六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

廃屋、そして廃棄された農機具と夢幻の田園風景

2024-05-25 01:33:32 | フォトエッセイ
 私の周辺の市街化の勢いはすごく、ここ何年か前の田んぼの中に住居などが散見できるというかつての風景は完全に逆転し、もはやわが家からは田んぼも見えず、逆に市街化された地域を通り抜けてやっと田んぼが見えるといった感じになってしまった。
 
 この間の経緯は何度も書いたので、またかと思われるかもしれない。しかし、その変貌はここ2、3年、本当に早いのだ。新しく建つ家屋も、機能本位の無国籍風が多く、その間を縫って歩く気も起こらない。最近、この近辺をうろつく機会もめっきり減ってしまった。

      
         

 しかし、これでは足腰の衰えに対抗できないと、数日前、昔からあった集落の中を歩いてみた。結論をいうなら、ここでもがっかりさせれれることが多かった。
 昔の農家の常として、槇の生け垣などに囲まれた屋敷内に、住居のほか、そこそこの畑をもっていて、そこでは自家消費用の様々な作物が小分けされた面積で栽培されていて、それを覗き込むのが楽しみだったのだが、いつの間には生け垣はなくなり、かつての畑にはコンクリートが敷き詰められ、貸駐車場になっていたりする。
 また、どっしりした伝統的な日本家屋風の母屋が取り壊され、コンクリートの四角い塊りの家屋に化けていたりする。

      
         

 そして、こうした昔からの集落の中や周辺に、廃屋化した建物が交じるのだ。
 ここに載せるのは、二軒ほどだが、荒れ放題の生け垣の中で写真に撮れなかったところなどを含めると、この日、一つの集落の中のみで、数件のそれが確認された。
 集落のはずれの、つい先ごろまで田んぼであったところに林立する住宅の新市街とは対象的な光景である。

 次に載せているのは、私の家の二階から数十年にわたってウオッチングしてきた二反の田んぼの耕し手の屋敷内で、彼は数年前に急逝したため、今はもう使われなくなった農機具などがアトランダムに置かれている。
 ここは私の家から離れてはいるが、ここから彼はそれらの農機具を運転したり、トラックに乗せて運んだりして私の家のすぐ近くの田へやってきていたのだった。

 そしてその田は、今や埋め立てられて、コンビニとコインランドリーが華やかに営業していることは以前書いた。

      
         
      
         
      

 彼の屋敷内に散在している農機具は、こうしてみてもいかにも古臭い。それは彼の死後、もう何年も経っているからではない。彼が生前使用していた折に、それはすでに古びていて、知り合いの農機具メーカーの人も、もうこんな機械使っている人は日本中探してもめったにいないと太鼓判を押していたほどなのだ。
 そうしたエピソードも含めて、ひとり黙々と作業を進めてきた彼の人柄のようなものが偲ばれる光景である。

 最後に、彼が健在で自分の田で作業をし、それを私が2階からウオッチングしていた頃の写真を載せておく。
 
      

 1枚は夏の終わり、風になびく田のまさに穂波の様子。あとの2枚は刈り入れの様子。いずれも2010年代なかばのもの。

      
       

 いまは24時間営業で終日灯りが絶えないコンビニやコインランドリーの箇所に、ほんの何年か前までこうしたのどかな田んぼが広がっていたことを知る人は少ない。
 私のようにそれを知ってる者でも、かつての田園風景は記憶の底に押しやられがちで、それ自体が夢幻のように思えてしまうのだ。
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後輩の命日の参拝を兼ねた古刹での森林浴

2024-05-12 01:45:09 | フォトエッセイ
 以下は、昨年の5月10日、あるSMSに載せた記事である。
 ===============================
 今日、葬儀に行ってきたのは高校(県立岐阜商業)の演劇部一年後輩の女性。 この写真は  当時の公演後のもので、着物にエプロン姿がその彼女。着物姿で髭をつけているのが私で、夫婦役であった。
 学生服姿のものは後ろ左が彼女、前列左から二番目が私。
 70年前のセピア色の青春。嗚呼!
      

 ===============================
 そして今年、その人の命日がこの8日だった。五月晴れの快適な日、思い立って、その菩提寺に参拝しようと思った。
 というのは、同じ岐阜市でもほとんど南の外れに近いところに住んでいる私に対し、その寺院は、逆に岐阜市の北端にあり、濃尾平野の突き当りのような、もう山地に差し掛かるようなところにある風光明媚な古刹なのである。

 岩井山延算寺がその古刹であるが、別にその近くに住んでいた訳ではなく、入る墓がなかったので、その広大な寺院の一隅にある永代供養納骨霊廟(納骨堂)をあらかじめ買っておいたようなのだ。

 車を走らすこと約40分、その納骨堂の知覚に到着。大きな観音様の石像を中心に、納骨者たちの墓標が林立している。私の目指すものがどれか探しにかかったがとても埒が明かない。そこで控えてあった寺の電話番号を回し、出てきた女性に俗名を述べ、だいたいの位置を教えてほしいと乞う。すると女性は、今そちらへ行きますから少々お待ちくださいという。
     
         
 街なかの寺と違って、庫裏からひょいと顔を出すのと違い、かなり離れた場所から来てくれるのだ。やがて、その物腰から住職の奥方と思しき女性がやってきて、丁重な挨拶とともにその位置を教えてくれる。
 礼を述べてその墓標の前にぬかづき参拝をする。持参した花は、共同の献花場所に納める。静かな山中の参拝はまた格別である。不幸な一面も背負った人だったが、その明るかった面のみが心に浮かぶ。それがいい。

          
      

 改めて周辺を見回す。山の斜面に周囲の緑を活かして設えられたなかなかの風情である。桜の季節はとうに去ったが、周りの山地には品のいい薄紫の花を付けたヤマツツジが三々五々、咲き誇っている。
     
 
 命日の参拝は終わったが、いろいろな伝承や文化財に恵まれた本堂付近をスルーして変える手はない。斜面を少し登り、近道の裏門から入ったのだが、そのせいで、まずはその庭園を見ることとなった。
 さほど広くはないが、よく手入れをされている。透明な池には色とりどりの鯉が遊泳し、その池と続く湿地には、あざやかで明るいカキツバタの紫が目を射る。その横の艶のある厚手の葉陰から覗いている黄色い花はコウボネだ。
 もみじの花の赤もまた艶やかである。
     
     
         


 この庭の一隅には、大正三美人(この言い方は今どきはルッキズムとして批判されるだろ)の一人といわれる柳原白蓮の歌碑がある。
 この白蓮、2014年の朝ドラ『花子とアン』の主人公である村岡花子(「赤毛のアン」などの翻訳者)をモデルとした主人公花子(演じたのは今の大河ドラマで紫式部を演じている吉高由里子)の年上の友人蓮子(演じたのは仲間由紀恵)のモデルとなった人で、朝ドラの中にあった、炭鉱王の妻でありながら年下の文学青年と駆け落ちするというのもほぼ事実のようだ。
 
             

  この白蓮さん、この岩井山がお気に入りで三度ほど訪れ逗留もしているが、この歌碑にある歌は、かなり後年の1952年の折、詠まれた歌で、そのせいもあって、現代仮名遣いで詠まれている。
 「やまかげの清水にとえばいにしえの女のおもいかたりいずらく」
 これは文字通り、山の清水に訊けば昔の女性の秘めた思いを語ってくれることだろうという意味だが、この歌にはさらに下敷きがあって、この「昔の女」というのが小野小町のことなのである。
 
          

 なぜここに小野小町が登場するかというと、小野小町は疱瘡にかかった折、この岩井山延算寺に逗留し、境内の清水で患部を洗ったところ、それが治癒したという言い伝えが残っているからである。今も「小町滝」と名付けられた箇所がある。
 なお、この歌が評価されるとしたら、皮膚病を治したいという望みにとどまらず、小野小町という女性の全実存そのものが伝わってくるようだということではなかろうか。それに重ねた自分自身の境遇も・・・・。
 
     
     

 庭園に長居しすぎた。本堂や鐘楼の方へ行ってみる。やはり古刹ならではの風格がある。それが周りの山林を借景として、程よく収まっている。本堂には重文などの仏像があり、一般公開はしてるものの撮影は禁止で写真はない。

     

 しばらく境内のアウラを味わった後、今度は正門から出て駐車場への山道を歩く。樹間から山里の風景が郷愁をそそる。
 駐車場横の立派な孟宗の竹林中から、野鳥の囀る声がするので目を凝らすが何も見えない。私のほか誰もいない山中の空き地、急に寂寞感が襲ってくる。小野小町、白蓮さん、そしてこの地を自分の青山として選んだあの人のことなどがごっちゃになって山の霊気を生み出しているという幻想がよぎる。
     

 しかし、次の瞬間、安全運転を心がける私の車は、つづら折れの山道を静かに下ってゆくのだった。

【おまけ】帰途、長良川付近で車中から撮した金華山麓のツブラジイの群落。その花の艶やかさから「金華山」と命名されたというのもむべなるかなだ。
 
     
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八十八夜の新茶と姉の思い出

2024-05-07 23:31:33 | フォトエッセイ
 今年の八十八夜の新茶が届いた。贈り主は私の姉の娘、つまり姪である。
 この時期、新茶を贈ってくれるのは、三年前の今頃亡くなった姉の毎年の好意だったが、それを姪が引き継でいてくれているのだ。

      

 この亡くなった姉と私の関係は特殊であった。私たちの実母は、私が生まれて一週間ほど後、いわゆる産後の肥立ちが良くなくて亡くなってしまった(その意味では私は母殺しの鬼子だ)。実父は女姉妹ばかりの家へ婿養子で入っていたのだが、「家を守る」という昔風の流儀で、実母の妹と再婚することになった。しかしその折、その妹は女学校を出たばかりの19歳、乳飲み子の私やその2歳上の姉をとても面倒見きれないとうことで、姉と私は親戚中をたらい回しにされた結果、別々のところへ里子に出されてしまったのだ。

 以後、私が40歳を過ぎるまで、再会することはまったくなかった。ようするに、お互い80年以上を生きたのだが、その半分は消息すら知らないままだったのだ。
 私は、そうした生き別れの姉がいることは知っていたが、良くしてくれた養父や養母に悪いと思い、私の旧家や姉のことを所詮は縁のなかった仲だと諦めて、探そうとはしなかった。しかし、姉の方は、いろいろな伝手を辿って私を探し当ててくれた。

 それ以後の付き合いであるから、子供の頃も、それ以後も喧嘩などはしたこともなく、再開後も、旧家が「家」をリセットするためにお互い締め出された境遇ということもあって仲良くしてきた。多少の遠慮を含みながらの仲ということでそれも特殊であったかもしれない。

          
 せっかくの新茶をマグカップで・・・・とお思いかもしれないが、これが私の流儀だ。湯のみ茶碗のセットはいくつもあるが、それでチマチマと飲むのではなく、これで最初は香りを楽しみながらすするように飲み、最後の方はゴクリと飲み干す。

 その姉が、住まいが静岡県ということで毎年、この時期に贈ってくれたのが八十八夜の新茶であった。それを今、姪が継承してくれているわけである。姉との繋がりが今も続いているという思いがして嬉しい限りである。
 その喜びを率直に書いたお礼の手紙を書いた。

 子供の頃、童謡の「花かげ」を聴くと、なぜか生き別れの姉のことを想い、胸キュンになったことを、いま懐かしく思い出している。
 https://www.youtube.com/watch?v=N3HEyJDTAWY

 

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国際女性デー(3月8日)の新聞

2024-03-08 11:24:04 | フォトエッセイ
今日の「朝日」の朝刊、タイトルがカラーに。何ごとかと思ったら「国際女性デー。女性だから色付きというのもルーティンだが、まあ、意識しないよりいいだろう。
一面下段、書籍広告もそれらしいものを並べた。
一面、トップ記事。
これは途中の全面広告で、上が閣僚数、ついで最高裁官、そして上場企業の役員の比率。イラストではいずれも女性が多く意表を突くが、これの真逆が実態という皮肉な広告。
その他、「天声人語」など、他の記事もそれを意識したものが多い。

        

     

        

        

 

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開花!

2024-02-12 01:28:54 | フォトエッセイ

 亡父譲り樹齢数十年の鉢植えの紅梅が開花し始めた。
 今年は花の付きが良いように思う。

     

     

     

     

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漬物漬かった その後の報告

2024-02-04 11:42:53 | フォトエッセイ

 前回、赤カブと白菜を同時に漬けたと記したが、その後の情報。

 まず赤カブは写真の順序で塩加減も良しっと判断し、タッパーに上げてあとは冷蔵庫内で保存。

     

 

          
     
     
 続いて白菜。3日目ぐらいで水が上がってきたので、少し試食したら塩分不足で漬物の味がしない。そこで追い塩をして二日、試食ではOKだと判断したが、もう少し漬け込んだほうかいいとそのままに。
 八つに割ってあるから、一つづつ食べてゆくと、最後のほうがよく漬かってやや小酸っぱくなると、また別の味わいが楽しめる。
          
          
           フォト
      


 最後は、それらを食した夕餉の模様。

     
 手前の二品は、左はごちゃまぜサラダ、右は鶏モモ塩焼き。焼いてから切った。
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漬物三昧の日・・・・といっても食べまくったのではない。

2024-01-31 01:34:37 | フォトエッセイ

 1月30日、私にしては早起きをしてまずは洗濯物を乾してから農協の朝市へ。早く行かないと少量の希少種は売り切れてしまう。

 今回のそれは赤かぶ。漬物類が切れているのでそれを漬けようと思った。やはり早く行ったのは正解で、私の買ったあと、それはもう一束を残すのみだった。
 それはそうだろう。葉付きの中玉の赤かぶが6個一束で93円なのだから要らなくとも買ってしまいそうだ。

       
 その他ネギや青菜類を一通り買って、巻きの固い白菜を一株(185円)買った。これも漬物にするつもり。
 いつもならもう2、3度漬けているはずだが、今季はどういうわけかその機会がなく、今回が初めて。

 帰宅してすぐ、その白菜を8等分して乾す。
 作業はここまで。洗濯物や農協の他、業務用の業務用食材店アミカへ立ち寄り、生ラーメンと春雨のやや大きい袋入などを買い、さらに、同人誌発送に使っていたクロネコのDM便のシステムが来月から変わるというので、その打ち合わせにクロネコの岐阜支店へ行ったりしていたので、もうすっかり疲れてしまった。

           
 お茶をしながら遅めの新聞を読む。
 相変わらず岸田という男は煮えきらない奴だ。たしかに自民党は危機だろうが、ここは開き直ってかつての小泉のように、「自民党をぶっ壊す」つもりで思い切った改革案を出し、自分が率先してそれを実行すれば、支持率は上がり、自民党の他の連中もそれに従わざるをえないだろうと思うのだが、党内の各勢力のバランスを伺い、そんなどうでもいい均衡の上でフラフラしている。
 旦那衆の顔色を伺い、それぞれに揉み手をする番頭気質が染み付いているのだろうか。
 野党なんか敵失に息巻いているのみでなんの力もないなか、この危機は彼にとっては長期政権確率のチャンスなのに・・・・。
 まあ、私が自民党や岸田の心配をする義理合いはまったくないのだが。

 昼は、ネギ、大葉、柚子の皮千切り、切海苔がどっさりのった暖かい山かけ蕎麦で腹ごしらえ。午後の作業に思いを馳せていて、写真を撮るのを忘れた。

 午後、メールやSNSのチェックのあと、漬物作業の開始。
 白菜は乾したままにして赤かぶにとりかかる。といってもぶった切って即席漬物器に放り込み圧力を加えるのみ。今回は葉も一緒に漬けた。葉をつけないときは、それを煮付けにする。白カブの葉と微妙に味が違って面白い。

           



 昆布の千切り、柚子の皮、鷹の爪のみじん切りも合わせる。塩加減は相変わらずの目分量。夜になってチェックしてみたが、よくわからない。明日、もう一度チェックしてみよう。

       

 洗濯物を取り入れ、白菜も取り込む。
 用意したのは、赤かぶと同じく昆布の千切り、柚子の皮、鷹の爪のみじん切りだが量が倍以上。
 久々に陶器製の漬物桶を出してくる。漬物石(やはり陶製)と合わせると何キロになるのだろう。腰痛持ちにはこたえる重さだ。
 白菜、塩、薬味類と次々に押し込んでゆく。そして陶製漬物石。大きい方は5キロ、小は3キロか。

           
          
 ちょっと白菜が大きかったせいか、重石の小は桶の縁より高い。均等に重石が沈めばいいがそんなことはありえない。少しでも傾斜ができると上の重石がゴロンと落ちて、ゴロゴロと駆け出す。以前、夜中にそれが起こり、目が醒めた。
 それを防ぐため、強そうなビニール袋を被せ、桶の縁にしっかり結わえ付ける。これなら斜めに滑っても転がることはない・・・・と油断はできない。前に夜中に落ちたときは、紐の縛りが緩んで大音響になったのだから。

           

 白菜の塩加減も目分量。多分、かなり足りないと思う。多過ぎるより足りないミスのほうがいい。後で足せばいいだけだから。これも明日、様子を見よう。

 夜、メインディッシュはサーモンの切り落としのアラ、200円。自分なりに処理し、フライにした。サブは沖縄の生もずく。生姜の千切りと合わせる。
 19年に訪れた辺野古のあのサンゴ礁の淡い青と、沖合の紺碧のコントラストのうっとりするような風景を思い出していた。

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相次ぐ訃報たちによせて・・・・

2024-01-09 23:52:36 | フォトエッセイ
        
 
坂田利夫、篠山紀信、中村メイコ、八代亜紀と訃報が続くとなんとなく昭和の終わりを感じる向きが多いようだ。これらの人のうち、私より年長は中村さんのみ。
残されたこの私、昭和の意識はあまりなくて、戦中生まれの戦後育ちという意識の方が大きいかもしれない。
八代亜紀は、往時のデコトラの運ちゃんたちに愛されていた。当時、対向車線に止まっていたデコトラの助手席に、白いドレス姿の八代亜紀が艶然と微笑んで座っているので驚いたが、よく見ると、等身大の写真の板張りだった。
ところで、あのデコトラの過剰装飾は、北九州かどっかの成人式のど派手な装束に似ていて、それ自身無為で儀式めいているところが面白い。
私の話は、脱線が多い。これも一種の過剰装飾。
 
 
 
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正月早々の悲惨!

2024-01-03 01:25:43 | フォトエッセイ

      

 能登は思い出の地。ほぼ60年前の20代後半から30年代、月一の出張で金沢へ出かけ、そこの代理店訪問で「おやつ」にといって出されたズワイガニの極太の足の美味かったこと!
 
 金沢駐留の人とともに能登の珠洲、七尾、輪島へはよく行った。雪の中を車ででかけたが、帰途、ドカ雪で当時の軽自動車では前進不可能。車を捨て、腰まであるような雪をかき分け、たどり着いた農家で最寄りの国鉄の駅を教えてもらい、やっと金沢へ帰ったことも。
 そんな思い出の地だから、その後家族で能登半島を海沿いで一周する旅に出たこともある。
 
 その能登が、揺らぎ、倒壊し、燃えてしまった。こんなの嫌だ!
 計り知れない自然の営みを解明しようという人たちがいて、その人たちには敬意を表するが、その人たちの予測をも超えて暴れるのが自然だ。
 
 羽田で飛行機が衝突したのは人為の事故で、やがてその実像は解明されるだろう。
 ただし、現在のシステムは精巧極まりなく、人間の秒単位での即応を要求する。にもかかわらず、人間の即応力は特に進化したわけではない。
 精巧なシステムと人の能力にあるバグの可能性。
 
 ともに、21世紀を象徴してはいないだろうか。

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【元日幻談】

2024-01-01 17:05:45 | フォトエッセイ
     
 元日のわが家の前のバス通り。約60年前、ここにやってきたときにはまだ舗装もされてなくて、時折通る車が土煙りを上げていた。両側は田んぼで、左右にポツポツと家があるのみで一面の緑だった。
 
 そんな後ろ向きのことばかり考えないで正月だから前向きに考えろって。本気で言ってるの?
 
 天文学的な格差、人新世などといわれる環境の変化、各地で庶民を殺し続ける戦争。いろんな駆け引きはあるもののこの悲惨の終焉への道は見えない。かつてのように若者たちが立ち上がることもない。
 
 各種アゲインストの集会などは老人ばかり。老害?馬鹿言ってんじゃないよ。
 そんなのは若いやつが未来を見据えて何かをするときにいうことだよ。
 
 なにかに参加することを恐れて自己の殻に閉じこもっているやつは老害を振りまく老人よりも影が薄いんだよ。
 
 まだバス通りが舗装していない頃に育った老人として思いっきり老害を振りまいてやるから覚悟しろ。
 
 なんて啖呵を切ってみたいものだ。 
 
 
 
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