六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

マイ・フェイバリット・プレイスとSP・桜は二分咲き

2009-03-31 03:10:15 | 写真とおしゃべり
 先般、マイ・フェイバリット・プレイス(お気に入りの場所)のひとつ、岐阜県立図書館と県立美術館(道路を挟んで隣接)へ出かけました。
 私の家から自転車で20分ぐらいのところで陽気が良いとそれで行くのですが、折りからの冷たい空気で不本意ながら車で行きました。

 今回は美術館の方で行われている知人たちの写真展を観るのと、図書館へ本を返却するのとの両方の用事です。
 美術館へ入ろうとすると、前を仲良さそうな親娘連れが歩いていました。なにやら良い雰囲気です。自然にその後をついて行く感じになりました。

 
           この写真、結構お気に入りです

 美術館のメインの展示室はスルーして、写真展の方へ向かいました。
 そこで、私は「む?」と感じるものがありました。
 そうです、昨年の12月、やはり岐阜は「池ノ上の裸祭り」を観に行ったときに感じたあの独特の匂いの人たちに出会ったのです。

  http://pub.ne.jp/rokumon/?daily_id=20081214

 そうなのです。館内にあのSP(セキュリティポリス =security police要人警護官)がいるのです。
 受付へ行くと顔見知りのTさんが立っていて、挨拶するやいなやSPの謎が解けました。
 「あ、ちょうど良かった。これから野田さんがみえます」とのこと。
 岐阜で「野田さん」といったらもちろん、「劇団夢の遊眠社」のあの野田秀樹ではありません。野田聖子代議士のことです。
 
 思えば、昨年末にSPにお目にかかった際も、その警護対照は彼女でした。
 これを見ても、彼女がいかに精力的に地盤固めを行っているかが分かります。
 全国の野次馬の視線を集め、岐阜の保守層を二分した佐藤ゆかりとの熱い戦いで一応は勝利を収めはしたものの、その折りの綻びをカバーするのに必死なのだと思います。
 なにしろその骨肉の戦いは、本来の自民支持者の間にすら、「野田に投票するぐらいなら民主へ」という近親憎悪的傷跡をのこしたのですから。

 
      「ホラ、ここよ」という母親の言葉が聞こえるようで

 その彼女の「ご視察」に二度にわたって遭遇しようとは。
 それでも写真は写真と割り切り、観て回りました。
 作品の前にそれを撮した人がいて、説明してくれたりもします。それを聞くと、とても私のような怠け者には良い写真が撮れないだろうということがよく分かります。
 定点観測のように毎日同じポイントに通い詰め、気象条件や時間帯、雲の行く様などを観ながら千載一遇のチャンスを待ち、シャッターを押す、そうしてできたものをさらにセレクトにセレクトを重ね作品として定着させる、従ってそこには、撮したいもののみを撮す、余分なものは撮らないという強い意志が働いているのです。

 それを聞くと、自分の才能のなさはともかく、まず忍耐や強い意志の段階で既にして脱落しているのがよく分かります。ま、いってみれば、私などはご隠居さんの手慰め以下の水準なのです。

 
        ガラス張りの外から撮った図書館のロビー
 
 ひととおり観て帰ろうとすると、Tさんに「もう少ししたら野田さんがみえます。どうも前のところが押していてだいぶ遅れているのですが」と押しとどめられました。
 Tさんには申し訳ないのですが、「次の所用がありますから」とその場を辞しました。
 嘘ではありません。その後図書館へまわり、さらに母の入院先へ様子を見に行ったのですから。

 しかし、所用がなくTさんの勧めるままにその場に残っていたら、さぞかし居心地が悪かったろうと思います。たぶん、彼女の来館は拍手で迎えられるのでしょうが、私にはそれが不釣り合いです。   
 その場に残っていたら、たぶん、ヒトラーのパリ凱旋を歓迎する群衆の後ろで、シニックな視線を送るそんな役回りを振られたのではないでしょうか。
 どんな政治勢力にしろ、こうした場への政治家の「ご視察」はご遠慮願いたいものです。
 ただし、彼女や彼が、本当に写真を愛するなら別です。

 会場を出ると、少し長くなったとはいえ陽は西に傾きはじめていました。
 構内の桜はまだ二分咲きぐらいだったでしょうか・・。






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「忘却とは忘れ去ることなり」ですって。

2009-03-29 01:45:40 | 想い出を掘り起こす
 「忘却とは忘れ去ることなり。忘れ得ずして忘却を誓う心の悲しさよ」
 
 これは1952(昭27)年にはじまったNHKのラジオドラマ「君の名は」の冒頭におかれた言葉で、この番組を通じてナレーションを担当していた来宮良子さんが朗読していました。
 なお、この菊田一夫の脚本によるラジオドラマは大ヒットとなり、その放送時間には銭湯の女湯が空になるという伝説を生んだことで有名です。当時はまだ風呂がない家も多く、アパートといえば風呂がないのが当たり前でしたから、そこが閑散となるというのは、例え伝説にしろその人気のほどがうかがえようというものです。

 
 
 まだなおテレビはなく、ラジオもNHKの第一、第二放送、それに中部地区のみこの年はじめて放送事業に参入した中部日本放送(CBC/JOAR)があるといった具合で、娯楽そのものが乏しい時代でしたから、戦中戦後の混乱の中で愛を貫く真知子と春樹の物語は、全国津々浦々の熱烈なファンの紅涙を絞ることとなりました。
 なお、当時のラジオドラマは、収録し編集してから放送するという技術がまだ確立されていなかったため、すべて生放送でした。従って、バックに流れる音楽(ハモンドオルガンによる)も、音楽担当の古関裕而の即興演奏だったなど、これらは後日知ったところです。

 

 そうした、今から見ると原始的ともいえる状況下で作られていたドラマですが、二人の出会いとすれ違い、偶然のいたずらによる出会いの不可能性などが聴取者の快楽をどんどん先送りするなど、菊田の脚本はそのツボを心得ていたと思われます。
 加えて、東京は数寄屋橋を主たるポイントにしながらも、北海道から九州(沖縄はまだ日本ではなかった)まで、舞台の広がりを見せ、ご当地へのサービスを満載していたともいえます(中部地区では伊勢志摩が舞台)。この伝統は、今でも朝ドラや大河ドラマに継承されていて、経済効果はン億円などとそろばんがはじかれたりもします。

     

 冒頭に述べた言葉を朗読していた来宮良子さんは今なおご健在で、放送当時は弱冠20歳でいらっしゃったようです。私は当時、中学生でしたが、このナレーションは良く覚えています。しかし、今思い出しても結構重厚なナレーションで、とても20歳の方によるものとは思えませんでした。
 と同時に、生意気盛りの私は、「忘却とは忘れ去ることなり」というのは単なるトートロジー(同義反復)に過ぎないのではないかと思ったりしていました。ですから、ノートの端に、「切腹とは腹を切ることなり。腹を切らずして切腹を誓う心の臆病さよ」などといくつものパロディを作ったりしていました。

 

 ところで、何を書きたかったかというと、この「忘却」についてなのですが、冒頭のトリビアだけで充分長くなってしまいました。
 従って前口上だけで、本編は別の機会に譲ります。

 それに明日(もう今日ですが)はまた、今年三つ目、今月後半だけで二つ目の葬儀に出なけれがならなくなりました。早く寝なければなりません。それぞれが義理での付き合いなら良いのですが、生前それなりの親交があったひとばかりです。それだけに、やはりブルーになります。

 
 
 なんか最近は、少し気を持ち直すとまた何かがやってくるようで憂鬱です。
 老人性鬱を回避するためにも、書き続けます。


    写真は、雲のファンタジア










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ゆる~い鉄チャンの冒険(?)物語

2009-03-26 02:42:21 | よしなしごと
 縁あって、養老鉄道の広神戸駅から大垣駅までの区間を乗る機会がありました。ゆる~い鉄チャンである私にはプチ幸せな時間でした。

 この養老鉄道というのをご存じでしょうか。
 沿線や近くの方はもちろんご存じでしょうし、鉄チャンと呼ばれる鉄道マニアの方もご存じでしょう。
 この鉄道、その名の示すように孝子伝説で有名な養老の滝近くを養老山脈に添うように走ってるのですが、同時にこの北端の揖斐駅から南端の桑名駅までは揖斐川と並行して走る路線でもあります。

 
      乗車した駅です。読み方はローマ字で表記してあります。

 この養老鉄道、2007年の発足とあります。
 が、しかし、決して新しい鉄道ではありません。
 要するに、それ以前は近鉄の地方路線であった大垣・桑名間の養老線と、大垣・揖斐間の揖斐線とが分離され、(桑名・揖斐間で 57.5km)養老鉄道という別会社に移行されたものなのです。別会社になったといっても近鉄の100%出資ですから、何の為にこうなったかはよく分かりません。
 たぶん赤字路線であろうこの路線を予め切り離しておいて、やがては廃線に持ち込もうとするのではないかというのは下司の勘ぐりでしょうか。 

    
      無人駅ですからここで整理券をとり、降車駅で精算します。

 そういえば、鉄チャンの集まりであるようなネット上の書き込みに、鉄道会社へ就職しようとして趣味の欄に「鉄道マニア」と書いたら有利になると思うのは、トンでも八分、歩いて一五分だと書かれていました。
 なぜかというと、そうしたマニアは、会社側がある路線の廃線を決めたり古い車両の引退廃棄をしようとするとき社内から反対の声を上げる可能性があり、それは会社にとっては獅子身中の虫を飼うような事態となるため、かえって採用を見合わせるからだというのです。
 鉄チャンたち、なかなか醒めていますね。

     
      静かなホームです。でも、発車間際には数人のひとが・・。

 鉄チャンについてちょっとググってみたら、面白い話題がいっぱいあったのですが、またいずれかの機会に譲り、養老鉄道に話を戻しましょう。
 わずか二〇分足らずのミニ乗車ではありましたが、しばし心安まるるものでした。早春の田園地帯ののどけきなかををひた走り、都会へと近づくという地方鉄道特有のなにやら健気ともいうべき風情はまた格別です。
 単線ですから、対向車両の待ち合わせのためにしばし停車したままでいることもあります。もう少し春めいてきたら、停車中の車内に蝶が舞い込んできそうです。
 事実、ローカル線では、蝶や蜻蛉、蝉などが無賃乗車を試みることはしょっちゅうです。

    
          電車が来ました。近鉄時代の車両です。

 実は私、戦中戦後の五年間ほど大垣市の郊外で疎開生活をしていたことがあり、この辺には多少の土地勘があるのです。あ、あそこに見えるのは大理石や石灰の採掘をしている金生山だなとか、あ、この川の下流で泳いだことがあるなとかいった具合に半世紀以前の原風景のようなものがつぎつぎと甦って来ました。
 終点の大垣に着き、見慣れたJRの車両に乗り換えたとき、なんだか急に現実に引き戻されたような気がしました。

 叔母の葬儀の帰途、所用で一足先に座を立つこととなりはからずも乗った電車で、叔母には申し訳ないがとてもいい時間でした。心中、こっそり叔母に詫びると、「いいのよ、六チャン。私もこの電車好きだったから」と叔母が言っているようでした(←都合の良いでっち上げ)。

 でも、鉄道って良いなぁ。古稀も過ぎてからいきなり鉄チャンになったら、まわりの顰蹙をかうでしょうか?

 
           終着大垣駅のJRの跨線橋から。

ウィーンへ行った折り、路面電車に乗りたくてわざわざ二駅分ほど歩き、そこからホテルの前まで乗ったのはいいのですが、二両連結の後部車両には誰もいなくて、どうやって料金を払ったらいいのか分からずまごまごしている私に、まわりの乗客がいいから降りろ降りろというので、そのまま降りました。
 完全な無賃乗車です。ウィーンのリングを走る路面電車が赤字になったら、それは私のせいです。

ここまで読んでくれたひとにもうひとつおまけ。
 昔のくだらない話です。
 切符を切りに来た車掌に自分の○○○を出して、これがほんとの電車チン。
 車掌曰く、「あまりでかいので釣りがない」。
 まさに、「男根中心主義」的な話ですね。
 よい子の皆さんは、こんなことをしてはいけません。




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♪春な~の~に~♪ 背中からバッサリ!

2009-03-24 02:22:08 | よしなしごと
 春の嵐でまわりの木々が揺れ、電線が波打っています。
 成田では風にあおられて飛行機が炎上したようです。
 しかし春は春、通りかかった桜並木は確実に花の数を増していました。
 ああ、それなのにそれなのに・・。

 

 母の入院先を覗く日常はそれとして、自分までもが病院通いになろうとは。
 もう十日近い前ですが、背中に違和感が生じました。椅子の背もたれに体重をかけるとなにやら痛みが・・。
 合わせ鏡(女性が襟足など見るのは絵になりますが、ジジイが背中を見ているのはいささかグロテスク)で見ると、大型のニキビのような突起があります。判然とはしないのですが、突起の頂上は色も変わっているようです。

 一夜空けたましが、痛みは増すばかり、そこで前に行ったことのある皮膚科へ。結構評判が良くていつも混み合っているのに、駐車場は閑散としています。「しめた!」と思ったのもつかの間、本日休診とあるではありませんか。これが先週の火曜日のこと。
 諦めて翌日再訪。のんびり出かけたせいか待合室は混んでいて、随分待たされることとなりました。持っていった本にも読み飽きた頃、やっとお呼びが。

 

 医師は眼鏡をかけた丸顔、アラレちゃんのような女医さん。背中をまくり上げると、「あ、これですね。ご安心下さい、悪性のものではありません」とのこと。
 「え、悪性ではない?」となにやら虚を突かれた思いの私。
 そうなんです。それが悪性とか良性とかは全く考えてもいなかったのです。

 医師は、なにやら図解を見せて私の症状を説明してくれました。
 それによると、そのニキビの親玉を噴火口として、その下にマグマのように肉腫があるとのこと。
 で、それは取り出さねばならぬということで、いきなり処置室へ案内され、背中からばっさり。昔の時代劇なら、「むむう、背中から斬りつけるとは卑怯なっ」というところですが、ここは処置室。しかも切られたのは1センチぐらい。

 

 切られる段階ではチクリとした程度でしたが、その後の方が痛みがありました。その切り口から中のマグマを絞り出すわけですから、切り口の両側から「むむむむむ」と指で押されます。実際、作業をしている医師の呼吸が背中越しに聞こえるほどです。
 
 それ以来一週間、そこへと通っています。これでもう三回も「むむむむむ」と押されました。お土産に切り口に黄色い薬品がしみたガーゼを突っ込んでくれます。
 あと何日かかかりそうです。

 

 そんな中、訃報が入りました。
 母の妹、つまり叔母が亡くなったのです。
 これで、母が倒れてからその妹が二人、先に逝ったことになります。
 明日(もう今日か)はその葬儀です。
 母は10人の兄弟姉妹の真ん中あたりでしたが、これで残っているのは母と、一番下の叔父の二人となりました。

 


 暗い話になってゴメンナサイ。
 それでも、その合間を縫って、この前はコンサートに行ってきましたし、これからのコンサートや映画の予定などもあり、ちゃんとガス抜きをしています。
 六はもともと注意力が散漫なところがありますから、まわりに興味の対象が尽きず、それで落ち込まずにいられるのかも知れません。
 何たってこのご時世、私なんかよりズ~ッと大変なひとがいっぱいいるのですから、ナンダサカ、コンナサカです。

 でも、次回はもっと明るい話が書けると良いなぁ。

 




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春宵一刻 桜ほころぶコンサート

2009-03-22 03:49:25 | 音楽を聴く
写真はすべて、コンサート会場へ行くまでのものです。

 郊外のサラマンカホールまでは数キロの道のりである。
 折りからの春の陽気に誘われて自転車で会場へ向かう。
 辺りは一面の田園風景、スズメの群にムクドリが混じって姦しく騒わぎ、木立ではキジバトの縄張り宣言も聞こえる。
 足下に目をやれば、タンポポやレンゲソウが道ばたを彩る。
 岐阜は、県庁や新幹線の駅、そしてこのサラマンカホールなど、田圃の中に作るのが好きだから、そこへの往来にこうした風景に恵まれるわけだ。

 
         この紫のモクレンはこれからという感じ

 しかし、喜んでばかりはいられない。
 県庁が県都岐阜の西のどん詰まりにあるのは、当時、県政を牛耳っていた松野一族が自分の根城の穂積町(現、瑞穂市)の近くにそれを呼び込んだのであり、その一帯の土地は松野一族やその息のかかった連中で買い占められていたという。
 現衆議院議員、棚橋泰文(自)は、その折りのドン松野幸泰の孫である。
 田圃の中の岐阜羽島駅は、当時の自民党副総裁、大野伴睦の鶴の一声で決まったことは知る人ぞ知るである。

 
         こちらの白い方はもう散り始めている

 帰りのことも考え、コートを着て手袋もはめてきたのだが、自転車を漕ぐにつれ暑くなり、それらをすべて脱ぐ。
 写真を撮りながらゆっくりまったりと走る。
 コンサートは夕刻からだが、少し前に着いて、珈琲でも飲みながらゆっくり本でも読んで時間を過ごすつもりで、ご丁寧にノートまで持って出てきた。
 結果的にこれが役に立った。持ってきた本がこの間私が考えてきたことと微妙にクロスしていて、これをノートに整理することが出来た。

 開場まで一時間半ほど、快適なロビーで勉強することが出来た。
 次第にまわりが騒々しくなる。コンサートの聴衆が集まり始めたのだ。
 こちらも、お勉強モードからコンサートモードに切り替えなければならない。

 
     モクレンの写真を撮っていたらこのワンちゃんに吠えられた

 コンサートは大阪フィルの岐阜定期演奏会、今年で32回を数える。私はこれまでの仕事の関係で数回しか聴いていないが、ここ三年ほどは毎回聴いている。
 朝比奈さんが振ったものも聴いたことがあるが、それは名古屋でだったと思う。

 今年の曲目だが第一部は
    *モーツアルト 歌劇「後宮からの逃走」序曲 K384
    *ベートーヴェン ピアノ協奏曲第五番 皇帝 op73
 でドイツ語圏モード。
 そして、第二部は 
    *ビゼー アルルの女 第二組曲
    *ラヴェル  ボレロ
 と、こちらはおフランスのモード。

 
            サラマンカホールの正面
 
 ピアノのソリストは河村尚子さん。
 第一部の「皇帝」では、河合さんは第一楽章の出足のカデンツァから最後まで、力強く弾ききった。耳が良くない私のことだから当てにはならないが、あまり癖がなく、真っ正面から弾ききったという感じがした。
 
 第二部の「アルルの女」は予想外に良かった。今さら何で「アルル」といわれそうだが、この曲、幼い頃からのなじみでまるでバックグラウンドのように聴いてきて、正面から向かい合って聴いたことはあまりなかったような気がする。とくにライブではアンコールで聴くぐらいで、所詮おまけの曲ぐらいにしか聴いていなかった。

 今回、ちゃんと聴いてみて、この曲の奥行きと広がりにあらためて驚嘆した。ビゼー恐るべしである。
 しかし、よくよく思い起こせば、私が始めてクラシックをライブで聴いたのは小学校の高学年の頃の啓蒙的な演奏会であり、そのときの楽団は近衛秀麿指揮の日本交響楽団(のちのNHK交響楽団)であったこと、そしてその折もっとも印象深かった曲が「カルメン序曲」であったとすれば、こうしたビゼーとの再会は当然といえば当然といえる予定調和的なものであるともいえる。
 あれはたぶん、1950(昭和25)年前後のことだったと思う。

    
         夕日に映えるサラマンカホールの背面

 かくて至福の春の宵は終わり、「ファランドール」の余韻を背に自転車にまたがったのだが、夜陰に浮かぶ菜の花に誘われたり、あまり車の来ない道を選んでペダルを踏み続けた結果、行き止まりのどん詰まりに迷い込んでしまった。
 辺りを見渡すと、かなり離れてところに車が往来している道路がある。そこへと行き着いて、やっと帰路が分かった。
 でも、こんな宵、無粋な車たちの群と一緒には走りたくないじゃぁないか。そうは思わないかい。
 
 「春宵一刻値千金」には別の意味もあると教えてくれたのは中国からの留学生の女性だが、それはまた、機会を見て語ろう。


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桜吹雪の花かげに  花嫁姿のお姉様

2009-03-20 03:02:57 | 音楽を聴く
 前回、「影」について述べましたが、そのとき何か「ん?」と引っかかるものがありました。
 なにやらこれに関連したようなしないようなことで、何かが気になって仕方がないのです。
 床についてからそれに思い当たりました。
 気づいてみれば他愛ないことです。
 私が好きだった、そして今も好きで、最近滅多に聴かないけれど、聴いたらたぶん胸に迫るような歌があったのです。
 それは懐かしい童謡です。
 その名もずばり、「花かげ」、つまり、「影」からの連想なのでした。

 

 歌詞もメロディも叙情的で素敵なのですが、曲は子供の歌には数少ない短調で書かれていて、大人の鑑賞にも耐えることが出来ます。

 「花かげ」  曲:豊田義一  詞:大村主計(かずえ)

   十五夜お月さま ひとりぼち
   桜吹雪の 花かげに
   花嫁すがたの おねえさま
   俥*にゆられて ゆきました

   十五夜お月さま 見てたでしょう
   桜吹雪の 花かげに
   花嫁すがたの ねえさまと
   お別れおしんで 泣きました

   十五夜お月さま ひとりぼち
   桜吹雪の 花かげに
   遠いお里の おねえさま
   わたしはひとりに なりました


  *この「くるま」は人力車のこと

 

 この歌は、1931(昭6)年にレコード化され、A面は同じ作曲者、作詞者による「繪日傘」で、この「花かげ」はB面でした。
 最初のレコーディングの際に誰が歌ったのかは調べても分かりませんでしたが、私が聴いたのは川田三姉妹の長女、川田正子さんが戦後まもなく歌ったものだったと思います。

 川田正子さんといえばいろいろな歌を歌っていますが、代表作は「みかんの花咲く丘」だろうと思います。
 この歌は、大人にとっては並木路子さんの「りんごの歌」が戦後を象徴したように、私たち子供にとっては戦意高揚の歌から解放され、まさに戦後を告げる叙情歌だったのです。
 この歌も大好きなのですが、それにもまして「花かげ」には私なりの深い思い入れがあるのです。

      
      このイラストは二木紘三さんのページから引用しました

 それは、私が生後すぐに母を亡くし、養子に出されたことに関連します。
 そのとき、私には二つ年上の姉がいたのですが、その姉は別のところに養女に出され、その消息はず~っと私の知るところではありませんでした。
 そんな状況であればこそ、会ったこともない姉の面影をあれこれ想像しながら、この歌に強く惹かれたのでした。
 三番の「遠いお里の おねえさま わたしはひとりに なりました」で、いつも私の感傷は頂点に達するのでした。

 姉と再会(私にとっては初対面同然でしたが)したのは、私が40歳を過ぎてからでした。
 会うことが出来て良かったと思ういい姉でした。
 住まいが遠い為、頻繁な行き来こそ出来ませんが、むろんそれ以後、付き合いはあります。

 

 そんなわけで、この歌は40年以上にわたって姉と私とを繋いでいてくれたのでした。
 まもなく「桜吹雪の 花かげ」の季を迎えます。
 この時期、月や花を見ると、私はこの歌を胸の内で何度も反芻するのです。
 そして、この歌に胸キュンとなったかつての自分を思い、新たに胸キュンとなるのです。馬鹿ですね。
 
 私にこの歌を聴かせてくれた川田正子さんは、2006年に他界されたそうです。
 あの透明感のある声で聴いた数々の歌、とりわけここに書いた「花かげ」は、私の生涯の歌となりました。
 川田正子さん、ありがとう。






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わが忠実にして終生の友よ!君の出番だ!

2009-03-18 02:45:26 | フォトエッセイ
 子供の頃、ほとんどの人がこんななぞなぞに出会ったことがあるはずです。
 「私はいつもあなたと一緒にいます。というよりあなたから離れることが出来ないのです。ですから、あなたが動けば私も動きます。
 ただし、天気の悪い日や夜など暗いときには私は休ませてもらいます。
 さて、私は誰でしょう」

    

 もちろん分かりますよね。
 私にもそれがぴったり張り付いています。
 こいつは実に忠実なので、いつも一緒なのですが、必要のないときまで現れ、ときとして疎まれることもあります。
 例えば私が写真を撮ろうとしたとき、被写体の上に姿を現したりします。
 それを避けたつもりでシャッターを切っても、画面の隅や手前にそれがしゃしゃり出ていて、折角の写真がおシャカになったりします。
 ですから、つい邪魔者扱いをすることもあるわけです。
 別に悪気があるわけではないのですから考えてみたら可哀想ですね。

 
 
 そこで今回は、いつもお邪魔虫扱いされている彼を主人公にして写真を撮ってみました。折りから、春の陽射しが強くなりつつあるせいで、結構くっきりと撮れました。
 それ自身表情がないし、それに撮り手が私自身ですからポーズも付けることが出来ません。いきおい、他の影とのコラボレイトになりがちですが、少しだけ、影自体のポートレートのようなものも撮ることができました。

    

 あ、それと影の良いところは年齢を隠すことが出来るところですね。眼鏡を持った写真などなかなか粋でしょう?
 え?なんですか?どう誤魔化してもジジイはジジイですって。
 それをいっちゃぁ実も蓋もないけど、長年連れ添ってくるとやはり影も年老いるのでしょうか?それとも、毎日、陽が昇るたびに影は蘇生するのですから、彼だけは新しいのかも知れませんね。

 

 余談ですが、むかし、人のみならずありとあらゆるものの影が結束をして反乱を起こすSF小説を構想したことがあります。
 人間たちは、「影踏み」などという残酷な遊びをしたことは認めますが、影を影たらしめたのは自分たちのせいではないといい逃れます。
 こうして影たちの反乱は「光」へと向かうのです。

    
 
 「はじめに光あり」で開かれた宇宙の秩序。
 洞窟の外の光源に真理を還元するプラトン。
 天の岩戸をこじ開けるための神々のたくらみ・・。
 誰か続きを書いてみませんか。

 

 なぞなぞで始まったこの小文、最後もなぞなぞで締めましょう。
 以下は、モーツアルトが作ったと言われているなぞなぞです。
 前にも一度載せた記憶がありますので、物覚えのいい方は覚えていらっしゃるかも知れません。まあ、落ち着いて考えれば分かる問題ですがね。
 あ、これは影とは関係ありませんよ。

 

<私たちは白い着物を着て狭い部屋に二列で並んでいます。
 一日に何回もこの二列がぶつかり合ったりします。
 私たちのすぐ近くに部屋の入り口があるのですが、私たちはしっかり繋がれていて外へ出ることは出来ません。
 しかし、私たちの誰かが病気になったりすると、今度は無理矢理部屋の外へ連れ出されたりします。
 さて私たちは誰でしょう。>







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春は窓辺からやってくる。

2009-03-16 01:10:14 | よしなしごと
 先週、花を愛でに山野へ行く機会があったのですが、アクシデントのため潰れてしまいました。
 しかし、予定した当日はひどい雨降りでしたから別に惜しくはありません。
 むしろ、結果的に私の足をとどめてくれた母に感謝したいくらいです。

 その代わりといってはなんですが、手身近なところで春を見ています。
 いずれも、窓辺というのがキーワードです。
 箱の中にいる人間にとって、窓辺は外界との通路そのものです。
 光や闇はむろん、風も、寒暖も、匂いも、音も、いろいろなものが窓を経由してやってきます。

 だから窓辺は、季節がいち早く訪れるところでもあります。
 窓から眺める外界、そして窓辺のものたちへも、そこに季節はまず訪れるようです。

 
 
 最初は病院の窓辺です。
 飾られているのは桃と水仙の一種です。
 ここはこの間まで、手作りのお雛様が飾られていたところです。

 少し春めいてきた外界と、この窓辺の花がとてもマッチします。
 この花を含めた窓全体が何か劇場のように華やいでいます。

 

 もうひとつは我が家の台所の窓辺です。
 外側の休耕田に少しずつ緑が戻ってきているのですが、その内側でも緑の競演があるのです。

 
 
 写真の右側は、水耕栽培の芹を買ってきて白和えなどにして食べてしまったのですが、その根っこの部分を豆腐のケースに水と一緒に入れておいたら、こんなに新しい葉が出てきました。
 もう一度白和えやおひたしにするにはやや分量が少ないようですが、味噌汁や山菜と一緒に結び目をつくって天ぷらなどにするには充分ですね。 
 
 左側は大根の葉です。やや小振りのものですが、どんどん育っています。
 これも、1センチ強ぐらいに切ってサッと湯がき、それをしょう油やお好みの調味料に絡めて炒め煮風にしておかかでもまぶせば立派な一品の出来上がりです。
 
 まあ、威張るほどでもないのですが、貧しき者の食生活の知恵でしょうね。
 でも植物の生命力って凄いですね。
 ほとんどなんにもないとこで、まるで無から有が生じるように、結構なボリュームのものが生えてくるのですから・・。
 光合成(=炭酸同化作用)というのでしょうか。それでもって酸素を出してくれるのですから、植物はえらいッ!

    
            逆光で捉えた葉も美しい

 それに比べて、この欠陥生物の人間はということになるのですが、基本的には箱をねぐらに生きています。そして窓を介して外界と繋がっています。
 でも、横穴や竪穴住居に比べて、この窓の発見は建築上の大進歩だったのではないでしょうか。
 本能を退化させ、自然ともはやダイレクトに繋がれなくなった人間が、自然の様子をうかがうために穿った穴としての窓。
 すべての窓を開け放って、大声で叫んでみたくなるのは私だけでしょうか。







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♪あんたのお名前なんていうの♪

2009-03-13 04:10:05 | よしなしごと
 以下は、昨12日に関する記述です。

   ===============================

 朝一番の電話は妹からだった。
 入院中の母の容態が悪化して危ないかも知れないという。
 車に飛び乗り、妹を途中で拾い病院へ駆けつける。

 病人の様子などくどくど書いても始まらないから省略するが、確かに見た目にもあまり良くはなさそうだ。かといってとくにガクンと来ている様子も見えない。
 しかし説明を聞いて、呼びつけられた事情を納得した。

 母は今朝方、なんと41.6度の高熱を出し、血圧も一時、上で60を切ったというのだ。それと、血液中の赤血球の数値が異常に上昇したというのだ。最後の指標は、体内の炎症が広がっていることを示すらしい。

 41.6度!で私はのけぞった。
 こんな高熱は聞いたことがない。
 40度というのは聞いたことがある。私の実体験では、20代後半に経験した39.6度ほどだ。しかし、41.6度とは?それを94歳の母が体験したとは・・。

 
 
 額に手を当てる。
 「今は平熱です」と看護士。
 「血圧はどうですか」
 「やはり60を少し上回ったぐらいです」
 ようするに、高血圧の人の三分の一しかないのだ。

 まもなく医師が巡回先から病室へやって来る。
 数値データの説明とその事態の意味、今日を乗り越えてもまたこの事態が訪れることの通告、さらにはどこまでの延命措置をするかの再確認(これについては妹との協議の上でのこちらの要求は伝えてある)などを行う。

 最後の医師の言葉が印象的。
 「脳梗塞の原因であった血栓が少し緩んで、意識が回復するかのような様相があったのですが、肉体的な衰弱が進んでいますから・・」
 確かに皮肉な現象ではあるが、私にとってはなまじっか母の意識が回復しない方が良いように思われるのだ。

 

 前にも書いたが、母は自分がポックリ逝くものと信じ切っていた。そのために神仏はむろん、民間信仰からなにやら怪しげな小宗教にまで信心のバリアーを張り巡らし、それなりのお布施も支出してきた。
 その母が、なまじっか意識を取り戻し、自分が置かれた事態を明晰に突き付けられたとしたらどんなにか嘆くことだろう。

 だから私や家族の間では、母が意識を取り戻し、もう一度言葉を交わしたいという思いと、その折りに味わう深い絶望感に母が耐えうるだろうかという思いがいまも交差している。
 私たちが駆けつけて以降の症状や数値はしばらくしても安定していた。
 病院に詰めていても仕方がないので、しばし日常に戻る。
 
 食事などを済ませてまた、今度は単独で病院に戻る。
 病室の手前で、知らない患者の男性から「あんたの名前は?」と聞かれる。
 不意をつかれて黙っていると、「名無しの権兵衛か」と呟く声。
 「いいえ、私は○○です」と名乗ると、「ふ~ん。○○ねぇ」となにやら思案顔。
 そこへ通りかかった看護士さん
 「**さん、よその人困らせてはいかんよ」
 と、たしなめる。
 「あ、看護士さん、あんたの名前は?」
 「何いっとるの、もう何回もいっとるでしょう。山口だがね。下の名前?ほんなもん、山口といったら百恵に決まっとるがね」

 
 
 その会話をあとに母の病室へ。
 様子は私が先ほどここを去ったときからほとんど変化がないまま眠っている。
 これは入院してから一貫しているのだが、眠っている際には無呼吸症候群があり、40秒ほど無呼吸で、その後20秒ほど激しく呼吸をするという繰り返しである。
 はじめは呼吸をしない時間に驚いたものだが、今はもう慣れた。
 
 病状などを妹に報告する。
 妹の方からは、万一の場合について考えたことなどが話される。
1)「お兄ちゃんが喪主やってくれるね」 了解
2)「いっぺん自宅(入院前まで母が住んでいた家。今は妹が管理)へ連れて帰るよ」 了解
3)「葬儀場はどこそこが近いけど、あまり評判が良くないのであちらの方にしたい」 了解
4)「これから母さんが帰ってきた折りに布団の下に敷くカーペットを買いに行く」 了解

 

 話していて、小津の『東京物語』で杉村春子が演じた役回りを思い出し吹き出しそうになった。
 誤解されるといけないから言っておくが、妹は決して冷酷なのではない。彼女は私のようなウジウジした男の妹としては珍しくリアリストなのだ。そしてそれがゆえに、まさしくリアルなレベルで母をどうおくってやるのかに懸命に気を揉んでいるのだ。

 だから、私が妹の提言のすべてにウイといったのは決してシニックな意味を含むものではない。リアルなお膳立てはすべて彼女に任せて、その上で私は私なりの役割を果たそうと心からそう思ったのである。
 私も妹も、その日が近いことを望んでいるわけではない。

 13日は、親しい友人と山間部でいまなお盛んというしだれ梅の写真でも撮しにゆこうかという話があったが、この事態を受けて残念ながらキャンセルした。
 天気予報では、13日は雨だという。ホラ見ろ、やっぱり行かない方が良かったろうと思う私は、ブドウを酸っぱいと決めつけた狐の心境なのだろうか。


タイトルは、世界最初のラップ歌手、トニー谷の歌詞から採りました。







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ネットの怪! 繋がらない!

2009-03-10 02:33:45 | よしなしごと
 数日前からネットに繋がらなくなりました。
 私はMacBook Airを使っていますから、電話回線からではなく、まさにAirを介しての繋がりなのです。
 これが数日前から全く繋がらなくなりました。

 でも、こうして書き込んでいる以上繋がっているのではないかというご指摘はごもっとも・・。
 繋がらないのは昼間だけなのです。昼間はほとんど繋がりません。
 ところが、夕方ぐらいから急に目覚めたようにビシバシと繋がり始めるのです。

 Macのサポートマンは、変な電波を拾っているのではないかといいます。
 ネットワークを開いてみると、確かに私のではないネットワークが居座っています。

 

 何でこんなことが起こったのでしょうか?
 サポートマンは言います。
 「数日前に何か変わったことはありませんでしたか?」
 何もありません。

 ひとつだけ引っかかるのは、そのころ、あるSNS(ソーシャルネットワークシステム}で、突然、1960年代後半から70年代にかけて日本赤軍派の議長であった塩見孝也氏から、マイミクシィ(互いの書き込みが公開される関係)になって欲しいとのメッセージを受け取ったことがありました。

 私はそれに対して、あなたの見解に賛同できない部分が多いけれど、それでもよければと言うことで承諾しました。
 それにより、彼が今何を考え、その周辺で何が起こっているの情報が得られればという野次馬根性があったからです。

 その日と、この電波障害の発生とがほぼ一致するのです。
 ひょっとして私は、虎の尾を踏んでしまったのでしょうか?
 「危険人物」に関わり合っている準危険人物として監視の対象になっているのでしょうか?
 監視員は公務員で、昼間だけの勤務なのでしょうか?

 むろん、たまたまの一致で、私の思い過ごしかも知れません。
 明日、NTTが光回線の様子を見に来てくれます。

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