六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

「寒昴よき終焉を見届けて」 友人の句集から 

2020-02-29 01:40:11 | 書評

 永年の知己からその句集をいただいた。
 句歴が長いことを知っていたので、はじめてだというのは意外だったが、そのあとがきでいきさつを知ることができる。

      

 序文は彼の師ともいうべき黒田杏子さんが書いている。
 その中で黒田さんは、この作者と、いまや「プレバト」など、TVでの露出度が高い夏井いつきさんを門下中の双璧として挙げ、東大寺法華堂の日光菩薩、月光菩薩になぞらえている。
 で、そのうち日光菩薩が夏井さんで、この句集の作者は月光菩薩の方だというのが面白い。

 その序文の中で、黒田さんは15句を選び、その各々に思うところを書いてる。もちろん俳人としての専門家の眼差しによるものだ。なるほど、そのように読みとるのかと首肯する点が多い。

 一方の私はといえば、俳句の道には暗い。俳句の道にもというべきか。
 しかし、私の今池(名古屋)時代に培った関係により、作者の日常を多少は知る者として、たとえ岡目八目ではあれ、感想に近いものを記すことは許されるだろう。それらをページを追ってみてゆきたい。
 もちろん、評価などではなく、私の琴線に触れたかどうかの極めて主観的にして無責任なピックアップに過ぎない。したがってこれらは、先に触れた黒田さんの選とも、作者自身がその帯に載せている自薦とも異なる(もちろん、一部重複もある)。

 破芭蕉捨て犬の子も捨てらるる

 世襲を思わせて哀れでもあるが、捨てられてもなお健気に生きてほしいという願いも。

 寒昴よき終焉を見届けて
 
 これは黒田さんも高評価をしているようで、帯のまん中に据えている。黒田さんとはいささか異なるかもしれないが、私には最も胸に響く句である。

 歳月という冥き穴蝉の穴

 地中で過ごす蝉の歳月の比喩としてのわれらが歳月。

 坂町を昇りつめたる朝桜
 坂町のここが頂点春の月

 坂町の頂点という点で共通している。ところで、坂町の頂点というのは達成感のみならずその特異点としての寂寞さをも併せもつ場所ではあるまいか。

          

 天職の一生と想え石蕗(つわ)の花

 この句集の題名がよってきたる句である。
 自分の人生をある種の「本来性」のようなものから外れたものとして、疎外論的なルサンチマンに陥ることなく、「ウィ」といってひきうけるニーチェ的な生の絶対的肯定がみてとれる。

 音もなく軍靴集合雲の峰

 時事句を思わせる句だが、軍靴が、しかも音もなく集合するというただならぬ様子と、あっけらかんとした雲の峰の対比がいっそう不気味でもある。

 鰯雲天動説に親しみて

 これはいくぶんシニカルな句だと思う。いまや地動説は子供でも知っている。しかし、日常的なわたしたちの感覚は、陽が昇って沈み、星が運行し、雲が流れるなかに生きている。この相対性の面白さ。

 永く深き昭和の闇を鉦叩

 昭和に主軸をおいて生きてきた私のような人間にはグッと来る。昭和へのレクイエムは、同じすだく虫でも、やはり鉦叩のようにメロディのないリズムのみの音でなければならない。

 梅雨深し亡きマスターの蝶ネクタイ

 これはおそらく作者と私とが共通に知っていた人を偲んだ句であろう。蝶ネクタイがこのマスターの歩んだ清冽な人生をよく表していると思う。

 無言劇観て帰り道細き月

 実際の無言劇なのか、無言での人との出会いなのかはわからないが、その帰途に似つかわしいのは饒舌な満月ではなくやはり細い月でなければならない。

 佳き酒と永き平和と桐の花

 やはりこれでなくっちゃ。私が選んだ句はどうも訳ありっぽいものが多いが、これは素直に首肯できる。桐の花のもとでなくとも良いから、また作者と佳き酒など酌み交わしたいものだ。

 

 

 

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嗚呼! 地獄の長時間労働!

2020-02-28 11:37:22 | 日記

 
 

 学童保育で利益を上げているところなどなく、ほとんどがギリギリの体制でやっている。一番困るのは学校の休み。朝から迎え入れる体制をとらねばならぬ。
 常日頃、余剰人員などいないから、その期間のみバイトなどで凌ぐ。それも確保できないと、既存の体制で応じなければならない。とりわけ今回のように急な決定とあって、バイトは確保は困難だ。
 かくて学童保育に勤務するわが娘は、朝五時半にでかけ、夜中すぎに帰宅する日を強いいられることとなる。

 「学校は一斉に休め」というは易しい。しかし、その実施にはとんでもない事態を伴う。
 対応の後手後手を指摘された安倍首相は思いきった施策を打ち出したつもりでドヤ顔をしているが、その影で、「働き方改革」とは真逆の不眠不休労働を強いられる存在がいることをどう考えるのか。そのための施策はあるのか!

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ノーベル文学賞の栄枯盛衰 バール・バックの遺作を読む

2020-02-25 15:02:00 | 書評

 『終わりなき探求 The Eternal Wonder』 (パール・S・バック)がそれである。
 今の若い人たちには、パール・バックといってもピンとこないかもしれない。しかし、私の少年時代、読書好きの若者にとってはその作品(といってもその全てではないが)、とりわけ、1938年、私の生まれた年にノーベル文学賞をとった彼女の主著『大地』は、必読書扱いといっても過言ではないほどだった。
 四分冊ほどに分かれていた中国大陸を舞台とした四世代にわたるまさに大河小説を、高校生の私は貪るように読みふけった。

 しかし、まことに申しわけないが、六十数年前のその読書は、いまやその内容についての残滓すら記憶の中に残っていない。ただただ、ものすごい小説だったという漠然とした印象のみがかすかに残っている。
 そのくせ、昨年、習作的に書いた一二〇枚ほどの私自身の小説には、ちゃっかりとその小説を読んだ体験に触れているのだからたちが悪い。

       

 パール・バックが記憶の彼方に去っていった事情について言い訳をするならば、それは私の記憶から去ったのみならず、世間一般から忘れ去られていったという事情があると思う。いまや、彼女の作品を書店や図書館の書架で見かけることはない。

 そんな彼女の遺作に接する機会があった。岐阜県図書館の新著到着コーナーでそれを見つけたとき、当初は名前のよく似た人の別の作品だと思った。もっぱら、パール・バックで済ませていたその著作名が、パール・S・バックになっていたことにもよる。

 しかし、それを手にとり、その息子(養子)が書いた序文を読むに至って、間違いなくあの『大地』のパール・バックの遺作であることが確認でき、躊躇することなく借りてきた。
 その序文によれば、一九七三年に八〇歳で生涯を終えた彼女の晩年は経済的には破綻状態で、その遺物や遺構も、遺族がわからないほどに散逸したのだという。

          

 この遺作の原稿も、実に四〇年にわたって行方不明になっていて、数年前、やっと所在が明らかになって出版に至ったのだとのことだ。

 ネタバレにならないほどにその内容に触れると、母胎にあるうちから、すでにして自意識をもっていたような天才少年の自分探しのロード・ストーリーのような話である。
 彼女らしくそのスケールは大きく、アメリカの片田舎から始まり、ニューヨーク、イギリス、フランス、朝鮮戦争休戦下の韓国にも及ぶ。
 『大地』にみられるように中国へは足を踏み入れてはいないが、中国系やそれに関わりのある人物が登場し、それが全体の大きな要素となっている。

          

 当初の、SFではないかと思わせるようなシュールな描写は後半では影を潜め、ある種リアルな状況へと収まってゆく。むしろ、その現実への対応は、前半の彼の言動に比べると凡庸ですらあり、ひたすらその推移に流されるものでしかない。
 これを、幼き折、天才と呼ばれた者の辿る末路一般とみるか、それとも、パール・バックその人の想像力の衰退ないしは枯渇とみるか、その辺りは微妙なところである。

 私の評価では、小説全体が尻つぼまりな感があるのだが、主人公が遭遇する各エピソードにはとても面白いものがある。
 なお、最後に主人公が関わることが明言されている「混血」という問題、その権利の保証の問題は、著者、パール・バックもまた生涯関わり続けた問題であることをいい添えておこう。
 

 

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リニモ・川合玉堂のことなど・オオバンとの遭遇

2020-02-24 14:44:06 | よしなしごと

 ひょんなことで名古屋の日本画専門の美術館、「名都美術館」の入場券をいただいた。ありがたいことだ。とはいえ、岐阜のわが家からは公共交通機関を乗り継いで(乗り換え4回)2時間ほどを要する。
 どうしようかなと思っていたら、私の所属する会の例会が近日、その近くで行われることを思い出し、ならば下見を兼ねてと出かけることにした。

      

 名都美術館ははじめてではない。しかし、これまでは車だったので公共交通機関利用ははじめてで、しかも、名古屋市営地下鉄の終点・藤が丘からは、日本初のリニアモーターカーによる列車、通称「リニモ」の利用だ。
 これは2005年の愛知万博のひとつの目玉として開通したものだが、正式名称は「愛知高速交通東部丘陵線」というらしい。
「東部丘陵線」とはよく名付けたもので、私の若い頃、この一帯はまさにかつての丘陵地帯であり里山だった場所だ。いまはすっかり都市化されて、表通りには郊外型の店舗が建ち並び、その裏手は名古屋中心部へのベットタウンとして新興住宅やマンション、アパートがひしめいている。

      

 さて肝心の日本画展は、この間の特集として、「故郷から羽ばたく画家たち」と題し、愛知、岐阜、三重の東海三県出身の画家8名の作品を集めたものだった。
 それらの画家を列記すると、大橋翠石、川合玉堂、伊藤 小坡、前田青邨、島谷自然、守屋多々志、大森運夫、平川敏夫らである。

      
           名都美術館の石庭

 これらのうち、私が好きなのは川合玉堂である。とくに彼の風景画は、ひとを寄せ付けない峻厳な深山渓谷ではなく、庶民が往来する里山を描いたものが多く、澄み渡った清冽な空気の中にもどこか温かみがある。
 それらの絵の中にはそこを生業とする生活者が描かれていたり、あるいは一見風景そのものなかに、よく見ると、点描のように人物が描かれている場合が多いのも特色だ。それらの人物も、野良への行き来であったり、馬をひていたり、あるいは川辺である場合には魚を漁る者など、生活感を感じさせるものだ。

      

      

      
   これら玉堂の絵画は当日展示されていたものではありません。

 小ぶりな美術館だから時間も短くて済むし、疲れないのがいい。気に入った絵のところへ気軽に戻って見直したりも容易にできる。

 天候も良く暖かかったので、近日行く方向の確認を兼ねて辺りを散策。Siri に「杁ヶ池公園はどこですか」と訪ねたら、「ハイこちらです」と意外に近くを指し示す。ならばといってみる。
 池を中心とし、それを巡る公園である。
 思うに、かつて丘陵地帯であったこの辺りのそこかしこにあった田畑に、水を供給する農業用の溜池をうまく利用した公園ではなかろうか。

      

 かなり大きな池であり、この時期、花の気配はないが、あちこちの岸辺近くに何種類もの水鳥がたむろしている。オシドリ、マガモ、その他の水鳥は名前もよくわからない。
 そのうちに、水辺を歩く黒い鳥を発見した。当初はカラスかなと思ったが体型がふっくらしていて一回り大きい。その脚も水かきはないが大きく広がっている。
 何よりもの特徴は、そのくちばしから頭部にかけて白い筋が通っていることである。動物でいうなら白鼻芯(ハクビシン)といったところか。

   

 ときめきを覚える。生まれてはじめて遭遇する鳥だ。「黒い鳥」で検索してみる。いろいろな鳥が出てくるがどれも違う。そのうちにあった!紛れもなく、嘴から鼻筋が白く通った鳥・・・・オオバンとある。漢字は「大鷭」と書き、ツル目クイナ科とある。
 名前は聞いたことがあるが、どんな鳥かは知らなかったし、こんなところでひょいと出会うとは思いもしなかった。

      

 池を一周し終え、射す陽ざしが夕日の色彩をおび始める頃、帰途につく。ふと思い立って足を運んだのだが、リニアモーターカーに乗ったり、玉堂の世界に馴染んだり、思いがけずオオバンとの出会いを果たすなど、やはり犬も歩けば棒に当たるだ。
 この諺には二面性があって、でしゃばることへの戒めと、進んで行動することのメリットを指すようだが、今回の場合は明らかに後者だ。

      


オオバンの写真、私がスマホで撮ったものは限界があるので、それを確認するためにネットからのものを載せておきます。
 あ、リニモの写真も玉堂の絵画もネットからのものです。

 

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夢について & 「夢六話」完結

2020-02-22 01:01:10 | よしなしごと

          

《夢六話》というシリーズを五話まで書いてきてあと一つが残っている。
 これまで書いてきた夢は、もちろん省略などはあるが、基本的な要素は夢の内容に即して書いてきた。だいたい、夢を正確に記述するなんてことはとても難しい。
 
 フロイトによれば、夢は抑圧された願望(欲望)が、睡眠というその抑圧作用が弛緩した条件下で、表現されるものであるという。しかし、その抑圧作用は弛緩しているとはいえ完全に停止しているわけではないので、その願望は抑圧作用=検閲をスルーしやすいように多少姿を変えて(夢特有の言語)描き出されるという。

 だから夢の解釈は日常的な意味の範囲ではとてもわかりにくい。錯綜してたり飛躍があったりで、不合理で論理を超越している。
 だからその解釈には、夢専門の分析家がいるというのだが、いまもそれを専門にしている人がいるのだろうか。

 上に述べたことから、夢の記述の困難さは当然ともいえるが、加えていうならば、弛緩したとはいえ検閲を経て生み出された夢が、その記述にあたってさらに意識的かつ無意識的に二次検閲されてしまうということだろう。

 これらを前提にして、最終話の夢を記述してみよう。読まれる方は、夢の分析家になったつもりで解釈してほしい。

 ========================

       

 最終話だからいい夢を見たいなと、ウツラウツラしながら考えていた。
 すると、夢の神様というか、演出家というかそんなのが現れて、
「最初にお前の左手に触った者がお前の運命を左右する」
 と、予言めいたことをいって消えた。
 まだ半覚醒の状態だったので、それ自身が夢なのかどうかもわからなかった。実際のところ、それは以下の夢の序章をなすものであった。

 珍しく朝の目覚めはスッキリしていた。
 キッチンへいって定番のコーヒーを沸かし、マグカップに入れて部屋へ戻った。そのとき、何かがベッドの向こう側にサッと姿を隠したように思った。不審に思って、マグカップを持ったまま、そちらへ回ってみた。

 驚いたことに、そこには一人の女性が身を潜めていて、見つかったので観念したのか、私の手にすがりつくようにして、
「お願いです。助けて下さい。悪い奴に付け回され、とうとうここへ追い込まれてしまったんです」
 と、哀願した。女優の尾野真千子に似たキリッとした顔立ちの女性だった。
「悪い奴って・・・・」
 と、私は反芻するようにいった。
「本当にいるんです。凶悪な奴が、今頃この家の玄関あたりで見張っているはずです」

 彼女のいうことがにわかには信じ難かったが、一応、玄関に出てみることにした。〈凶悪〉と聞いたので、念のためキッチンから包丁を一本取り出して持っていった。
 玄関をあけると、それらしい凶暴なやつは見当たらず、たまたま通りかかった中年の女性が、会釈しながら軽く頭を下げたが、私の持っていた包丁に気づくと、サッと早足で去っていった。

                       

 部屋に帰っていった。
「怪しいやつなんていなかったよ。中年の女性がひとり通りかかっただけだ」
「それよ、その女性よ。腰のところをベルトで締める紺色のコートを着てたでしょう」
「そういわれればそんな服装だったが、別に凶暴そうでは・・・・」
「それがあの女の陰険なところなのよ。そんな風に見せておいて、ひとをずたずたにしたり、命まで奪おうとするのよ」

 状況がよくわからないまま立ちすくんでいると、家の周りがなんだか騒々しい。窓から覗くと、パトカーが複数台いて、盾を持った警察官もいる。
 ご近所で事件でもあったのかなと思っていたが、彼らの視線がわが家の方に集中しているのを見て動転した。
 いつの間にか警官隊に取り囲まれている!

 やがて、抑揚を抑えた無機質なアナウンスがスピーカー越しに聞こえた。
「この家にいる男性。ただちに人質を解放し、凶器を捨てて出てきなさい。繰り返します。この家に・・・・」
 え?え?え? この家にいる男性って私のこと? 私が人質を盾に閉じこもっている? と、と、とんでもない誤解だ。

 
  
 表へ出ていってちゃんと事態を説明しようと思った。
 玄関の扉をあけた。もちろん素手のままだ。
「違うんです。これは・・・・」
 と、いう隙もなく両側からとびかかった屈強な男たちによってその場にねじ伏せられてしまった。
「〇〇時〇〇分、容疑者の身柄確保!」
 と、いう声に促されるように、何人もの警官が家のなかへドカドカと殺到した。
 しばらくすると、それらの警官に囲まれるようにあの女性が出てきた。と、同時に、
「〇〇時〇〇分、人質の女性救出!」
 との声が。

 警官によって身柄を拘束されたままで、彼女に向かって叫んだ。
「どうか、今朝からの状況を警察に話してください! あなたを人質なんかにとっていないことを!」
 彼女は、キッとした表情で一瞬、私を見たが、無表情のままでそ警察が用意をした車両に乗り込んでしまった。
「これはなにかの間違いなんです。私は・・・・」
 と、訴えたが、
「詳しいことは署で聞こう」
 と、にべなく拒絶されるのだった。

 そのとき私は、今朝の状況をはっきりと思い出していた。「助けて下さい」と、彼女がすがりついたのは、私の左手だった。右手はマグカップでふさがっていたから・・・・。


 今回の最後の段落については、幾分、創作の要素を含みます。


                                                                     (「夢六話」より 其之六=最終話

 

 

 

 

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過日、岐阜県美術館にて

2020-02-18 17:37:19 | 日記

 講演を聴きに行く。「社会とアート」がテーマということで、昨年の「あいちトリエンナーレ」との関連でなにか勉強できればと思っていったのだが、あまり期待を満たすことはできなかった。
 旧知の人と出会ったが、とくに懐かしくもなかった。
 「円空大賞展」をやっていたがそれも観なかった。
 隣の県図書館へ移動して資料を探した。
 一冊返し、一冊を借りる。
 借りている分はこれで合計三冊。
 写真はいずれも県美術館でのもの。

     

  

 

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日曜日の日記 三題

2020-02-17 13:44:08 | 日記

【紅梅】
 亡父の残した紅梅の小鉢が今年も花をつけた。2,3年前、花の付きが悪くなってきたので、やはり木の寿命化(推定樹齢四〇年以上)かなと思っていたら、昨年は旺盛に花をつけ、実もたくさんなった。それで、梅酒ならぬ紅梅のウィスキー漬けを作ったがまだ味わってはいない。
 今年はどうやら、あまり花の付きが良くないようだ。

 

【地域の文化祭】
 毎年行われる学区の文化祭である。公民館などでサークルに参加している人などが、各種作品を出品する。
 音楽の催しや、カラオケ大会などもある。
 私は写真に参加。賞の選別や賞品なども一切ない。
 今年の私の作品は竹やぶに射し込む二条の光。


【おでん】
 かつて、大阪の老舗おでん屋にいた板場から、おでんのコツはつゆを濁らせないことだと聞いた。そのためには仕込みの段階ではともかく、下ごしらえ(大根の湯がき、こんにゃくのアク取り、はんぺんや厚揚げの油抜き)が終わって、最終的に出汁に漬けて以降は決して沸騰させず、低温でじっくりなじませることだと教わった。
 以来、それを守って作っている。

 

 

 

 

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街なかの公園で鮭弁を食べる人

2020-02-16 14:00:43 | 日記

 街なかのほぼ正方形をした小公園は、かつてはしもた屋造りの家屋に囲まれ、近くの長屋からは鼻垂れ小僧や少女が三輪車など漕いで遊びに来る場所だったが、時の移ろいに従い、四方にマンションなどが建ち並び、今やまるで四角い井戸の底のようになってしまった。
 訪れる子どもたちもいない。

 それでも、申しわけ程度に数本の桜が並んでいて、一角には立派な銀杏の木がそびえていた。その対角線には花壇とおぼしきスペースもあり、夏には真っ赤なカンナが咲いたりした。

 しかしこの時期、そのカンナも桜も静まり返り、銀杏の黄葉もとっくに過ぎ去って、なんの色気もない空間がむき出しになっていた。
 かつては、ここを囲むようにマサキかなんかの常緑樹の生け垣が張り巡らされていたのだが、防犯上の理由とかで、そのすべてが撤去され、のっぺらぼうな空間がむき出しになったままだ。

 私は幼馴染ともいえるような古い付き合いの女性とベンチに座り、ある相談をしていたのだった。その相談の内容はというと、彼女とは別の女性と私との間のことで、この幼馴染には何でも相談できるという甘えもあって、かなり際どい立ち入った話もしていた。

 しかし、事態は思いがけず微妙に変化しはじめていた。
 というのは、話している途中でその問題自体がどんどん背景に退き、それを語る私の言葉も空疎になったまま、隣りにいる幼馴染が気になり始めたのだった。当然のこととしてぴったりくっついているわけはないのだが、そこはかとなく彼女の体温のようなものが感じられ、急にそれが艶かしく魅惑的に思われてきたのだった。

 相談内容はとっくに宙に飛んでしまって、幼馴染の体温のようなものをより感得したいものだと、1mmでも彼女に近づけないかと希求する私と、それだけはしてはならないと止める私とに引き裂かれた私がいた。
 私の視線は定まらないままにあちこち泳いでいたのだと思う。その視線に、ちょっと離れたベンチこに座っている人の姿が入るやいなや、私は弾かれたように立ち上がっていた。

 そこにいたのは、幼馴染の女性の連れ合いだったからだ。もちろん私とは顔なじみである。
 つい先刻まで、私を捕らえていた気持ちを知ってか知らずか、あるいは私たちがいたことに気づいていたのかどうかもわからない彼は、ベンチでサケ弁当を食べていた。
 鮭の切り身の赤さがなぜか鮮明で、これは紅鮭を使った上等な弁当だなと検討をつけた。

 「こんにちは。お食事中すみません」
 と、そちらへ駆け寄って声をかけた。
 「あれ、どうしたのですか?こんなところで?」
 と、彼は一見、無邪気そうに笑ってみせた。しかし、何もかも見通した上での対応かもしれないと思い、正直に相談の内容も含めて話したほうがいいと判断した。

 「じつはですね、あそこであなたの・・・・」
 と、さっきまで座っていたベンチの方を振り返って驚いた。幼馴染の姿が消えていたのだ。生け垣もなにもないこののっぺらぼうの場所からどうやってその身を隠したのだろうか。
 
 「いや、その、じつはですね・・・・」
 と、改めて彼の方を見て再び驚いた。彼もまた綺麗サッパリ消えていたのだ。しかし、彼を見たのは幻視ではない。その証拠に、ベンチの上には確かに食べかけのあの紅鮭を用いたサケ弁が残っていたのだから。

 マンションに囲まれた四角い空を見上げた。白い月がぼんやりと所在なげにそこにあった。
 ゴォと風が鳴って、銀杏の枝を揺らし、どこかに残っていた黄色い葉が一枚だけ、ハラハラと風と戯れていた。

                   (「夢六話」より 其之五

 

 https://www.youtube.com/watch?v=3Z6exFSma0I

 https://www.youtube.com/watch?v=KxrmdZyfOnI

 https://www.youtube.com/watch?v=I2zQGpdcpQg

 

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虹色ピアノのコンサート 「K11」&「クレオパトラの夢」

2020-02-11 01:48:14 | よしなしごと

 ハッと目覚めたときには楽曲が終わったところだった。というか、斜め前のオジさんが「ブラボー!」と叫ぶ声で目覚めたのだった。
 イビキでもかいていなかったろうかと気になって隣の席などを窺ったが、終わった楽曲に対しての拍手にみなが懸命でよくわからない。

 ピアニストは若い男性であるが、ユジャ・ワンなみの深いスリットのはいった柿色のドレス姿で、両性具有の妖しい魅力を振りまいていた。
 好きなシューマンの「幻想曲」をちゃんと聴くことができなかったのは悔しいが、自業自得と悟り、拍手に加わるのであった。

 例によって、2,3度楽屋との往復があって、アンコールが始まろうとしていた。
 そのとき、奇妙なことに気づいた。ピアノが青色に、正確に言うとマリー・ローランサン風のパステルカラーのブルーに見えるのだ。照明の加減かと思ったがそんなことはない。白いピアノならいざしらず、黒いピアノが照明であんな色を放つことは決してないはずだ。
 
 曲が始まった。
 モーツァルトだ。「ロンドイ短調 K11」。
 小品だが、彼の天才ぶりがわかるような名曲だ。 
 https://www.youtube.com/watch?v=BV6oyyC4jwA
 ロンドイ短調 K11 【広告はスキップして下さい】

 これを聴いただけで居眠りをした分が取り返せたように思った。
 しかし、拍手は鳴り止まず、さらにアンコールは続くようだった。
 彼は、そのスリットの切れ目から、白い脚をのぞかせてピアノの前で居住まいを正した。

 そのとき、私はまたもや奇異な感に因われていた。
 今度はピアノがやはりパステルカラーの紅色に輝いているのだ。
 「レインボウ・ピアノ」そんな言葉が頭をかすめた。

 アンコール2曲目の演奏が始まった。ン?これは? それは普通、クラシックのコンサートで演奏されるものとはいささか異色であった。
 ジャズの名曲、バド・パウエルの「クレオパトラの夢」が鳴り響いたたのだ。

 https://www.youtube.com/watch?v=AHYEviiwfUU&list=PLRa5LDsUgugZkj7-zzp_NbR-Pl3_zco10
 バド・パウエル「クレオパトラの夢」 秋吉敏子バージョン

 レインボーピアノと異色のアンコール曲、それらと距離を置こうと目を閉じた。ちょっと居眠りをしていた間に、異次元の世界へと紛れ込んだのかもしれない。そう思った。
 閉じたまなこの裏に、さみしげな田舎道がゆらゆらと地平線の彼方まで続いていた。誰かが耳元で囁いていた。
 「お前はあの道を行かねばならない」
 「どこまで?」
 「お前の行くという行為がその行き先を指し示すはずだ」

 田舎道を行く人の背中が揺れながら進んでいた。それが私なのか、それとも別の誰かなのかわからなかったし、それはもうどうでもいいことだった。
 斜め前のオジさんが「ブラボー!」と叫び、拍手の渦が巻き起こっていた。アンコールの2曲目が終わったようだ。
 しかし、今度はもう目を開けまいと思った。

                   (「夢六話」より 其之四

*シューマン 幻想曲 ハ長調 op.17  
 https://www.youtube.com/watch?v=oKv-gRyQVo8

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満月の夜、〈人々〉がやってくる

2020-02-08 17:11:35 | よしなしごと

 

 「まもなく満月がやってくる」
 と、長老はいった。
 「そしてまた、〈人々〉がやってくるだろう」
 洞窟の中に動揺が走った。なかには「ヒッ」と怯えた声を漏らす者もいた。
 〈人々〉は満月とともにやってきて、わが同族を狩ってゆく。

 「彼らは言葉をもっている」
 と、長老はいった。
「しかもその言葉は、わしらのものよりはるかに豊かだ。シラブルを自在に組み合わせ、たくさんの意味をそれに乗せることができる」
 
 長老はしばらくの沈黙の後、ひとつため息をついて言葉を続けた。
「わしらも彼らの言葉に近いものをもっている。しかし、それは短いシラブルの単発に過ぎない。例えば狩りのときもそうだ。わしらは『危ない!』、『逃げろ!』と鳴き交わすのが精一杯だ。
 ところが、〈人々〉ときたら、『奴らは丘の茂みへ逃げるつもりだ。一隊は先回りをしてその行く手を断て!他の者たちは三方から取り囲むようにして奴らを追い込め!』などと話すことができる」

 〈人々〉のそうした言葉を聞きながらも、かろうじて逃げることができた者たちが無言で頷く。
 長老はさらに続ける。
「わしらは戦わないように定められている。また、話すことによって事柄を正しく伝えたり、あるいは捻じ曲げて伝えることも許されてはいない。しかしだ・・・・」
 
 みなが、ピクンと改めて長老の方を注視した。なにか重要なことを伝えようとする決意が感じられたからだ。
「しかしだ、いつの日にかわしらも戦わねばならぬかもしれない。そして、そのためには、〈人々〉のように言葉を習得しなければならないだろう。でも、これは肝に銘じておいたほうがいい。言葉をもち、戦うことはわしらを強くするかもしれぬ。しかし一方、それは堕天使のようにわしらがどこまでも堕ちてゆくことにもなるのだ」

 自分たちが言葉をもち、戦っていることをリアルには想像できかねていると、それを察したかのように長老がいった。
「そう、もしそうなるとしてもズーッと先の話だ。いずれにしても、まずは次の満月を生き延びねばならない。わしらが絶滅してしまわないためにもだ」
 
 〈人々〉がやってきて、わが同族を捕らえ、その皮を剥ぐさまを想像し、みながブルブルッと身体を震わせた。
 満月が迫っていた。

                   (「夢六話」より 其之参

 

https://www.youtube.com/watch?v=Ccl_3I5Q91A
ヤナーチェク:狂詩曲「タラス・ブーリバ」よりタラス・ブーリバの予言と死, ノイマン指揮 チェコ・フィルハーモニー管弦楽団


 

 

 

 


 
 

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