六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

コロナ太りの私の散歩道 ジリジリと閉塞感が

2020-04-29 11:43:22 | フォトエッセイ

            
 コロナ太りといっても、この際のどさくさで稼いだということではない。
 この間、一ヶ月ほど、自宅近辺からほとんど動かず、歩数計も一日数百歩もあればいいところ。歳の割には出しゃばりであちこち出歩いていたから、その落差は大きい。
 そのくせ、食事の量は変わらないし、家飲みは帰途の都合を考える必要がないから、「ん?いま何杯目だっけ」といったことになってしまう。結果として体重が増える。

          
 頑固な腰痛に参って、ここんところコルセットを巻いているので、ズボンの腰回りがきつくなってきた。といってもそんなに太ったわけでもない。60キロ手前で踏みとどまってはいる。ただ、ズボンの方が55キロほどの頃に腰回りを合わせたものがあって、それらがきつい。

       
 ならば運動するしかないだろうと、普段は「歩くために歩く」なんてとウォーキングなど無視しているくせに、やはり歩くしかあるまいと、クリニックへいって常備の薬をもらってきたついでに少しばかり歩く。

          
 この前歩いたときの近くの川辺は、桜が満開後期を迎えていて、花筏がきれいだったが、もはやすっかり新緑になっている。ただし、遅咲きの八重桜が上流にあるせいで、その小規模な花筏ができていて、そこへまた、赤いビニールのカーニバルハットのようなものが流れ着いて、妙なコラボを形成していた。上方にみえるのはヒメツルソバで、その繁殖力は実に旺盛である。

       
 よし、次はあそこへいってみようという気力も湧かず、その辺をツル~ッと廻ったのみで、さして歩数を稼ぐこともできないまま帰宅。
 だからあまり書くこともないのだが、オマケにわが家でことどもをすこし記しておこう。
 
       
 玄関先の赤ツツジだが、白に遅れること一週間ぐらいで、いまが満開だろうか。通行人の目を多少は和ませているのではと思う。
 ツツジをドアップで撮るなんて、あまりいい趣味ではないかもしれないが、なんとなく吸い込まれそうな気もする。

 

       

          
 そういえば子供の頃、花をとって、反対側から蜜を吸ったっけ。

       

       
 玄関へのイントロを挟んで、このツツジと反対側の桜桃のなる樹、そろそろ実が色付いてきた。このまま放置すると、ヒヨドリやムクドリの餌食になってしまう。
 そこで例年のごとく、要らなくなったCDを何枚か吊るした。あと一週間もしたら、第一回目の収穫ができそうだ。

          
 突然だが、私はネギが好きで、不可欠な野菜だ。毎回、農協で買ってくるが、切れた場合の予備としてネギを植えている。そのネギたちに、ネギ坊主ができ始めた。

 このコロナ騒ぎ、もともと蟄居に近い生活をしていた老いの身にはさして変わりがないようにみえて、実際にはジリジリと閉塞感が忍び寄ってきて、過剰な重力のように感じられるようになった。
 コンサートも映画もダメ、図書館は完全閉館、飲食店はアウト。
 
 どこかで、大声で「ワ~ッ」と叫びたい気もする。

 

 

 

 

 

 

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わが家の「ハイブリッド」ツツジ

2020-04-26 17:07:31 | 花便り&花をめぐって

 わが家には、樹齢50年ほどのツツジが2本あって、それぞれ白い花と赤い花をつける。
 
       

          
 赤い方は玄関脇にあって道路にはみ出したりするので時折剪定していて、樹高は限定されているが、白い方は伸び放題にしてあるので、樹高は五メートルほどに至り、その先端部分は二階の私の部屋のデスクの正面に面している。

           
 ただし、ツツジは下から咲き始めるので、下半分は満開に近いが、上半分はまだまだつぼみの段階である。それにしても、老木で樹勢が衰えたのか、以前よりも花が上がってくるのが遅くなったような気がする。

       
 ところでこのツツジ、一〇年ほど前までは白は白、赤は赤とそれぞれの色に咲いていた。それが、最近では、白の方にまるまる赤い花がついたり、花全体は赤くなくとも赤い斑が入ったりするものが見られるようになってきた。

                      

       
 しかし、その現れは年によってまったくランダムで、法則的なものを掴むことはできない。だんだん増えてくるわけでもないし、場所が決まっているわけでもない。その現れ方も違っている。

       
 今年はいままでにない、ちょっと妖艶なグラデイトが見られるものが一輪あった。これまでは花がまるまる赤かったり、くっきりした斑が入ったものはあって、今年ももちろんそうしたものもあるのだが、こうしたグラデーションは初めてだ。

       
 最後の写真は、二階から見下ろしたものだが、窓の正面に至るのが待ち遠しい。
 PCや書を読むのに疲れた折など、ふと目を上げるとその先に白い花が揺れていたら、素敵だはないか。
 そうなったらまた、追って報告したい。

 

 

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ふたつの新聞がやってきた!

2020-04-23 23:12:48 | よしなしごと

 先に、最近の新聞事情について書いた。本紙の記事も折り込みも少なくなって来ているということだった。
 それを書いた翌日、新聞受けに二部の新聞が。一部はいつもの『朝日新聞』、そしてもう一部は『産経』。

        
 産経なんてこの辺りでは見たこともない。もはや絶滅危惧種だと思っていた。しかし、既存の新聞店に寄生しながらほそぼそと生き延びているようだ。
 今回の配達も、間違いではなくて宣伝活動の一環であろう。

 で、当然のごとく読み比べてみることとなったのだが、まあその政治姿勢がかなり違うのだから端々に相違があるのは当然としても、ひとつの大きな差異は地域情報がまったくないということだ。

              
 「朝日」の場合、名古屋本社の発行だから、全国共通記事の他に中部版、岐阜県版(愛知、三重などはその県の版)があって、いま地元で何が起きどうなっているのかがわかるのだが、「産経」にはそれらしき情報はまったくない。名古屋の「ナ」も岐阜の「ギ」も出てこない。
 まあ発行は大阪本社のようだから無理はないが生活情報としては役に立たない。文化面もなんか薄っぺらな感じがする。

 政治的なことには触れないといったが、ひとつだけ看過できない記事があった。それは、その前日、沖縄防衛局が辺野古の設計変更に関する膨大な書類を沖縄県に持ち込み、その承認を迫ったのだが、沖縄県はそれを拒否する構えだという記事で、これについては各紙もNHKも共通だ。

         
 さらに、沖縄県がこのコロナ禍で忙しい折にと不快感を示したという報道もあり、これも「朝日」も「NHK」も同じなのだが、その解釈として産経は、コロナを政治的に利用して国防に関する重要事をないがしろにした沖縄県はけしからんと匂わせる極めて恣意的な記事をわざわざ別掲で載せている。

 そして、産経が書いていなくて、朝日やNHKが述べているのが、この設計変更というのが、計画地域内にマヨネーズのような地盤が見つかったため、ほんとうなら22年に完工予定のそれが、10年ほど延び、3倍の予算に膨らむという負の側面についてだ。

         
 これは昨秋、私自身が辺野古の現地へ行って聞いてきた情報と一致している。つまり辺野古の埋め立ては、当初、ろくすっぽ調査もせず、地元はおろか国民全体を騙し、強引に着工したのだが、マヨネーズのような地盤があり、結局は実際にはいつ終わるかわからない工事期間と三倍以上に増加する可能性の経費(全部税金だ!)を要する泥沼工事を強行しようとしているのが事実なのだ。
 
 だから、この設計変更書自体が、詐欺師の後追い理由付けのようなものなのだ。そんな詐欺まがいの話への付き合いより、コロナ対策の方が遥かに重要なことは当たり前ではないか。

         
 産経が完全に無視しているのは、沖縄県民が数度にわたって辺野古を拒否しているという事実だ。それを棚上げにしておいて、沖縄は基地よりコロナを重点にしているって当たり前のことではないか。基地を作らないということで選ばれた知事が、なぜこのコロナ禍の折に、詐欺まがいの膨大な書類に目を通さなければならないのか。
 こんな時期に、それを沖縄県に突きつける沖縄防衛局のやり方こそ火事場泥棒というべきではないか。

 産経がアサッテの方を向いたトンデモ新聞であることは改めてよくわかった。わざわざ投入してくれてありがとう。

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【コロナ禍異変】新聞読んでますか?

2020-04-21 15:44:12 | よしなしごと

 新聞の朝刊が薄くなった。三〇ページ余あったものが一〇ページほど減っている。これだけ自粛ムードが強まり、人の移動がないと事件や事故もあまり起きないようだ。もちろん、書くべき催しなどもない。

         
 とくに哀れなのがスポーツ欄。ほとんど何もやっていないのだから載せる記事がない。最盛期には数ページを使っていたのに、いまはたった一ページを持て余している。
 それも過去のデータとか、アスリートの競技とは関係のないエピソードをチラホラ載せるぐらいで、読む気もしない。
 
 いわゆるスポーツ新聞を読む機会はないが、それらは一体何を載せているのだろう。スポーツ記事はともかく、芸能人のスキャンダル記事も、彼らが「濃厚密着接触」を避けているフシがあって、話題に浮上してこないのではないか。

         
 新聞は薄くなったのには、広告の減少もある。通販や宅配はともかく、客を呼び寄せるような広告は載せても無駄だからであろう。
 在宅が多いせいか本の広告は増えたような気がする。

 紙上の広告が減ったばかりではない。折込広告も激減している。スーパーのチラシは通常と変わらないようだが、あとはテイクアウトや通販というところが主だ。
 これまで、うっとおしいなとドカッと捨てていたそれも、これだけ少ないといささか哀れを催す。

         
 それでも新聞は読む。
 読むところが少ないというその風潮そのものを読む。

             

《オマケのメリット》別にいいことは何一つないのだが、あえていうならばこんなことか。
 どこへゆくにもマスクをしてゆく。出先で外すこともない。だから多少の無精髭も露見することはない。

 

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消えた保健所! 私のコロナ疑似体験からみえてきた医療崩壊の前兆

2020-04-18 11:53:32 | 社会評論

 以下は私自身の体験からみえてきた実状の報告である。
 今月の初め、年に一回は罹る喉風邪の前兆があって行きつけのクリニックへいった。いつもなら医師が、「ハイ、口を開けて。あ、やはり喉が腫れていますね」と視診をするのだが、コロナ禍のせいでそれもなく、医師も私もマスクを着用したまま。

 そして、「それではいつもの喉の薬を出しておきましょう」といい、同時にコロナ関連のパンフを渡し、「何かいつもと変わった症状が続くようでしたらこちらへ連絡してください」と保健所の所在と電話番号を渡された。
 
        
 私が違和感を覚えたのはその折であった。
 私に渡された保健所の所在は、同じ岐阜市でも六~七キロ離れた箇所で、私の家から徒歩で一〇分ほどの岐阜南保健所とは違う箇所だったからである。
 「先生、南保健所ではダメなんですか」という問いに、医師は、「南保健所はとっくになくなっていますよ。今、岐阜市の保健所はここだけです」とのこと。

        
 これは意外であった。かつて岐阜市には中央のそれを始め、東西南北と数箇所以上の保健所が実在したのであった。
 帰宅してネットで各地のそれを調べたところ、どこも統廃合が進んだ結果、全国の保健所数は二分の一以下に減少していることがわかった。
 いわゆる行政改革の結果が至らしめたところである。

 名古屋市は一応、各区に一保健所はある。東京都もそうだ。
 ひどいのは大阪市で、人口270万人の大都市にも関わらず保健所の数はわずか一箇所なのだ。維新主導の行政改革がいかに凄まじいものであったかがみてとれる。
 これにはおまけがあって、つい先般、コロナ禍に関して松井大阪市長が、「公的医療機関の充実が必要」とTVで力説しているのをみた。オイオイ、それをぶち壊したのはあんただろうと思わず毒づいた次第である。

 保健所は今、検査の要請が殺到しててんやわんやだと報じられている。その多忙ぶりが感染者の発見を遅らせる要因になっていることもじゅうぶん考えられる。そしてそれが、医療崩壊の一因になっているとしたら、行政改革のもたらしたものは今一度検証されなけらばならない。

        
 これと並んで公的医療機関の行革による減少は、市民病院などの公営病院の統廃合や民営化にもみられる。市を名乗りながら市民病院をもたない市もかなりある。遠く離れた民営病院への業務委託という名目で、行革による民営化が進み、各地の公立病院が潰された結果である。

 今回のコロナ禍にみられるような広範な感染症への対応の場合、採算にとらわれない公的医療機関の果たすべき役割は実に大きい。
 日常的には、たしかにそれらは投下した資金に対する見返りは少ないかもしれない。しかし、これら保険衛生に関する地域医療は空気や水同様、その住民にとっての必要不可欠なインフラであり、経済効率では図り得ない必要不可欠なものなのだ。
 もちろんその存続を前提としたある種の合理化は必要だろう。しかし、たとえ赤字でも、その存続自体は、まったく正しい税の使い方なのである。

            
 私は、自身の疑似コロナ体験から、近くの保健所が消えたことを知った。そして、この行革や民営化による公的医療機関の劇的減少が、医療崩壊の一つの要因たりうるのではないかと思っている

 私自身についていうならば、喉の痛みが発生してより二週間以上が経過し、その症状は消え、その他の兆候もみられないが、このご時世、どこでどうなるかはわからないと思っている。

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義仲―芭蕉ー保田與重郎の系譜 義仲寺散策から 

2020-04-16 11:38:48 | 歴史を考える

 大津市の義仲寺は狭い境内ながら、いろいろな要素がギュッと詰まっていることはすでに書いた。
 木曽(源)義仲と巴御前の墓、そして芭蕉の遺体が埋葬された墓などがその中心だが、その他にも見どころがかなりある。境内見取り図を載せておくので、参照しながら読まれたい。

             
 本堂は朝日堂という。これは、平家物語などで義仲が「朝日将軍」などと呼ばれたことによる。
 それと向かい合わせの無名庵は、義仲を慕う芭蕉がたびたび訪れた際、宿舎にしていたところで、しばしばここで句会を催したりした。その伝統は今にいたり、寺はここを句会の場として開放している。

            
 翁堂の翁は芭蕉を指し、正面に芭蕉の坐像、周囲に弟子たちの像や画像が安置されている。ここで見るべきは、伊藤若冲が描いた天井画、四季花卉の図である。

          
 また、境内には、芭蕉の行く春を近江の人と惜しみけるや、辞世の句、旅に病んで夢は枯野をかけ廻るをはじめ、その弟子たちも含めた20の句碑が点在し、その所在は境内見取り図の丸囲みの数字が相当する。

 境内の突き当りまで至って、まあ、こんなところかなと踵を返そうとした私の目に、ん?という墓石が飛び込んできた。どこかで聞いた名前ではないかと近寄り、やはりそうだと確認することができた。
 墓碑面に曰く、「保田與重郎墓」とある。

 戦中戦後にかけて文芸評論の面で活躍した日本浪曼派の柱とのいうべきあの保田與重郎の墓である。その存在は、寺のパンフにも書かれていないし、私の予習にもなかったので意外であった。
 慌てて、まだ境内にいた住職に訪ねた。
 「あの保田與重郎墓って、あの保田與重郎の墓ですね」
 と、いささか同義反復的な問いを投げかけた。

 「そうですよ」という住職に、
 「どうして、彼の墓がここに?」
 と、畳みかける私への住職の答えはざっとこうだった。

            
 いささか荒れていたこの寺の、昭和大改修(1976年)の折、いろいろ力を貸してくれたのが当時、京都に住んでいた保田與重郎であったという。そこで、その功績に鑑み、その死後、分骨をしてもらってここに墓を建立したのだそうだ。

 ここで、当の保田與重郎(1910-1981年)について述べるべきだろうが、彼の著作の一端に触れたのはもう60年近い前で、完全に忘却の彼方だ。
 ただ彼の概略を記せば、マルクス主義者として出発しつつも、ドイツロマン派への傾倒を経て、近代文明批判と日本古典主義へと至り、以後、日本浪曼派の重鎮として文芸評論の場で活躍した。

 ただし、その論評が戦争を肯定し、その戦線拡大に組みしたのではないかということで、戦後、1948年から60年まで、公職から追放されている。
 その論功行賞は、一筋縄ではゆかぬものがあり、浅学の私にはしかと断定することはできない。
 彼の影響は、三島由紀夫などにも至り、また現今の近代批判、近代の超克観にも、意識するとせざるとに関わらず、少なからずの陰影をもたらしているものと思われる。

 義仲・・・・芭蕉・・・・保田と並べてみると、日本的美意識のある面がほのみえる気もする。見逃さなくてよかった。

 

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木曽義仲と巴御前の墓所 芭蕉はなぜここに?

2020-04-12 01:05:21 | 旅行

 前回は、義仲寺について書こうとして、木曽義仲に関することのみで終わってしまった。
 今回はグッと時代を引き寄せ、この特色がある寺について書こう。

 大津のメインストリートともいえる湖岸通りが、なぎさ通りと大津草津線に分岐する地点から一本南に入った乗用車がやっとすれ違えるような狭い通りに面してこの寺はある。しかし、この狭い通り、実は旧東海道なのである。

        
 普通、寺院といえば、かつての幾多の建造物群をもった大伽藍は別格としても、正方形に近く、そこそこの面積をもったものだと考えがちだ。しかしここは違う。間口は二〇メートルにも満たず、それがそのまま数十メートル奥へ続くという、うなぎの寝床のような敷地なのだ。しかし驚くべきは、この狭い空間の中に時代を重ねた様々な要素が、その密度も濃く凝縮されているということだ。
 石山寺や三井寺の広い敷地を歩いた後とあっては、まるで嘘のように様々な要素がギュッと詰め込まれている感がある。

        
 まずはその名称通り、ここには、この近くの粟津の戦いで、ぬかるにその騎馬が足を取られて討ちとられたという木曽義仲の墓がある。なお、この墓所の傍らに庵を建て、供養を日々欠かさなかったみめうるわしい(とパンフにあった)尼僧がいて、彼女こそ義仲の死の直前、涙の別れを演じたかの巴御前だったという。
 その庵は「無名庵」といわれ、いまもその末裔が同じ名前で境内に存在する。そしてこの寺は当初、巴寺といわれ、それが転じて義仲寺といわれるようになったという。
 義仲の公墓、木曽塚の隣に巴塚が建立されているのもむべなるかなだ。

        

           
              上:義仲公墓  下:巴塚 
 
 そして、その巴塚の反対側、木曽塚と並んで立つのが芭蕉の墓である。
 この墓、全国に散財する句碑などのモニュメントではなく、正真正銘の彼の墓なのである。
 芭蕉が亡くなったのは、一六九四(元禄七)年十月一二日であるが、彼の遺言に従い、その翌日には去来、其角など門人十人とともに川船で淀川を上り、伏見経由でその日の午後には義仲寺に入り、翌一四日の葬儀の後、木曽塚の向かって右側に埋葬されたという。

        
             芭蕉の墓 この下に埋葬されている
 
 ところで、なぜ芭蕉がこれほどまでに義仲に入れ込んでいたのかについての芭蕉自身の言及はほとんどないようだ。義仲を詠んだと思われる句には以下のようなものがある。
   義仲の寝覚めの山か月かなし
   木曾の情雪や生えぬく春の草
 ただし、芭蕉は、義仲を討った義経に対しても同じようなシンパシーをもっていたのではないだろうか。
 
 「奥の細道」の旅は、平泉で育った義経が何度も往復したといわれている奥州路をなぞる。そして、「夏草や兵どもが夢の跡」も、藤原三代の栄華を偲ぶとともに、義経主従の最期に思いを寄せた句であろう。
 また、この旅の後半、北陸路を経て大垣へ至る道は、義経が落ち延びた経路の逆行でもある。
 したがって、この旅自体が義経の足跡をなぞった面をもつ。

 芭蕉が、義経にも義仲にも感慨をもって接していたことは事実であるが、前回も述べたように、彼らがそれなりの功績を遂げながらも、儚く散らざるを得なかった無常観のようなもの、またそれ故に、俗世のリアリズムから少なからず異なるイメージを残したことなどによるものではなかろうか。

        
 そのなかで、とくに義仲を指名したのは、生前、義仲寺の無名庵に度々滞在し、この地の弟子たちと句会を催し、親しく交わったことによるのだろう。
 彼の、遺言をよく読むと、この地の利便性のようなものを評価したプラグマティックな意図が読みとれる。
 「骸(から)は木曽塚に送るべし。ここは東西のちまた、さゞ波きよき渚なれば、生前の契深かりし所也。懐かしき友達のたづねよらんも、便りわづらはしからじ」

 この遺言にもある通り、この寺は今でこそ街なかのいささかごちゃごちゃしたところにあるが、元禄の当時は埋め立てなどはなく、東海道の向こうは琵琶湖の眺望が楽しめる場所だったのだろう。
 同時に、交通の要所であったこの場所で、彼は後世の人たちとも交わり続けることを夢見ていたのかもしれない。

  行く春を近江の人と惜しみける

 これは、義仲寺の無名庵に滞在中、四キロほど離れた唐崎で詠まれた句のようだが、芭蕉の近江の人々との交流の様子をよく伝えている。

 義仲寺には、まだまだ見落とせない事物が凝縮しているのだが、芭蕉に関する件のみで長くなってしまった。
 また回を改めたい

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無骨な英雄・木曽義仲と無敵の女性武者・巴御前

2020-04-10 01:28:49 | 歴史を考える

 もともと蟄居同様の生活を送っているところへもってきてこの騒ぎ、ほとんど外出しないから新たな出会いもないし、ひたすら身辺雑記のようなことを書いたり、過去の思い出の引き出しから何かを手繰り寄せるしかない。
 しかし以下は、それほど過去の話ではなく、外出規制が今ほど厳しくなかった三月下旬に訪れ、印象に残った箇所についてのレポートである。

 場所は大津市内の義仲寺。「ぎちゅうじ」と読むが木曽義仲の墓所がある寺である。
 源平合戦といえば、西方へ逃走する平家を追って、その滅亡まで戦った源義経がもっぱらそのハイライトを占めているが、その平家一門を京の都から追っ払ったのが他ならぬ木曽義仲(『平家物語』では朝日将軍あるいは旭将軍とも呼ばれている)だった。

          
 義仲は頼朝や義経兄弟にとっては従兄弟にあたり、もともとは武蔵国の出身だが、子供の頃、源氏の内紛で殺されそうになり、信濃の国に逃れた。木曽義仲と称せられる所以である。
 そんな形で僻地へ追いやられたにもかかわらず、源氏としてのアイディンティティはもち続けたようで、一一八〇年、天皇の一族、以仁王による平家打倒の呼びかけにいち早く参戦している。

 義仲の武勇はいろいろ語られているが、私の少年時代、読んだもので強く印象に残っているのは、いわゆる倶利伽羅峠の戦いである。何かの本で読んだのだが、講談のようなものでも聴いたかもしれない。
 挙兵はしたものの平家十万の大軍に押しに押され、北陸路へと追われた義仲軍は、加賀と越中の国境、倶利伽羅峠で反攻に転じる。
 
 その折の作戦が奇抜だった。夜陰、数百頭の牛の角に松明をくくりつけ、火を点じるとともに平家の軍勢をめがけて放ったのだ。その奇襲により平家軍は大混乱に陥り、それに乗じた義仲は、一挙に優勢に立ち、一気呵成に京にまでのぼりつたのだった。

        
 この話は『源平盛衰記』にあるのだが、中国の故事のパクリだとか、松明に火をつけられた牛が前方に進むのか、という無粋なイチャモンを付けるのがいるが、そんな事はいいのだ。
 考えてもみるがいい、松明を灯した無数の牛が、夜の倶利伽羅峠を雪崩のごとく駆け下るその壮観さを!
 少年の頃の私は、すっかりその光景の虜になった。後年、この場所を通った折、暗い谷間から、炎とともに押し寄せる牛の大群を幻視したものだ。

 こうして京に入った義仲であったが、当初は平家の抑圧を取り除いてくれた救世主と、天皇家や公家たちに寵愛されたものの、やがてその田舎育ちの無骨なナイーヴさが疎まれるようになり、鎌倉方の源氏に暗に追悼の命令が出され、数万の軍勢を率いた義経が京へと出兵することとなる。

 紆余曲折はあったものの、鎌倉方の義経軍との対決では宇治川の戦いで敗れ、さらには瀬田に戦いにも敗れることとなった。それも道理で、義経軍が万単位であったのに対し、いろいろな経過で消耗し尽くした義仲の軍勢は数百単位のにしか過ぎなかったという。

               
 この過程にも少年の私を惹きつけたひとつの物語があった。それは義経軍の佐々木高綱と梶原景季の「宇治川の先陣争い」といわれるもので、高綱が「馬の腹帯が緩んでいる」と今でゆうところのフェイク情報を景季に伝え、これに気を取られた景季がそれを確認する間に、高綱が先陣を果たすというもので、まあ、これは、機知というか詐術というか、あまりフェアではないと思ったものだ。

 義仲に話を戻そう。敗北に敗北を重ねた義仲の軍勢は、ついには今井兼平ら側近の数騎を数えるのみとなり、現在の大津市の粟津(琵琶湖畔)で、ぬかるみに馬の足をとられたところを討ち取られたという。
 一一八四年、享年はわずか三一歳であった。

             
 義仲について語る際、その戦いに付き従った大力にして強弓の女性武者、巴御前を外すわけにはゆくまい。彼女の凛々しい武者姿は、やはり子供の頃、絵本か何かで見て強い印象を残したものだ。
 彼女は、義仲敗走の折の最後の七騎に残っていたが、最後まで行動をともにすると譲らない彼女に、義仲は、お前は生き延びよと強引に別れを告げたという。『平家物語』によれば、その折、巴御前は、「ならば最後のわが戦いを見よ」とツワモノとして知られた敵将の首をねじ切って倒したあと、鎧、兜を脱ぎ捨てて静かに姿を消したという。
 なんともしびれる去り際ではないか。

 この義仲の最後といい、後の義経の最後といい、戦さや革命で、最前線で戦った者たちが、その後に現れた「政治家」や「官僚」の権力行使により、むしろ邪魔者として排除される図式がみてとれるようにも思われる。そうした実直で不器用な者たちに対し、後世、それを憐れみ、共感を抱く者たちが現れることは想像に難くない。

 それらの人々が出会う場所のひとつが、この小文を書くはじめた際に述べた義仲寺であるのだが、すでに充分長くなりすぎた。ユニークなこの寺の内容については、後日に述べることにする。

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花祭りと竹の子と防空壕

2020-04-08 14:22:13 | 想い出を掘り起こす

 お釈迦様 二千数百なにがし回目のお誕生日、おめでとうございます。
 甘茶をかけてしんぜますから、コロナ禍に思い迷うわれら衆生の凡夫の迷妄を鎮め、安らかたるべくお導きください。

        
 ところで本日、今期はじめて、農協で竹の子を求めてまいりました。穂先の色からみて鮮度もまあまあのようです。

        
 早速下ごしらえをして、湯がくことにいたします。たっぷりの米糠と鷹の爪、あとは落し蓋をして二時間ほどを目処に火にかけるつもりです。

        
 今夜は、姫皮のおひたしと若竹煮でしょうか。わが家の山椒がまだ芽吹いたばかりで、添えることができないのが残念です。

 田舎へ疎開していた戦時中、竹林の下に防空壕がありました。そこへ避難していたある夜のことです。その壕から一〇メートルも離れていないところに、一トン爆弾が落ち、防空壕の入り口が土砂で埋まってしまいました。
 
        
 大人たちが土をかき分けて、やっと外へ出ることができました。そこには、大きな蟻地獄のような地面のえぐれがありました。

 そんな巨大な力が働いたにもかかわらず、防空壕の天井が落下し生き埋めにならなかってのは、そこが竹藪の下で天井には竹の根がリゾーム状に張っていたおかげなのです。

 もうとっくに亡くなった明治中期の生まれ、善太郎爺様の経験からくる知恵に感謝あるのみです。
 若き日に、あのマグニチュード八という濃尾大震災を経験していたのではないでしょうか。

 竹の子の季節になると、それらのエピソードを思い出すのです。そうそう、善太郎爺様の手ほどきで、竹の子掘りをしたこともあります。唐鍬というやや細身で刃の厚い鍬を慣れない腰つきで振り回す私に、「坊、もっと深く掘らにゃいかん」と爺様の声が飛んだものです。

        
 防空壕の話から、昨秋行った沖縄でのチビリガマを思い出します。沖縄戦のさなか、降伏はならぬとの思いから八二名の自決者を出したあの悲劇の洞窟をです。

 あ、それに九年前、中国は山西省の賀家湾村で、日本兵による村民二三〇余名の蒸し焼き現場というヤオトンを訪れたことも思い出しました。

        
 せっかくのお釈迦様のお誕生日なのに、なまじっか戦争の最後の方を知ってるだけに、いろいろ血なまぐさいところに記憶がさまよってしまいました。
 
 あ、そろそろ、竹の子が湯がき上がる頃です。

 

 

 

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マイお花見ロード&はしご車&マゾヒスト・すみれ(動画付き)

2020-04-06 16:28:50 | 花便り&花をめぐって

   
              
 春うららという天候にも変わらず、気分はもう戒厳令。
 実際のところ、生まれてこの方、一日中このニュースに囲まれ、大本営発表を待つかのように事態の展開に神経質になるのは、あの戦時中以来のような気がする。

      
      
 そんななか、今年はじめてじっくり桜を見た。
 場所は徒歩五分ほどのところにある「マイお花見ロード」。川沿いに桜が連なるのだが、名のあるところでもないため、花の見ごたえの割に、ビジターは少ない。せいぜい、私のようなご近所さんが散策するのみ。

      
 加えて今年はコロナ禍、やはり人影はまばら。数百メートル歩いたが、出会ったのは三組ぐらい。

      
 開花は早かったようだが、それ以降、天候や気温の波が大きかったせいか、今年の花は長く楽しめる。まだ、こぼれんばかりの状況だ。
 それでももう、樹によっては散り始めているものもあり、それらが水面に散り、水流に運ばれて花筏をなしている。

         
 桜を堪能したあと、そのままスーパーへ食料品を買いに。
 途中、南消防署を通りかかったら、はしご車の訓練をしている。隊員たちがキビキビした動作で、「〇〇完了しました!」などと報告する。それでも指導員から、「**、立ち位置が違う!」などと叱責が飛ぶ。

      
 早くはしご車を伸ばすところまでやらないかなとスマホを手に待つが、はしごを伸ばす前段階までで伸ばす気配はない。
 諦めてその場を離れたが、ひょっとして私がいなくなった頃に上がるのでは、時折振り返ったりする。われながら未練がましい。

      
 買い物の帰途、道路脇のすみれの群落に出会う。もともと、ここにすみれが咲いていたのは知っている。数年前に見つけたときはせいぜい数株程度だった。今年みると、道沿いに二〇メートルほど紫の帯が伸びている。たくましいものだ。

      
      
 ゲーテが詩を書き、モーツァルトが曲をつけた歌曲(K476)では、すみれは恋い焦がれた羊飼いの娘に踏んづけられて、それでも喜んで死んでゆくというマゾヒスティックな展開だが、このすみれたちを見ていると、女の子に踏んづけられたぐらいでは死んだりしないだろうと思える。
 もっとも、踏んづけられても「イテテッ」といって、また立ち直るということでは詩にはならないのだろうが。

 https://www.youtube.com/watch?v=fk-C2PTJMl4

 春愁などといって、春は悩ましいというのはとりわけ恋をしていたり、この世をはかなんでいたりする人たちにとってであろうが、今年の春は、この世界で暮らすすべての人にとって悩ましいようだ。

 最後に、花筏の動画を載せるが、面倒なので編集してない。いささか冗漫にすぎるので、途中まで見て、飽きたところでやめてほしい。

 https://www.youtube.com/watch?v=6FSh8lUw9EE&t=35s

 

 

 

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