六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

「ゆる鉄」くんの名古屋鉄道電車の観察記

2015-10-31 11:49:58 | よしなしごと
          
 私が少年時代から青年時代を過ごした実家は、JR岐阜駅のすぐ南にある。
 そこから数分東に進むとそのJRの東海道線、高山線と名古屋鉄道のいわゆる名鉄本線(岐阜/豊橋間)がクロスするところがある。

          
 今は地上を車が走り、その上を名鉄が走り、さらにその上をJRが走っているが、これは岐阜市南部の人たちの長年の悲願であったJRの高架化が1997年に実現した結果である。その前は、JRは平地を走り、名鉄はその上を走っていたが、この付近にあったけっこう交通量の多かった踏切りは貨物列車の編成作業などもあって、開かずの踏切りとして知られていて、人も車もいつも長い間待たされた箇所である。

          
 電車を見るのが単純に好きな「ゆる鉄」の私は、その頃からここで東海道線を走る国鉄列車と名鉄電車のコラボを見るのが好きだった。

          
 とにかく電車が好きだ。ウィーンヘいった折にも、その真っ赤なトラムに乗りたくて、ホテルからわざわざ二駅分歩いてそれに乗ったのはいいけれど、降りる段に、どこでどう運賃を払っていいかわからなくて、乗客(老人が多かった)に向かってコインをかざして「どこ?」と身振りで訊いたが、みんなこぞって、いいから降りろ降りろとの手振り身振り。おかげで、オーストリアには未だに借金がある。

          
 先般、岐阜駅の構内に用があった際、久々にこのポイントに来てみた。これらの写真はその際、約20分ほどの定点観測の結果である。JR線は、高架で高さもあるため、一番南側を走るものしか捉えることはできなかった。

          
           下が一般道路、その上に名鉄、最上階はJRの三層構造
 名鉄線は、5種類の異なる電車を捉えることができたと思う。殆どの車両に乗ったことがあるが、今回、初めて、お、と思った車両もあった。今度、乗る機会があったらこれに乗ってみたいものだ。

             
         この名鉄線のガードを支えるレンガと石積みは戦前からのもの
 日本中、どこの電車もとてもカラフルになった。これはいいことだ。私がものごころついた頃(戦中戦後)から1950年代まで、鉄道電車は国鉄も私鉄もほとんどくすんだ茶色か草色(日本色でいう御召茶色)だった。そしてそれらの色は、私には「戦時の色」として記憶されている。
 だから、全国のJR、私鉄がこぞってカラフルであることは平和のありようともいえる。
 これらが、「国防色」に一元化されないよう祈りつつ、私の「ゆる鉄」は続く。

         
              最上階をJR東海道線の電車が駆け抜けた
 そう、インターシティを快適な電車が結び、都市の路面を装いを凝らしたカラフルなトラムが走る、これは「ゆる鉄少年」の夢であり、かつ平和の象徴なのだ。
 原爆投下後のヒロシマで、最初に動いた市街電車は、わずか数日後、徴用された女学生たちに依って、運転も運営も確保されたというエピソードを思い起こし、その少女たちを密かに恋している私なのだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

喜寿前日、童心に帰って地域のお祭りに

2015-10-28 18:06:19 | 写真とおしゃべり
 敗戦の年、疎開先で国民学校一年生になった私は、学制が変わり、小学校になり、その5年生の折、やっと岐阜へ戻ることができた。
 一家が住まいを構えたのは、岐阜の南部、加納地域であった。
 加納というのは松平10万石の城下町であり、同時に中山道の宿場町でもあった。
 岐阜市というのは、もともと、金華山にあるかつての信長の居城、岐阜城下の町と、上記の加納とが南北からくっついたかたちで成り立ったものだったが、現在はさらにその周辺の町や村を併合して膨れ上がっている。

             

 私が子供の頃、古老たちはまだ岐阜/加納の差異を念頭にもっているようで、こんな会話が成立していた。
 「おまはん、どこへいきんさる?」
 「わっちかな、わっちは用があるもんで岐阜へゆくとこやがな」
 「ほんなら、気をつけていっとんさい」
 子供心に、同じ岐阜なのに「岐阜へゆく」とはと思ったものであった。
 なお、旧岐阜と加納の境界は、ほぼ東海道線によってわけられているといってよい。

             
 
 私の子供の頃は、そうした気風もあってか、祭りなども両地区でははっきりと分けれれていた。伊奈波神社を祀る岐阜まつりは4月5日、加納天満宮を祀る加納の祭りは4月3日と決められ、天満宮の祭りも盛んであった。
 そんな頃、加納の祭りでしっかり遊んだ私たち加納の子が、岐阜祭りにも遊びにゆくと、よく岐阜の子に、「お前らの祭りはもう終ったやないか」といじめられたりした。

 今では、この春祭りは4月5日に統一され、それとともに、加納のお祭りは岐阜全体のお祭りに飲み込まれるかたちでかつての賑わいを失ったように思う。娯楽の少ない当時、祭りといえば近郷の人もやってきて、加納の祭りには岐阜の人も、岐阜の子も実はきていたのだ。

             
      境内でのカラオケ大会 この方おん年97歳!高音以外は出ていた
          

 私は小学校5年以来、お祭りも初詣も、そして輪くぐりさんなどの各種行事でも、加納天満宮にはずーっとお世話になってきた。しばらく名古屋中心の生活をしていたが、岐阜へ帰ってからも、このお宮さんがとても懐かしい。

          

 そんなわけで、秋晴れの10月25日、加納天満宮の秋の例祭に行ってきた。写真はその折のものだが、この日は24日から続いた祭りの最終日で、最後にお供えをおすそ分けするという「鷽(ウソ)替え神事」というのに私も加わった。
 なお、写真にもあるが、この神事の説明をする司会者は、なんと私の小学校時代の同級生のO君で、親しく挨拶を交わすことができた。

          
              右側が小学校時代の同級生O君

 「鷽替え(うそかえ)とは、主に菅原道真を祭神とする神社(天満宮)において行われる神事である。鷽(ウソ)が嘘(うそ)に通じることから、前年にあった災厄・凶事などを嘘とし、本年は吉となることを祈念して行われる」というのがWikiの説明である。
 本家本元の大宰府では、木彫りの鷽(ウソ)を「替えましょ、替えましょ」の掛け声とともに交換しあうらしいが、ここでは参拝者に配られる番号を印刷したカードを、相互に交換し合い(交換しないとご利益はない)、最後にその番号に応じて並ぶと、お下がりを小分けにしたものがもれなく貰えるというものである。

            

 司会をしていた0君は、いいというのに私に数枚のカードを家族の分といえばいいからといって渡してくれたが、交換の過程で、一枚だけ残して持っていない人にやってしまった。その残った一枚のカードも数回の交換で番号がめまぐるしく変わり、指定された番号の箇所へいってお下がりをもらってきた。

         


 私がもらったものを帰宅して開けてみたら、米粉で作ったお餅が二個とかりんとうが一袋だった。お餅も品のある甘みでうまかったが、黒糖と蜂蜜をまぶしたかりんとうが実に美味しいのだ。子供のとき以来かりんとうなど口にしたことがないが、こんなにうまかった記憶が無い。どこで作っているのだろうと思ったら、なんと地元、やはり加納地区にメーカがあるお菓子だった。

         

 祭りに戻ろう。上に述べてきたような事情に重ねて、少子化と娯楽の多様化で、かつてのような混雑ぶりはないが、それでも加納という地域のお祭り色は濃厚で、久々に童心に帰って素直に楽しむことができた。
 今度はゆっくりと、第一日目の宵宮などを楽しみたいものだ。できればお神酒でほんのり頬など染めながら・・・。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

誕生日? 誰の? お前のだろ。あ、そうか。

2015-10-26 11:11:53 | 日記
 みなさまからのお祝いのお言葉ありがとうございます。
 
 国民学校一年生で敗戦を迎える前は、米軍上陸に備え、「一人一殺」「一億総玉砕」「大君の辺にこそ死なめ」と誓っていました軍国幼年でしたが、それ以後、年月は巡り70年、無為徒食のまま77歳まで生き延びてしまいました。

 77歳といえば喜寿の祝いとかで、岐阜市長からは別掲のような色紙が届きました。多忙な公務の傍ら、私のようなものに直々の揮毫と感謝感激いたしておりましたところ、これは印刷物で夫婦が同年齢のところへは同じものが2枚届くとの由。同じ税金使うなら、「色紙よりも銭よこせ」といいたいところですが、それをいっちゃぁおしまいとグッと我慢のホトトギス、雉も鳴かずば撃たれまいとひたすら忍従と自虐の老いの道をまっしぐらと決意いたしました次第。

        
 
 今後も懲りずに、ネットに書き込みなどいたす所存ですが、皆様のご意向に沿わぬ言動など数々あるやも知れぬと危惧いたしています。どうかその折は、老いのなせる「自然の摂理」とご寛怒の上、長ぁ~いお目をもちまして、末永くお付き合い頂ますよう、隅から隅へと、ハッ、ずずずずず~~~~~~~いっと、おん願い、たてまつりまぁすぅ~~~~~~~~~。
 (ハァハァハァハァ・・・・・・・AVの喘ぎ声ではありません。老いゆえの息切れです)


お祝いのお返し《ちょっとした間違い》

1)バクダット公害で紫外線

2)ゴキブリに会長
 
3)北京で時間給競技
 
4)絶対金を盗る!(泥棒の決意)
 
5)人間はカンガルーの脚である


 1)そりゃあ、「バクダット郊外で市街戦」でしょう。
 2)そりゃあ、営業成績かなんかの話で、「五期ぶりに快調」でしょう。
 3)そりゃあ、「次官級協議」でしょう。 
 4)そりゃあ、「絶対金を取る」っていうオリンピック選手の決意でしょう。
 5)そりゃあ、「人間は考える葦である」でしょう。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「戦争画リターンズ」と藤田嗣治の「アッツ島玉砕」

2015-10-24 01:11:48 | 書評
 『戦争画リターンズ 藤田嗣治とアッツ島の花々』(平山周吉 芸術新聞社)を読了した。ほとんど、藤田が描いた一枚の絵、「アッツ島玉砕」をめぐる話なのだが、絵画というジャンルにとどまらず、とても広い領域と奥行きをもった書で、最後まで一気に読み進むことができた。

               

 会田誠の「戦争画RETURNS」から藤田嗣治の「アッツ島玉砕」に向かって一本の補助線が引かれる。会田のこの「戦争画RETURNS」は藤田へのオマージュであったことが、会田の「わだばフジタになる!?」(これは棟方志功の「わだばゴッホになる」のパクリ)という言葉の紹介とともに示される。
 
 しかし、著者が会田の作品のうちに真にフジタへのオマージュとしてと観るのは、むしろそれ以後の作品、「ジューサーミキサー」や「灰色の山」の方である。前者は、無数の裸の少女たちが文字通りミキサーにかけられている図で、その下方は、鋭い刃物で粉砕される少女たちの血潮で赤く染まっている。
 
 後者は遠目には文字通り「灰色の山」(見方によっては富士山に見える)だが、近づいてみると無数のサラリーマンたちの死体からなる山であることがわかる。
 実はこの絵、私はこの5月、岐阜県立美術館での《てくてく「現代芸術」世界一周》で
直接ご対面しているのだ。だから、著者がこれらの絵こそ藤田へのオマージュではないかというのはわかる気がする。
 もっとも、肝心の「戦争画RETURNS」シリーズは図鑑やネットでしか観ていないので断定的なことはいえない。
 なお、この二つの絵画は以下の会田の活動を紹介した記録映画の予告編でそれぞれ見ることができる。
   https://www.youtube.com/watch?v=mNDgduQAq_U

 導入部だけでこんなに長くなってしまった。
 事ほどさようにこの書は、藤田の「アッツ島玉砕」という絵画をめぐるさまざまな背景、さまざまな人物(美術界に限らず、文学者や写真家、軍人、生物学者、皇室にまで実に多岐にわたる)、そしてさまざまな情景、状況が曼荼羅図のように描かれてゆく。そしてそれらは、昭和の前半史をほとんどカバーするほどの広がりをもって展開される。

 同時に、それらの関連のなかから、想像で描かれた「アッツ島玉砕」が、藤田の周到な取材によるものであることが、そこに描かれた地形、死者の傍らで咲いている花々などの観察、並びに彼が参照したであろう資料などによって明らかになってゆくのも面白い。
 
 そうした実証的な見聞も含め、これを読むと、一篇の一大大河小説を読んだような気分になる。そして、それを可能にした著者の好奇心と足で稼いだ取材ぶりに感嘆させられる。
 なお、後半に集中して現れる著者の皇室や靖国へのスタンスには同意しかねる点もあるが(かといっていわゆる右翼ではなさそう)、それを差し引いてもこの書の切り拓いたことどもを知ることは十分価値があるので、この際、それは不問にしたい。

           

 この著者の平山周吉という名前、小津安二郎のコアなファンならどこか思い当たることがあろうと思う。そう、あの小津の『東京物語』で、笠智衆が演じた主人公の名前がまさに平山周吉だったのだ。もちろん、その人物とは関係ないが、この書にも、小津の名前はチラッと出てくる(黒澤明も)。それくらい守備範囲の広い著作だとだけいっておこう。

 なお、私は書になったものを読んだが、なんとネットで検索したら、この書の全48回のエピソードの積み重ねのうち、32回までは以下の芸術新聞社のブログで読むことができる。それもそのはず、この書は、もともとそのブログの連載であったものを、それ以降の回を書き下ろして単行本にしたものだとその「あとがき」で知った。
 それらは以下で読むことができる。興味のある方はどうぞ。
  http://www.gei-shin.co.jp/comunity/24/index.html

 アッツ島玉砕は、双方にとってさして戦略的価値もない箇所を相互の死闘によって争ったもので、日本軍の守備隊2,600余名は、圧倒的にまさる装備をもったおよそ5倍の米軍の包囲のなか、徹底的に追い詰められ、最後は、大本営からの「全員玉砕せよ」の打電命令を受けて敢行されたもので、結果は惨憺たる無数の屍を残し、日本軍は全滅した。負傷などで捕虜になったりして生き残ったものはわずか27名で、その生存率は1%であった。
 テーマになっている藤田の「アッツ島玉砕」は、この死屍累々を実現させる日本兵の最後の突撃の模様を描写したものである。
 その最後の戦闘(1943年5月29日)の翌日、この島へ上陸し、日本兵の屍の山を目撃した米軍兵のなかに、東北大震災後、日本に帰化したあのドナルド・キーン氏がいた。

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自然の逆襲によって侵食される廃屋

2015-10-22 14:52:24 | 想い出を掘り起こす
 各地で廃屋が問題になっているという。人跡が絶えた家屋が全国に散在しているというのだ。なかには倒壊のおそれがあるものもあるという。
 どうやらその要因の一つは、固定資産税の問題と、併せてこの景気の後退にあるようだ。現在の税制では、家屋を取り壊して更地にした場合、課税額が数倍になるという。だとすると、高い解体料を払ってわざわざ税負担を招くことはないと考えるのは自然だろう。



        それぞれ2008年12月、同じ廃屋を別のアングルから

 それでも、かつては更地にするとそれなりに買い手や借り手が現れたものだが、現在の経済情勢や、商業施設が大型化し集中するなどという都市構造の変化の中では、よほどの立地条件でなければ、次の利用者を見出すことは困難だ。
 そんなこともあってますます廃屋は増える傾向にある。
 それは都市部においても、私が住まいする郊外においても、ほぼ同様である。


          
       2011年12月 上の写真撮ほぼ同じアングルから だいぶ崩れている
 
 廃屋はうら寂しい。
 諸行無常をはっきりと突きつけるようなものだからだが、同時に、そこにかつて息づいていた人びとを想像させるよすがが残っていたりして、いっそう寂しさを増す。
 都市部の廃屋はなんとなくモノクロの感じがするのだが、私の住むような郊外の片田舎においてはいささか様相が異なる。この辺で廃屋になり打ち捨てられた建造物に対して、たちまち襲いかかるものたちがあり、それによってかえってカラフルになるからだ。
 それは自然そのものである。かれ(ら)は、人跡が絶えたその瞬間から、かつて人為によって奪われた彼らの領土を取り戻すかのように猛烈は反撃に転じる。

 それは植物の繁殖であったり、小動物や鳥たちの営巣であったりするのだが、年月を重ねるに従い、彼らの貪欲な逆襲は、かつての人為の痕跡を根底から無にするかのように、徹底した侵食を進め、やがては、もはや廃屋とすらいえないまでにそれらを埋没させる。

   
         いずれも今年6月、草木にほとんど埋もれ、白い花が

 ここに掲載した写真は、いずれも同一の家屋で、最初のものは08年の12月だからまもなく7年を数える。しかし、廃屋になったのは7年前ではない。もっと前からで、私自身この近くを散歩コースにした折、たぶん05年前にその存在に気づいていたのだが、「あ、廃屋だ」と思ったのみで、写真に記録はしなかったのだ。
 その折には、10年経つか経たないかに、これほどの変動するとは思いもよらなかったからである。


                いづれも今年10月初め

 何年か前、オッ、これはと思いブログなどに載せたことがあるが、その折は、廃屋から連想される私の記憶として、70年以上前、硫黄島の玉砕で還らぬ人となった当時の少年兵を偲び、それとの関連としてであった。
 15歳前後のかれらは、米軍の激しい攻撃にさらされながらも、その攻撃の止んだ合間には、故郷の方角に向かって、当時の唱歌、「故郷の廃家」を合唱したというのだ。
 これは私のように、戦争をわずかながらも体験した少国民の経験がある者の涙腺を緩ませるにじゅうぶんのエピソードである。

 いま、ゆえあって「アッツ島玉砕」に関する書を読んでいる。ここには少年兵はいなかったが、半ば強要されたような突撃とその結果たる死屍累々の図は、藤田嗣治の戦争画を待つまでもなく、私をうち震わせる。
 こうした、今ならわかる極限ともいえる人為の虚しさは、廃屋のそれに通じるものがある。

          
     かつての柿の木は伐り倒されていて、その子孫とみられる柿の新芽が

 そんなこともあって、一年に何度かは、この廃屋をウオッチングするのだが、その都度、少年兵たちが歌う「故郷の廃家」が、人為の虚しさをそれと指摘するかのように、どこかから響いてくる気がするのだ。

 
 https://www.youtube.com/watch?v=iWKG3i2J_4c
 台湾の合唱団が歌っているものを見つけたので添付します。日本語がネイティヴではないので歌詞が聞き取りにくいと思われる方は以下をどうぞ。
 https://www.youtube.com/watch?v=QQznPBvNr4U

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今年の稲刈りウオッチング さまざまなコンバイン

2015-10-19 23:18:28 | よしなしごと
 この辺の稲刈りはほぼ先週末で終わったようだ。
 その間、この辺をふらふらしたおかげで、同じコンバインでもいろいろあることを改めて確認した。これまでは恥ずかしながら、昔の鎌で刈る頃とは随分違ったなぁという(なんという古い大雑把な)感慨しかなかったのだ。

           

 これに注目し始めたきっかけは、毎年私がウオッチングしていて、この時期になると報告する田圃の稲刈りを見て、ここで知り合いのその筋の専門家の友人から、ずいぶん古い機械を使っているという指摘を受けたからだ。
 なお、この田圃で使われている田植機もかなり古い年代のものらしい。

           
               この辺で見かけたものではもっとも大型

 そういわれて、今年改めてほかの田圃の稲刈りも観察してみると、その大きさも能力も確かに随分違うコンバインがあることにいまさらながら気づいた。大型で刈り取り口が三条あるもの、小型で二条だがスピードが早いものなどなどである。
 この辺で使用されているものでまじまじとみたのは三台だが、確かにその内では私の家の至近距離で、毎年見ている田圃のそれは形は大きいが刈り取り口は二条で、動きも遅い気がする。
 それに、袋詰めをして、いちいち袋をはずすというのはほかではあまり見かけない。この機能はいいようにも見えるのだが、やはり古い形式なのだろうか。

           
                  小型だがスピードは早い

 今回みた大型のものは、刈り取り口は三条で、やや小回りの性能は欠くが、一旦方向が定まると実に早い。一反ぐらいはあっという間に刈り取ってしまう。
 次いでみたのは小型で刈り取り口は二条だが、こちらの方は小回りも効きスピードも早い。

           
              私が毎年ウオッチングしている田圃の稲刈り

 私が毎年見ている田圃のそれは、スピードが遅く、袋の取り外しやら何やらで結局、一反余を借り終えるのに半日を要していた。しかし、昨年は田圃の大半の稲が倒壊するという不幸があって、それらを起こしたり、鎌で刈りながらの作業で、ほぼ一日を費やしていたことを考えると、まあ順調だったのだろう。

           
             こうして脇に溜まった袋を外して積み上げてゆく

 こんな田圃ウオッチングをしている一方、スーパーや郵便局へゆく道すがらで気づいたのだが、今年も二、三面、休耕田が増えた。それぞれ事情があるのだろうが、少しさみしい。
 そんなことを考えていたら、見ていた田圃の刈り取りが終わったのを見計らうように、今度は小型のトラクターが現れ、手前の休耕田(私のうちの二階の眼下 刈り取りをした田圃とは持ち主が違う)を耕し始めた。
 実はこの休耕田、「貸地」の看板を立てていて、そのための見栄えもあって、雑草が伸び始めるとこまめにトラクターがきて耕してゆく。

           
              バス通りをさっそうとやってきたトラクター

 この土地を誰が借りて、どのように使うかによって、隣接しているだけにわが家の居住環境が随分違ってくる。台所や風呂場、それにトイレもそちらに面しているので、場合によっては迂闊にその窓も開けられないことになる。それを考えると少し憂鬱になるが、人様の土地だけにこちらのままにはならない。少しでも影響の少ないものになってくれたらと祈るばかりだ。

           
                  眼下の休耕田を耕し始めた

 そんなことを考えて見ていたら、トラークターが耕す後ろに、カラスやムクドリ、セキレイなどが集まり始めた。掘り起こされて地表に出た虫たちを狙ってのことだろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

図書館へ 珍しく美術関連書も借りる

2015-10-17 23:49:35 | 日記
 県立図書館へ。まず読了したミラン・クンデラの最新訳小説、『無意味の祝祭』と韓国の思想家、李珍景の『不穏なるものたちの存在論』を返却。
 前者は、一見、無意味なモノたちが、それでも無価値や全き無ではなく、どうしようもなくマテリアルに炙りだしてしまう「意味」のようなものが描かれている。エピソードとしては「スターリンと24羽のヤマウズラ」をめぐる話がおもしろかった。
 
 後者は、題名通り、「不穏なるものたち」を介して、存在、ないしは存在するということに迫ろうとするもの。クンデラの「無意味」とはやや違って、こちらは曖昧模糊としてその正体がよくわからないままに、私たちを不安にさせたり落ち着かせないものたちが主題。
 「存在論」の名の通り、ハイデガーなどを意識してはいるが、存在論という哲学のうちでももっとも抽象的で難解と思われる分野が、こんなに具体的に今日的、かつ政治的なテーマに結びついてしまっていいのかと驚くような展開がある。しかしながら、それがこの著の真骨頂といえる。
 この韓国の思想家の論じる範囲はとても広く、しかも、今日的課題に肉薄したものといえる。ほかにも好著があるようだから、もっと翻訳されてもいいのではないか。雑誌掲載の論文以外、単著としてはこれが最初の翻訳だという。

              

 返却のあと、いつもの様に新着図書のコーナーに足を運んだら、いきなり、『戦争画リターンズ 藤田嗣治とアッツ島の花々』(平山周吉 芸術新聞社)が目に飛び込んできて、迷わずゲット。
 ちょうど15日前の2日に、この図書館に隣接する県立美術館で、「小さな藤田嗣治展 レオナール・フジタからの贈り物」(11月1日まで)を観たばかりだったのだ。
 その際、彼のいわゆる「戦争画」責任事件(そのため彼は追われるように日本を離れた)が頭にあり、その追及型の非難のみでは検証しきれない問題があったのではないかとの思いがつきまとっていたので、この書は渡りに船のように思えたのだった。
 付け加えるなら、その美術展を観た日は、私にとってとても楽しい一日だったので、その余韻を噛みしめる意味もある。

           
                藤田嗣治「アッツ島玉砕」


 もう一冊は、ハンナ・アーレントの『カント政治哲学講義録』(訳:仲正昌樹 明月堂書店)で、これは私がアーレントに触れ始めたかなり早い時期に一度読んだのだが、どうも、時期が早すぎて消化不良の向きがあるので再読しようと思ったのだった。
 というのは、この書は、第一部「思考」、第二部「意志」まで書かれたところで彼女の死亡によって中断された遺作の大著、『精神の生活』の第三部「判断」になる予定の部分で、いわば彼女の最後の最後の文章であるにもかかわらず、まだ入門段階だった私がそれに飛びついたのだったから消化不良は避けがたいものだったといえる。
 これを読み終えたら、『精神の生活』(これも既読だがやはり消化不良)の方にも再チャレンジして見ようと思う。

 もう一冊借りた。『ジェンダー・トラブル』などの著作があるジュディス・バトラーとマルクス主義やフェミニズム、ポストコロニアル批評の脱構築的読解を行っているガヤトリ・スピヴァクの対談『国家を歌うものは誰か? グローバル・ステイトにおける言語、政治、帰属』(訳:竹村和子 岩波書店)で、パラパラっとみた範囲でもかなり刺激的なようである。
 ここにもまた、アーレントを対象にしたかなりの対話があるようだ。

 うちにもまだ、私が手を付けるのを待っている本が何冊かある。
 時間が足りない。といいながらも随分無駄な過ごし方もしていて、とても読書三昧とはいえない。
 なんでこんなに移り気なのだろう。
 もう、そろそろ落ち着いてもいい年頃なのではないのかい(←自分)。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大垣・綾野祭り 水と火との戦いをくぐり抜けて

2015-10-14 02:15:50 | よしなしごと
 10月10日、地域の人達と大垣市の綾野地区に伝わる綾野祭りにでかけた。
 ここの祭りの呼び物は、江戸の末期から伝わる五基の山車(正式には車偏に山 ATOKでもGoogleでも、また手書き文字パレットでも出てこない)が残っていることで、いずれも岐阜県指定の重要有形文化財に指定されている。

              

 大垣市のそのまたさほど広くない地域に、五基もの、しかも年代物の山車が残っていることは驚嘆すべきことであるが、それには、地域ぐるみの聞くも涙、語るも涙の話があると地域の世話役の長老に伺った。それはまた後で述べる。

           

 さて各地域で午前中に飾り付けを終えた山車は、午後一時から集落内を巡行してまわるという。そしてまたそれは祭りのパンフにもそう記されている。
 それを楽しみにしていたのだが一向にそれらしい気配はない。

        

 私たちはある山が蔵から引き出され、据えられているところにいたのだがそれも動き出す気配はない。そこでその山の差配をしているような長老に、「巡行はしないのですか」と尋ねた。
 すると彼いわく、「以前はそうしていたのだが、今は交通事情からして車が通れないというクレームが来て、巡行できない」とのこと。

           

 そういわれれば、集落内の道路は中型車がやっと通れるぐらいで曲がりくねっていて、むかしのままなのだ。この狭い地域を五基の山車が巡行したら、車は通れないだろう。
 それでも、最近までは、祭りのためならと集落全体が耐えていたのだが、現今は祭りなどわれ関せずという人もいて、クレームが増えたのだろう。ちょっと寂しい話ではある。

           

 巡行しないということなので、ついでにその長老にいろいろ話を聞いた。
 私の疑問は、江戸時代からという割には見て回った山車のどれもがそうした古さを感じさせず、新造のもののような輝きをはなっていることであった。それについての話がちょっと触れた地域ぐるみの感動物語だったのだ。

           

 この地区は西濃の輪中のなかで、時折、杭瀬川の反乱に悩まされてきたところだ。そういえば、今でもこの集落のちょっと低い箇所の家は石垣の上に建っている。そこで昔は、祭りが終わると山車をバラして、集落の二階家に収納したというのだ。
 これがまず、水との闘いである。

           

 ついであの戦争である。もちろん、祭りどころではない。それどころか、各地で伝統のある山車が焼失したと話が伝わり、この集落は分解したものの疎開などあらゆる手をつくしてこれを守ろうとした。
 これが火との戦いである。

           
                  上を新幹線が・・・
 
 こうしてばらばらにされたものがやっと再び形をなしたのは戦後の昭和二〇年代の終わりごろであったという。それでも、失われた部分はかなりあり、修復は並大抵ではなかったという。もちろん経費もだ。

           

 これらの山車が江戸時代から続くものであることが認められ、県の重要有形文化財に指定され、補助金が出ることになった。それをもとに、残っていた図面などを参考に、近隣の宮大工や仏具屋を総動員してやっと今日の姿を取り戻すことができたというのだ。

           

 しかし、将来にはまだまだ問題がある。先程、ちょっと触れた交通事情による巡行中止は寂しいものがある。そこへもってきて、後継者の問題がある。写真で見るように、子どもたちについては積極的な育成がまあまあの成果を挙げているようだが、青年層の参加が寂しいというのだ。

           
 
 そんな話を聞いているうちに、三時が近づき、五基の山車が白鬚神社へ集結する時がやってきた。私たちが待機していたのは、神社に一番近い山車蔵で、ここで神社へと進む全部の山車を見ることができた。
 山車の運行の見どころのひとつは、カーブを回るところだが、ここの山車はさほど重量がないとみえて、前輪を固定したまま、山車の後部を持ち上げてヨイショッと回る方式だ。

           

 こうして縦に並んだ山車は、神社手前で勢揃いし、境内へ入る順番を待つ。ちょうどその辺りを新幹線が走っていて、江戸の文化の上を疾走するという面白いコラボが見られる。掲載した写真にもそれがある。

           

 順次、神前に入った山車は、そこでその山車特有の奉納芸を披露する。オーソドックスな人形の舞いや、人間が獅子に変身するからくりもある。そしてこの地区特有の瓢箪鯰も見ものだ。これは翁が瓢箪で鯰を捕らえようとするもので、翁の瓢箪が振り下ろされる途端、鯰はひらりと反転して逃げまわる。この連続がいかにもユーモラスだ。

           

 奉納芸を終えた山車は今度は境内に横一列に整列する。
 こうして昼の部は終わり、あとは宵祭になる。
 各山車に満艦飾の提灯が灯され、また芸が披露され、人間の舞いなども加わるようだ。
 「ようだ」といったのは昼の部が終わったところで帰途についたからだ。

           

 養老鉄道の西大垣駅から綾野地区まで歩いたのと、集落内をほっつき歩いたのとで、歩行数は15,000歩、約八キロを歩いたことを示していた。
 しかし、ちょっとのんびり、日常とは違う世界で遊んだこともあって、さほどの疲れは感じなかった。

 写真を整理しながら、改めて長老から聞いた話を反芻するのだった。

 *このお祭りの公式HPは以下にあります。
 http://www.ogakikanko.jp/event/ayanomaturi/#menu02






コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鶴見俊輔と一介のディレッタント(好事家)の思い出

2015-10-08 11:56:10 | ひとを弔う
 写真は、青土社刊行の雑誌「現代思想」の10月臨時増刊号、「総特集 鶴見俊輔」です。鶴見さんは、新聞紙上などで報道されたように、この7月20日に永眠されました。

 ここでは改めて鶴見さんの業績などを書こうとは思いません。興味のある方はググッてWikiでもご覧ください。それだけでこの人の極めて独自性に満ちた生涯をたどることができると思います。

           

 私との個人的な接点はほとんどありません。ただ、2度ほど、私の書いたものを鶴見さんに褒められたことがあります。もちろんこれは、私の書いたものが優れていたというよりも、学者嫌い、官製嫌いの鶴見さんが、学問的なキャリアもないド素人の私が勉強しながらチマチマ書いていることを激励してくれたものです。

  

 一度は、私の関わる同人誌の編集長格であった故・伊藤幹彦さん宛の葉書でした。
 幹彦さんから、「オイ、鶴見さんがお前の書いたものを褒めているぞ」という連絡と同時に、FAXでそのはがきのコピーを送ってもらったのですが、さっぱり読めません。
 推測するに、鶴見さんの字はもともとわかりにくかったところへもってきて、その当時は90歳近いご高齢で、運筆も不如意だったのだろうと思います。

 結局二人で、メールや電話のやり取りで、2、3日かかってやっと判読できたのですが、それは過分な褒め言葉と励ましの意がこもったものでした。しばらく、そのコピーのFAXを持っていて、高校時代の同級生に見せて自慢していたりしたのですが、そのうちに紛失してしまいました。
 もとの葉書は幹彦さんのところにあるのですが、彼自身が昨年の今頃、先に逝ってしまったのでその所在はわかりません。

             

 鶴見さんの著作で、理論的なものは、「アメリカ哲学」を読んだっきりで、あとは対談や評論、随想などです。しかし、こうした現実との関わり、対話の中にこそ鶴見さんの真髄があったように思います。
 ですから、その逝去の報道に、「知の巨人」などとあるのを多少の違和感を持って読みました。鶴見さんの「知」は、いわば学問的な体系や学識などにではなく、極めて実践的な「智慧」と批判的判断力のようなものの中にこそあったのだと思うからです。

 とりわけ、他者との対談などにおいては、聞き上手であり、相手と自分の立場を表出する達人であったように思います。
 そんな感慨のもと、この書をゲットしました。手に入れたのは先週末ですが、昨日ぐらいから興に任せるままにアトランダムに読んでいます。ほかの書と並行しながらです。

           

 でも、しゃかりきに読むというより、こうした読み方のほうがなんとなく鶴見さんの性分にもあっているような気がするのです。
 決して、まなじりを決するという風ではないとしても、ちゃんとした基準をもって、生涯ぶれずに、事象と対峙したという意味で、思考し行動する人だったと思うのです。ですから、こちらもそうした軌跡に気ままに寄り添いながらゆっくりと読みたいと思うのです。

 そして、そうすることが、私にできる唯一の供養だと思っています。




コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お・も・て・な・し(うらもなし)

2015-10-04 15:55:03 | 日記
 2日、金曜日は親しい人にごちそうになってしまったが(ごちそうさまでした)、3日、土曜日は息子夫妻が来るというので急遽、もてなす方に。
 家族以外のために料理するのは久しぶりだ。
 メニューの選択基準は以下のとおり。
 1)手とり早くできること
 2)廉価であること(その割に見栄えがすること)
 3)それなりにバランスが取れていること
   (結果としてさほどバランスはよくなかったが)

      

 で、作ったのが、写真前列左から、
 *万願寺とうがらし 素揚げ 醤油・味醂・カツオだし和え
 *トリ血肝 照り煮 (真っ黒に見える)

 中列左から
 *キハダマグロ たたき さっと湯煎をしてわかりにくいが中央に大根おろし
  その上に、ミョウガ、オオバ、ネギ、カイワレを刻んだもの
  タレはポン酢をかける
 *ワカサギ南蛮漬け ワカサギ唐揚げと玉ねぎ 甘酢の他に隠し味でスダチ
  これは朝から仕込んでおいた すぐだと味がなじまない
 *自家製いもサラダ 
  全体の食感を良くするため、キュウリは塩もみをして柔らかくして入れる
 
 後列
 *カモのブラックペッパー燻製 スダチの絞り汁、カイワレ
  これは業務用食品店で買った既成品 そのままでは胡椒が効きすぎなので
  綺麗にそぎ落としてちょうどいいくらい
  距離の関係でカモの皿は小さく見えるがマグロとほぼ同じ大きさ

 ほとんど完食してくれて、残りものが出なかった。
 自分でも失敗作がなく、まあまあだったと思う。

 いつまでこんなことができるだろうか。
 料理というのは、材料の仕入れから下ごしらえ、作る手順、いかにロスを少なくするかなど、いうならば構想力を必要とする。特に料理人ではないから、たっぷり時間はかけられないから、当初の構想とそのチェック、実際に作る段の手順と手際が大切になる。
 
 構想のなかから形あるものを生み出すという点では、文章を綴るのとそんなに変わりないようにも思う。
 そうなると、料理ができる間というのは文章が書ける間と重なるのだろうか。
 願わくば、それが今しばらく続きますように。

 
 



 
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする