティを与える。

 
       よく見る花だが名前は知らない(ゴメンね)

 要するに、そうした複数の系列が織りなすベクトルの偶然性のうちに私たちはあり、それがその時々の歴史的な相をもたらす。
 その意味では、私たち人間世界の置かれた状況は、花と虫との系列がクロスする平面より遙かに複雑で不安定だといえる。

 
       よく見る花だが名前は知らない(ゴメンね)
 
 それが証拠に、あるスパーンで捉えてみると、花再々、虫再々なのに、それに比べて人間様の栄枯盛衰は遙かにせせっこましいのである。

 これが野に咲く地味な花々から見た、哀れな人間のありようなのであるとひとまず彼らの立場からいっておこう。
 あ、私もまた、いわれなき擬人化の禁を犯しているようだ。



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「白に交われば赤くなる」?

2008-04-27 17:15:43 | 花便り&花をめぐって
 無学な六が「朱」と「白」を間違えて書いていると思った方いらっしゃいますか。
 いらっしゃいません? ア、そこのひと、そう思いましたね?

 私の家のツツジ、満開です。
 去年も書きましたが、この白いツツジの木のうちで、ひと枝だけ赤い(というか濃いピンク)の花を付ける箇所があるのです。
 毎年決まった枝です。

 

 遺伝子のいたずらでしょうか。それとも突然変異でしょうか。
 しかし面白いものです。

 ダーウィンは適者生存による進化を論じました。
 しかし、種が変化してゆくメカニズムは曖昧でした。
 それを補足したのが突然変異という考え方です。

 要するに、その種の外部から来るある偶然のような作用が働き、それが種のありようを変え、その種に歴史的変化をもたらすのです。
 これは、ある偶然のような突発事項こそが歴史的変化に関わることを示しています。

 

 もちろん、こうした生物の歴史を、人間世界の歴史にそのまま置き換えることは出来ませんが、その類似は指摘できるでしょう。

 私たちの誕生そのものが、こうして世界へと投げ出された私にとっては偶然です。私のみならず、多くの人たちがこうして世界へと投げ出されます。
 これは私にとってもその他の人にとっても、そして世界にとっても新しい事柄の始まりといえるのではないでしょうか。

 私たちは複数で、新しい活動をすべく生まれてきたのではないでしょうか。
 この誕生という、しかも複数での誕生という事実の中に、人間の歴史の萌芽もあるような気がします。
 今までと違ったあたらしいものの誕生、例えば白い花のまっただ中で赤く咲いてみせるとか・・。

 

 ア、せっかく何やら高尚なことを考えていたのに、俗人の私はここで、藤 圭子の「夢は夜ひらく」を思い出したのであります。

   ♪赤く咲くのは けしの花
    白く咲くのは 百合の花
    どう咲きゃいいのさ この私
    夢は夜ひらく


 さて、私はどう咲けばいいのでしょうか?
 え? お前はもう枯れてしまっているって?
 ほっといてください!

 

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第一次作戦大成功!乞う!ご期待!

2008-04-23 04:46:36 | よしなしごと
 3月23日の日記で、キジバトのつがいが私の家へやってくること、それらに営巣させて、子育てを見極めたいこと、そのために、賞味期限切れのクラッカーを砕いて撒いたり、古いザルを木の枝に固定し、そのベッドをしつらえたことを書きました。

  http://pub.ne.jp/rokumon/?daily_id=20080323
 
 これを読まれた方は、そうはイカのオツンツンと思われたでしょう。
 しかしです、しかし、しかしはシカの意志です。
 来たのです。あのつがいが来たのです。

 
           これは3月23日のもの

 本当のことをいえば、だいぶ前から私がしつらえたザルハウスにすこしずつ木の枝などが増えてきていたので、ひょっとしたらと思っていたのですが、彼らがやってきているのを確認できなかったものですから書きませんでした。

 ところが昨日です。
 ひときわ大きくその鳴き声が聞こえるので、ザルの在処を観察すると、なんと、まさにあのつがいが来ているではありませんか。
 雌雄は良く分かりませんが、一羽がザルに座り込み、もう一羽は近くに寄り添っています。
 その鳴き声は明らかに、「ここは私の家よ、誰も来ないでね」と告げるものでした。

     
      見てください。私の作った古ザルの中に・・。
      映像がくすんでいるのはガラス越しの撮影だからです。


 正直言って感動しましたね。
 私が作った貧相なベッドルームへ、彼らが来てくれるなんて。
 でも、これは第一段階です。
 ここで彼らがその子らを育ててくれることこそが夢なのです。

 誤解があるといけませんが、私は彼らの自然の営為を支配しようとは思いません。野生は野生のままでというのが自然のルールだと思うからです。
 ですから、これ以上人為的なことはしないで、この推移を静かに見守りたいと思います。

 
     ザルからツンツン出ている木の枝は彼らが運んだもの

 彼らの子らが、ここで生まれ、無事巣立ったらいうことはないのですが、例えそうでなくとも、彼らの今後の営為を見守りたいと思うのです。

 嬉しいことに、どうやら彼らは私を信用してくれたようで、彼らの巣のわずか一メートル近くを通りかかっても、警戒の素振りはあるものの、逃げようとはしません。
 むろん私も、彼らを凝視するのではなく、素知らぬふりをしながら、「君たちに危害を加えることはないよ、安心しておくれ」というメッセージを送っているのですが、果たして彼らがどこまでそれを信用してくれるか、それがこれからの見所です。

 彼らは子をなすでしょうか。その子らは無事に巣立つでしょうか。
 また随時、報告致します。
 





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満天星とダルマの眼

2008-04-20 04:11:51 | 花便り&花をめぐって
 岐阜市の北部にある大龍寺というところへいってきた。
 ここで知られている事柄は二つある。

 
         寺へのイントロ。背後は満天星。

 ひとつは、別名「だるま観音」といわれるように、だるま像やだるまの絵画を所持し、毎年一月に「だるま供養」という行事が執り行われることである。
 念願かなって両目を入れられただるまは、ここへ持ち寄られ、手厚く供養される。
 僧侶の読経のもと、山と積まれただるまが燃やされる映像を、テレビなどで一度はご覧になったことがあるのではないだろうか。

 
        ダルマ供養のようす(これは借用写真)

 もうひとつは寺の庭園を中心とした一帯の「満天星(ドウダンツツジ)」の群生である。
 このツツジ、花は白い小柄なもので、ひとつひとつは地味なのだが、群がって咲くとなかなかの見物である。
 寺と周辺の山に今を盛りと咲いていて、風が吹くとさざ波のように揺らぐ。

       
        お庭の満天星(「岐阜新聞」より拝借)

 この満天星(ドウダンツツジ)、実は二度美味しくて、一度はちょうどこの開花の時期、そしてもう一度は十一月中旬の紅葉の時期である。
 白いさざ波は、紅蓮の炎となって燃えさかる。

 土曜日とあって、混雑を予想していたがさほどのことはなかった。
 拝観料でもって広い敷地を管理する寺には申し訳ないが、物見遊山の身にとってはその方がありがたい。

 
         借景となっている裏山の満天星
 
 履き物を脱ぎ、案内に従って廊下を辿れば、苔むす庭園に今を盛んと満天星や普通のツツジが咲き誇っている。
 その背後に目をやると、借景といおうか、裏山もまた満天星の群生が押し寄せているのであった。
 自生ではなくて、寺が管理しているのは一目で、きちんと手入れが為されている。

     
          高さ五メートルのダルマ像

 ドジといおうか、この庭園がメインなのに、その写真がない。
 撮ったことは撮ったのだが、マニュアルカメラの方に夢中で、デジで撮るのをすっかり忘れてしまったのだ。
 気がついたのは駐車場に出てからであった。

 
     寺から離れたところにもこんなに大きな満天星が

 従って、ここに載せた写真は、すべて寺の外部、拝観料無料の場所ばかりである。一枚だけ、庭園のものがあるが、これは「岐阜新聞」のページから拝借した。
 それと、「だるま供養」のものも拝借の写真である。

 
         接写失敗。ピンぼけの満天星

 雨後の岐阜は、昼過ぎからすっかり晴れ渡って、温度は初夏並み、爽やかで空気が美味しかった。
 日頃の不健康を少しは取り戻せたのではないだろうか。

 
      振り返れば寺の横手の山にも満天星の若木が

 ところで、私がここでだるまを買ったら、どんな願い事をするのだろうか。
 そして、どうなったら両眼が揃い、ここのだるま供養に持ってくることが出来るのだろうか。
 どうも、持ってくることが出来ないような気がする。多分、私の願い事はさほど簡単に叶えられそうもないことばかりなのか、あるいは抽象的なものなのだろう。

 願いが叶ったといって両眼の入っただるまを抱えてこの寺を訪れる善男善女を、決して馬鹿にしているのではない。
 むしろ、そうした形で素直に自分の願いを託し、それに一喜一憂し、叶ったら率直にそれを喜ぶという人たちが羨ましいのである。

 私の場合は、だるまに託せる具体的な願いそのものを、まずもってはっきりさせねばならない。
 いつの間にこんなにひねくれてしまったのだろうか。



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緑と決めつけないで下さい。

2008-04-17 15:43:55 | よしなしごと
 雨が降っています。
 少し憂鬱です。
 雨のせいにしてはいけませんね。

 
          柔らかな色合いに惹かれます。
 
 憂鬱なのは私の勝手で、こちらのコンディションが良い時には雨も充分楽しいのですが、あいにくそれが損なわれています。
 何か窮屈な感じがしてならないのです。何かが出来そうで出来ないという焦燥感というか無力感というか・・。

 
    これはモミジの新芽。ほら、花のつぼみもあるでしょう。

 少し視点を変えて、この雨を喜んでいる者たちを紹介しましょう。
 この地区では花はほぼ終わって、新芽が輝きはじめました。
 ピカピカの一年生というのはこの新芽にこそふさわしい姿かも知れません。
 新芽たちにとっては、雨は楽しいシャワーであるに違いありません。

     
          燃えるような赤い新芽です。

 どうして新緑といわないかというと、確かに緑も多いのですが、新芽というのは、結構、色とりどりで、長じて緑になるにもかかわらず、この時期は他の色であるものが多いからです。中には、当初、まっ赤でそれが緑になるもの、あるいは黄色で緑になるものなどいろいろです。

     
      やはり赤い新芽と教会。これは始めから赤いモミジ。

 動物たちの子供が可愛いように、植物の新芽もそれぞれ可愛いらしいものです。
 加えてそうした若さには将来を担う力が秘められています。
 潜勢態というのでしょうか、それらには多様な可能性がぎゅっと詰まっています。
 それらは、その環境などとの兼ね合いのなかで、さまざまな変容を遂げ、未来という時間を構成するでしょう。

 
             オフィス街の新緑

 さあ、植物たちのピカピカの一年生を紹介し、併せて、そのエネルギーを分けて貰うことにしたいと思います。
 額に皺寄せ憂鬱がっている閉塞感から、おのれを解き放つために・・。


 
         これはおまけ。桜ん坊の赤ちゃん。

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鯉のぼり・善兵衛・桜・小野小町

2008-04-15 04:22:09 | よしなしごと
 もうこの地区の平野部では、花は終わったといわれる一日、とあるグループと共に、花を追って郡上八幡方面へ向かった。

 こちらは、私の父の出身地であり、それだけに私にとっても親近感がある土地である。ちなみに父の在所は、白鳥(しろとり)から油阪峠を越えた福井県側であるが、福井県のどん詰まりということもあって、なぜか岐阜県側にシンパシーを持っていたようだ。
 だから父は、高等小学校を卒業後、柳行李ひとつを持って、岐阜の材木屋へ奉公に出たのだろう。
 そればかりではない。父の在所のちょっと奥の旧・石徹白村が福井県から岐阜県へと鞍替えして、物議を醸したこともあった。

 
      桜越しに臨む郡上八幡城。この天守閣には、
    郡上一揆の唐傘連判状のレプリカが展示されている。


 途中、長良河畔の大きな神社で休息していたら、大きなバン二台でどかどかと賑やかにやってきた連中が降りてきた。
 聞けば、カヌーの同好会で、ここを起点に長良川を何キロも下るのだそうだ。
 「楽しいですよ、やりませんか」とのお言葉。
 確かに楽しそうだが、長良川もこの辺ではまだまだ落差の大きい瀬もある。恐そうだ。

 しかも連中、装備を終え、着水するや、わざわざカヌーをひっくり返し、水中でくるりと回って起きあがるパフォーマンスを披露してくれた。
 こちらの恐怖心はつのる一方だ。
 比較的流れの緩やかなところで、ウオーミングアップをした八人は、賑やかに言葉を交わしながら下っていった。

 
       旧八幡町役場の前にある、郡上踊りの歌碑。
  「郡上のな~八幡出て行く時は~」で知られる「かわさき」の歌詞。
      他にもいろいろな歌があって、郡上節はその総称。
       ここも平成の大合併で市になってしまったが
      それが似合わないと思うのは都会人のエゴイズムか。

 郡上八幡へ着いた。
 期待通り、桜は今を盛りに出迎えてくれた。

 
      吉田川。町に大自然が活力を運ぶような流れ。
 
 この街の魅力は水を除いては語れないだろう。町中至る所に疎水が瀬音を立て、人は野菜を洗い、そのすぐ脇を鯉たちが通り過ぎる。
 そして、それらの水は吉田川へと至る。

 この吉田川は、長良川の一支流であるが、にもかかわらずその下位に甘んじる川ではない。ある意味では、長良川を越える独自の貫禄を示すのだ。
 特に八幡の町中あたりを流れる風情がいい。
 川が町を縫っているのではなく、町が、そしてそこに生きる人々がこの川に寄り沿っている様子がよく分かる。

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       鯉のぼりを手染めで作る職人さんたち。 
    マスクの人は花粉症か、それとも職業上の必要事項?


 町なかで、手染めの鯉のぼりを作っている職人さんの仕事ぶりを観ることができた。
 すごいっ!
 いろいろ訊ねたいこともあったが、絵染めに集中している姿を見ると何も訊けない。ただ、「写真を撮らせて下さい」といって了承を得たあとは、ひたすらその仕事ぶりを見る一方であった。
 職人さんが、微妙なところに染料を置く時、こちらも息を止めてそれを見つめるのであった。
 やがてこれは、吉田川の清流に晒されるのだろう。

 裏道のようなあまり交通量のないところを辿ったおかげで、あまり知られることのない桜の巨木に出会えた。
 その桜は「善兵衛桜」。樹齢三百年のエドヒガンザクラである。
 まだまだ、薄墨の桜ほどの枯れた風情はないが、その代わり生命力に充ち満ちた容貌をしている。

 
     善兵衛さんが植えたのだろうか?その由来を 
        訊かなかったのが悔やまれる。


 とりわけ、そのピンクの花の色があでやかである。
 売店のおばさん(この地区の地産品「明方ハム」を売っていた)に、エドヒガンってこんなに赤が強かったですかと訊いたら、「いつも咲き始めはこうなのです。そして、だんだん白くなって、白くなりきって散るのです」と教えてくれた。

 なるほど、「花の色は移りにけりな」の謎が解けた思いである。
 小野小町の時代にはソメイヨシノはなっかったから、きっとエドヒガンザクラを見てあの歌を詠んだのではあるまいか。
 それにしても、「エド」というのがちょっと気にかかるが。

 帰り道も、あまり人が往来しない道を選んだ。
 そのおかげで、一軒だけぽつんとある秘湯のような温泉地も見つけた。

     
        山里に咲く若木。ポツンと、しかし・・。
  
 わあ~っと固まって咲く桜もきれいだし、固有名がある桜もきれいだが、山の稜線に孤高を誇るかのように咲く山桜も大したもんだし、里山にポツンと咲く桜も侮れない。
 もう、数百年も経ったら、それらが門前市を為す巨木となって人々を集めるかもしれないからだ。

 
 もっとも、それまで地球が保って、人々が花を愛でる心情を失わないでいたらということではあるが・・。

 
 



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家路を辿れなくなった人に

2008-04-13 03:01:09 | よしなしごと
 黄昏時、ひとは家路を目指します。
 やれやれと昼の公の仮面を徐々に脱ぎ捨てながら。
 風貌も言葉も姿勢も取り戻さねばなりません。
 そう、朝方に公の表情へと移行した逆の過程を辿るのです。
 真っ直ぐ帰るもよし、しばし寄り道もよし。
 家族に接するも、朋輩に接するも、あるいはひとりでいるも、これからはもう自分の顔。

 しかしその、自分の顔ってのはどれでなんなのでしょう。
 今朝脱ぎ捨ててきた顔?
 割合長い間被り続けてきた顔?
 それらはほんとうに自分の顔なのでしょうか?
 昼間の顔は分かります。
 貨幣と交換できる顔。
 それは労働力商品の包装紙としての価値をもった顔。
 その顔が出来る者のみが貨幣を得、生活が可能になります。

 
 
 それでは、包みを開けて中味を取り出すように、その包装紙を脱ぎ捨てることは出来るのでしょうか?
 脱ぎすてると、「ほんとうの私」が出て来るのでしょうか?

 「ほんとうの私」と思われているものもまた、私に課された、あるいは私自身が課した役割分担なのではないでしょうか?
 みんなに愛されるために、みんなから除外されないために・・。
 私たちは、多かれ少なかれ、世間の鏡に自分を映し出しています。
 こんな風で良いのだろうか、もっとこうした方が・・などと。
 何かをしようとする時、いやそれはまずいとか、そうではなくてこうしなければならないとか、様々なブレーキや調整が働きます。
 それは道徳的規範やイデオロギー的負荷として私というペルソナを作り上げます。

     
 
 しかし、こうして世間の鏡で整えた私は、ほんとうに私でしょうか?
 私は、世間という外部によって作られているのではないでしょうか?
 だとすると私というのは誰でしょうか?
 私は私なのでしょうか?
 私とは私の外部のことなのでしょうか。

 そんなことを考えて毎日家路を辿るわけにはゆきませんよね。
 結局、家へ辿り着けなくなったりしますよね。
 ですから、ここで追及の手を弛めて、ひとまずの結論を出しましょう。
 そうした世間と向き合って、それとのなれ合いや抗争などの関わりの中で、作り上げられるのが自分であると・・。
 どうでしょう。これなら家へ帰れそうですね。
 しかし、上に書いたように、これは「ひとまずの」結論にしか過ぎません。
 私が私であるという事実が、実は圧倒的に外部の干渉によるものでしかないことは私たちがうすうす知ってしまっていることなのですから。

 
 
 それを突き詰めて考えた結果、ある日、ついに家に辿り着けなかったりすることもあるかも知れません。
 その時、そう、家路を失った時、あなたはどこへ行くのでしょうか。
 私たちが鏡とした世間は、それ自身、閉塞的で抑圧的でもあります。
 私たちは、否応なくそこで生きながら、同時にそこで喘いでもいます。
 
 だから、私たちが「私」という檻からいったん外へ出るために、寺山修司は家出を勧めたのです。
 旅をしろ!他なる世界を見ろ!と。

 西日が眩しいですね。







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桜が終わった?嘘だろ?

2008-04-10 04:49:11 | よしなしごと
 桜が終わったというニュースが聞こえてきます。
 ちょっと待った!それは偏見ではないか?というのが今日の話題。

 その偏見はどうやら二つの部分から成り立っているようです。
 そのひとつは地理的な偏見です。
 いうならば「太平洋ベルト地帯重視」の偏見といっても良いでしょう。
 さすがにかつてのように、表日本、裏日本という言葉を無神経に使う風習はなくなりましたが、しかし、桜のような季節感のあるものを語る場合、こうした偏見が残っているのではないかということです。

     
        町中の公園の片隅で咲いていた若いしだれ桜    

 要するに、「表日本」で終わったことはもう終わったことにされかねない偏見です。
 本州でも山間部や北陸、東北はこれからでしょう。
 かつて、私と一緒に働いていた津軽の人は、「はぁ、やっぱさぐらは、おらほのがえつばんだ」といっていました。
 ここもまだまだでしょう。
 北海道はもちろんです。

 
    黄色い花を咲かせるウコンという桜。ピンぼけでゴメン。

 こうしてみると、桜が終わったのは日本の半分にしか過ぎません。
 終わったところのメジャー意識が「終わった」と言わしめているのでしょう。

 もうひとつの偏見は、桜の種類に対するものです。
 確かに太平洋ベルト地帯では、もう何日か前から散り始め、今降っている雨で終焉を迎えるところも多いでしょう。
 しかし、それは桜全般ではなく、ソメイヨシノの終焉にしか過ぎません。

 
    文字通りこぼれんばかりに咲いています。八重桜です。

 その後を追うようにして咲く桜も結構多いのです。
 もう5月に入って、渓流に釣り糸など垂れていて、ふと目を上げると向かいの山稜に凛として咲く山桜を見つけた時の感動はソメイヨシノ派には分からないのでしょう。

   敷島の大和心をひと問はば朝日に匂う山桜花

 という本居宣長の歌は、しばしば右翼チックに解釈されるのですが、その本意は、唐心=ある種の本質論の不毛性、現にここにある情動のようなものを一般性に還元してしまう合理論に対する異議申し立てであって、要は、情動的在り方の実存の肯定にあります。

 したがって、これを得々として引用する右翼の人たちもそれを誤解しているとしかいいようがありませんが、まあ、字面だけからいうと、彼らが喜んで引用するのは分かります。
 でもって、誤解を恐れずにいうならば、私はこの歌自身はちょっと理に偏っていると思うのですが、先程述べた渓流の風景と重ね合わせて、嫌いではありません。

 
   八重桜にもいろいろあるのですが、これはなんでしょうかね。

 ちょっと脱線したようですね。
 ここに載せた写真は、それぞれソメイヨシノが散り始めた中で、今なお頑張っている桜の様子です。

 
        これは桜ではなくキクモモ(菊桃)

 最後の二枚は、桜ではなくキクモモ(菊桃)ですが、あった場所は、名古屋の伏見、白川ホールから日動画廊へ向かう道筋です。
 どうやら街路樹にしようとして失敗し二本だけ残ったようで、道路を挟んで対角線上に、互いに競うように咲いていました。

 桜が終わったなどと安易にいわないようにしましょう。
 ある特定の所では終わった。
 ある特定の種類は終わったということなのです。

 
            キクモモの拡大です。

 私たちは、よく自分たちの身の回りの事柄をもとにして一般論に陥りがちです。
 そんなとき、こう考えてみることも悪くはないでしょう。
 「これは、ある特定の時代の、特定の場所での、特定の立場からのみいえることではないか」と。
 そして、それが「他者」を理解するための通路なのです。


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映画の蘇生と花鳥風月

2008-04-08 02:27:46 | よしなしごと
 前回の日記に対し、ここでも幾つかのコメントをいただきました。
 また、別のところへ載せたほぼ同文のものについても、それへの賛意が多かった一方、あたかも私が、事実無根の嘘を振りまいているかのようなコメントもいただきました。

 私の見解には他意はありません。
 映画を通常の環境の中でちゃんと見たい、それだけです。
 その上で、その内容について論議をすればいいことで、予め上映を封印する動きに反対だということです。

     
   まずは花筏。これは一昨日。昨日の雨で一段と散ったことでしょう。

 先の私の日記に対しての反論は以下のようです。
 1)そうした妨害工作などはなかったのではないか
 2)シネマテーク側の被害妄想による過剰防衛ではないか
 3)興行成績を上げるためのやらせのパフォーマンスではないか

 
    これはエンドウ豆の花です。なかなか優雅でたおやかですね。
 
 これは事実を見ない曲解か、ためにする言説のように思います。
 上映決定後、シネマテークに対し抗議や無言、罵倒などの電話があったことは事実で、さらに二人(日本会議のメンバーと他の組織のメンバー)の抗議のための来訪のなかで、上映強行の場合には抗議活動の強化が言明れたことも事実です。
 また、警察の方から、法に基づく規制は行うものの、上階がアパートで24時間出入り自由というロケーションからいって不測の事態に備えることは困難だといわれたのも事実です。
 これらを勘案するに、上映強行の場合には、入場者、ビルの住人、館のスタッフへの安全が確保しがたいとした判断は、決して被害妄想ではなく、ましてや営業用のパフォーマンスではなかったことは確実です。

 
           これ何だか分かりますか。
 
 繰り返しになりますが、この問題を「左右の政治対決」などに位置づけるのではなく、作られた映画を私たちは普通に観ることが出来るのでなければならないという原則に立ち、通常の穏やかな条件で観ることができるよう、配給元はじめ館側の一掃の尽力を望むものです。

 
       もっと近寄ってみると、そうです、アケビの花なのです。

 社会問題化してしまったせいか、全国で20を越える館が上映を希望しているそうです。
 当初予定していた館は、いまのところ大阪のナナゲイ以外はすべて中止または延期になってしまったのですが、しきり直しという形で、今一度上映への態勢が整えられそうな条件が出てきました。
 名古屋シネマテークも、近々、突出した形でなく上映できるのではないかと期待しています。

 
   これは名前がよく分からなかったのですが、必死で(大げさな!)
   調べた結果分かりました。ハナズオウ(花蘇芳)というのだそうです。

 話が堅くなり、いささか疲れていますので、写真の方は「花鳥風月」へ逃避することに致しました。





コメント (9)
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