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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

桑の実のファンタジー

2008-05-31 01:57:16 | 想い出を掘り起こす
 我が家で、桑の実が採れました。
 それにまつわる半世紀以上前のファンタジーのような思い出です。

 
       
第一章 お蚕さん 
 
 焼夷弾が降る中、母の実家へと疎開していました。
 (ああ、その母は今、不帰の病床にある)

 藁葺きの二階屋でした。
 しかし、その二階は人間様のすみかではありませんでした。

 そうなのです。それこそお蚕さんの住まいだったのです。
 その、やや天井が低い箇所には、いちめんにお蚕さんの棚がしつらえられ、何千何万という彼らが住まっていました。

 お蚕さんの食欲は旺盛です。桑の葉をすさまじい勢いで食べます。
 ですからお蚕さんの盛期には子供も駆り出され、桑の葉を摘みます。
 それらを小指ほどのお蚕さんがうごめく棚に撒くのですが、彼らがそれをむさぼる勢いはすさまじく、少し離れたところでも、ギャサグサギャサ、ブギャバギャブギャと彼らが桑を食する音が聞こえるのです。

 だから絶えず桑を補給しなければなりません。
 しかし、よくしたもので、桑の成長はお蚕さん食欲に負けず劣らず旺盛なのです。
 このいたちごっこは、お蚕さんが成長し、サナギになるまで続きます。
 お蚕さんがサナギになるということは、繭を作り始めると言うことです。

 
         透き通るように輝く桑の新芽

第二章 サナギの匂い 

 やがて、お蚕さんの棚に無数の白いラグビーボール状の繭(まゆ)が出来ます。
 ある程度になったものを湯がきます。
 そして、サナギと繭を分離します。
 その折、強烈な匂いがします。

 繭は丁寧に延ばし、乾燥させます。
 それを町から分銅の付いた竿秤をもった仲買人が集荷にやって来るのです。
 お蚕さんが変身したサナギは、もうご用済みとばかりに放り出されます。

 飢饉の折にはこのサナギも食用にしたといいますが、そうでないときには別の用途があります。
 その匂いを利用して魚を獲るのです。

 

第三章 僕らの漁法

 二つの方法がありました。
 ひとつはいわゆる「籠漁」です。
 竹籤で作った円錐状の漁具ですが、入ることは出来ても出られない口を用意し、その中にサナギを少し潰し、匂いやすくして川などに仕掛けるのです。
 夕方仕掛けて、翌朝ワクワクしながら引き上げに行きます。
 
 入っているのは主に淡水産のモクズガニ(上海ガニと同種)やウナギなどです。
 ここでクイズです。
 カニとウナギが一緒に入ったらどうなるでしょう?

 答えは「強い方が弱い方を食ってしまう」です。
 そして、強い方はウナギなのです。
 カニの甲羅や固い部分を残してきれいに食べしまうのです。
 サナギの匂いでカニが入り、カニを食うためにウナギが入ったかのようなのです。

 もう一つの漁は上記の籠をビンにしたものです。
 やはりサナギを潰して入れ、池などに沈めます。
 こちらの方は、モロコやセンパラ、ムツゴ、ドンコ、ドジョウ、それに手長エビなどの小魚狙いで、見ている内にどんどん入ります。
 農薬などない頃で、そうした小魚は群れをなしていましたから、いっぱい獲れるのです。

 

第四章 天然ウナギとモクズガニ
 
 ある程度入ったところで、引き上げ、魚だけとりだし、また沈めます。そしてまた獲れるのです。
 海なし県のその辺りでは、魚は貴重な動物性タンパク質でした。
 天然のウナギやカニは今なら目の玉が飛び出るくらいの値段ですが、それをごく普通に食べていたのです。
 叔父に当たる人が、このウナギ捌きの名人で、私たち子供は、農家の庭に車座になってこのウナギの処刑を見物したものでした。
 「おい、まだ動いとるがや」「しつっこいやっちゃなぁ」などといいながら、裂かれてもまだ動くウナギに、目を釘付けにされるのでした。

 小魚は佃煮です。
 しばらくはそればかりがおかずでした。

 

第五章 桑の実<1>

 あらら、桑の話でしたね。
 ちょうどこの季節、桑の実が熟すのです。
 赤いのはまだ酸っぱいので敬遠します。
 触れるとぽろりと落ちそうな黒いものが甘くておいしいのです。
 口の周りが赤紫に染まるほど食べました。

 その思い出の桑の実が我が家で採れるのです。
 もう二十年ほど前、変な木がひょろひょろと庭に生えているのを見つけました。
 それが桑でした。
 きっと鳥の糞か何かから芽生えたのでしょう。
 そのまま放っておいたらどんどん大きくなります。
 大きくなりすぎるので、かわいそうだけどばっさりと伐りました。

 

第六章 桑の実<2>

 でもこの木の生命力は強靱です。
 あの食欲旺盛なお蚕さんと張り合うのですから、むべなるかなです。
 切り口からどんどん枝を伸ばし、今では前より大きいくらいです。
 また伐らねばなりません。
 今年、一通り実を収穫したらまた伐ります。

 で、実の方ですが、例によって娘の勤める学童保育のおやつに持たせました。
 「どうだった?」
 と、娘に訊くと、珍しがってどんどん食べたとのこと。
 
 よし、それでは採れる間は採ってやろうということになりました。
 子供たちの口の周りが赤紫になる様子が見えるようです。
 今日、降り出しそうな空を警戒しながら二回目の収穫をしました。



 終章 小籠に摘んだはまぼろしか?
 
 ほぼ60年前、唇を赤紫に染めて桑の実をむさぼっていたあの少年、
 その汁がシャツなどに付くと容易に落ちないと母に叱かられていた少年、
 サナギを潰して魚を獲る快感にしびれていたあの少年、
 ウナギが裂かれるのを目を輝かせて見ていた少年、
 あれは、本当に全部私だったのでしょうか?
 









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反日的『靖国』に抵抗する人たちの「反日性」

2008-05-29 05:10:51 | 映画評論
 以下は、あるネット上で行った、映画『靖国 YASUKUNI』が「反日的」だと断定するひととのやりとりです。
 彼はその根拠のひとつとして、執拗にチベット問題を対置しています。
 その是非はともかく、そのやりとりを固有名詞のみ変更し、そのまま掲載します。 

 


<私の発言>
 ***さんが何をおっしゃりたいのかがよくわからないのです。
 『靖国』という映画を評価できないということならそれはそれでありです。
 しかし、最初の発言は、あの映画が「反日」だから駄目だというように読めます。ところが、ドキュメンタリーは中立でなければならないかの問いには、そうではないとおっしゃっています。

 詰まるところ、あの映画にはチベット問題が出てこないからけしからんということになります。

 しかし、多くの方が指摘していらっしゃるように、あの映画はすでに昨年中にできあがっていて、配給の手はずも昨年末には終わっていたのです。
 その公開が遅れたのは、ひとえに、稲田議員やそれに呼応した右翼の脅迫活動があったからです。

 ***さんはチベット問題が出てこないからあれは駄目だと金科玉条のようにおっしゃっていますが、それは無い物ねだりで、地球温暖化についてのドキュメンタリーに、ディズニーランドのエネルギー消費問題が出てこないといっているようなものです。

 ちなみに申し上げますが、私は、チベットの件が何ら問題ではないといいっているわけではありません。漢民族の資本支配による格差の拡大などが問題であることはいうをまちません。その意味では嫌中で騒いでいる人より真剣にチベットの将来を考えています。
 
 ダライラマを中心とする宗教国家として独立したらチベット問題は解消すると本当にお思いですか(念のため、これは中国にとどまれという意味ではありません)?
 嫌中派の人たちは、中国憎さの余り、チベット問題を喧伝しますが、チベットの人たちが真に解放されるためには何が必要なのか本当にまじめに考えていますか?チベットの人民などはどうでもよく、ただ、現在の中国を叩くことが出来ればと思ってはいませんか?

 ***さんへの質問です。
1)靖国に関する映画が、なぜチベットに言及しなければならないのですか?
2)チベットが真に解放されるためには何が必要か、そのイメージをお示し下さい。
3)好むと好まざるとに関わらず、13億の人を抱えた広大な国家が隣国にあります。その国家とどう関わっていったらいいとお思いですか。
4)映画「靖国」は、そのためのひとつのイメージを提起しているように見受けました。***さんはご覧になってどううけとめられたのでしょう?
5)最後に、あの映画の上映阻止に動いた部分があったことはご存じですね。それに対してはどう思われますか?


 

<それに対する***さんの返答>

1)靖国に関する映画が、なぜチベットに言及しなければならないのですか?

 「映画がチベット問題に言及すべき」とは言っていません。「監督その人が言及すべき」と言っているのです。意味のわからない解釈をしないでください。

2)チベットが真に解放されるためには何が必要か、そのイメージをお示し下さい。

 チベット解放とは独立ということですか?だったら私は別に支持しません。それがチベタンたちの幸福に必ずしもつながるとは思えないのです。ただ弾圧をやめろというだけです。なにが必要って中国共産党政府の政策変更です。そのためにわれわれの外交努力も必要でしょう。

3)好むと好まざるとに関わらず、13億の人を抱えた広大な国家が隣国にあります。その国家とどう関わっていったらいいとお思いですか。

 核ミサイルを持ち、武装をして対等の立場に立つこと。中国以外のアジア諸国を巻き込み、対中包囲網を築くこと。この二点を中心に隷属的でなく対等な外交を行うべきです。

4)映画「靖国」は、そのためのひとつのイメージを提起しているように見受けました。***さんはご覧になってどううけとめられたのでしょう?

 あの映画からだと日本の軍国主義が周辺諸国に迷惑をかけたのだから日本は反省すべし。特に中国に謝罪すべしとのイメージしか受け取れませんね。
 あなたの受け取ったイメージは?

5)最後に、あの映画の上映阻止に動いた部分があったことはご存じですね。それに対してはどう思われますか?

  右翼の活動家の話ですね。野蛮であると思います。韓国で親日的な書物や作品が世に出た時の韓国人たちのヒステリックな反応を思い起こします。われわれは彼らのごとき下劣な心根を持った人々を許すべきではありません。良かれ悪かれ日本には言論の自由があります。不当に圧力をかけることはあってはなりません。

 
 

<再度私の発言>

 ***さん  丁重なお答えありがとうございました。
 いろいろ拝読し、一番の齟齬は

 >>核ミサイルを持ち、武装をして対等の立場に立つこと。中国以外のアジア諸国を巻き込み、対中包囲網を築くこと。

 にあると思いました。
 要するに、日本が核武装し、軍事力で中国を押さえつけろということですよね。

 本当にそうでしょうか。私たちは、あるいは人類は、力と力のぶつかり合いとして、ひとつの暴力にはより大きな暴力をもってして立ち向かうほかないのでしょうか。それは双方の無限競争の論理となり、軍事国家、要塞国家のまさに自由なき体制への無限展開ではないでしょうか。

 そして、それが戦前の日本を規定したものであり、それが故に日本は泥沼的な戦争へと突入し、対外的には侵略として、国内的には庶民に物言わせない絶対主義として機能したのではないですか。私は小国民としてその時代を経験しています。
 天皇の写真を納めた奉安殿の前で最敬礼をしなかったというだけで、わずか六歳の子供に教師がビンタを張る時代です。

 靖国のあのアナクロニズムは明らかにその時代へのノスタルジーを心情的に濃厚に持ち、心情的ばかりか、政治的軍事的な主張としても、富国強兵の軍備拡大、国民統制のイデオロギー的拠点になっています。
 それはまさに、***さんの主張でいっそう明らかになったと思います。

 映画は、そうした過去の悲劇をふまえながら、そうした暴力志向が、今なお根強く残っている拠点としての「靖国」をきちんと捉えています。
 ***さんのご主張により、映画「靖国」を「反日的」と断じられる方たちが、どのように日本をリードしたいのかが今更ながらよくわかりました。
 また、その反証として、あの映画の持っている価値がいっそう高いものであることを知ることが出来ました。

 私の感想を総じて言えば、***さんのようなアナクロ的な「富国強兵」こそが今日の国際情勢からしてもなじまないものであり、日本を国際社会から孤立させる「反日的」な立場であるように思いました。

 










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世の中をはらりと見せる観覧車

2008-05-27 03:52:04 | 川柳日記
 いろいろあるからといっていろいろ書けるものではありません。
 そんなときは、つぶやきのように言葉を思い描きます。
 そしてそれは、いつの間にか、日本語のもっているリズムである五七五に添っている場合があります。
 それを私は全く独断的にも川柳といっております。
 以下は、前にご紹介したそれの第二弾です。

 

<川柳もどき・その二>

*存在の仕方・2 
 
 枝豆のくびれ辺りにある悲哀
 まだ割れる 分子はさらに刻まれる
 手をつなげないわたくしは魚です
 ここからと剥がせばわたし反り返る

     

*削る
 
 夜削る鉛筆は鋭く尖れ
 削ったら出てきた赤い不発弾
 これ以上削れぬ嘘が多すぎる

*タンゴ
 
 口籠もるタンゴなどないさようなら
 ピアソラにほだされた夜の恋心

 

*天空 
 
 出てほしくない星も出る地平線
 不整脈あって二つの月が出る
 まあ座れ地球の客が茶を所望

 
 
*追悼 
 
 五月雨で火酒割って飲む山頭火
 ショスタコの五番友へのレクイエム


 

*世の中
 
 世の中をはらりと見せる観覧車
 修羅場への前売り券をもってます
 常識を剥がせば寒い謎ばかり 









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彼女の「信仰」について

2008-05-24 03:32:25 | よしなしごと
 一応は熱心な浄土真宗の信者である。
 朝夕の読経や供物、供花は欠かしたことはない。
 「一応は」などと書くと、表面だってはと誤解されそうであるが、そういう意味ではない。本当に熱心きわまりない信者なのである。
 しかし、その信仰は一筋縄では行かない。いってみれば、それも含めてきわめて間口が広いのだ。

 
 
 誰のことかというと、わが老母のことである。 
 前の日記にも書いたが、深刻な発作で倒れ、意識そのものがどのレベルであるかも定かではない。
 余談だが、植物人間といういい方は何か抵抗がある。運動や意識の有無だけが人間なのか、今それが危うくなり横たわっている肉体に備わったその人の生きた痕跡、その周辺にある記憶等々も含めて人間ではないのだろうか。
 
 彼女の信仰の話に戻るが、そうした仏への信仰を中核にしながら、先祖や、とりわけ先に他界した夫(私にとっては亡父)への信仰もある。彼女の理解では、亡父はその生前の善行が認められ、位は低いが仏の末席に位置し、彼女を守ってくれているのだという。

 
 
 ここまではいい。み仏信仰に一応は一元化されている。
 しかし、それと同時に彼女は汎神論者でもあるのだ。一木一草に仏性が宿るということならば仏教に一元化されるがそうばかりではない。
 たとえば、お狸様を信じている。
 信楽焼の狸の像に、やはり、供花、供物を欠かさない。
 かくして、お狸様のキ○タ○のあたりに、饅頭が供えられていたりすることとなる。

 その他、仏教と関わりのないものに関しても偶像崇拝的である。
 当然、神道とはいわないが、神様も信仰している。
 お天道様やお月様、その他崇高なる自然に対してもむろん信仰心を隠さない。
 ただし、新興宗教のたぐいに関してはほぼ拒否反応を示す。

 

 こうしてみてくると、宗教を一義的に解し、○○教の信者と分類する向きには至って不可解で無政府的かも知れない。
 しかし、今年九五歳になる老母の同年配、あるいはその少し下の人たちにとって、こうした信仰の有り様はきわめて一般的ともいえる。

 そればかりか、日本人の信心のあり方は、お狸様はともかくとして、ほとんど同様に曖昧なのではなかろうか。
 それがいけないといっているのではない。
 宗教や信仰が、おのれがどこから来てどこへ至るのかの物語であるとしたら、一神教の創造説と審判の日を信じない以上、そうした汎神論というか、名指す神が曖昧なまま、生かされてあるという思いのみが信仰を支えるのではないだろうか。

 ちなみに、一神教は唯一神を名指すが故に、その外部の他者に対し偏狭な面を持つともいえる。
 世界でもっとも争いに先鋭的なのは、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教のそれぞれの原理主義だという見方もある。

 

 わが老母の信仰に戻ろう。
 問題は母が、そうした御仏を中心にした諸霊に守られていたればこそ、これまで健康で(実際には幾多の病を克服してだが)いられるのだという思いを強くもっていたのと同様、それら諸霊のお力によって、死を迎える折には絶対にぽっくり行くのだと信じて疑わなかったことである。
 「わしはお前たちに迷惑をかけることなく、絶対にすーっと死ぬからな。仏さんもお父さん(夫のこと)も、そうし向けてくれているのだ」というのがその口癖だった。

 

 そこで私は、思い煩うのである。
 母の意識がやがて次第に回復し、自分が置かれた状況が理解できるようになったら、どう思うだろうか。
 ベッドから起き上がることも寝返りを打つことも出来ず、何本かのチューブで体中を固定され、麻痺したままの自分の姿を認識した折、どのように嘆くであろうか。
 彼女の積年の信仰をどのように解釈し直すだろうか。
 仏にも、亡父にも、お狸様にも、そして森羅万象に宿る諸霊にも、裏切られたと思ったりはしないだろうか。

 

 いずれにしても、彼女の信仰を中心とした世界観に深い亀裂が入ることは否定できないであろう。
 それが何となくかわいそうな気がするのである。
 
 むろんこれは、そこまで彼女の意識レベルが回復したらという仮定の話ではある。
 それにたいし、医師はやや否定的で、家族はひいき目に見るせいか少し良くなっていると感じている。

 私自身としては、彼女が今置かれた状況を知っても、これまでの彼女の信仰体系へのルサンチマン(恨み、つらみ)ではなく、諸霊が、彼女と私たち家族との永訣の時をそうした形で幅のあるものとして準備してくれたのだとそんな風に理解してくれればと思っているのである。









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桜通の「櫻橋」、そして日銀

2008-05-20 00:30:20 | よしなしごと
 名古屋駅から桜通を桜通伏見まで歩いた。
 若い人たちとの勉強会に出るためである。

 かつて、名古屋が城下町だった折は、名古屋城から熱田神宮へと向かう今の本町筋がメインストリートだったという。
 街が変わり、交通様式が変わった現在、名古屋のメインストリートは、駅を起点に東西に走る。
 その一つは、商店などが軒を連ねる広小路通りであり、今ひとつは、片側三車線で車が行き交う桜通である(その間に錦通りという広小路通りに寄り添ったような通りがあるが、これは歴史が新しく1960年代に完成した)。
     
     
        「昭和12年」に思わず足を止めた

 この、後者の桜通を歩く。
 広小路通りのような賑やかさとは無縁だが、いかにも都市の大動脈然としてゆったりとしている。
 駅前から伏見通りに交差する辺りまでは、まだ若い葉をつけた銀杏並木が陽光にまぶしい。

     
       橋の袂にある籠状モニュメント。中には灯りが

 しばらく行くと、名古屋城の外堀を経由してきて、名古屋港へと至る堀川を渡る。
 そこに架かるのが櫻橋(橋そのものの表記に従い旧字にした)である。
 全長30メートルほどであろうか、どっしりして趣がある橋である。

     
       橋の中央にある灯りの塔。その下にリリーフが

 それもそのはず、取り付けられたプレートに依れば、昭和十二(1937)年の完成とある。
 あれ、もうすぐ古稀になろうとする私よりも年上ではないか。もう四年もしたら、立派な後期高齢者である。

 
       リリーフは、桜に川の流れをあしらったもの
       かつてはここが清流であったことを思わせる


 思えば、昭和もそろそろ雲行きが怪しくなった頃に架けられた橋で、もう少し後で戦時体制に突入してからだったら、これほどのものは出来なかったかも知れない。
 戦時には幾多の兵士がその上を通り、その何人かは再び生きて帰らなかったことだろう。 
 名古屋大空襲の折には、多くの被災者が逃げまどったことであろう。中には、この橋の上で力尽きた者もいるかも知れない。

     
      橋のネームプレート。「櫻」の旧字が郷愁をそそる

 敗戦時にはアメリカ軍のジープが誇らしげに行き交ったたことだろう。
 川添いに並ぶおんぼろのバラックが川面に映るのも、この橋から一望できたと思われる。

 やがて、経済というものが始動し始め、この街も、地方の出身者を集め、産業を発展させ続けた。
 その折、この橋にしばし佇み、故郷を偲んだ集団就職の若い人たちもいたのではないだろうか。



 
               橋の全景

 やがて、この街は、日本一元気のいい街と称されるようになり、この橋から西の方を振り返ると、その象徴たる高層ビル群がそびえ立つのが見える。

 建造物としての橋そのものの重みに、こうした歴史の趣が加味され、橋はいや増しにその存在感を訴えてくる。私の足を留めさせたのもそうしたものであろう。
 やはりここは写真を撮るっきゃないではないか。
 余り光の条件は良くなかったが、そこで撮ったものを載せる。

 
              日銀名古屋支店

 そうこうするうちに、桜通伏見に着く。ここで特徴のある建造物は日銀の名古屋支店だ。
 この建物も結構古い。もう半世紀近くになるのではないか。
 これが建てられたとき、結構話題になったような記憶があるが、私は余りいい感じをもてなかった。
 今もなおそうである。

 
              同支店の西側面

 なぜだろうと思う。
 今回久しぶりに見て思った。
 何となくひとを寄せ付けないとざされた建築なのだ。 
 ひとを拒む、いわば人間不信の建造物に見えるのだ。
 これは日銀という機能を持った建造物に対する私の先入観だろうか。
 そうかも知れない。が、やはり好きになれない。



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ひとが死ぬということは・・。

2008-05-17 16:36:49 | よしなしごと
 生命には終わりがある。
 とりわけ人間のそれは死という形で、周りの承認のもと、そして突然のものや事故でもない限り本人にとっても自覚的に迎えられることがある。
 動物は死なない、ただその終わりを迎えるのみだといわれる所以であろう。

 今日、人間の死には、医療をはじめとする人工的な手段が加えられ、各種の延命措置なども加えられるところとなっている。
 そうすることによって人間の死は、先に見た突然死を除いては、本人ないしは周辺によるある種の判断によって決定されることなりつつある。曰く、延命措置をどの段階まで続けるか、あるいは、それらの装置をどの段階で外すかである。
 尊厳死という、あらかじめの選択もあるという。

     
         一ヶ月前の木賊(トクサ)の新芽

 老母が倒れた。
 四年前、心筋梗塞に脳梗塞のダブルパンチで、あわやと思われたのだが、彼女の強健な肉体はそこから見事立ち直り、自力歩行も、トイレへの行き来も可能になった。入浴のみが危険を伴うということで介助を要する段階へまで復活した。九十歳の折であった。

 そして今年、あと十日で九十五歳を迎えるという日、再び脳梗塞に見舞われた。
 今度は前ほど軽症ではない。
 右半分が完全に麻痺し、言語能力も犯されている。視線を動かすし、動く方の左手で賢明に何かをつかもうとする仕草をするものの、その意識のありようなどは定かではない。
 ようするに、ある種の意識はあるのだが、そのレベルは今のところ不明なのだ。

     
          一ヶ月後の同じ場所、同じ木賊
 
 四年前同様、集中治療室に入っている。
 もう一度、その不屈の生命力を持って、なにがしかの回復を期待してはいるのだが・・。

 医師の見通しは甘くない。
 回復はむろん高望みで、最悪の事態を覚悟するようにと暗にほのめかされている。
 加えて、いわゆる寝たきりになり、しかも植物化した場合の措置についても、親族側の意志を整えておくようにも示唆されている。

 そうした事態が起こることは漠然と知ってはいた。
 四年前にも多少は頭をよぎったはずだ。
 しかし、こうしてきわめて切実な形で迫られると、ただ困惑するのみである。

 「生命の尊さ」という言葉が、一般論として空疎に飛び交うのだが、その内実は何なのだろう。
 生命とはただ単に生きてあることか。
 ひとつの基準は意識の有無に求められるかも知れない。
 人間と動物の差異を語る際にも持ち出されるものだ。

 しかし、この意識というのは実に曖昧なもので、人に内在する能力ではあろうが、同時に、周辺との関わりの中で形成されるものでもある。
 周辺との何らのコミュニケーションもない意識などというものは想定しうるだろうか。

 一方そうした意味でのコミュニケーションとは何か。
 目を見交わすときに表情がある。これは立派なコミュニケーションだろう。
 全くの昏睡状態にあるのだが、手を握るとかすかに握り返すように思われる。
 これもコミュニケーションだろうか。
 あるいは単なる生命体の機械的反応なのだろうか。

 
           色づき始めた桑(クワ)の実

 少し前、母子の殺人を1.5人の命と表現して激しい批判を浴びた人がいたが、先ほど見た、意識の有無、意識の生育という観点から見れば、これはいささかドライな表現とはいえ、間違いではない。
 要するに、十全な意識(それ自身何であるかは検討に値するのだが)を1とすれば、それ以下を小数点で表す他はない。
 
 ただしそれを、今後の可能性がその時点で失われたものとして、将来からの逆算として評価とするならば、小数点以下はあり得ない。すべてが1として計算される。
 これは中絶を批判する論拠にもなりうるものである。

 これを逆に、今や意識ももうろうとして植物化しつつある事態に適用したらどうであろうか。
 要するに、今や終わりつつあるから1から減算されるものとしてではなく、過去に果たしてきた彼ないし彼女の有り様の延長としての評価として1が維持されることにはならないだろうか。
 こうした彼ないし彼女のありようを過去の行為や働きの集積として考えた場合、やはりそこに横たわる肉体は、たとえ物言わなくとも生命のありようとしてなお維持されるべきなのだろうか。

 早晩、決断を迫られそうな気がする。
 まるでいち早く裁判官制度へと動員されたかのようである。
 現実には、周辺との関連、世間の一般常識、医師のアドヴァイスなどによるプラグマティックな結論たらざるを得ないような気がするが、それでも、決断に悔いが残らぬ程度には考えておきたい。

 
         こちらは琵琶(ビワ)の赤ちゃん

 私自身の体調が良くない。昨日は母を巡る早朝からの騒ぎと睡眠不足等もたたって、異常に血圧が上昇した。
 ここ一、二ヶ月で始まった体重の減少も、消化器系のガンではなさそうだということはわかったが、依然として原因不明で、今一度、CTとかエコーとかの検査が必要らしい。
 やせてきたせいもあって、何となく足取りに力が入らない。私の足下にほんとうに地球はあるのかしらぐらい、ふわふわっと歩いている。
 この分では、老母と私の追っかけっこになってしまう。

 その場合、私の生命については誰が考えてくれるのだろうか。
 え? お前は「生命の尊厳」の端くれに値するようなことを何かしてきたかって?
 これは手厳しい!
 これから何かを一生懸命するということではもう遅いのだろうか?
 たぶん、遅いのだろう。

 私がその手を握っているのに、あらぬ方向を見ている母の視線が悲しかった。
 この人は、今どこにいるのだろう。





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蛍の宿は川端柳・・ちと早いか。

2008-05-14 01:39:30 | 川柳日記
 以前、週一回の割合で、「今週の川柳もどき」と題して、主に時事川柳を載せていました。
 ああした時事ネタの川柳はわかりやすい反面、賞味期限があり、一定期間の後にはそのほとんどが生命を終えます。

     
         岐阜金神社前のナンジャモンジャ
        しばらく前に撮って掲載を忘れていた
       もう散ってしまっているので名残にどうぞ

 
 あれらを一生懸命作っていたのは、ひとつには賞金稼ぎもありました。
 各新聞社の川柳欄は、ほとんどが時事川柳で、応募すると5,000円ぐらいを筆頭にして、なにがしかの図書券をくれます。
 それを目当てに週一ぐらいで投稿をしていました。
 その習作が「今週の川柳もどき」でした。
 二、三の新聞社を対象に、多い年では、数万円の稼ぎになったこともあります。
 今は、ある事情があって投稿も止めています。
 従って、「今週の川柳もどき」も止めていました。

 
            ナンジャモンジャの花

 今回ここにまた、川柳を復活掲載しますが、これは時事ネタによるものではありません。
 かといって「サラ川」風の滑稽味を主体にしたものでもありません。
 ほとんど季語や切れ字がなく口語体であることから、川柳なんでしょうが、まあ、ジャンルはともかく、五七五のリズムにのせた言葉のオブジェを鑑賞していただければと思います。

 これを機会に、また時折載せます。よろしく。

 

     
        先月食べた野蒜がこんな葱坊主になって


<川柳もどき>
 
*存在の仕方
 
 ここにいてほんとうにいいのだろうか
 愚痴を言う相手もなくて爪を切る
 使い捨てアウトレットの無常観
 眠るには少々邪魔な白い夢
 豆なので転がってます昨日今日


*部屋と階段
 
 この部屋をゴッホの青に塗りつぶす
 時折は迷子の風が部屋に来る

 降りきった階段からは無視される
 階段をのぼりきる都度淡い闇


 
             ムラサキツユクサ

*時間・歴史
 
 落とし物ばかりしてきた青春賦
 次という余白に怠惰飼っている
 八月の雫が秘める長恨歌
 再びはいつも冷たく違う貌


*人を恋うる
 
 梅のような花芯のきみに逢いにゆく
 いだいてもなお弟のようなきみ
 禁断の串に刺されて白む朝
 恋歌を裏返したら薔薇の棘
 黄色い花芯椿のエロティシズム


     
           ゴメン、この花名前を知らない

*飛ぶ
 
 飛んでゆくところもなくて酒を汲む
 宇宙には宇宙の歴史飛ぶもよし
 飛ぶときに飛べない翼もっている



          今回はここまで・・。 





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「支那人」という表現について

2008-05-11 18:15:50 | 社会評論
 私が加入しているSNSに、映画『靖国 YASUKUNI』を見た人の感想を書くページがあり、それを眺めていたらこの映画を全面否定する人がいて、それはそれでこの種の映画に関する評価の一つなのだと思ったのですが、そこに少し気になる表現がありました。
 それは、その人が、靖国の大祭に抗議する若者に対し、「支那人」という表現をしていることです。
 その若者が事実、日本人でないかどうか(私には日本の若者に見えましたが)という点もですが、「支那人」という表現の仕方が気になるのです。

 そこで、ひょっとして、映画以前的な先入観があるのではと書いたところ、この表現は台湾に属する人たちと大陸に属する人を区別するためのもので、「支那」は大陸を表しているにすぎないととして、そんなところに引っかかる私の方がある種のイデオロギーや先入観の固まりであると断定されてしまいました。

 ところで、この「支那人」という表現、最近では石原東京都知事などの口からもよく聴かれ、ネット上でもちらほら見かけるのですが、どう判断したらいいのでしょう。

 確かに語源的には一定の正当性をもっていたり、一定地区を指す地理的な用語として使われてきたかも知れません。しかし、言葉は決してそれ自身透明なものではなく、どの言葉を選び、どういう文脈の中で使用するかによって、一定の歴史的立場や価値観を表明するものたらざるを得ないと思うのです。

 その意味では、上に述べた人が、自ら「支那人」という表現を意識的に用い、かつそれに否定的に反応した私との間に、ある種の鋭い亀裂を観てとったのは当たっているといわねばなりません。

 実は何を隠そう、私自身の少年期に至る過程では「支那」は日常的な表現で、私自身も日常的にそれを用いていました。
 愛読していた田河水泡の漫画『のらくろ』の中には良い「支那人」と悪い「支那人」が出てきたり、「チャンコロ」という言葉も飛び交っていました。
 ラーメンの前身、中華そばは、そのまた以前には「支那そば」でした。

 支那という言い方が歴史の背景に下がったのは、正確な記憶はありませんが、たぶんサンフランシスコ条約で、日本が戦後世界へ復帰した頃ではないでしょうか。
 この頃の日本で、どのくらいちゃんと先の戦争についての総括や反省がなされたのかを多くの疑問を残すところですが、やはり日本が悪かったのだ、それを悔い改めることによって戦後社会へ復帰するのだという一般的な認識は広く共有されていたと思います。

 ただし、このサンフランシスコ条約は、いわゆる西側との間のみのもので、先の戦争でもっとも関わりが深かった中国は対象になっていませんでしたから、中国問題は依然として日本の喉元あたりにあるトゲのようなものでした。
 しかし、いつかは修復されねばならないという合意は広く国民の間にあり、戦時中、いささかの差別意識を伴って使用された「支那」は封印されたのだろうと思います。

 その後、いわゆる「逆コース」という戦前復帰の動きや、80年代の「ジャパン・アズ・ナンバーワン」という驕りの時期を経て、日本の側の謙虚さが失われたり、さらにその後、中国の急速な資本主義化とそれに伴う競合関係の中で、かつての日中関係とは違った状況が生み出されてきたのが実情だろうと思います。

 そうしたなかで、中国を一段と低いものと見なし、それによってその圧倒的な脅威をひたすら観念の上で抹殺したり、薄めたりしようとする動きの一つが「支那」という表現として復活したのではないかと思うのです。
 先に見た、靖国を否定する若者を「支那人」と規定するのもそれに似ています。
 その意味では、この表現を使う人たちは、中国への脅威をその潜在意識で捉えているという点ではそれなりに「リアル」であろうと思われます。

 しかしながら、観念の上で抹殺したところで、現実にその脅威や今後の歴史上の成り行きへの不安感は厳然として残るわけで、それらを観念のうちにおいてではなく、真に「リアル」に凝視し続けるべきだと思うのです。

 といったことで、私は「支那」という表現は用いませんが、中国についての不安感は大いにもっています。
 現今のチベット問題に観られるように、民族問題と漢民族の資本支配による格差の拡大は今後とも拡大再生産されそうですし、何よりも、看板の「社会主義国」と実際の「巨大な資本主義」との間の諸矛盾の噴出など、将来への不安定な要因はいっぱいあるからです。

 ただし、「大和魂」と「支那」といった観念的な図式での対決は非生産的であるばかりか、問題を別の次元へと誘導する危険性を持つものだと思います。



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桜ん坊ラプソディー

2008-05-09 03:53:53 | よしなしごと
 4日付で書いた桜ん坊についての続報です。
 例年より10日か2週間ほど早いのです。
 
 5日ぐらいから最盛期を迎えています。
 今年は花が早く、ミツバチなどがあまりこないうちに散ってしまったので幾分心配していたのですが、それは杞憂で、昨年とほぼ同様の数で、しかも、より大粒のものが実りました。

 
   ちょっと気取って、マイパソとワインを配してみました。
       もちろんテーブルワインの安物です。
     パソの画面は、去年の桜ん坊を壁紙にしています。



 初物は母のところへ持ってゆきました。
 母の日を勝手に一週間ぐらい早くし、この桜ん坊とグラビア風の本を持参しました。94歳の老母はとても喜んでくれました。

 後はどうしたかって?
 例年の決まりがあるのです。
 娘が勤務する学童保育の子らのおやつです。
 私が丹精を込めた(というほどのことはしていない)このルビーのような実を、どんな表情でほおばってくれるのだろうかと想像するだけで楽しいのです。

 
       ルビーです。赤をうまく撮すのは難しい。

 それでも余りがあったので、妹の家まで足を伸ばし、彼女の家族や孫たちへのおみやげにしました。

 もう、3、4日すれば今年の桜ん坊も終りです。
 そうしたら、鳥除けに吊してあるCDを外し、彼らの自由にするつもりです。
 ここでついばんだ実の種がどこかへ運ばれ、そこで新しい命が芽生えることを想像するのも楽しいものです。


     
 パソの画面は巨大な税で自然を食い尽くし、ついに稼働し始めた徳山ダム。
   まだ水の使い道も決まっていない。無駄な公共事業の典型。


 で、これでもって花と実を楽しんだ桜ん坊のシーズンは終わりのようなのですが、どっこい、今度は毛虫との戦いが待っています。
 ある年、毛虫が異常発生し、気づいたら葉っぱの大半が食べられていました。
 農薬という考えがちらつきましたが、殺虫剤にとどめました。
 まあ、それとても無害ではないのですが、実を採り尽くした後の葉っぱですから・・。

 しかし、これが泣けるのです。
 たいした樹ではないとはいえ、それはそれで枝葉も広がっているため、殺虫剤3缶を要してやっと退治、やれやれと思ったのもつかの間、また発生、結局はまた殺虫剤2缶を追加する騒ぎ。いくら要したかは卑しくなるからいいますまい。
 まこと生き物は難しいのです。

 
        一日で、こ~んなに採れたのです。

 まあ、そんなことも、この赤いルビーのような実を見つめているとすっかり忘れられるのがこれまたいいところ。
 さあ、明日も頑張って採ろう。
 子供たちのかすかな思い出のどっかに、この赤いルビーが引っかかることを願って・・。
 
     先月撮してきた郡上八幡の疎水を泳ぐ鯉をバックに

おまけの一言
 誕生日と命日が一緒の作家を偲んでの桜桃忌は6月19日ですが、今年はあちらの方でも、この日以前に桜ん坊が終わるのではないかと余計な心配などしています。
 
 





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世間の風の冷たさに泣かされる!

2008-05-07 02:53:58 | よしなしごと
 一昨日の日記に、翌日出かけねばならないのに風邪を引いてしまったと書いた。
 そして、その夜のうちにその風邪を退治するのだと大言壮語した。
 であれば、その後のいきさつを書かねばなるまい。

 まずはその夜の私の戦いぶりから。
 基本的な戦略は、前にも書いた今はなき母方の祖母譲りのものを採用することとした。
 まずは就寝前の入浴である。
 石川五右衛門も辞世の歌などおちおち詠んではいられないくらいの熱~い風呂につかる。
 早く出たい誘惑に耐える。
 方法は簡単だ。ひと~つ、ふた~つ、と数えることだ。だんだんテンポが速くなる。
 そんなに早く数えても、今度は予定の数を増やすだけだぞと自分を脅しつける。

 
   冷房から解放されて地下鉄の階段を上がる。今日はいい天気だ。

 皮膚が赤く染まったぐらいでやっと出る。
 そこで、ふ~っと一息入れてせっかくの熱したものを冷ますのは愚行である。
 汗が残るのもかまわず衣服を身につける。
 ここまでが第一段階で、しかもマイ・オバアチャンのそれとほぼ同じ進行内容だ。

 
       この間まで花をつけていた木蓮の新葉

 しかし、ここからはすこしく違う。
 マイ・オバアチャンはここで、ゲンノショウコかセンブリを煎じたものをどんぶりに一杯飲ませたのだが、それは20世紀の話、21世紀には当然違う作法があってしかるべきで、私の場合は舌が火傷しそうなホット・ウィスキーである。
 もちろん、ウィスキーには薬用成分はないからそれを補充しなければならない。
 風邪薬、睡眠薬、胃腸薬、それらをまとめて飲む。そして、ひたすら熱い液体をすすり込む。
 
 引っ込みそうになった汗がまたじんわりと体表を潤し始める。
 しかし、そこで汗を引っ込ませようというような姑息なことを考えてはいけない。
 今度はひたすら寝るのだ。
 目標七時間。
 布団の中は熱い。
 でも寝る。
 何があっても寝る。宇宙が溶けてなくなっても寝る。


     
      近くにあるへちま薬師。たむろしていたおばさんから
       仏を写真に撮ると霊が乗り移ると注意された


 翌朝目覚める。
 快調とまでは行かないが、昨日に比べれば遙かに良い。
 治癒率は六的(つまり私的)基準で63.7%ぐらいか。
 適度の食欲はあるが米の飯は喉を通りにくい。
 冷たい出汁の山かけそばにする。
 山芋が潤滑油になって喉ごしがいい。
 この段階で治癒率67.9%に上昇。
 初夏の陽光の中、自転車で駅まで。
 風もなく心地よい。
 治癒率は70%台に乗る。

 いざ、JRにと乗り込む。
 ここで治癒率を一挙に58.6%に下げる事態が・・。
 そう、冷房なのだ。それもかなり効いている。
 それが必要なほど暑いとは思われない。
 きっと、何度以上は何とかというマニュアル通りの措置なのだろう。
 私は思わず上着をかき合わせる。
 ななめまえのTシャツのアンちゃんはしばらくしてくしゃみをした。

 
      街路樹のアオギリの新葉が五月晴れに輝いていた

 名古屋駅へ降りてほっとした。
 それもつかの間、乗った地下鉄でまたしても冷房の襲来。
 治癒率は50%後半のまま。
 地下鉄を降りてやっと冷房から解放される。
 五月晴れのもと、自然な陽光を浴びて、会場までの道すがら写真などを撮る。
 これで治癒率は一挙に上がる。
 70%台の後半から80%台の前半にまで至る。

 会場に着く。
 ああ、またしても冷房が。
 ただしここのはあまり強くはない。
 しかも、JRや地下鉄のように冷風がまともに吹き付けることもない。
 それに話もおもしろかったから治癒率は72.9%ぐらいを維持か。
 会合が終わって、懇親会。
 目の前にある赤ワインをがぶ飲みしたら治癒率は一挙に上がり、80%台の後半に。
 やはり内燃機関は効率がいい。

 
     近くにあった触れなば落ちんという爛熟気味の薔薇
     「イヤ~ン、そんなに近くから中まで見つめないで」


冗談はともかく、冷房については全く納得できない。
 朝夕のラッシュ時はともかく、終日なぜあんなに冷やさねばならないのか。
 夏熱く、冬寒いのは当たり前のことで、人々は自分の服装でそれなりの対策をしているのだから、過分に冷やしたり、暖めたりする必要があるのだろうか。
 人々がその不快に耐えきれない状況からの冷暖房でいいのではないか。
 





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