六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

薄ら鉄ちゃんとベルリン駅など  八五歳ヨーロッパ一人旅

2024-07-31 16:29:45 | 旅行

 ベルリン最終日を迎える前に、ちょっと寄り道をしてみたい。といいうのは、私はとても中途半端ながらいわゆる鉄ちゃんの端くれであることを自認しているからだ。鉄ちゃんにも、乗り鉄、撮り鉄 などいろいろあるが、私はどの面でも中途半端で人に披露できるようなうんちくもない。だからただ出会った鉄道関連についてこれはと思うことを話すこと、あるいはめたらやったら撮った写真を披露すること、そんな芸しかない。

 今回のそれは、ベルリン中央駅をめぐる話とそこへと出入りする列車の写真だ。ただし、ベルリン中央駅は、ある種の特殊性を持っている。
 ヨーロッパの大都市の駅と言えば、地図上で見るとまるでほうきや熊手のように 各地から集中する路線が広がっているものが多い。日本ではあまりない駅の形状であるが、強いて日本で似た形状の駅を探すなら東京の上野駅が関東各地、東北信越などの線を集めてそんな形状をしている。

      

 ここに載せたのはパリ北駅の地図であるが(かつてロンドンのセントパンクラス駅からドーバー海峡をくぐってここへ着いたことがある)、ヨーロッパ大都市の駅は大抵こんな様相をしている。

      

      

     
                                                  中央駅モニュメントの彫刻

 で、ベルリン中央駅の特色はというと、こうしたほうき状の広がりを全くもっていないとうことである。では、各都市のそれのように多数の路線が入り込んではいないのかというとそんなことはない。私がよく利用した近郊線のほか、ドイツ各都市との路線、ヨーロッパ各地とのインターシティ路線など多くの線がここに集中している。

      
      
                     
 この駅では、それらの路線をどうさばいているのか。平面で捌けばほうき状になるのだが、ここではそれを立体的にさばいているのだ。駅の内部は5層ほどに分かれていて、各層に4路線から6路線の列車軌道がある。だからそれらを総計すると約30近い軌道がこの駅内にはあるわけだ。
      
      


 私がホテルから市の中心部へ出るためによく利用した近郊線は最上階であったが、その階の別のホームからは他国の都市への列車が発着していた。後日、私は この駅からライプツィヒへ向かうのだが、その列車は最も下の階からの発着であった。また逆にライプチヒからこのベルリン中央駅に戻り、ポーランドのワルシャワへ向かったときには、一番下の階へ到着した 列車から、エレベーターやエスカレーターを使い、最上階へ向かい、そこからワルシャワ行きに乗ったのであった。

     

     
     
     


 この立体的な様相こそがベルリン中央駅を特徴づけるものである。なお地下鉄は 一番下の階からではなく、5層ほどに分かれた駅の中間位に位置していた。

     

     
     
     
 この最後の写真は中央駅のひとつ東のベルリン フリードリッヒシュトラーセ駅で中央
 駅に次ぐ大きさ かつての東側の中心地に近く、私もここから地下鉄などを利用した。

 列車の写真はとランダムに撮したものだが、特色といえば自転車専用車両があり、その関係か駅構内に自転車を数多く見かけたことである。
 なお、黄色いトラムが写っているが、これらトラムは旧東地域に見られるもので、いわゆる西ベルリンでは見かけることはない。
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大聖堂と美術・博物館地域の散策 八五歳ヨーロッパ一人旅

2024-07-30 16:35:07 | 旅行

 登るまでにどれくらい待つかわからないTV塔でグズグズしている余裕はない。朝方歩いた方面へ少し戻るようにベルリン大聖堂最寄りの地下鉄駅で降りる。地上にに出るとそこは広場で、 左手には目的の大聖堂、そして右手には15世紀に建造された王宮で現在は博物館・美術館として運用しているフンボルトフォーラムのどんとした威容、そしてその間には、先程、登るのを諦めたTV塔がすっくと立っている。あの麓で、先程あった大嵐もどきは一体何だったかの風情だ。

        

     

 大聖堂に向かう。ここは比較的近年建て替えられた(といっても100年以上前だが)とはいえ、緑青の3つのドームを備えた貫禄ある教会である。
 中へ入る。教会特有の荘厳な雰囲気は、私のような無信仰の観光客が多いにもかかわらず、さして失われることはない。それだけ壮大な規模を誇るのだ。

      

          

 私は此の旅で、この他にライプチヒで2箇所、ワルシャワで1箇所と全部で4つの教会へ入ったが、 ワルシャワのそれを除いてはすべてプロテスタントの教会であった。さすがドイツは宗教改革の地である。しかしそれとは関係なく、この4つの教会のうち最も祭壇が華美で光り輝いていたのがこのベルリン大聖堂であった。この事実は、この教会が代々プロイセン王の墓所であったことと関連するのかもしれない。

      

          

 教会を出て驚いた。その出口がまさに教会裏のレストランになっていたからである。このレストランを通らずに教会から出ることができない。まさに聖と俗とが共存しているかのような様相である。しかもこのレストランは、教会裏を流れる運河を見下ろす位置にあって、その運河をひっきりなしに観光船が往来するという賑やかさである。教会の正面と裏、その対比の鮮やかさにいささか驚いた。

      

     

 大聖堂の周辺には、先程のフンボルトフォーラムを始めとする数々の美術館博物館あるいは歴史資料館などがひしめき合うように存在している。この辺り一帯が美術博物館地帯と呼ばれるのもむべなるからである。
 しかしそのどれにも入らない。観光地での美術館博物館の見学は、労多くしてその成果が少ないことを知っているからだ。
      

     


 ロンドンに行った折の大英博物館が そうだった。あまりにも多くのものを見すぎて、かえって何も覚えていない。唯一あのロゼッタストーンがあったといのう事実は覚えている。加えて、日本のどのようなものを展示しているのかを見ようと思ったのが、折悪しく東洋部門は工事中 のため入場不可であった。
 パリのルーブルもそうであった。ミロのヴィーナスとモナ・リザ周辺は押し寄せる群衆と騒然とした雰囲気で、なんでこんなところに自分がいるのかわからなくなりそうだった。

      

                     


 しかし、例外もある。ロンドンの近現代美術館、テート・ブリテンへ行った際には、ちょうど「ピカソ・1937展」を行っていたので、特別料金は要ったが、他は目もくれずそれだけを観た。ピカソの油の乗り切った時期、これほどまとめて彼の絵を観たのは始めてだった。しかもなんと、青の時代の絵画数点も参考として展示されていたのだった。
 それらを観たあと、テート最上階のテームズ川を見下ろす窓際のレストランで、川面を行き交う船を眺めて飲んだビールは美味かった。
 パリでも、ルーブルに比べ、オルセーの方が観やすかった。印象派を中心にした展示も集中して見やすかったのかも知れない。

      

 そんな事もあって、このベルリンの美術館・博物館の集中地域でも、中の展示物はともかく、それらの建造物そのものの外観を楽しむにとどめたのであった。

      

 この辺は、フラフラ歩いていても結構楽しい。運河の水辺があり、広場があり、草っぱらがあり、木立もあってそれらのあちこちに歴史的建造物が独自の様相をもって建っている、40度近い日本から来た身にはほぼ5月頃の快適な散策であった。
 

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方向違いへ歩いてしまったが・・・・八五歳ヨーロッパ一人旅

2024-07-29 14:33:22 | フォトエッセイ
    
 さて、ベルリン2日目、ここからはほんとうの 単独行動。まずはベルリンのランドマークともいうべきブランデンブルグ門を目指した。郊外電車と地下鉄で無事目的地に到着。 しかしである、何やら工事中もしくは特殊な行事が行われるとみえて、門に接近することもそれをくぐり抜けることもできない。人を近寄らせないために張り巡らされたフェンスの外側から写真を撮るのみ。

      
      
 
 仕方がないので、門に背を向けて、 ポッタム広場を目指して南下する。 これは この日の行動として設定した所定のコースである。 ただ当初の思惑と異なったのはせいぜい数百メートルだろうと思ったその距離がおそらく1キロ以上あったことである。もともと軟弱な足腰を抱えての歩行、初めから大変な負担である。
 そういえばなんだか周りの風景も予想とは異なる。そこでやっとわかった。南下し続けていると思ったのは間違いで、私はひたすら東へ向かっていたのだ。
 
     
                道路の途中で

 しかし、 間違えたとはいえまったくの無駄足ではなかった。というのはこちらもまた私の訪問リストに入っている箇所だったからだ。ポツダム広場を目指していた私はいわゆるベーベル広場へと向けってたわけだが、ここには貫禄充分なフリードリヒ大王の騎馬像があり、その周辺に貫禄ある歴史的建造物がひしめいていいる。

      

 なおこの大王の晩年、彼は表敬訪問したバッハに一つの主題を与えそれによる曲を求めた。それに応じたバッハの曲が『音楽の捧げ物』(BWV 1079)で、この音楽はバッハのものではもっとも繊細な響きをもつもので、私の好きな曲である。
 https://www.youtube.com/watch?v=lNsaR9ui6IU
 おっと、先回りしすぎた。バッハはライプチヒで出会うはずなのだ。

 ベーベル広場で記憶すべくは、ナチスの支配時代、彼らが不適切と断じたあらゆる書物がここで焼かれたということである。1933年、ナチスが権力をとるや、そのお先棒を担いだ学生たちにより、反ドイツ=反ナチス書物の焼却が図られ、国民啓蒙・宣伝大臣のヨーゼフ・ゲッベルスの演説のあと、ユダヤ人著者やユダヤ系の書物、ナチズム批判の書物、性的に不可とされたものなど、いわゆる退廃文化書物、合わせて25,000冊がここで焼かれたという。

      

 そんな忌まわしい箇所ではあるが、私が 識別して撮影してきた建造物等を紹介しよう。まずは、貫禄豊かなフンボルト大学である。この大学について、 詳細に上ったつついたらキリがないからそれは各自の検索に任せるが、いかにも伝統を思わせるいでたちであることは間違いない。
 
      

 ついでその反対側にある ベルリン国立会議場歌劇場の存在である。現在何を上演しているのかを確認することはできなかったが、その威容を映像にとらえることができた。

      

 そのすぐ隣にある建造物も何やら歴史的な趣があるし、何かその前にステージを作りパフォーマンス会場を作るかのような感じがあったので 写真に撮ってきたが、これは公の建物ではなくホテル・デ・ローマと言う老舗のホテルであった。

      
     この写真の右端に、次に向かおうとしたベルリンテレビ塔が写っている

 いまひとつ、何かはよくわからなかったが、おそらく伝統的な建造物だろうと思ってカメラに収めたらそれは ドイツ歴史博物館であった。

          

 この辺でウロウロしていたら、なんだか 一天にわかにかき乱れ、今にも降り出しそうな怪しげな天気になってきた。どうしよう。ここから見えるのだが、ベルリンテレビ塔というのがある。 要するにスカイツリーや、テレビ塔に類する建物である。そこへ行こうと思ったが、空模様がだんだん怪しくなってくる。そこで地下鉄へ飛び込んでテレビ塔最寄りの駅へ行くことにする。

 到着して地上へ出てみると、激しい嵐のような雨降りである。 傘をさしても歩行が困難なほどである。そこで駅の構内に留まりしばらく様子を見ることにする。ヨーロッパの天候は変わりやすいのだろうか。あんなに激しかった雨がすーっと嘘のように上がって しまった。私のプランは、このタワーの展望台へと昇って、ベルリン全体の市街を見渡すことであった。
 
 そこでタワーの入り口近くにいた管理人にどのようにしたら入場できるのかを尋ねる。すると彼は、もちろん入場は可能だが、今日は遠足による予約がたくさん入っているので、 それを優先するため、一般の入場者はかなりの時間待つ必要があるとのことであった。たしかに、遠足と思われる子どもたちで入口周辺は溢れている。
 のんびり待っている時間的余裕はない。諦めて別の箇所へ向かった。
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ベルリン到着・ホテル周辺 八五歳ヨーロッパ一人旅

2024-07-28 02:25:16 | 写真とおしゃべり
 最初の目的地はベルリンで到着は昼過ぎだった。もちろん始めての地だ。しかし、全く不安はなかった。 というのは、全くありがたいことに、後日訪問することになっているライプチヒ在住のK氏がわざわざ2時間以上かけて私を空港で出迎えてくれたからである。
     
 氏の 案内でベルリン中央駅方面への郊外電車に乗る。私のホテルに近い駅は、中央駅から4つ手前の駅である。そこで降りる。 やや早いが、重い荷物を持ってウロウロするのもと思い、 そこから10分ほど歩いたところのホテルにまずチェックインをする。

       

 そこからまた駅の方へ戻り、駅周辺の小公園を取り巻くようにしてあるレストランの一軒に入る。K氏はかつてこの辺に縁があって土地勘があるようで 、その周辺では老舗せといわれたレストランである。

       

 そこで、 前菜盛り合わせとペペロンチーノなどをほおばりながら、K氏から明日からの2日間、回るべきベルリンの各地についてのレクチャーを受ける。
 それにしてもベルリンは大都市、要点を押さえるのも容易ではない。 でもこうして来た以上、できるだけこれといったところを見ておきたい。不安の中にも期待は広がる。
         

 ライプツィヒへ帰るK氏と別れて、ホテルへとって返す。ホテル周辺の地理やありようを掌握しておきたい。K 私にいわせれば、かつては銀座通りに続くような繁華街だったということだが、確かに大きな通りにはそんな雰囲気があるが 、少し離れると同時に場末っぽい雰囲気もあるというちょっと面白い街だ。

      
 
 駅からホテルまでの10分ほどの間に、本屋が三軒もあり、それぞれがちゃんと生きているというのはとても好ましく思われた。

     
 いよいよ明日からがまさに一人旅の始まりである。ホテル周辺を散歩した後、明日行くべきベルリンの街の概要について下調べをする。
 
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東側への興味とK氏のお力添えで 八五歳ヨーロッパ一人旅

2024-07-26 16:55:25 | 写真とおしゃべり

 7月上旬から10日間ほど、ヨーロッパを旅してきた。85歳にしてツアーでもない一人旅、しかもその語学力たるや中学生にも及ばないカタコトの英語、無理な試みであることは自分にもわかっていた。しかし逆に、今なら行けるかも知れないし、今行かなければもう行けないとの思いもあった。

 帰途、最後に乗るはずの飛行機が遅れ、一日遅れの遠回りというアクシデントがあったが、なんとか無事戻れた。
 
 戻った途端に事前に予定されていた連日の予定(そのうちのひとつは反ガザ虐殺の抗議デモ)などもあり、それらをタフにこなしているとひとにも言われ、自分でも調子に乗っていたが、さらに自宅のエアコンがぶっ壊れるなどの騒ぎがあり、それらと対応しているうちにやはり疲れがドッと押し寄せ、ここ一両日、ぐったりしていた。

     

 しかし、せっかくの旅、自分でも記録しておきたいし、知己の方々へもお知らせもしたい。にもかかわらず、グズグズしていると記憶はどんどん曖昧になり、その折の感慨も薄れてしまう。だから、そろそろ書き始めることとする。

 二つの動機があった。その一つは私の少年期後半から青年期に興味をもったロシア革命とソヴィエト連盟の成立、そして1945年第二次大戦後の東欧圏を統合したいわゆる東側の成立、さらには、1980年代後半に始まるその崩壊の歴史、その後の変遷を見届けることにあった。とはいえ、別に専門家風の突っ込んだ「研究」とは無縁な「見物」にすぎない。
 
 その意味では過去、2005年のハンガリー、スロベニア、そして2019年のサンクトペテルブルグを経験済みである。

         

 今回のベルリン、ライプチヒ、ワルシャワもそれと関連する。ベルリンはまさに象徴的な境界線の都市だったし、ライプチヒとワルシャワは東側の都市であった。

 しかし、私のそんな個人的な思いを上回って、この旅を実現させてくれたのは、わが畏友K氏の存在だった。彼は私と同郷の岐阜県人だが、知り合ったのは名古屋で私が居酒屋を営んでいた折であった。
 彼は当時、河合塾の講師をしていたが、同時に哲学や精神病理学の研究に邁進し、それらの成果が評価され、1984年にはベルリン自由大学客員研究員として渡独した。それ以後の彼の活躍ぶりは以下を参照されたい。 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%9E%97%E6%95%8F%E6%98%8E

     

 ようするにその彼が、最終的にはライプチヒ大学の東アジア研究所日本学科教授を務め、退官後もライプチヒに定住しているのであるが、何かの拍子に帰郷した折など、旧知の友人たちが集い、彼を中心に会をもつのがしきたりとなり、私も何度かそこで彼との旧交を温めた。

 2010年代の後半のそんな機会、私は東欧圏へのそんな興味を話したところ、「それなら案内するからおいでよ」と彼がいってくれて、俄然それが現実味を帯びてきた。私は即座にそれを決意し、彼との間にその実現を煮詰めてゆくこととなった。

     

 ところがである、ちょうどその頃からあの憎っくきCOVID-19が、地球規模でのさばり始めたのである。せっかくの私の旅はこうして数年の遅延を余儀なくされた。
 しかもその数年、80歳から85歳の数年は、私の足腰の機能を劣化させるに十分な期間であった。

 しかし、そんな私がなんとかそのハンディを押し切って、ほぼ予定通りにこの旅を実現し得たのは、繰り返すが計画段階からのK氏の身を呈しての援助の賜である。
 彼の住む、ライプチヒでの歓待は無論のこと、初日のベルリン空港までの出迎えと私が泊まるベルリンのホテルまでの案内、ベルリンでの私の行き先についてのレクチャーなどなどを始め、旅行中は終始、彼とのLINEを通じてのTV電話のやり取りなどが、私の水先案内を努めてくれたのであった。

     

 そんなわけで、彼なくしてはこの度の旅は語れないのだが、それに痛く感謝しつつ、以下それらの内容を紹介してゆきたい。
 また、このK氏との具体的な交流も述べてゆきたい。

写真はいずれもセントレア空港からヘルシンキ空港経由で行ったため、その途中ヘルシンキ空港でのもの。

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私のこの三日間の19時前後

2024-07-22 01:32:38 | よしなしごと

 ベルリン、ライプチヒ、ワルシャワの旅を終えて3日目になるが、それについての記事を書く暇がない。
 
 本当は18日に帰国できるはずが、ヨーロッパでの飛行機の乗り継ぎにアクシデントがあって、不本意ながら乗り継ぎ空港のヘルシンキに一泊させられ、成田経由での帰国となった。もちろん、その一泊や遠回りの航空機代は向こうの負担。
 荷物などが本当に成田経由で届くのだろうかという不安を抱えながらあまり楽しくはない一泊。

         

 そんなこともあって、19日に成田着でその夕方の便でセントレアに。19時前後はJALの機上。そして、暮れなぞんだ雲の上に富士の姿を捉える。
 岐阜の自宅へ着いたのは、10時過ぎ。

 翌20日は、所属する同人誌の集まり。18日に帰って19日に予習というプランがくるったままの参加。しかし、なんとか同人諸氏の話について行けた。
 ついでながら、久しぶりの和食。和食というのはやはり繊細な料理であることを見た目と舌で確認。写真はなし。

           

      

 21日は名古屋で若い人たちとの読書会。これも準備不足だったがなんとかついて行けた(かな?)。読書会を終えた夕方から、「反パレスチナ虐殺」の集会とデモに参加。
 デモの行程は2キロほど。さすがに最後の方はメロメロ。でも、やはり一度は意思表示をしておきたかったデモだったので、気持ちの上では満足。

      

 デモのあと、有志6人ほどで慰労会。私の知らない分野の話がどんどん出てきて楽しい。一部の話には私もついて行くことができ、つたない意見を述べたりする。
 こうして、帰国後の3日間は過ぎていった。

 ヨーロッパで撮りためてきた写真はいっぱいあって、それをもとにいろいろ書きたいのだが、それはまた時間を追ってということで・・・・。

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85歳の一人旅 ベルリン・ライプチッヒ・ワルシャワ

2024-07-07 01:04:10 | 旅行

 突然ですが、この8日から18日の間、ベルリン、ライプチヒ、ワルシャワへと旅に出ます。

 ドイツ語で知っているのは、「ダンケ」と「ビッテ」と「ハイル・ヒトラー」ぐらいですがなんとかなるでしょう。

 ポーランド語は、「アンジェ・ワイダ」「ワレサ」「フレデリック・ショパン」という固有名詞しか知りません。

 でもまあ、地球は丸いから、変な飛行物体に乗らない限りその外へ出てしまうことはないでしょう。

 野垂れ死にの可能性はありますが望むところ。曰く、「人間(じんかん)到る処青山有り」です。

          

 などと粋がっていますが、内心は不安で一杯です。なにせこの歳で言葉もわからないま初めてのところへ行くのですから。
 ただし、ドイツ国内については安心しています。なぜなら、今回の旅の一つの目的は、ライプチッヒ在住の旧友に逢いにゆく旅だからです。

 もちろん、彼とはあらかじめ連絡が取れていて、LINEでの通話も可能ですから心強い限りです。もちろん頼りっきりではなく、自分でも努力をしていますよ。旅行社がとってくれたホテルを地図で確認し、周りの様子も確認し、迷子にならないようにしています。

 例えば、ベルリンのホテルの近くの飲食店もチェックしました。市の中心部ではないのですが、驚いたのはホテルから徒歩で行ける範囲に寿司屋が2軒もあります。そのうち、一軒は高級、一軒は手頃とありますが、いずれにしてもドイツへ行ってわざわざ寿司はないでしょう。

 その他はトルコ料理一軒、イタメシ屋一軒、ドイツ料理一軒でいずれもお手頃とあります。やはり郷に入ればでドイツ料理でしょうが、それが駄目だったらイタメシ屋でワインとパスタで済ますつもりです。

 さっぱりわからないのがワルシャワ。ホテルは中央駅近くの一等地ですが、周りの状況がよくわかりません。でもいいのです。ここは旧市街近く、トラムか地下鉄で出かけてこの目で確かめて入店すればいいのです。

 ホテルの近くである必要は全くありません。なんと、ポーランドは、列車も地下鉄もトラムもすべて七〇歳以上は無料なのです。外国人でもパスポートさえ見せればOKです。あ

 ですから、ワルシャワは行きあたりばったりを楽しんできます。絵葉書で見たような景色を確かめに行っても面白くないでしょう。交通費無料はとてもいいのです。間違えてとんでもないところへ行っても、そこの景色を楽しんでまた帰ってくればいいだけなのですから。

 ということで行ってまいります。私の技量で現地からレポートできれば致します。

 
 

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清流長良川の鮎についての物語

2024-07-06 00:59:31 | 社会評論

先日見たTVの釣り番組で長良川鮎釣りをやっていた。ここの鮎は湖産ではなく海産だからいいと言っていた。
どういうことかというと、琵琶湖産の稚鮎を放流したものではなく、中流域などでの産卵によって生まれ稚魚が、一旦海に下り、遡上してきた純天然鮎だというのだ。
これは地元民にとっては嬉しい話だが、その実情を私は知っている!最上流部にまでダムのない長良川ではたしかにその可能性はあり、一部、海産のものもいるだろう。
しかしである、それを阻むグロテスクな産物がデンとして存在するのだ。曰く、長良川河口堰!長良川河口付近でその流れを完全に止めてる。

    

ここで遡上魚のほとんどが阻止される。当局は遡上魚のための魚道をその脇に設置しているというが、幅660mの堰の端に設けられた何mかの魚道に遡上魚が来る確率は極めて低い。
私はその魚道をガラス越しに観察できる箇所で遡上して行く魚をかなりの時間見つめていたが、その数は惨めなほどに少なく、かえってこの河口堰が魚類の遡上をほぼシャットアウトしていることが確認された次第だ。
では、これほどの犠牲を払って、愛知・岐阜・三重の東海3県へ水資源を供給するというその目的は達成されたのだろうか。高度成長の右上がりの図式を単純に延長するという目論見は完全に崩れ、今や、水余りでそれを押し付け合っているのが現状なのだ。
鮎の話に戻ろう。こうした河口堰の存在のもと、長良川全体での稚鮎の放流量は約12t強、その8割は琵琶湖産稚魚、そして2割が県漁協産の人工孵化だそうだ。こうしてみると、本当に海産鮎に行き当たった人は、とても稀だということになる。
なお、長良川の自然を愛する人たちは、この河口堰の一時開門を要求しているが、当局は頑なにこれを拒否している。
最後に、この河口堰付近はかつてはヤマトシジミの絶好の漁場であったが、堰完成後に、それは絶滅し、シジミ漁は廃業を余儀なくされたことを付け加えておこう。

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尾張瀬戸へ行く・最終回 ん〜、飲めなかった!

2024-07-03 17:40:56 | 写真とおしゃべり

 瀬戸についていろいろ書いてきましたが、肝心の街そのものについてはほとんど触れて来ませんでした。
 瀬戸と言えば陶磁器類一般が「瀬戸物」と言われるほど、いわゆる陶器の街として著名ですが、最近それを凌ぐ勢いで瀬戸の街の名前を広めたのに、この町出身の藤井聡太棋士の快挙があります。 私が出かけたのは彼がそのタイトルのひとつを失う前でまだ八冠を保持していましたので、街のあちこちにはそれを誇らしげに告げるポスターや展示がありましたそれらは街角と言わず商店街と言わず公の場所といわず、あちこちで目にしました。

                

        
 瀬戸蔵ミュージアムを出て、あらかじめ調べておいたアーケード付の2つの商店街を回ってみました。ひとつは末広町商店街と言うところで緩やかにカーブをしたその両側の店は、ああ、お定まりのシャッター街で、 平日の午後ではありましたが、私以外に歩いている人はいませんでした。したがって見るべきところもほとんどありません。
 ただひとつかすかな希望を持ったのは写真で見るように、明らかに店舗改装、ないしは新し 店づくりをしているところが一軒見つかったことです。

         

         

 商店街そのものは途中で諦めましたが、そこからややそれたところに面白いものがありました。それはでっかい涅槃像なのですが(涅槃図というのはご承知のようにお釈迦様が亡くなられるた際、その高弟や一般の人々あるいは絵によっては様々な動物たちが横たわるお釈迦様の取り囲んで嘆き悲しむ図)、それがお釈迦様の涅槃像に模した陶器製の 大きな猫によって作られているのです。
 そこに至って初めて私以外の親子連れと出会いました。その軽装ぶりからして地元の人ではないだろうかと思いました。

          

     
 またその涅槃像の置かれた広場の端には 福猫バスと命名されたボンネット型のバスが展示されていましたが、ナンバープレートなども現存のもので、まだ公道上を走ることがあるのではないかと思います。

     
 
          
   本町商店街近くの神社の鳥居 コンクリート製だが根元あたりは陶器 サスガ

 末広町商店街を離れてもう一つの頃は尾張瀬戸駅直結するもう一つのアーケード商店街 本町通りと向かいました。
こちらの商店街は駅と直結するという利点もあってか回転中の店舗数はいささか多いような気がしましたが、しかしここも閉まっている店の方が圧倒的に多い有様です。
 藤井棋士の対局の折など、よくその故郷瀬戸からの中継と言うことで行われる商店街のシャッターにそれを大きな将棋盤に模して行われている対局の場も見ました。しかし、その周りにやはり人影はありません。
 私の他に1人ないしは2人を見かけたでしょうか。そのうちの1人はおそらくキョロキョロとあたりを見回しているその挙動から推察して外部からやってきた観光客だと思われます。

         
     
 そうこうしているうちに夕刻に近づきました。当初の私のブランでは、駅の近くにあるできるだけ瀬戸らしい雰囲気の居酒屋にでも入って、その風情を楽しんでから電車に乗って帰ろうと言うことでした。
 したがって本町商店街をはじめ。それらしい 居酒屋を見つけるための探索でもありました。にもかかわらずそれらしい店がないのです。カフェ風の店は二、三ありましたが、私のようなジジイがはストローで何かを突っついているいう様は頭に描くだけで御免被りたいものです。
 
 居酒屋・居酒屋・居酒屋・・・・ありません。ここでハードルを低くしました 。瀬戸らしい居酒屋と言う条件は諦めて、もうどんな居酒屋でも良い、全国チェーンの居酒屋でも構わない、とにかく歩きまわった疲れを癒しちょっとしたうまいものを肴に一杯やれれば良いと思って探して歩きました。
 この条件ならばどこの駅へ行ってもその駅の近辺には必ずあるはずなんです。にもかかわらず瀬戸駅の周辺にはそれらしいものが見当たらないのです。瀬戸の人たちはアフターファイブの夕べの楽しみ方を知らないのでしょうか。まるで20世紀初めのアメリカの禁酒法時代の街へ迷い込んだようで、正直いっていささか愕然としました。
     
 すっぱりと諦めて重い足取りで瀬戸駅のホームへ立ち折から発車間近の電車に飛び乗りました。結局、私がそれらにありついたのは終点の栄町駅からさほど遠くない地下街の中にある酒津屋と言う居酒屋でした。ここは時折、顔をのぞかせるのです。
  ここは栄町地下街の中でも一番庶民的で飾り気のない店だと思います。板場と若いオネェさん二人で切り回していて、早い、安いという実質本位の店なのです。

 あいにく私が行った時は満席でした。しかし疲れた足を引きずって他の店を探し回るのも億劫でしたので、オネェさんにしばらく待たせて貰っていいかと訊くと、「ウン、すぐ空くから・・・・」との答え。事実五分後には自分の席へ。
 「何にする」「お酒は『可(べし)』。冷でね。それと赤身と〆鯖」「ハ~イ」
 しばらくしてそれらが来る。お酒のグラスは二つで、一つは普通に注いで、もう一杯は半分。「どうしたのこれ?」と私。「待たせたからサービス」と笑顔のオネェさん。ああ、至福!
 あとは串カツと、土佐の「酔鯨」で幕。う~ん満足。オネェさん、ありがとう!

 瀬戸の居酒屋でこんな締めがしたかったのですがそれが叶えわなかったのは残念。

 これでもって7回の瀬戸物語の連載は終わりですが、その最終が瀬戸ではなくて名古屋であった事はちょっと残念です。まぁしかし、瀬戸の商店街のあの衰退を見、そこの人たちが懸命に励んでもでもなおかつ追いつかない状況を見るにつけ、沈んだ気分は避けられませんでした。かつて、商店街活動も経験したことがある私にはとりわけグッと迫るものがありました。
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食の余り物 ある活用物語

2024-07-02 16:20:29 | グルメ

 実質一人暮らしで食事も作っているので、食べ切れないで余る場合が多い。
 ただし、子どもの頃疎開先の祖母から、「一粒の米でも八十八の手がかかっているのだから」と、床にこぼした飯粒一つでも拾って食べるよう厳しくしつけられたこともあって、それらを無駄にしないことを心がけている。

      

 上の写真はある日の夕餉である。いんげんの煮付けに人参(薄味で煮付け少々のバター味)、キャベツ千切りの湯煎に豚バラ細切れソティを合わせた温サラダ風、そしてナス煮物(仕上げに少々の味噌風味)といった野菜中心。
 これでもかなり余った。

      

 この写真はそれらの余りものを具に、ボロニアソーセージと葱小口切りを加えた翌日の昼の冷やしうどん。具も冷蔵庫で冷やしたままだから、前日の味とはまた違った食感で、冷たい皿うどん風との相性も悪くない。

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